1-25.扉を開けて外に出る
唐突に水面から顔が飛び出て、俺は反射的に肺を膨らませた。一体どれくらいの間、息を止めていたのだろう。自分の人生の中で一番長い時間だったのだけは確実だった。
肺の中の空気を急いで入れ替え続けながら、俺は自分がどこにいるのか知る為に辺りを見渡した。どうやらここは桟橋の下のようだ。
俺は近くにあった柱に飛びつく。途中からこのまま一生浮かび上がらないんじゃないかと思うほど長い潜水だった。水の中で、俺は昨日とは別の感覚の命の危機を感じていた。まるでジリジリと命が目減りしていくような感覚だった。こんなものもう二度と体験したくない。
だけれども、そのその対価か俺達はあの街を抜け出すことに成功したようだ。間近に見える陸の反対側に目をやれば、河の対岸に霧に覆われた街が見えた。ここはアデルさんが言っていた河の反対側の岸のようだ。
「アラン。大丈夫かい?」
「……死ぬかと思った。」
息を切らしながらなんとか答える。肺はまだ空気をもっとくれ、と痛いほど要求していた。
「はは、よく頑張ったよ、アラン。ここまで来れば安心さ。」
そう言ってアデルさんは肩を貸してくれた。なんだか昨日から俺はずっとアデルさんに背負われている気がする。
しかし拒否する理由も時間も無かった。アデルさんは俺を背負ったままするすると柱を登っていく。
桟橋の上にはレティアさんが既に立っていた。水滴が垂れる前髪を後ろに搔き上げて、何事も無かったかのように平然としている。ただ掴まっていた俺が息も絶え絶えとしているのに、二人を引っ張った本人は息を切らしてすらいない。
あちら側からここまでかなりの距離がある筈だ。それを息継ぎの一つもしないで渡り切るなんて、一体どんな悪魔をその体に眠らせているのだろう。
「ん、お迎えが来たみたいだね。」
レティアさんが目を向けた方に俺も視線をやった。するとそこにはいつもの見慣れた顔が二つあった。
「アラン! 無事か! 怪我はないか?」
「ギルさん……」
ギルさんが走ってこっちに来る。昨日の昼には一緒に働いていた筈なのに、まるで随分と久し振りに会ったような感覚があった。
「心配したぜ。もう皆昨日から大慌てでよ、本当に怪我はないか?」
ギルさんは捲し立てながら俺の肩を強く叩く。その気持ちが十分に乗った衝撃で結構肩が痛い。
「大丈夫だよ、ギルさん。どこにも怪我はないって。」
俺はギルさんの背中越しにこちらに向かって来る人影を見つけた。ギルさんとは対照的にゆっくりと歩いていて、思わず俺は身構えた。
「……」
俺の前まで来たアルノーさんの表情は、とても明るいとは言えないものだった。俺はいつ大声で怒られても大丈夫なように目を伏せる。
「……すまないっ、アラン!」
「……え?」
一体どういう事だろう。俺が身構えていたアルノーさんの怒った顔はどこにもなく、代わりに俺の視界に映っているのはアルノーさんの旋毛だった。
「アデルさえついていれば大丈夫だろうって、高を括っていたんだっ。もっと情報収集を怠っていなければ、アランを危険な目に遭わせずに済んだのに……!」
「……!」
あまりのことに俺は上手く言葉を浮かべることが出来なかった。アルノーさんは中々頭を上げない。
「そんな……アデルさんがいなければ、俺なんか死んでた場面はいくつもあったし……」
「いや……本当にすまない。アランの自由を奪っているのにっ、安全すら守れないなんて……!」
「……」
守る。それは母さんが皆に遺した言葉だ。それを皆は律儀に守っていて、偶にそれは俺の自由を制限することにもなっていた。
アルノーさんはその自覚はあったのだ。けれど約束を破るわけにもいかなかった。俺にもそれは分かった。
皆は俺に悪意がある訳じゃない。寧ろ逆で、俺を大切に思ってくれている。俺がそれに答えられない奴なだけだ。
「……俺は平気だよ。アルノーさん。それにこれは俺が勝手にやった結果だからさ。」
「……!」
「それにやるべきことが見つかったんだ。俺にしか出来ないこと……」
図らずしも見つかった、俺がやらなきゃならないこと。
「だから大丈夫だよ。そんなに心配しなくても。」
そう言って俺は笑ってみせる。命の危険があったって、それで俺が止まる理由にはならない。
それに、母さんから言葉を遺されたのは俺もなんだから。
「……」
アルノーさんは目を見開いて俺を見ている。まるで何かに虚を突かれたみたいに。
そういえば、結局俺は母さんと父さんの墓参り出来なかったな。俺は向こう側の街を見る。霧は薄らいでいて、もうすっかり消えてしまいそうだった。
「……!」
その街が突然傾いた。いや、傾いたのは俺だ。
「……っと!」
誰かの手が――多分ギルさんが――俺を支える。咄嗟に言葉を出そうとしたが、出てくれない。というよりも視界も暗くなって、意識も朦朧としてきた。
どうやら俺が思っているよりも俺の体は疲れているらしい。昨日から一睡もしていないのだから、当たり前ではあるだろう。
そんなことを考えている内に皆の声も遠ざかり、俺の意識は闇に沈んでいった。
あれから数ヶ月経った。俺は今あの街の場所まで戻って来ていた。危険は無い。一切無い。
何故ならその街は消えてしまったからだ。全く面影も雰囲気も塵も残さず、何もかもが消えたのだ。俺の目の前にあるのは広い原っぱだけだった。
吸血鬼や人喰いが潜めるような建物は少しも見当たらなかった。一面が真っ平らだった。ここは河から反対側だったけれど、腰ほどの塀に乗って見れば向こうに河がはっきり見えた。
勿論、俺の母さんと父さんが死んだであろう場所も消え去って、俺は墓参りが一生出来なくなってしまった。ここに来たのももしかしたら、という思いあっての事だったが、痕跡どころか水路すら見当たらなかった。埋め立てられでもしたのだろうか。
それでも俺は特に動揺することは無かった。ここに来たのも近くに来たついでだった。俺は走って来る子供三人を避けながら建物がある方へと歩いていく。数ヶ月前は誰も近づかない場所だったのに、今じゃ遊び場として丁度良い公園だ。振り返れば子供やら母親やら老人やらが思い思いに過ごしている。
それはそうと、俺はあの時から自分で調べる、ということを思いついた。今までアルノーさんやギルさんに頼ろうとしていたのをやめて、情報は自らの足で掴もうとしているのだ。
勿論のことだけれど、俺はアルノーさんやギルさんにさんみたいに特別な情報源なんてものは持っていない。きっと二人は俺がどう頑張っても手に入らないような情報を持っているだろう。
それでも俺は俺の足で調べようと思う。簡単なことでいい。この街の住人なら誰でも知っていることでも、それでも俺の十分な成果になる。
俺はこの街のことを知らなさ過ぎている。地理も歴史も仕組みも常識も。俺は判断する為に知らなきゃならない。
母さんとの約束はエミィを守ること。
俺の今の目標は皆を守れるようになること。
どちらにしても、やっぱりまずは知らなければならない。目隠ししていて、守るべき人がどこにいるか分かるものか。
街へ入るといつも通り活気に溢れていた。広場には多くの人がいる。特に一部分には人混みが出来ているようで、近づけばビラが貼られているようだった。今街の注目を集めている話題は限られている。俺は人混みの中へ入っていった。