1-22.断ち切る定め
「それは……一体、どういう意味だい? レウノフ。」
遠回しな言い方のレウノフの言葉の皮を引き剥がす様に、アデルさんは言葉を発した。
「どういう……も何も、そのままの意味だ。アデル。……お前が何故ここに来たのか……先程は人間の味方をしてここに足を踏み入れたのかと思っていたが、どうやらここから抜け出せずにいる様子から、そうではない様だな?」
怒号や悲鳴が間近で五月蝿いほど響いているのに、レウノフが語る音は不思議と俺の耳にくっきりと届いていた。その声は特別大きいというのでもないのに、むしろ低くて地鳴りの様なものだったのに、それは人が感じる意味というものを多く持っていて、俺はそれを鮮明に理解していた。
「……もうお前が何故ここに来たのかは、この際どうでもいい。ふらふらと入り込んでしまったという理由でも、私は納得しよう。……だが、アデル……どんな理由があったとして、お前が偶然私と邂逅したのは、それは定めであったと、そうは思わないか?」
「……」
レウノフはまた一歩、こちらへ近づく。その薄暗い炎に燃えた目にはもうアデルさんしか写っておらず、俺は完全に意識の外へ追いやっているようだ。
それもそうだろう。俺とレウノフという男には何の因縁も無い。ここにアデルさんを連れて来てしまったのは俺だが、ここでは俺は、主人公を敵の下まで送り出した後に、退場し損ねた御者であるかの様に場違いだった。
「アデル……お前に償いの機会を与えてやる。」
償いという言葉は、上手く俺の頭に入ってくれなかった。アデルさんと償いという言葉に、俺は関連性を見出せる事柄を知っていなかったからだ。
レウノフを穴が空くほど見つめても、その言葉の真意は俺には掴めなかった。この男は何を知っているのだろう。兎も角、俺が知らないことには違いはない。
唯一俺が分かることは、ただこの目の前の男は怒っているだけではないということだ。
一体、アデルさんは昔に何があったのだろう。人間の国に紛れ住む、吸血鬼達に混ざって過ごす人喰い。そんな人物の過去なんて、俺に想像出来る筈もない。
「……」
そして疎外されて始めて、俺はアデルさんの事を何も知らないということに気がつかされた。結構長い間一緒に酒蔵亭で働いていて、気心の知れた、は言い過ぎにしても、少しくらいその人というものを知っていたと思っていたのに、実際には俺は全然、何もアデルさんを知っていなかったのだ。
「償い……」
「そうだ。お前も、このまま罪を背負って生きるのは苦しいだろう?」
そう気づいた途端に、アデルさんの側に立っているのが俺は恥ずかしくなった。まるで今まで着ていた衣服はボロ切れだと気づいた様だった。
まるでその人に寄り添うようにそこにいるくせに、その実他人と変わらない。俺は内情を知らないし、正解へ導く助言も出来ない。ただうろうろとそこにいるだけだ。
「……」
だけれども、だからと言ってそれで何もせずこの場から逃げるのは正解ではない筈だ。だが、この状況で俺は何かをするだけの資質はあるのだろうか。
俺は横目でアデルさんを見る。その表情は険しく、誰にも中を見られないように仮面を被っている様だ。
「っ……」
けれどもそれは不完全で、その仮面の隙間からは迷いが滲み出ている。俺にはそれが見えた。
俺は全く、何も事情が掴めていなかったが、このままだと何が起きて何が悪くなるのかすら、頭の中で認識出来ていなかったが、それでも何か不味いのは、それだけは理解していた。
俺はどうするべきだろう。それとも、何も知らない俺にはこの状況をどうにかしようとする権利は無いのではないか。頭の中はいくらでも空回りするが、体は一向に動かない。俺はどうするべきだろう。
アルノーさんなら、何かアデルさんを引き止める言葉を言えるだろうか。ベルン爺なら、この男の口を封じられるだろうか。俺より先に街に降りて活躍しているテッドなら、俺が思いつかない解法を見出せるのだろうか。
「この状況も……お前に償いをさせる為に世界が動かされたと思わないか? 今、その男以外にお前の決断を邪魔するかも知れない者は、ここにはいない。……お前は償いをするべきなんだ。アデル。」
「――!」
恐らく、その言葉が原因だった。
俺はふっと、渦巻く胸の中で何かを掴んだ様な感触を覚えた。それは確固とした支柱の様なもので、今まで存在を忘れていて、そして今思い出したものだった。
もし、ここに俺以外の誰かがいたとして、何が出来るだろう。皆なら、何か出来るのだろうか。それとも誰も結局何も出来ないのだろうか。誰がいても変わらないのだろうか。
それは誰にも分からない。分かる筈もない。
今ここにいるのは俺しかいないのだ。何かを出来るのは自分しかいない。それに俺は気がついた。
「……!」
俺は思い上がっていたのだ。そして縮み上がっていたのだ。アデルさんの過去を知らないからって、何だというのだろう。俺はアルノーさんやギルさんが普段どんなことをしているのか、詳しく知らない。俺はベルン爺の昔話を聞いたこともあるが、それでベルン爺の心の内を知れた訳でもない。俺は唯一の家族が、今どんな風に生きているのかすらも知らないのだ。
知らないから、何もする権利が無いのなら、俺は一生何も出来ないじゃないか――
「アデルさん、一つだけ、いいかな。」
俺は一歩、踏み出した。
「……誰だか知らないが、邪魔をしないでもらえるか? 今仲間が決断をしている最中だろう? 私はそれを黙って見ているべきだと思うが……」
レウノフはあくまで冷静にそう語る。
「申し訳ないけれど……」
俺はレウノフの方を向く。悪魔が出ていなくとも、とても図体の大きな男だ。
「レウノフ……さん。……あんたの忠告は少し的外れだよ。俺は、するべきだとかの、そういう正解を選ぼうとしている訳じゃない。それが出来るほど、アデルさんの訳は知っていない。」
一言一言はっきりと、せっかく掴んだ支柱が揺れてしまわないように。
「それに、言葉をかけてやれるのは仲間しかいないと俺は思うんだ。」
俺はまた、アデルさんの方へ向き直す。アデルさんは少し面食らった様な表情をしていた。
「アデルさん、俺はあなたの過去は……全然知らない。……もしかしたらあなたは極悪人なのかも知れない。……何かの罪をずっと背負っているのかも知れない。けれど……」
一つ息を吸って、吐く。
「罪を償う方法は自分で決めるべきだと思う。だって俺達はどこの国の住人でもないんだよ? アデルさんだって、元は違うかも知れないけど、今は俺達と一緒だ。だから……少なくとも罰を決めるのはそこの大男じゃない。」
悲鳴が聞こえる。けどここにいるのはこの国の住人じゃない。ここにいるのは他人の住処に入り込んだ属人だ。
「それに、俺はアデルさんのことが罪から逃げている人のようには見えないよ。」
脇役に言えるのはたったこれくらいの、自分が知っていることだけだ。けれどこれでいいとも思う。仲間が言うべきことは言い切った筈だ。
もしかしたら、弱い人には無理矢理にでも道を示さなきゃいけないのかも知れないけど、だけどアデルさんは強い人だ。俺はそれだけは知っている。
「……!」
俺の言葉は果たして届いてくれただろうか。人の表情から全て読み取れるような技術は俺には無い。
「……ごめんよ、アラン。心配させて……少し、忘れていたみたいだ。」
そう言いながら、アデルさんは一歩踏み出した。
「レウノフ……やっぱり私は帰らないよ。私は……ここでやるべき事がある。」
「……それがお前の答えか。」
肌がピリピリするほどに、レウノフから気迫を感じる。
「悪いと思ってるよ。だけど……私はここでも借りを作っちまったんだ。……だから、あの人の魂はもう暫く預からせてもらうよ。いつか、必ず返しに戻る。」
「……」
俺にとってその会話の意味は全て理解出来るものではない。俺はこの二人を外から見る他人にしかなれない。
けれど他人なりに何かが出来た。何も出来なかったわけではない。大きいか小さいかは分からない。それでも俺にとっては十分だ。
「……!」
張り詰めた空気は水の泡の様に弾けるものだ。今回は少し長かったがそれでも時間は必ず訪れるものらしい。鉄の足音がいつの間にか俺達の周りを囲んでいた。
「お前の考えはよく分かった。アデル。お前がそう考えるのなら……私は巡り会わせてくれた世界に審判を任せるとしよう。」
レウノフは言葉を発しながら、体を首無しの悪魔に覆わせていた。周りを憲兵に囲まれているというのに、悠々と語る姿はやはり怪物というに相応しい。
「さよならだ、アデル。どちらにしろ、もう会うことは無いだろう。」
そう言い残すと、レウノフは一瞬の内に宙へ跳ねた。その巨体からは想像出来ない様な高さまで飛び上がり、屋根の上に潜んでいた憲兵に空を仰ぎ見させながら、彼はどこかへ消えてゆく。
「……ありがとう。アラン。」
「……!」
「何か……吹っ切れたような気がするよ。」
アデルさんはまた笑った。周りはいつの間にか絶望と呼ぶに相応しい状況になっていたが、それでも何の問題も無いかのように笑っている。
「それじゃあ……全力で逃げようか? せっかくなんだ。すぐにこの命を終わらせるには勿体ない。」
「……おう!」
恐ろしい銀色が首元を通り、鋭い風が首筋に当たった。冷や汗をかきながら俺は地面を蹴る。先程とは比べ物にならない精度の攻撃が、雨の様に降りかかる。路地を駆け、屋根に登り、建物をすり抜ける。想像以上の数の憲兵が俺達を追っていた。
人間だからという油断は一切出来ない。確かに人喰い達の速さに比べれば、憲兵達の足は遅い。けれどもそれを持って余りある連携で俺達の先回りをし、包囲しようとして、少しでも隙を見せればその必殺の斬撃を浴びせてくる。
「ッ……!」
アデルさんの誘導が無ければ今頃俺は聖銀に切り刻まれていただろう。
しかし、アデルさんの助力があっても逃げ切れるわけではなかった。数が違い過ぎる。もう周りには吸血鬼や人喰いの姿は無く、代わりに骸が大量に転がっていた。この辺りはもう全滅しているようだ。
「アラン! こっちだ!」
俺とアデルさんは狭い路地裏へ入り込む。三人は並んで走れないくらいの細さだ。なんとか追手を振り切りたいと考えるが、その願い虚しく目の前から二人の憲兵が走ってくる。
「上だっ! 足を滑らせるんじゃないよっ。」
「っ……!」
両側の壁を交互に蹴りながら、アデルさんは上へと登っていく。俺も見よう見まねでそれに続く。
多少手こずりながらも下に銀色の光を見ながら路地裏を抜けた。とりあえず抜けた先には憲兵は見えない。
「……抜けた!?」
「まだだ。振り切れてない……着いてきな。」
アデルさんは二階の窓から建物へ入っていく。そして廊下を抜け、外へ出る。後ろからの音が背中を引っ張っている様な感覚に陥る。
いつの間にか俺達は大きな豪邸に入り込んでいた。いや、アデルさんがここを選んだのかも知れない。
「やっぱり、逃げるだけじゃダメみたいだね。どこかで隠れないと……」
「隠れるって……どこに?」
ここはかなりの広さを持っている家だったが、随分長く誰も住んでいない場所に相応しく、家具も殆ど置かれていなかった。前の持ち主が出て行く時に全て引き払ってしまったのだろう。隠れられる様な場所が見当たらない。
俺達は今一番大きな広間の様な場所にいたが、伽藍堂でその広さ故に余計に寂しさを感じる。
「……」
そうこうしている間にも、憲兵達の足音は近づいて来る。もう時間は無い。更に悪いことに足音は周囲全体から聞こえてくる。もしここで見つかれば、今度こそ逃げ切れないかも知れない。
「っ……!」
いくら焦ったところで、時間の進みが遅くなる筈もなかった。足音が、着実に近づいている。
「――!」
そして遂に、憲兵達が扉を蹴破った。