2-2.失ったものと変わりゆくもの
エリオットの後ろを歩きながら俺は、彼のこの行動について考えた。彼は今、従姉が殉職したと聞かされたばかりの筈だ。しかし彼に動揺した様子は見えなかった。それは心の奥底に隠しているのか、それとも何とも思っていないのか、どちらなのかは俺には判断は出来なかった。
エリオットは初めて会った時から、自分の心情をあまり表さない人物だった。だから彼が何の目的で今こうして自分と話をしようとしているのかも予想がつかなかった。
暗闇はすっかり街を飲み込み、生命の脈動を覆い隠していた。ただ時折窓から漏れている明かりでその生命が死んでいるのではなく、暗闇という毛布に包まり、安らかな眠りを享受しているのだと判断することが出来た。
例え眠っているのだとしても体のどこかは働いている。街という大きな生き物にも同じ事は言えた。そしてその働いている者達を癒やすための店は一つや二つくらいは開いているものだ。
その店の一つにエリオットが入っていった。周辺に明かりは無い。外見も看板が掛けてあるわけでもなく、入るまでは店ということすらも分からない店だった。
しかし入店してみると、その内装は品のある飲食店といった様子だった。店内には数名の客が疎らに座っており、各々がある程度の地位にある人物であると服装を見て予想が出来た。
なるほどここは富裕層の隠れ家的な店であるようだ。外からの風貌もそういう理由なのだろう。店員の様子を見るとエリオットは常連のようだった。
店員に案内されたのは店の奥まった所だった。仕切りで区切られた場所で、周りを見渡しても話を聞けるような客は目に入らなかった。エリオットが椅子に腰掛けたので、俺はその向かいの椅子に座った。
「そういえば、君はお酒を飲まないんだったね。」
「確かに嫌いだな。出来れば別のにしてくれ。」
酒は嫌い、というより俺は酔うことが嫌いだ。世界が歪んで見えて、体が自由自在に動かないのは、心の中に焦燥を生み出す。俺はそれが堪らなく嫌だった。世界がどんなに苦くて苦しいものだろうと、はっきりと認識していたかった。
エリオットは店員にワインと紅茶を頼んだ。店員は一礼をして立ち去っていった。店員が消えるのを見るとエリオットは話し始めた。
「すまないね付き合わせて。取りあえず、お疲れ様と言っておこうかな。」
「ああ、本当に疲れたよ。こんな事をするのは五年ぶりだ。」
「聞いたときには驚いたよ。あの吸血鬼の子供を預かるなんて。」
「押し付けられただけだ。」
俺は大げさに顔を歪ませた。自主的に預かったと思われるのは御免だった。
「でも、それよりも僕が驚いたのは君がちゃんと子供の方を連れ帰って来たことだよ。てっきりクライン司教の願いは無視して、その場で殺してしまうんだと思っていた。」
「運良く生きて捕まえられたから、そのまま連れ帰っただけだ。」
俺はこの作戦の直前に、クラインから頼み事をされていた。
『今回の作戦の目標の子供達は知っていますね? それをどうか、逃がせとは言いません。出来るだけ生きて連れて来て下さい。せめて、無垢の者には議論の余地を与えて欲しいのです。』と。
俺が確保する途中で子供が死んでしまうのなら、それでいいと思っていたのは確かだった。あの赤ん坊が生きているのは、逃走していたあの吸血鬼の男があまり戦闘慣れしていなかっただけに過ぎない。もし手練だったならば、安全を取って俺はあの子供ごと斬っていただろう。
しかし生け捕りにしようとした結果、一人取り逃がした事を考えると少し後悔した。全力で仕留めに掛かった方がこんな面倒な事にもならずに済んだだろう。
そんな事を考えて込んでいると先程の店員が戻って来た。店員はエリオットの前にワイングラスを、自分の前にティーカップを置くと、一切の物音を立てずに立ち去った。
「君の活躍は知り合いの騎士から聞いたよ。前線から離れて五年経っているのに良く腕が衰えないものだね。」
「腕は落ちていたさ。前ならもっと上手くやれていた筈だ。」
数刻前のあの惨状が目に浮かんだ。今夜の作戦は街に潜伏した吸血鬼の男女二名、クリフ・エルマとクレア・エルマの討伐だった。第二部隊だった俺はクリフ・エルマを討伐した後、第一部隊に合流した。
その第一部隊の様相は、前線に戻って来てしまったのかと錯覚する程の有様だった。壁や道に赤黒い血糊がべっとりと張り付き、あちこちに骸が無造作に転がっていた。
遠い昔の自分ならこんな光景を見てしまったら、きっと三日は怒りが収まら無かっただろう。しかし今、俺の心の中はとても静かだった。ケインに言った通り、もう慣れきってしまっているのだろう。
団長はこの五年で一番世話になった恩人である筈なのに、あの騎士の口からその死を知らされた時、俺はまたかと心の中で呟くだけだったのだから。
この目の前の男は身内の死に対して、怒っているだろうか。悲しんでいるだろうか。俺は人の心を読める訳では無いからはっきりとは分からないが、少なくとも自分などよりは何かを思っているような気がした。
ふと団長とエリオットはとても仲が良かったことを思い出した。団長は数少ない貴族の一人であった為、騎士団ではなく憲兵団に入ったことを周囲から批判されていた。しかしエリオットだけは従姉を素直に応援していた。
「団長が死んだのはもう聞いているな?」
「ああ……驚いたよ。簡単に死ぬような人じゃないと思っていたんだけどね。……君は、姉さんの最期は見たのかい?」
「いいや、部隊が違ったからな。俺だって死んだと聞いたのは口伝で、亡骸すら見ていない。」
「そうかい。……人間ってあっと言う間に死んでしまうんだね。僕も前線ではそれをよく学んでいた筈なんだけれども。」
エリオットは貴族らしい整った顔を歪ませた。これほどまでに彼が感情を表に出すのは長い付き合いの中でも初めて見た。それほどまでに団長は彼の中で大きな存在だったのだ。
「団長は最後まで志を貫いて死んださ。きっとな。」
口から咄嗟に出てきたのは生者への慰めではなく死者への敬意だった。俺は生者である彼の今の心情を察して、それに見合った言葉をつくることが出来る程、二人の関係について知ってはいなかった。だから間に合わせで角の立たない言葉を選ぶしかなかった。
「そうだね。最後まで憲兵団の団長として生きたんだ。悔いは無い筈さ。」
彼はそう言ったが表情は苦々しいままで、受け入れ難い事実をどうにか噛み砕こうとしているように見えた。それもそのはずだ。彼女は死ぬにはあまりに早すぎで、悔やんでも悔やみきれない程惜しい人物だった。
沈黙と静寂が辺りに纏わりついた。何かを言わなければならないと思ったが、口に詰め物でも詰め込まれているのかと思うほどに、何も言葉を発する事が出来なかった。
ワイングラスを彼は口につけた。それに倣うようにカップに入った紅茶を飲んだ。紅茶は既に冷めてしまっていて、美味しさがよく分からなかった。
あまりの静寂に時間が止まってしまったのではないかと思う程、無言の時間が続いた。この沈黙は永遠に続くんじゃないかと思ったが、それは案外簡単に破られた。
「……なんて、悲しんでばかりじゃいられないね。何時までもくよくよしてたら、姉さんに怒られてしまうよ。『何を迷っている。前を向け!』ってね。」
エリオットは断ち切る様に、そして思い出す様に言った。その眼は愛する人を慈しむように目尻が垂れ下がり、歪められていた口元には微笑みが浮かんでいた。
彼の表情には不思議なことに、もう陰鬱な感情は残されていなかった。どうやら他人から何か言われるまでも無い程に、彼と彼女の間にあったものは強く、この世の繋がりが切れてもなお壊れることはなかったようだ。
彼の変わりようを見ると、慰めの言葉を掛けてやらねばならないと思った自分が途端に馬鹿らしく間抜けに見えた。
「ローガン。君は次の憲兵団団長になるんだろう? 是非とも姉に負けない団長になってくれよ? 僕も応援しているからさ。」
「ああ、そうだな。いっつも愚痴を言ってばかりでいて、いざ自分がやるって時に何も出来ないようじゃ、笑われてしまうからな。」
その場からのしかかる様な空気が取り払われた。それから会話は取り留めの無い雑談へと変わっていった。二人で酒と紅茶を飲みながら緩やかな時間を過ごした。その時間はワインのボトルが空になるまで続いた。
今夜の空はその青紫の幕に沢山の星を並べていた。その瞬きは一つ一つは心もとないが、街灯やランタンと違い夜の間はずっと頭上を照らしてくれる頼もしい存在だった。その輝きで今日の夜は明るく、おかげで消されてしまっている街灯の変わりにランタンを持たずに済んだ。
跨っている馬と共に聖道を軽快に駆ける。この時間だと他の馬車は通っていない。しかしもう二、三時間もすれば、この道を多くの商会の馬車が、朝日よりも先に走り抜ける事になるだろう。
その聖道に面して憲兵団本部はあった。聖道から見える正面の建物は4階建てで、憲兵団の象徴である白いツルハシと剣が描かれた赤い盾の旗が高々と掲げてあった。その正門には二人の衛兵が立っていた。近づくとその一人が話しかけてきた。
「ローガン隊長、戻られましたか。ケイン副隊長が孤児院でお待ちです。」
「ああ、分かった。」
開けられた門を潜る。憲兵団本部は、その本部と言う名に相応しく、その敷地ならば王城にも匹敵する程広大だった。敷地内には常に数百名の憲兵が駐屯していて、様々な施設が併設されている。
その施設の一つである孤児院は東棟の一角に居を構えていた。今は二十数人の孤児がそこに預けられている筈だ。
馬を厩舎へ預けた後、真っ直ぐに孤児院へと向かう。孤児院のある東棟の中は静まり帰っており、自分の足音だけが廊下の中で反響していた。その廊下に面した部屋の一つから、明かりが漏れているのが見えた。半開きになっていた扉を開けると、予想通りにケインと吸血鬼の赤ん坊、そして孤児院院長であるレイリーがそこにいた。
「隊長、戻って来たんですね。待ってましたよ。」
「ローガン、この子はどういう事何だい! 説明しておくれ!」
いきなりレイリーに詰め寄られる。その三白眼は鋭くこちらを睨んでいて、もう六十にもなる老人の眼光の筈だったが、その気迫は並の兵士を凌駕していた。
「ケインから聞いてないのか? 国王直々に預かれだとよ。」
「そうじゃなくて、何でこの孤児院に吸血鬼を預けようとするんだい? クラインの所でやれば済む話じゃないか。」
「そうするとリオル派が五月蝿いんだろうよ。」
「またあそこは喧嘩してんのかい。いい加減にしてほしいね。」
「と言う訳で、頼めるか?」
「私は吸血鬼なんて育てた事は無いよ。」
「吸血鬼だって人と似たような形してるんだ。同じやり方でいいだろう。日に当てなきゃいいだけさ。」
「適当なことを言ってくれるね。……血はどうするつもりだい。この子だって血は飲むんだろう?」
「それこそレグル派の仕事だろう。あいつ等に言えば用意してくれるさ。」
「……まぁいいさ。王様に言われたんじゃ仕方ないね。その代わり血の事はクラインにはアンタから言っといてくれよ。」
「ああ、その位だったらやってやるさ。」
レイリーは乳母車の方まで歩いて中の赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊は先程と変わらずに眠り続けていた。
「そういえば、この子の名前は何て言うんだい?」
「エミィ、と言う名前だ。」
「エミィ、エミィねぇ。……いい名前だね。」
「……頼んだよ。」
「ああ、分かったよ。」
レイリーは赤ん坊を抱いたまま奥へと歩いて行った。最初は文句を言っていたが、レイリーは予想よりずっと早くに諦めてくれた。
部屋には二人だけが残されていた。
「ケイン。もう戻っていいぞ。明日からはいつも通りだ。さっさと寝ておけ。」
「了解しました。隊長はこれからどうするんですか?」
「俺も部屋に戻って休む。今日は色んな事が有り過ぎて疲れた。」
ケインは部屋を出て行った。その足取りは重く疲労が溜まっているのが一目で分かった。その様子を見ていると、思い出したかのように眠気が俺に襲ってきた。
俺は立ち上がりレイリーが入って行った奥に目をやった。レイリーが引き受けてくれて本当に助かった。クラインにはああ言ったものの、実際には了承してくれるか確証は持てなかったのだ。何せ吸血鬼を預かるなど、本当に前代未聞のことなのだ。しかし了承してくれたのなら、レイリーはきっと彼女の腕と誇りにかけて、吸血鬼の赤ん坊の世話というとても困難なことを、最後までやりきってくれるだろう。
周りにある扉より少しだけ大きい扉を音を立てないようゆっくりと開ける。この本棟の中で一番大きいこの部屋は、主人の不在を告げているかのように暗闇に包まれていた。
ランタンに火を点ける。壁や床に明かりが投げられ、机の上に山積みにされた紙束と、本棚に整頓された本の数々が姿を表した。部屋には応接用のソファが向かい合うように設置されており、その間にはテーブルがあった。奥には机と椅子があり、その後ろには大きな窓があった。
とても見慣れた風景だったが、記憶に有るものと目の前に有るものとを比べると、何か一つ欠けていたような気がした。
紙束が積まれた机に俺は近づいた。机には紙束の他に羽ペンやランタンが置かれていた。俺は紙束の一番上に置かれていた紙を手に取ってみた。折り畳まれていたそれを開いてみると、どうやら手紙のようだった。すぐにそれを閉じると元あった場所に戻す。
そして今度は窓へと向かい、そこに映されている外を眺めた。右手に聖道が見えた。左手には家々がどこまでも連なっていた。
ふと、自分がここに来た理由を忘れてしまった。思い出そうとしてみるがどうにも思い出せない。考えてみるとそもそも理由なんて無かったのかも知れない。何故だがこの部屋に足が向かって行っていた。
窓から離れて部屋に目を戻した。そして廊下に続く扉へ向かい、ランタンを消した。部屋に暗闇が戻り、紙束や本が姿を消した。ドアノブに手をかけて捻る。扉が開いて廊下の景色が現れた。部屋の方を振り返った。そこには変わらず暗闇に包まれていた。
「おやすみ。」
扉を閉じた。