1-6.赤い眼
謎の男、コードと出会ったあの日から既に一ヶ月が過ぎていた。俺はこの店での作業にも慣れ、夜の時間帯の接客も任される様になっていた。
アランさんやギルさんの仲介もあり、仕事仲間ともようやく仲良くなれてきている。と言うのも、この店は朝の朝食の時間から深夜の遅くまで営業している。同じ人がずっと働き続ける事は出来ないため朝早く働く組と昼から働く組に分けられているのだ。
さらに同じ時間に働いているとしても人数が少なく忙しさで会話なんて出来ない。二人はその忙しい時間の合間を縫って、俺に仲良くなれる機会を与えてくれた。特に人間であるハンナとオズワルドさんと仲良くなれたのはとても大きい事だと思う。アランさんやギルさんが居なかったらきっと今俺は二人と仲良くなれていないだろう。
店を見渡すと閑散としていた。夜の半分はもう過ぎ去っており、店の中を往復するのが大変な程いた人も今は三、四人しかいない。俺は空いたテーブルから食器を退かし、厨房へ持っていくという作業を何回も繰り返していた。もうすぐで今日の営業は終わるだろう。
「アラン、それ片付け終わったら今日終わりな。」
「はーい。」
アデルさんが予想通り仕事の終わりを告げた。俺はクタクタになった体を気力で動かし、客が退いたテーブルの拭き掃除を始めた。アデルさんは箒を取り出しテーブルと同じくらい汚れた床を掃除し始めた。
アデルさんは最初会ったときの昼間から酒を飲んでいたあの姿と比べると大違いだ。彼女が怠惰な性格をしていると思っていた俺の考えはやはり間違いであったらしく、仕事を手慣れた様子で行うその姿は勤勉そのものだ。
あの時はどうやらただの付き合いだったらしく、どちらかと言えば彼女はいつも仕事している。むしろ休んでいる姿を見る方が少なく、本当に寝ているのか心配になる程だ。
だからと言う訳ではないが、俺はアデルさんについて、殆ど何も知らなかった。
人間や吸血鬼はともかく、何故人喰いがこんなところで暮らしているのだろう。そんな疑問をぶつけてみたかったが、今のところ俺はそれを自重していた。誰だって語りたくない過去を持っているものだと、それを俺はよく知っているからだ。
考え事をしながらでも手が勝手に動くくらいには、仕事には慣れてきていた。いつしか客がいなくなり店には本当の静けさが訪れていた。騒がしさの足跡は今消し去り終わり、朝組へこの店を明け渡す準備が出来た。
これで本当に今日の仕事は終わりだ。俺は自分の部屋に戻り体を休める為、厨房を通り抜けて階段を登ろうとした。
「アラン、部屋に戻る前に地下室で待ってな。」
「え?」
しかし厨房にいるアデルさんが俺を呼び止めた。地下室で何をするというのだろうか。疑問が意図せず口に出た。
「今日はお客が来る日なんだよ。アラン。」
この真夜中にお客とは誰の事なのだろうか。疑問と休めない不満を抱えつつ、俺は自分の部屋を通り過ぎ、地下室へと足を伸ばした。
地下室にはアランさんとギルさんとベルン爺、それに珍しくリゲルさんがいた。四人とも椅子に腰掛けてはいるが酒を飲んではいなかった。いつも複数人でいるなら飲んでいるというのに珍しい。しかし緊迫した様子は無く、四人で会話しているようだ。
「リゲルさん、お久しぶりです。この集まりって何なんです?」
「アラン君久しぶり。アデルから聞いてない?今日は僕達の人間の仲間がここに来る日なんだよ。」
「仲間って…」
「レグル派の人達だね。」
「何の為に?」
「そりゃあ血を渡す為だよ。アランだって今迄に何度も飲んできただろ?」
ギルさんが言った。今迄飲んでいた血はレグル派の人達から貰っていたのか。俺はてっきりハンナやオズワルドさん達が、ヴェイン先生の医療器具を使って血を採っているのかと思っていた。
想像していたものと少し違う意外な事実に驚いていると、ギルさんがからかおうとする様な顔で近づいてきた。
「実はな、お前に会ってみたいってことで、何でもすっげぇ偉い人が来るって話だぞ。」
「偉い人って?」
「それは……偉い人は偉い人だよ。」
ギルさんは言葉に詰まり、同じ言葉を繰り返す。その偉い人というのはギルさんもよく知らないらしい。
「何だそれ?」
「なぁ、アルノー。そうだよな。」
助けを求める様にギルさんはアルノーさんに話を振った。アルノーさんは苦笑しながらそれに答えた。
「まぁそうだね。偉い人なのは間違いないよ。」
「それってどういう人なんだ?」
「もうすぐで来ると思うよ。」
アルノーさんはそう言うと視線を階段の方に向けた。どうやら合うまでの秘密ということらしい。
それから暫くして、上の方から話し声が聞こえてきた。アデルさんと若い男の声だ。足音がこちらに向かって近づいて来る。
「来たみたいだね。」
リゲルさんが呟く。他の三人も客の来訪に気付いたようだ。そして現れたのはアデルさんに連れられた三人の人達だった。三人とも外套を羽織っており、それは真っ白な生地に金の刺繍が施されていて、見るからに高級品といった感じだった。
全員がフードをかぶっていて顔は見えにくかったが、先頭の一人に連れられた二人だけが持つ、何かが詰められている鞄を見れば、誰が俺に会いたいと言う偉い人なのかは一目瞭然だった。三人は地下室に全員が入ると先頭の人物が真っ先にフードを脱いだ。
「やぁ、皆さんこんばんは。始めまして。僕の名前はルーク。ルーク・シンクロードです。と言っても久しぶりの人もいますけどね。」
「この人は今のレグル派の司教、クライン・シンクロードの孫でな。さっき言った通り、お前にどうしても会ってみたいってことでわざわざ直々にここまで来たんだ。」
ベルン爺が補足して説明してくれた。司教がどんな地位なのかは知らないが多分相当偉い人なのだろう。
「どうも始めまして。気軽にルークと呼んで下さいね。」
「始めまして、アランと言います。えーと、よろしくお願いします……」
ルークはこちらに手を差し出してきた。偉い人に対してどういう風な態度を取ればいいのかよく分からなかったが、取り敢えずこちらも手を伸ばし握手する。その手は意外にがっしりとしていて、マメがいくつも出来ていた。偉い人でも剣を練習したりするのだな、と俺は心の中で思った。
「貴方には前から一度会ってみたいと思っていたんですよ。ようやく最近街に住むようになったとベルナンドさんから聞いたので、今日会いに来たって訳です。」
「何で俺なんかに会いたいだなんて思ったんですか?」
俺は疑問を投げかけた。理由は単純に不思議だったからだ。何故わざわざ何でもない俺にこの直接会いに来たのだろう?
「個人的な興味ですよ。貴方がどんな人なのか見てみたくて。」
ルークは微妙に答えになってくれない答え方をした。俺は何故興味を持ったのかを知りたかったのだが。
ルークはそんな俺を尻目にアルノーさん達の方へ歩いて行った。偉い人にしては随分簡単に付き添いの人達から離れるものだ。それとも俺達のことは警戒する必要は無いと信頼しているのだろうか。
俺はアルノーさん達と話すルークを見ながら、個人的な興味というものの中身について考えた。前から会いたいと思っていたということは、前から俺の事を知っていたということだ。
もしかして十五年前の事があるからだろうか。あの時家族の中で逃げる事が出来たのは俺だけだった。だから興味が湧いたのだろう。
そこまで考えて俺はルークがあの時の事について、何か知っているのではないかと思った。アルノーさんやベルン爺はあまり教えてくれないが、あの作戦を実行した人間側である筈のルークなら詳しい事を知っているだろうし、何か教えてくれるかもしれない。
それにもしかしたら今のエミィの様子もアルノーさんより詳しく知っているかもしれない。そう思うとルークへ質問したい事が幾つも湧いて出てきた。
浮き出た疑問をアルノーさん達と話しているルークに投げ掛けようとして、口を開く。しかし肝心の声が出なかった。
俺はアルノーさんの言葉を思い出したのだ。もし俺が不用心に何か言ってしまい、ルークを怒らせてしまったらエミィがどうなるか分からない。俺は空いたままの口を無理矢理塞いで閉じた。俺話何か知るよりもエミィの安全を優先したかったのだ。
「アラン、こっちにこい。」
不意にアデルさんに呼ばれる。そちらを見るとルークの後ろにいた二人が鞄をテーブルに下ろし、中から何かを取り出していた。傍に行くとそれは円筒状の鈍く光る金属の入れ物だった。
「アデルさん、これ何?」
「血だよ。お前達用の。」
凄く簡単な答えが返って来た。これは血を入れる容器ということらしい。
「それとこれだ。」
アデルさんから何かが投げ渡された。これには見覚えがある。血の容器の形を小さくしてそれをペンダントにした様なものだ。いつも村ではこれを使って血を飲んでいた。
そこで俺は鞄から取り出されるのが血の容器だけだということに気がついた。アデルさんの為の肉が見当たらないのだ。
「アデルさん。この中にアデルさんのはないの?」
「ん? ああ、私は別枠だから気にするな。」
「別枠?――」
「そうだ! アラン、血を飲んでみてくれませんか?」
アデルさんの言葉に質問をしようとしたその時、横から唐突に声が聞こえた。いきなりのことで驚き、声のした方へ体を向けた。アルノーさん達と話していた筈のルークがそこにはいた。
「おっと、驚かせてしまいましたか?」
「いや、でも……何で血を飲んでくれなんて言うんだ?」
「まあまあ、良いじゃないですか。」
「……アルノーさん、良いんですか?」
突然の要望にアルノーさんに確認を取ろうとする。血を飲めば明日の仕事に影響するのではないだろうか。俺はまだ血を飲んだ直後の眼の制御が上手くない。
「うーん……良いよ、飲んで上げな。」
「分かった。」
どうやら良いようなので俺はペンダント型の血の容器を持ち直した。先端の円筒状の部分には小さな窪みがあり、そこを強い力で押すと血が出るようになっている。俺は窪みを自分の犬歯に合わせ、そして力強く噛んだ。容器から少量の血が出てくる。しかしその量で十分だった。
血はいつも通りに少し錆臭かった。吐き気を催す様な味だ。それでも血は血だ。目が熱くなるのを感じる。こげ茶色だった眼が赤く、他の何よりも赤く染まるのが感じられた。
そしてこんな質でこんな少量でも、予想通りに血に飢えている奴らが臭いを嗅ぎ付け俺の眼の中で目を覚ます。いつも眠っている弊害でまだ眠気眼だが、俺がもっと血を大量に飲めば奴らは完全に眼を覚ますだろう。こいつ等はそれを望んでいる。こいつ等は血を求め、俺の眼から外を見つめて此処から出せと叫ぶ。
しかしそんな事はさせない。俺はこいつ等が完全に眼を覚ましたらどんな事になるか知っているからだ。血を飲んだ時の衝動を俺は必死に抑える。この衝動はいつものことだった。だから、暫くすればある程度は落ち着きを取り戻せた。するといつの間にかルークが俺の眼をまじまじと目の前で観察している事に気付いた。
「本物……みたいだね。」
「何を言っているんだ?」
「ん? 眼のことですよ。確認したかっただけです。疑ってた訳じゃ無いから安心して下さい。」
「眼? この眼の事か? これに何かあるのか?」
「え?」
「ルーク!」
ベルン爺の声が俺とルークの会話に割り込んだ。
「それはアランが知らなくていいことだ。」
「なんだよ? ベルン爺。この眼に何かあるのか? この眼は前にただのほくろみたいなもんだって言ってたじゃないか! 俺にまた嘘をついてたのか?」
「アラン、儂は何もお前を騙していた訳じゃあない。その眼はお前の人生にとって何の意味も無い。この世には知らない方が良い事もあるという言うことだ。」
ベルン爺は毅然とした態度で言い放つ。その言葉の意味はどういうことだ?言いたくない事があるんだったら素直に言えば良いじゃないか。どうしてそんな誤魔化す様な言い方をするんだ?
「ルーク! 教えてくれ。この眼には一体何の意味があるっていうんだ?」
「いやぁ、ベルナンドさんが言わないと言うんですから、僕も言うことは出来ません。ごめんなさいアラン。お力になれず……」
ルークは申し訳なさそうにそう言った。その様子を見ているとなんだかこっちが悪い事をしている気分になった。
「アラン、それくらいでいいだろう。ベルン爺にも考えがあるんだ。」
アルノーさんから肩を引かれる。どうして皆して俺に何も教えてくれないのだろう。意味が無いんだったら、教えてくれたっていいのに。
この街に来てから皆からいつもこんな扱いを受けている気がする。あの時からずっと願ってようやく村から出てきたというのに、村にいた時と何も変わっていないままだ。結局あれからエミィにも会えずにいる。それどころかエミィの為を思うなら、近づくなと言われる始末だ。これじゃあ俺は、この街に何をしにきたのか分からないじゃないか。
その後、俺を交えないままルーク達とアルノーさん達は話し合いを続けていた。その会話の間にはルークとアルノーさんが声を潜め合って話したりもしていた。また俺は知らなくていい話をしているのだろうか。
結局それから俺が一言も話さないまま、ルーク達は帰ってしまった。ルークは最後までこちらに申し訳なさそうな顔をしていた。それが何だか融通が利かない人にとりあえず謝ってあげている様な感じがして癪に触った。
「アラン。もし良かったら、メルガスまで来てみて下さい。もしかしたら何か力になれるかもしれません。」
「……」
ルーク達が去るとアランさん達は受け取った鞄の中から金属の容器をいくつも取り出し始めた。
「アラン。」
「何?」
「頼みがあるんだけど、いいかな。」
アルノーさんが容器の一つを手に取った。
「これを明日、ベルン爺と一緒に村まで届けて欲しいんだ。」
もしかして村へ帰れと言うのだろうか。嫌だと言ってみたかったが、そんな事をしても何も変わらないことはよく分かっていた。俺には了承する言葉しか無かったが、それが何だか悔しかった。