表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖銀と巨大都市《メガロポリス》  作者: 久野 貴文
57/62

1-24.朝日は登る

 その白い煙を身に浴びて、肺の奥まで吸い込んで、俺は背筋に冷たいものを感じた。

 何故だか妙に寒気がした。明け方だから冷え込んでいるだとか、そういう種類のものではない。体の芯から固まってしまうような、嫌な出来事の前兆が感じ取れてしまったようだった。

 この真っ白な霧は俺達を隠してくれてはいたが、決して太陽からの光を防ぐ衣にはなり得なかった。だから俺は落ちていた外套を拾って被っていた。

 昨日とは打って変わって、本当に辺りは静かなもので、鳥の鳴き声すら聞こえなかった。ただ遠くの方では何やら人の声は聞こえてきて、それだけがこの霧中の世界が昨日と同じ場所だと分からせてくれた。

 「アデルさん、河まではあとどのくらいで着くの?」

 「もうすぐに着くよ。でも、大変なのはそこからだ。まさか憲兵の一人とも鉢合わないなんて幸運は起こらないだろうから……」

 足音を消して道の隅を隠れるように歩く。驚くほど誰もいないこの路地は俺達にとって都合が良く、ほっと一息つけそうなくらいだったのに、俺は少しも油断出来なかった。背中に太陽の光が当たって熱を帯び、それがまるで太陽から見ているぞ、とでも言われている様で、俺は霧の中で身を縮めた。

 真っ白な視界で見えにくかったが、地面には持ち主が燃え尽きてしまったのだろう衣服や、太陽の下でも燃えていない身体も転がっていた。

 普段の俺ならそれに少しでも何かしらの感情を抱いたのだろうが、生憎今の俺は昨日から人の死体を見過ぎていて、ただ目を逸らすだけに留まった。

 これはただ俺が冷たいやつなのではないと思いたかった。少しも眠らずに疲れ果てているのも原因の一つだろう。疲れ過ぎていて何か思うのも億劫なのだ。だからこれは自然なことだ。

 いつの間にか頭の中で、誰にも責められていないのに言い訳を繰り返していた。自分のそれに気づいて何故だろうと首を傾げる。

 不意に昨日会ったあの老人を思い出した。俺達をレウノフのところへ連れて行った人物だ。結局のところ俺達に害にしかならなかった行動だったが、あの人は親切心からそれをした筈だ。

 あの老人は今生きているのだろうか。生きているのだとしたら、どこにいるのだろうか。明日には逃げると言っていたが、手遅れになってしまったのだろうか。

 「アラン?」

 「……!」

 いつの間にかアデルさんの訝しげな顔が目の前にあった。

 「大丈夫か?」

 「っ大丈夫だよ! 少し疲れてるだけで……」

 周りが全然見えていないなんて、やっぱり疲れているようだ。

 霧は段々と薄くなっていて、遠くの方も見通せるようになってきた。逸る心を落ち着けながら、俺とアデルさんは進んでいく。

 「かなりラッキーだよ。憲兵と会わずにここまで来れたなんて……この道を曲がれば、後はもうすぐだ――っ!」

 曲がり角から顔を覗かせたアデルさんはすぐに頭を引っ込める。その驚きようから見て、憲兵がこちらに歩いて来ているのだろうか。

 「っ……!」

 アデルさんは声を発さずに仕草で隠れろと指示する。俺はすぐさま頷き、アデルさんと一緒に一つ前の曲がり角に隠れた。

 心臓が途端に動き出してうるさい。けれども俺の耳にもその足音が聞こえてくる。たった一人だ。こんなにも霧が出ていて視界が悪いというのに、どういうことだろう? 俺達はまだ見ていないが、この町には吸血鬼や人喰いが多く潜んでいるだろうに。

 俺は固唾を飲んで角から出てくる人物を待った。その足音は堂々としたもので、まるで何も怖いものは無いと宣言しているかの様だ。

 どんどん音は近づいて来て、そして大きくなっていく。時間が経つのが遅く感じる。俺はその瞬間を、胸の嫌な騒めきと共に待つ。

 「ッ……!」

 そして、そいつは角から姿を見せた。俺はその姿に、思わず叫びそうになった。その姿は今までに何度も見たことのあるものだ。最近は見ていなかったけれど、それでも思い出せない姿ではなかった。

 ローガン・グレイラン。そいつは薄い霧が漂う狭い路地から、誰からも隠れることなく進み出て来た。

 「……」

 俺は飛び出そうになった言葉を深呼吸と一緒に腹に収めて、一旦自分を落ち着かせようとした。しかし体が言うことを聞かない。今すぐにでも飛び出て行ってやりたい。あいつには聞きたい事が多過ぎる。母さんや父さんのこと、エミィのこと、ベルン爺達に聞かずとも、本人に聞けば全てが分かる。それは俺にとって耐え難い甘い響きだ。

 けれどそれは出来ない。理性も本能も、不可能だと俺の感情を否定している。

 それに、いつの間にか俺の腕を掴んでいる腕があった。その人は俺を見ながら首を横に振る。しかしその目は俺がいつも向けられる様なものではなかった。

 俺はそれに頷いた。アデルさんの言葉が耳で聞かなくとも分かった。今はまだ我慢の時だ。焦って近づこうとしても、却って遠ざかるだけだ。今はその時ではないのだ。

 遠ざかっていく。絶好のチャンスがまた離れて行ってしまった。

 少し前の俺ならそう思っていただろう。けれど今の俺にはそれよりも大きな確信があった。

 またその時は訪れる。山を流れる水が流れに流れ、雨雲になってまた山に戻って来る様に、因縁は巡り会うものだからだ。俺はそれを昨日実体験して、そして学んだ。

 アデルさんとレウノフは普通なら昨日出会う筈はなかった。しかし何故か俺が巡り合わせる切っ掛けになり、まるで今までそれぞれに流れていた川が合流したかの様に、二人は見事にぶつかった。

 レウノフはそれを定めだと言った。俺はそれに何か納得の様な感情を持った。

 思えば俺は今まで一度も、誰かに求めてばかりで自分で準備をしてきたことが無かった。機会はいつでも俺の側を流れて行っていたのに、俺はそれに対して何も出来ないでいた。

 今回だってそうだった。何の準備も無しにふらふらと彷徨って、誰かが何を持って来るのを期待していた。それでは駄目だ。

 今まで何度も夢で見てきた背中がどこかへ歩いていく。俺はまた機会を見逃した。けれどここで慌てて飛び込むのはもっと駄目だ。準備が出来ていなければ、濁流に飲み込まれるだけだ。

 今はその時ではない。また因縁は巡り会う。その時までに俺は準備をしておくのだ。その時こそは――

 「……行ったか……」

 アデルさんが呟く。もうあの男の姿は霧の中に消え去り、どこにも見えなくなっていた。

 「アラン……行くぞ。」

 「うん……」

 俺は因縁の相手が去って行った方へはもう向かなかった。何故なら、また巡り会うと俺は分かっているからだ。俺が今するべきことはこの場から逃げ切ることだ。そして準備をすることだ。

 「……!」

 ローガンが出て来た路地に入って、俺は頭に引っかかるものを覚えた。それは歩みを進める度に鮮明になっていき、そして俺の目の前に大きな水路が現れたことで、それは確実になった。

 「ここは……」

 忘れもしない。この場所は十五年前、母さんと最後に会った場所だ。最後の約束を交わした場所だ。

 今でも覚えている。俺は水路に浮かべられた小舟に乗りながら、母さんを見送った。子供ながらの不安と、謎の信頼で必ず母さんは帰って来るという安心感の両方があったのを覚えている。

 「アラン? どうかしたのか?」

 「いや……なんでもないよ。」

 あの男は何故こちら側から歩いて来たのだろうか。たった一人で何をしに。

 もしかしたら、ここは――

 「待ってたよ。」

 突然、知らない声が耳に届く。俺は咄嗟にその声の方へ向き、その真っ赤な髪色を捉えた。

 「レティア? どうしてこんなところに……」

 アデルさんの口からレティアという名前が飛び出した。先程アデルさんの妹だと聞いたばかりだ。なるほど確かに真っ赤な髪色はそっくりだ。

 「皆から話を聞いたの。それで抜け出すならこの場所を使うだろうって思ってね。」

 「それでここまで?」

 「そう。良かったねお姉ちゃん。昨日お姉ちゃんがある使おうとした抜け道、誰かが使ったみたいで、今は見張りがたくさんだよ?」

 「……そうか。それでレティアは他の道から来たって訳だ?」

 「そう……そっちがアランさん?」

 「ああ、そうだよ。ええっと、レティアさん? 待ってたって言っていたけど、さっき男の人を見なかった?」

 「……? いや? 見なかったけど……」

 「あれ?」

 それなら、ローガンはずっと、俺達が歩いて来た路地にいたということだろうか。

 「それよりも、早く行こう? ここはいてもいいことは無いよ。」

 そう言って、レティアさんは水路の中へ入った。まるで躊躇いも無く、何も脈絡も無かったため、俺は目を丸くした。

 「アラン。秘密の抜け道さ。」

 呆然とする俺を置いて、アデルさんも水に静かに入っていく。二人の様子からして結構深そうだ。

 「どうしたの? ほら、早く。」

 レティアさんが無感情に言う。

 「ええと、その……」

 「……ああそうか、アラン、泳げないのか。」

 アデルさんの言葉が俺の言葉を補う。泳げないと言うよりも、村には泳げるほどの深さの川なんて無くて、それにこの水路はいつも村で見ていた川と比べて濁っていて、入るのに抵抗がある。二人が何の躊躇いも無く入っていったので面食らってしまったのだ。

 「大丈夫だアラン。ほら、大きく息を吸え。」

 アデルさんの言う通りに大きく息を吸う。泳げないのは事実なので、従うしかない。

 「絶対に息を吐くなよ?」

 そう言ってアデルさんは俺の腕を取る。そして俺は水の中へ引き摺り込まれた。

 「……!」

 抵抗する暇も無かった。まさかこんな強引に来るとは思いもしなかった。俺はただ言われた通りに息を吐かないでいることしか出来なかった。俺が水の中に入った瞬間、水圧が体の自由を奪ったのだ。アデルさんの腕に物凄い勢いで引っ張られていく。いや、アデルさんも引っ張られている。先頭にいるのはレティアさんだ。

 俺はただ耐える事しか出来ない。水も濁っていて、目を薄っすら開けても何も見えない。激流に体を取られながら、俺は脱出出来るように願い、目を瞑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ