2-16.新風
扉がノックされた。俺が知っている誰でもないノックの仕方だ。少し緊張しているように性急で、しかし力強いノックだ。
その人物が誰なのか、俺は名前を知っている。しかしそれだけだ。そいつがどんな顔をしているのか、どんな性格をしているのか、俺は耳でしか聞いたことがない。そして俺は今から、さてどんな奴なのか見極めようとしていた。
「入れ。」
「失礼しますっ!」
やはり声色からもその人物が緊張しているのが分かる。しかし扉から入って来る彼女の所作は、どこぞの新兵のようなぎこちなさは一切感じられず、どこを切り取って見ても流麗で気品の高さを伺い知れるものだった。
緊張しても体に染み付いた動きは乱れない。貴族の友人であるエリオットが言っていた言葉を思い出した。それは同じ貴族である彼女にも通用するようだ。
「お初にお目にかかります。ローガン・グレイラン殿。私、ノエル・ディノワールと申します。」
「ああ、エリオットから聞いているよ。」
彼女は深い群青の髪を後ろで纏めた、どちらかといえばさっぱりとした容姿をしていた。エリオットから聞いたところに拠れば、彼女は紛うことなき純粋なお嬢様と言うべき血筋と聞いていたので、これには俺も驚いた。
「そうですか……叔父には感謝しています。私にこんな巡り合わせがあるなんて……こんな幸運が人生の中ではあるのですね。」
彼女はエリオットの姪だ。俺が人手を欲しがっていたところに、彼女ならよく働いてくれるだろうとエリオットが紹介してくれたのだ。
「いやいや、こちらも良い人材が見つかって喜んでいるよ。エリオットには感謝しないといけないな。」
俺は椅子から立ち上がりながら、彼女にソファに座るように手で示した。彼女はこれまた優雅な所作で座りながらも、その目に興奮を隠し切れていなかった。不躾にならない程度に素早く視線だけで部屋を見渡している。それはまるで実物の剣を見る少年のようで、外側と垣間見える中身の差に、俺はおかしく思って、笑みを慌てて噛み殺した。
「さて……世間話もいいが、本題に入らせてもらおう。仕事の話だ。ノエル・ディノワール。」
「……はい。」
緩んだ空気が引き締まったものに変わる。
「お前はこの組織、憲兵団に入団することを志願した。……間違いないな?」
「勿論です。私は姉様に憧れて、子供の時からずっと憲兵団に入ることを夢見ていました。」
「……そうか。」
彼女の言う姉様とは、恐らくアリア・ディノワール――前団長――のことだろう。
「それならいい。……事前の調査の結果、ノエル・ディノワールの能力、経歴、性格に問題は無いと私達は判断した。」
いつもの決まり文句を俺は並べる。実際には経歴を軽く調べて、憲兵団にいた彼女の同窓に話を聞いただけだ。しかしそれで十分だ。どんなに深く経歴を調べたって憲兵団のその筋の者が判断した以上の結果は出ないし、周りの者はその本人の性格を深く知っているわけではない。
つまりこの決まり文句には脅しの意味合いが強い。俺達はお前のことを知っているぞ、という規律を守らせる為の脅しだ。
俺が憲兵団に入団するときにも言われた歴史ある脅し文句だ。俺は経歴を調べているなんて言われて鼻で笑っていたが、街で暮らしている者達にとって憲兵団はかなり大きな存在で、これが結構効くらしい。
「……!」
目の前の彼女にはこの言葉はどう聞こえたのだろう。外面では真剣な表情をしていても俺と同じように内心で笑っているのか、本当に怯えているのか、それとも何も思っていないのか。
どちらにしても、もう既に彼女は憲兵団に入ると資格を得ている。
「ノエル・ディノワール。お前の入団を認めよう。」
俺は再び立ち上がる。そして壁に飾っておいた彼女の剣を手に取った。
「入団の儀式には正式と略式があるが……今回は略式で済ませてもらうぞ。……そこに。」
「……はい。」
俺が目をやった場所に彼女は傅く。どうやら略式のやり方は知っているようだ。俺は傅く彼女の前に立ち、そして彼女の鞘に収まったままの剣の切っ先を床についた。
「……お前に問おう。」
「……」
僅かな沈黙が訪れる。俺は静かに息を吸い、そして言葉を紡ぐ。
「お前は民の為に戦うか?」
「戦います。」
「お前は我等の信条を持って戦うか?」
「戦います。」
「お前は牙を持つ者と戦うか?」
「戦います。」
「お前は国の病魔と戦うか?」
「戦います。」
「お前は弱い自らと戦うか?」
「戦います。」
「ならば良い……それでは、勇気ある者に剣を授けよう。立ち上がれ! 勇敢なる者よ!」
俺は剣を回転させて目の前に構え、そして立ち上がった彼女にそれを渡す。彼女は完璧な所作でそれを受け取る。子供からの夢というのは、強ち嘘ではなさそうだ。
「……おめでとう。これでお前も憲兵団の一員だ。」
「っ……ありがとうございます!」
彼女は少し乱暴なくらいに頭を下げた。やはり歳のせいか、まだまだ子供っぽいところが残っているようだ。
「そう固くならなくていい。これからは同じ憲兵だ。よろしく頼むよ。」
「はいっ、ローガン殿……いえ、団長! 私、これから頑張ります!」
だんだんと淑女の仮面が剥がれかかっていた。やはりエリオットに聞いていた通り、本性は隠し切れないほどの熱意を持っているのだろう。これならすぐに周りと馴染むことが出来そうだ。
「ああ、仕事の説明はケインという奴に任せてある。今ならすぐ近くの雑務室にいる筈だ。訪ねてみるといい。」
「分かりました。失礼しましたっ。今日からよろしくお願いします!」
「ああ。」
元気よく、しかし乱暴でもなく扉が閉められた。なんとなく彼女の人物像が見えたような気がする。エリオットから話は聞いていたが、それでも不安だった内心は随分楽になった。あれなら真面目に雑務をこなしてくれそうだ。
「……あの人が話していた人?」
部屋に俺のものでない声が響く。その声の主はもう一つの扉からこちらに顔を覗かせていた。
「そうだ。エリオットの姪で……確かエミィと二つくらいしか変わらない筈だ。」
「そうなの? 二つ……じゃあ十七? それよりも大人に見えたけど……」
「あれでも貴族の世界の人間だからな。老けるのも仕方ないことだ。」
「私は大人っぽいって言っただけだよ……あの人って、ローガンの手伝いの為に呼んだんだよね?」
「そうだな。」
エミィは部屋に入り込み、先程までノエルの剣が飾ってあった壁に近づく。
「それじゃあ、ケインさんと同じ仕事をするんだ。」
「ああ、あのやる気は素晴らしいが、暫くは座りっぱなしになるだろう。熱意が雑務に押し潰されないといいがな。」
しかしそれはケインの負担が減るということだ。あいつは今までかなりの苦労をさせて来た。新兵には少し我慢してもらおう。
「……」
「エミィ。」
「……何?」
「そろそろ準備をしておいた方がいいかも知れない。」
「準備?」
「ああ、主に心の準備だがな。それ以外はお前は十分やってきただろう?」
「……心の準備。」
それはずっと待ち望んでいたことであり、密かに一生来ないで欲しいとも思ってもいた事だ。エミィにとっても俺にとっても重要な事だ。
この部屋に新風が吹き込もうとしていた。