第二十五話・軋み
【新生暦1948年 9月20日 深夜|フリト帝政国帝都エアセル エリック邸】
軍務省の長、エリック・T・アンダーソン。彼の私邸は、帝都エアセルの官庁街から近い住宅街にあった。
秘書の運転する車で帰宅し、玄関で出迎える愛犬を撫でる。その後すぐに風呂へ向かい、体を洗い流してから蓄音機の前に座り酒を煽る。これが彼のルーティーンである。
今日もそうだ、蓄音機からはお気に入りの協奏曲が流れていた。
まだ第一楽章が始まったばかりで、ピアノの優雅で孤独な独奏がジリジリという雑音を纏って奏でられている。腰を掛けるリクライニングチェアの横には、ボトルとコップ、そして刊行日が今日の日付の週刊誌が並ぶサイドテーブル。
いつもとなんら変わらない、優雅なはずの時間。
違いがあるとすれば、愛犬と二人きりのいつもとは違い、4人の来客があることだった。
「我々は何もあなたを殺しに来たわけじゃないんですよ」
いいや部屋に入らないだけで、どうせ他にも何人かいるのだろう。そう思って窓に視線をやれば、カーテンの隙間からは家前の側道には軍用車が3台並んでいた。あの車種は定員が8人だ。
「君たちは、何をしているのかわかっているのか?」
エリック 軍務相が問うたのは、4人の中で最も階級の高い男だった。
「えぇわかっていますとも、あなたこそご自分の状況を理解すべきです。」
先ほどから自分を囲んで直立不動の3人が、物騒にも腰の拳銃を手に取った。
「誰の指示かは知らんが、要求を聞こうか」
そんな目に物言わす4人の高圧的な態度にも、エリック軍務相は臆することなく狙いを探る。
「厚かましくも要求だなんて、軍務相殿にそんな大それたことできませんよ。ただ一つお願いを申し上げに来ただけです」
嫌味な謙遜とは裏腹に、他3人も含め圧倒的な優位にある会話の主導者だと自覚した傲慢な態度。しかし悲しいことにそれは事実だった。
「しばらくの間、軍務省の情報本部で過ごしてもらいます。それだけです。」
「カスパーはどうする。私にはこいつの世話がある。こいつに何かあったら許さんぞ」
エリック 軍務相は、長いマズルまでべったりと床につけて大人しく伏せる、テリゼ原産の大型犬を見やる。体の大きさに反して縦に薄い胴から伸びたその細い足は、諦念からかじっと動かずに青いカーペットの上で自然に折りたたまれていた。
「いつも世話をしている家政婦がいるでしょう、彼女もキッチンに無事でいますから、ご安心を」
そしてエリック 軍務相は、促されるまま最低限の衣服を持たされて軍用車に乗せられた。車列はそのまま軍事省本庁舎へ向かう。
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【新生暦1948年 9月20日 深夜|フリト帝政国帝都エアセル ロームルス城】
「将軍。ゴールディング首相以下、身柄を確保しました!」
情報将校の一人が切願の達成を告げた。
軍務省制服組トップ、シュベン・コローゲル。彼は今日この時をもって、フリト帝政国という列強国の実権を握るに至った。
帝都エアセルのロームスル城を掌握し現行の、いや旧政権のゴールディング執託首席大臣以下閣僚らの自宅軟禁は完了。
あとはコローゲル派の支持する皇族が戴冠すれば、この星を占める五対の一角はシュベン・コローゲル将軍の手中へと完全に収まるのだ。
「将軍!報告します!」
夢に見た執託首席大臣執務室の椅子、ちょうどそこに腰を降ろそうかという時だった。
「なんだ?」
「現在皇帝府庁舎に陸軍部隊が展開しているのを確認しました、指揮官と規模は不明です。恐らく情報のリークがあったのかと」
ここ数年、後継者争いによって皇帝の座は空位が続いていたため、皇帝府の影響力は低下しつつあった。そんな中で皇帝府は、家系図に基づき最も血の濃い皇族を推薦したものの、軍部との折り合いがつかずにいた。
そもそも皇帝府の所管する所とは、元々は軍務省が所管としていた業務だ。幾度もの戦争によって現在の地位を確立したフリト帝政国においては、皇帝府が設立された後も軍関係者らの出入りが目立ち、軍務省からの影響を受け続けていた。
彼らが最も敵対していた勢力とは、国内に限ると皇帝府の選帝委員会である。当然ながら軍務省内にはコローゲル派しか存在しないわけではなかった。
だが無論、コローゲル将軍はそのような不安要素を残しておくはずは無い。少し早いが、そうそうに解体に取り掛かるのもやぶさかではないであろう。
「ちと予定より早いが、皇帝府は今解体しておこう」
しかし報告してきた情報将校は、その言葉の真意をくみ取れず、困惑の目をコローゲル将軍に向けていた。
「しかし、申し上げた通り所属不明の部隊が皇帝府を占拠しており…」
聞き返してきた情報将校に対し、コローゲル将軍は薄ら笑いをさらに返した。今までの憤りと、すぐに訪れるであろう結果を蔑み憐れんで、コローゲル将軍の表情が歪む。
「君というものはまったく…砲を置いていただろう?砲を」
コローゲル将軍の発言に、対峙する情報将校は凍り付く。彼の不気味に上がる口角もあってか、何か背筋にねっとりと這い登るような不快感を覚えた。
「えぇと…第32歩兵師団付の、408増強対戦車小隊のことで、ありましょうか…」
歩兵による封鎖が相手であれば、対戦車砲は十分に効果的だ。
「は?何をバカなことを言っている。対戦車砲如きで、鉄筋コンクリート造を解体できると、君はそう思っているのか?」
決起したコローゲル派で帝都の包囲を実行する部隊の中に火砲など、口径120mmの野戦砲を擁す第419砲兵大隊しかいないはずだ。
情報将校はコローゲル将軍の意をここで気が付き、背筋に悪寒が走る。
「まぁなんだ、一発だけでいいぞ。反旗を白旗に変えて出てくるだろう。」
一瞬ゾっと全身の毛が総毛立つが、その言葉を聞いて少しは安堵した。帝都で政府機関の庁舎に対する集中砲火など、明らかに一線をこえている。見せしめという意味を込めてであろうが、情報将校はそれ以上深く考えることを放棄して、指示の下達に務めた。
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【新生歴1948年 9月22日 夜|セリトリム聖悠連合皇国首都ランディ 】
『フリト軍事クーデター』という文言が紙面を飾った前日に続き、今日の『ペンゴ、アーシスに報復措置』という記事。
世界中で一切の例外なく、緊急の話題として浮上した二つの歴史的大事件は連日して起きた。双方ともに通じていたわけではなく、全くの偶然だ。
これほどまでの急激な情勢変化が起きようとは、誰の脳にも浮かんでいなかったであろう。
彼らもそんな人間である。セリトリム聖悠連合皇国の首脳陣は一様に、体調に違和感を覚えていた。とは言いつつも、前述の事項においては支援していた身であるため、比較的そう驚きはしない。問題は後者だった。
「ペンゴがレンツに、どういうつもりだ」
大陸戦争以来、それよりもはるか昔からであるが、ミュートル内海での優位とはそのガランティルス大陸での優勢を一定程度保障する重要なセーブポイントであった。
これに先駆けて必須となるのが、アシュニスィ海峡で優位を確立する事だ。これについて言えば、その争奪戦におけるトップランカーがレンツ帝国である。
一体どういう思考をすれば、武力行使などという結論に至るのだろうかと、脱力感すら覚えた。
「ペンゴは何を考えてる。何をどう考えたらこんなことになるんだ」
「一応は、アシュニスィ海峡係争の延長で、アーシスに対する制裁という体での行動です。着上陸等も想定せず、純粋に海軍力のみによる限定的武力行使と位置付けているようで、各国共に特筆すべき損害は確認していません。」
アシュニスィ海峡係争とは、そもそもアーシス共和国の提言にレンツ帝国が同調するという形で、両国連名で主張されたものだ。
その旨、「アーシス共和国がアシュニスィ海峡において正当な権利を有し、その行使においては運用上の問題を理由としてレンツ帝国が代理することが望ましい」と。
アーシス共和国は、アシュニスィ海峡に接する小国であるが、これはレンツ帝国の衛星国だった。レンツ帝国の勢力圏に対する今回の武力行使は、宗主レンツをその場に引きずり出すには十分だ。
お互いがお互いに重ねてきた、いつもの軍事デモンストレーション。それが多少行き過ぎてしまった…と簡単に形容していいものでは無い。
だからこそ彼らは頭を抱える。
大陸戦争後からペント・ゴール帝国、エルテリーゼ大公国、セリトリム聖悠連合皇国が行ってきたレンツ帝国の封じ込め政策。これが功を奏したのもつかの間。
一翼であるエルテリーゼ大公国は崩壊し、継承国家であるノールメル社会主義共和制諸邦国は現状、領域外の情勢に手出しが不可能だ。それだけなら良いが、彼の国は頭を挿げ替えたのではない。体制が根本から変わったのだ。
つまり今後も同様の立場を取る確証は無く、またレンツ帝国がノールメル社会主義共和制諸邦国との協力を模索しているという情報は、諜報機関もつかんでいる。
そして先日のナマール海における、日本国との戦闘だ。
「情勢を考えれば最良なのだろうが、しかし…」
レンツ帝国はロムアを失い、ナマール海で大敗した。それは明確にレンツ帝国の弱体化を示している。そしてノールメル社会主義共和制諸邦国はどちらにつくか不明ながらも現状は手出しが不可能。
タイミングを鑑みれば最善の選択である。しかしレンツ帝国との武力衝突に発展することが、そもそも最悪であるという共通認識は、ペント・ゴール帝国とは築いていたはずだ。
だからこそ彼らは、ペント・ゴール帝国の行動が理解し難い。
「しかし、今回の件でレンツが行動を起こすかはまだわかりませんし、静観しつつ慎重に策を模索すべきです。」
「実質的な被害はアーシスのフリゲート1隻が中破程度。大規模に発展はしないでしょうが、対立の激化は必至でしょう。」
時間の経過が、融和に向けて各国の姿勢を軟化させようとしている最中、このような燃料があって対立が再燃することは望ましくない。
「しかしフリトの方も問題だ」
そう。ここ数日の出来事で、想定外だったのはペント・ゴール帝国のアーシス共和国に対する限定的軍事制裁だけではない。
「現地諜報員からの情報ですが、ゴールディング政権の閣僚は、自宅軟禁を確認しています。ただ一人、軍務相のエリックアンダーソンは続投するようです」
セリトリム聖悠連合皇国の当初の目論見とは、フリト帝政国における政権転覆を支援し、旧植民地地域を奪還することであった。
元をたどれば、ナルビ(ナカルメニア)地域もセリトリム聖悠連合皇国の旧勢力圏だ。(これは一世紀以上も前にエルテリーゼ大公国へ売却したものであるのだが…
フリト帝政国は列強国と言えどもまだまだ歴史の浅い国で、現行体制は半世紀前に確立したばかり。そして盛者必衰とはこのことで、一時はガランティルス大陸での大陸戦争による戦争特需によって財を成したが、ここ十数年の情勢が決定打となり、セリトリムが手を出さずとも緩やかに失墜したであろうと見られている。
問題はこの後だ。失墜後、支配者のいなくなったアドレヌ大陸はナルビ、エルトラード、その他フリト帝政国が支配する各自治区の旧小国家群によって、群雄割拠の五里霧中となるだろう。
そうなればレンツ帝国と、今は亡きエルテリーゼ大公国、他にもペント・ゴール等諸列強国が介入に意を示し行動を起こすのは想像に容易かった。だからこそ、失墜前にセリトリム聖悠連合皇国の影響力を刻み込んでおく必要があったのだ。
しかし一番の想定外が、日本国の出現だ。とりわけ、コローゲル派は反日本的な立場ときた。日本国との関係強化を決めた以上、一方にコローゲル派フリト帝政国を載せる天秤をどちらに傾けるべきか。
日本との関係を速やかに密とする方針を改めることはできない。
「ゴールディング政権は日本との関係強化を進めてただろう。なぜコローゲルはアンダーソンを続投させた?」
「元々一枚かんでいたのか、正統性の主張材料か、わかりません」
セリトリム側が知らないだけで、元々アンダーソン軍務相が関わっていたのだろうか。支援をしていたとは言え、資金や情報を流していた程度。こちらもコローゲル派の全体像を把握しているわけではないし、その可能性は十分にある。
または軍事クーデターにおいて第三国がその正統性を疑うのは当然だ、その保険であったのだろうか。となればクーデターを受けての軍事制裁など侵略的だと批判されかねない、という考えが頭をよぎる。
中立を公称している手前、これ以上の帝国主義的暗躍という批判材料を世界に与えたくも無い。
「ペント・ゴールは眼前のレンツと、喫緊のユト派兵で余裕が無い。日本も戦争はしたがらないだろう。我々だけでどうにかするほかない」
という状況はいささか難儀だ。どうにかどちらかの協力を取り付けられないものかと考える。
「日本の軍事介入への忌避はペンゴのそれとは違って政治的な要素によって阻害されているところが大きい。どうにか揺さぶりをかけれないか?」
純粋な在庫不足のペント・ゴール帝国に比べて、日本国側にはモノとしての余力はあるはずだ。物理的な実現不可能性を理由に断りを入れてくることは無いだろう。となれば交渉の余地はある。
何とか協力を取り付けられないものかと。そう考えた彼らには、ありがたい言葉が日本から届くことになるのだった。




