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ラズベリーデイズ  作者: こころ
2/2

理想と現実

人生の区切りの日というのは、来ると分かっていても実際その日が来るまで実感が湧かないものだ。私がオーストラリアに出発する日も、あと一週間、あと3日、と近づいていても、結局当日になるまで本当に私が一人で海外に行くという実感はなかった。

海外へ行くのは厳密には3回目だが、前の2回は海外旅行と呼べるレベルのものではなかった。小学校のときに家族でハワイに一度、高校の修学旅行で韓国へ一度。ハワイは皆が言うように日本語が通じて日本人ばかりだったので、子供心にも海外へ来たという驚きがなかったし、その後の家族旅行は瑠奈が飛行機に馴れなかったために国内限定となった。韓国では周りの人間が普段の学校生活で見慣れた顔ぶればかりのせいで、やはりあまり海外に来たという感覚はしなかった。

だから今回が私にとって本当の意味で海外の文化に触れる初めての機会になるだろう。向こうに着くまではプログラムに参加している他の生徒と共に行動するが、現地につけばそれぞれホームステイ先を振り分けられ個人で行動する事になる。

その後は2週間に1回の頻度でそれぞれの近況報告のためにミーティングをする時と、学校ですれ違う以外に日本人と接触することはなくなるのだ。生まれてこのかたずっと優等生で危ない橋は渡らない性格だった私には、人生最大の冒険とも言えるイベントになるだろう。

自分でも認めたくはなかったが、自由奔放でいつも周りを振り回す瑠奈に、このままでは一生追いつけない気がしていた。なにか突拍子もなくてそれでいて自分を強く成長させる何かに挑戦したい、それがこのプログラムに参加した本当の理由かもしれなかった。


不思議なことに、他の生徒たちがはしゃいでいる声も、飛行機や空港からのリムジンバスの景色も、何もかもがなんだかまだ夢の中にいるみたいに遠くて、今朝、玄関先で見送ってくれた瑠奈や両親の姿のほうがずっとリアルに目の前に浮かぶ。一度瞬きをすれば、次の瞬間自分の部屋に舞い戻ってしまっているような、そんな気分がした。

リムジンバスは閑静な住宅街に入ると、角ごとに曲がりながら、一人、また一人と生徒たちをホームステイ先に下ろしていく。長かった一日の疲れが出たのか、少しうとうとし始めた頃、ようやく私のホームステイ先に到着した。


私が降り立ったのは、右も左も似たような、いかにも外国のホームドラマに出てくるようなどっしりとした構えの家が立ち並ぶうちの一件だった。あまりにもどれも同じように見えるので、不安になってバスドライバーを見ると、ドライバーはやはりその家の方を指差して、早く行けとでも言うように顎をしゃくってみせた。

辺りはもうすっかり日が暮れていて、その家の窓から温かなオレンジ色の明かりがこぼれているのが、何となく歓迎されているように見えなくもない。

私は2ヶ月分にしてはコンパクト過ぎるスーツケースを芝生の上に引きずってドアの前に立った。目の前には大きな、比喩ではなく本当に日本で見たどのドアより大きな、青いドアが立ちふさがっていた。このドアをノックすれば、新しい生活が、新しい出会いが、そして何より新しい自分が待っている。

開けるのが怖いような、待ちきれないような、息の詰まる緊張の中で、私はドアベルを押した。キンコンという軽やかなベルが鳴り、ドアの内側から人の気配が近づいてくるのがわかる。中から思ったより若い金髪の女性が顔を出し、緊張がはじけて感動にかわると予想していたその瞬間、はじけた中から出て来たのはさらに大きな緊張で、頭が真っ白になり私はその場に立ち尽くしていた。


本当は、ホストマザーに遭った瞬間、何も言わずにハグをしようと思っていた。もちろん普段の私なら初対面の人間に抱きつくなんてあり得ないけれど、外国の人は出会ったり別れたりするたびにハグをするもんなんだと、テレビの影響なのか何となくそう思い込んでいた。それで、ホストファミリーに物おじしないでハグをすることが、引っ込み思案な自分を変えるための第一歩だと、なんとなく自分の中で決めていたのだ。

でも、実際にホストマザーを前にした瞬間、どうしたらいいかわからなくなってしまった。テレビで見るとだれもがあんなに簡単にやっていることなのに、いざ自分がやるとなると、どのタイミングで、どんな顔をしてハグをすればいいのかわからなくて、まったく体が動かなかった。生まれて初めてプールに入ったときみたいに、全く思うように体が動かなくて、私はただ一言ハロー、というので精一杯だった。


私は案内された部屋で一人になったとたん、バタンとベッドに倒れ込んだ。まだ体中を波打っている神経がようやく落ち着いてくるのをまって、私はいったい何が起こったのか頭の中で整理してみる。思い出すのは自分自身の不甲斐無さと、そんな私に辛抱強く話し続けるホストマザーの姿。お風呂場やキッチンへ私を案内しては、その度になにか話しているのだけれど、その言葉はまるで早送りでしゃべる宇宙語のようで、私の頭では一言も理解できなかった。

ホストファミリーの一人一人にオウムのようにナイストゥミーチュー、マイネームイズマミ、と繰り返し、何を言われても苦笑いで首をかしげてやり過ごした。

そういえば、自分のことをアンジーと紹介した子は、私の名前を聞いて面白そうに何度もマミー、マミーと繰り返した。それに対してもなんて答えたらいいか分からずに笑っていると、ホストマザーがきつい口調で彼女をたしなめていた。あれは軽い冗談だと思っていたけど、何か意味があったのだろうか。ホストマザーが彼女を叱った理由も、いまいち私にはわからなかった。


想像とはあまりにもかけ離れた初対面。感動どころか、ホストファミリーたちは始終固まったままの私を持て余していたに違いない。これから二ヶ月間使うことになる2階の部屋で、私は自分自身に対する失望でひとしきり落ち込んだ後、ホストファミリーに対する申し訳なさでまた一通り落ち込んだ。


始終緊張し通しで、食事の味も分からないままなんとかその夜を乗り越えると、私はきつ過ぎる柔軟剤の匂いがするベッドで何度も寝返りを打ちながら、もっと思い切って話が出来ない自分責め続けているうちにいつの間にか眠りについた。

その夜私は何度も目が覚めた。時差はほとんどないはずなのに、浅い眠りに入る度に日本の自分の部屋にいるような錯覚がして目が覚めるのだ。夜更かししてテレビをみたり、勉強しながら居眠りしたり、居心地の良かった私の部屋。となりの部屋にはいつも瑠奈や両親がいた。それが今は嗅ぎ馴れない香りのする枕と派手な壁紙の部屋で一人、いつまで待っても明けそうにない夜をすごしているのだ。日本では自分の居場所を見つけられずに行き詰っていると思っていたのに、今はあの場所が恋しくてしかたなかった。


想像していた初日の朝、私は朝日をあびて家族と散歩でもしているはずだった。なのに、なぜかベッドから出る気がしない。窓から差す日がずいぶん高いように見えて、部屋の中に時計を探してみるが、見当たらない。鞄の中に目覚まし時計が入っていたのを思い出して出してみる。自分の部屋から持って来たピンクの目覚まし時計は、なんだかもう懐かしいようにさえ見える。その針は10時をさしていた。確か時差は2時間しかないはずだ。ということはまだ8時だと言うことだろうか。

家の中は静まり返っていて、人のいる気配はしない。なんだか少しほっとしている自分がいた。そうなって初めてひどくおなかがすいていることに気がついた。昨日は緊張していて、食べていたものの味さえ覚えていなかった。(特に豪華な夕食ではなかったことだけは何となく覚えているのだけど。)シリアルの入った棚を昨日見せてもらったのを思い出し、私はようやく起きだして人がいないのを確認しながらキッチンへ行った。

うちの家の倍ほどもある冷蔵庫の扉に手をかけたその時、家の外で車が止まる音がした。次いで明るい女の子の声がする。長女のエミリーと妹のアンジーらしかった。家族がかえって来たのだ。一瞬二階の部屋に駆け上がろうかと足が一歩動いたが、そんな時間はないとあきらめる。パジャマのままで冷蔵庫をあさっている姿を目撃されたくはなかった。

何と言えば良いのだろう。お帰りって、何て言うの?

「I'm home」はたしか、ただいま、だ。ああ、どうしてこんな簡単なことが、すぐに出てこないのだろう。「おなかがすいたから、何か探してたの、」日本語が通じれば、きっとこんな感じのことを言うだろう。でもそれを英語でどういえば良いのか分からないまま、私はその場に立ち尽くしていた。

最初に家に入って来たのはエミリーだった。片手に白い買い物袋を下げている。私を見つけるとすこし驚いたような顔をした。

「Hi! Are you finally awake? I thought you'd never wake up.」

私がようやく起きた、と言っているのだろうか。エミリーの様子から、なんとなくジョークらしいことを言われたような気はしたが、何と返せばいいか分からず、ただグッドモーニング、とだけ答えた。

エミリーの後ろから家族が次々に入って来て、私を見るとすこしあきれたように早口でお互いに何か言っている。

特別早口ではないのかもしれないが、私に話しかけているときでさえ聞き取れていないのに、オーストラリア人同士で話している時は余計に分かりづらかった。私は「お帰り」とか、「どこ行ってたの」とか、なんとなくそういうことを言うべきだと感じたけれど、どれも言葉にはならなくて、グッドモーニングを繰り返した。何か言わなければと考えている間に、言うべきタイミングはどんどん過ぎていってしまう。

「Are you gonna eat breakfast? Why don't you go change first?」

ブレックファスト、チェンジ?朝ご飯を変える?

「アイムソーリー? セイザットアゲイン?」

エミリーは苦笑しながら今度はゆっくり、ゼスチャーをつけて繰り返す。

「You should go change your clothes before breakfast. Well, lunch, I guess. OK?」

彼女が自分の洋服をつまんで、「change」と強調したので、ご飯を食べる前に着替えてこい、と言われたのだとようやく気づいた。なんだかふがいない気持ちで自分の部屋にあがる。オーストラリアの人はおおらかで細かいことは気にしないと思っていたのに、こんなことで注意されるなんて。

第一、パジャマのまま他人の家の中を歩き回るなんて、普段の私では考えられないことなのに、なぜ今日に限ってやってしまったんだろう。日本ではとても几帳面な私が、おおらかであるはずのオーストラリアでだらしないと指摘されてしまったなんて。部屋に戻るとなんだかどっとつかれた気がして、私はベッドに座り込んだ。

ほんとうはお腹なんてもう空いてもいなかったけれど、これ以上だらしないと思われたくはなかったので、手早く着替えるともう一度降りていった。


下ではホストマザーがキッチンでホットサンドを作っていた。私の姿を見ると、昨日よりワントーン落ち着いた微笑み方をしたような気がした。手伝うべきだと思ったけれど、何をしていいのか、なんと聞けば良いのかわからずに昨日と同じテーブルに座る。

すると冷蔵庫を開けていたエミリーがすかさず私を呼んだ。

"We are gonna eat lunch now. Can you help me make a salad?"

サラダを手伝え、ということだろう。慌てて立ち上がるとなんとか「オフコース」と答えた。

エミリーは馬鹿みたいに大きなキュウリとトマトを手渡すとカット!Cut!といって、まな板と包丁をカウンターにおいて片手を包丁に見立てて切る仕草をしてみせた。それくらいはわかる。私がまず野菜を洗おうと思ってホストマザーがお皿を洗い終わるのを待っていたら、ほんの少しいらだったような口調でエミリーが言った。

"Well, the cutting board and the knife are here. Do you know how to cut vegetables?"

ナイフはここだ、早く切れ、ということらしかった。こっちでは野菜は洗わないのだろうか?

野菜の切り方も分からないと思われたらたまらない。とっさに

「ウォッシングベジタブル」

といって野菜を洗うフリをしてみせた。

なのにエミリーはノー!カッティングヴェジタブルズ!とさっきより強い口調で言ってもう一度切るまねをする。

それはわかっているのだ。でも切る前に洗わなきゃ。エミリーが声を荒げるからみんながこっちをみた。なんだか野菜を洗うこと自体が間違っているような気がして、私はあきらめて野菜を切り始めた。


エミリーのいらだったような口調と、思ったことがすらすら言えないせいで私はどんどん口数が少なくなっていった。言いたいことが思ったように言えないし、言えたとしてももう既にタイミングが遅すぎた。授業の英語とはまるっきり重さが違う。聞きとれない、答えられない、その一瞬がもうこんなにも気まずい空気を生み出すものなのだ。エミリーは私より一つ年下だ。そんな彼女にあきれられたかと思うと自分が情けなかった。間違っても良いからもっと話さないと、タイミングよく答えないと、と思う反面、これ以上間違った英語を話してさらにエミリーに馬鹿にされるのが怖くて言葉が出てこない。それでも味の薄い野菜と舌が麻痺するような濃いドレッシング、それに薄いトーストにチーズを挟んで焼いたホットサンドを食べるとほんの少し勇気が出てベリーグッドと言ってみた。ホストマザーがうれしそうにうなずいて微笑んでくれたのを見て、私はホットサンドとは別の熱いものが鼻の奥を通るのを感じた。


食事を終えて片付けをしているとき、私は壁時計を見て息が止まりそうになった。起きたのが8時過ぎくらいだと思っていたのは私の勘違いで、時差は逆に2時間、オーストラリア時間では12時だったのだ。

初日からお昼過ぎまで寝ていて、パジャマ姿で冷蔵庫の中をあさり、誤解とはいえサラダさえ作れない私にエミリーがいらだつのも仕方のないことかもしれなかった。なんだか急に歳をとったみたいに疲れて、これからの2ヶ月が気が遠くなるくらい長い気がした。


数日たって学校が始まると、ホストファミリーとのコミュニケーションに関してはそれほど大きな問題は起きなくなった。家にいる時間がぐっと減ったからだ。緊張はするし、笑われることもあるけれど、教室の中では英語を間違えたからといって相手の気分を害する心配はない。そういうプレッシャーがないおかげで、教室の中では私の英語はずっとスムーズな気がした。


私は学校でたまにエミリーを見かけることがあった。私や日本から来ている他の生徒たちは、留学生用のクラスを受けているのでエミリーと同じ校舎ではないのだが、カフェテリアには学校中の人が集まってくるのだ。私は最初エミリーのことを私より年下なのに大人っぽくておしゃれだと思っていた。でも、カフェテリアにいるエミリーやその友達は、他の生徒たちに比べれば別段大人びてもいないし、目立つわけでもなかった。カフェテリアに集まる生徒たちの中には、エミリーなんかよりもずっと派手で目立つ子たちがいたし、中にはほんとに高校生なんだろうか、とおもうほど大人びた生徒たちもたくさんいた。


授業の一環に、チュータリングというのがある。ネイティブの生徒を相手に一時間英語で話すだけだが、1対1で話すことができるので授業中よりも会話の練習になる。相手になってくれる生徒をチューターといい、将来英語を教えたいと思っている生徒がボランティアで登録していた。

私たちはランゲージルームというところへ行って、(まあランゲージルームと言っても教室よりずっと小さな部屋に聞き取り用のテープとそれを聞く専用の机が3つ、あとは向かい合った椅子が3セット並べられているだけなのだが、)そこのフロントに置いてあるスケジュール表の気に入ったチューターに予約を入れる、というシステムだった。これは週に何回予約を取ってもいいので、私はほぼ毎日のように予約を入れていた。

このチューターというのにも人気のある人とない人がいて、アシュリーというチューターはいつも予約でいっぱいだった。一度ランゲージルームで彼女のチュータリングを見かけたけれど、金髪の長い髪をポニーテールにした、チアリーダーみたいに元気な人だった。

その時はちょうどうちの学校の男子生徒とチュータリングをしていた。男子生徒は自分の長い髪を手で後ろに束ねてみせて、アシュリーと二人でセイム、セイム、と言っていつまでも笑っていた。

私はわざわざそんな人気のある人の予約待ちはせず、いつも空いている人の予約をとっていたが、最近ではいつも予約の空いているタイラーが私の専属チューターのようになっていた。タイラーはハリーポッターの本の挿絵にそっくりで、いつも神経質な仕草で黒ぶちの眼鏡を押し上げる以外は、とても話しやすいチューターだ。

タイラーはここに来て以来私の名前を笑わなかった唯一の人でもある。私が自分の名前を相手に伝えると、いつも必ず笑われるか興味深そうに聞き返される。本名かと聞かれたこともあった。真美、というのが子供が母親を呼ぶマミィと同じように聞こえるかららしかった。

日本では名前に関して何か言われたことはなかったので最初は戸惑ったが、毎回笑われるのでそのうち覚えてもらいやすくてよかったと思うようにした。それでタイラーに名前を言った時も、当然驚かれるか笑われるかと予想していたら、タイラーは生真面目に自分のノートにMと書き、そこでいったん止まってあの黒い眼鏡越しに私を見ると

"How do you spell your name?"

とだけ言った。

私がスペルを伝えると、それを丁寧にノートに書き記して、隣に小さく日付を書いた。そのノートには、他の生徒の名前も律儀に全部記されているようだった。

それ以来私はほとんどずっとタイラーとチュータリングをしている。ユーモアのセンスはないかもしれないが、人の名前を笑わない繊細さはある、と思うからだ。もしかするとただ本当に気づかなかっただけかもしれないが。 

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