1-21.廻る顛末
「上だっ!」
「っ……!」
俺の体はその言葉通りに、反射的に地面を蹴った。俺達の足元を無数の矢が通りすぎていく。壁に囲まれた路地から、多数の色が星明かりに照らされる屋根が並ぶ視界へと切り替わる。
アデルさんのお陰で、どうやら無数の矢が刺さった藁人形の様にならずに済んだようだ。
「ッ……!」
そう安堵したのも束の間に、俺はアデルさんに蹴り飛ばされることになった。俺が何事かと言うよりも早く、俺達がいた場所にまた多数の矢が通り抜ける。憲兵は俺達が飛び跳ねるのを予想していたのだ。
「ぐっ……!」
俺は不完全な姿勢で屋根に激突することになった。しかし身体中に木の棒を生やすよりはマシな痛みだろう。アデルさんは丁度俺と反対の屋根に着地したようだ。
「……」
背後から足音が聞こえた。振り返るとそこには三人の憲兵が銀色に輝く剣を構えていた。更にその三人の肩の向こう側の屋根の上にも、数え切れないほどの憲兵がいる。
屋根の上を伝ってあちら側へ逃げ出すのは、かなり難しいようだ。
「……」
俺は三人の憲兵を前に構え、どこかに隙はないか探る。しかしどこをどうやっても、それらしきものは見つからない。俺は思わず後退りをした。
「……クソッ……」
更に悪いことに、また俺の耳は背後からの足音を察知した。振り返らなくてもその馬鹿でかい音で分かる。悪魔の様な形に変わった人喰いの追手だろう。
是非とも振り返って様子を見たいが、それをしてしまえば俺は、今目の前にいる憲兵達に背中からばっさりと切り捨てられてしまうだろう。しかし、振り返らずとも今度は剣が大きな鉤爪に変わるだけで、結果が変わることは無い。
「……どうする……俺……?」
自問自答しても、こんな場所では答えは出ない。回答は選択しなければならない。しかし、それはそう簡単に決められるようなことではない。
俺の逡巡なんか知らずに、憲兵の一人が一歩前へ出た。
「こっちだ!」
その慣れ親しんだ声につられて、俺はその方へ向く。アデルさんは人喰いの方へ、来た道を戻る方を選んでいる。
俺のその隙を憲兵達は見逃さない。こちらに駆けて来る。もう選ぶ道は一つしかない。俺は来た道を振り返り、走り出した。
「っ……」
俺が走る先には二人の人喰い。どちらも黒い蜥蜴の様な姿をしている。大きさは先程見たレウノフ程ではない。
俺は胸元から、血の入った容器を取り出す。時間の余裕は無い。俺は上の部分を噛みちぎって、血を口の中に流し込んだ。
目元が一瞬で熱を帯びる。完全に目が覚めたのを感じる。全身から力が溢れてくる。
暗闇で見えにくい人喰い達の姿も、今なら完璧に把握出来る。
「ッ……!」
突然加速した俺に驚いたのか、二人の人喰いの足が止まる。それならばと俺は不安定な足元を踏み切り、二人が驚いた以上の速度で片方に突進する。
「どけッ!」
俺の言葉に頷いた訳ではないだろうが、俺が突撃しようとした人喰いは咄嗟に横に避けてくれた。勢い余って俺は屋根を転がる。
しかし転がってばかりではいられない。今、俺の後ろには憲兵と人喰いが同時に追って来ているのだ。俺はまた加速する。
辺りを見渡す。アデルさんは――
「アランっ!」
そう言いながらアデルさんは一切速度を落とさずに俺の隣へ着地する。そして俺と一緒に並走し始めた。脚が変形していて、いつもより少し目線が高い。
「アデルさんっ、これからどこに逃げるんだ?」
このまま走ったとしてもその先にあるのは人喰い達の住処だけ。そこすら超えたとしても、今度は気性が荒いらしい吸血鬼達がいる。
「……下を見てみろ。」
「下?」
俺は首を傾げながらも俺達の下にある路地を眺める。するとそこには怒号を飛び交わしている人喰い達の姿が見えた。そして彼等の行き先は俺達が走っている方角と同じの様だ。
「逃げ場が無いのはあいつらも同じさ。吸血鬼と憲兵に挟まれて、そしてその包囲網を食い破ろうとしている。」
「……」
「その勢いの尻馬に乗らせてもらおう。」
「……本当にそれで逃げられるのか?」
アデルさんから、その言葉の返事は中々返ってこなかった。焦ったくなるくらいの時間が経って、俺は口を開く。
「……さっき、吸血鬼達が人喰いの領域に侵入した、ってレウノフの部下が言っていた。それって人喰い達を追い出そうとしたって訳じゃなくて……吸血鬼達も逃げていたんじゃないの?」
「……そうだな。恐らく、この場所は……もう既に憲兵に包囲されている。」
「……」
「……安心しなって、アラン。誰ももう逃げ切れないなんて言ってないだろ?」
そう言ってアデルさんは笑う。何かその笑いに確かに根拠があるというように。
「この場所は河に面しているところがある。まずはそこを目指す。」
アデルさんはまた速度を上げた。俺は先の方で聞こえる叫びに不安を抱えながらそれについて行った。
そこはまるで戦場の様だった。死体が散見され、その上でまた死体がつくられる。また一つの生き物が声を上げなくなっても静寂は訪れず、むしろ怒号は増し、重なり、それが鼓膜で増幅される。
いや、正しくここは戦場なのだろう。ただお互いの目的が逃げることにあるという、特異性を持っているだけだ。
「それにしたって、なんで吸血鬼達はこっちにこんなにも来るんだ……」
心の底では分かり切っている問いを口に出す。そんな事をすれば無駄に口の中にこの死臭が入ってくるだけだというのに、それでも我慢出来なかった。そうでもしなければこの地獄絵図から現実逃避出来なかったのだ。
「そりゃあ……逃げたい奴の反対側がこっちなんだろうさ。」
律儀にアデルさんが俺の独り言に返事をくれる。お陰で一瞬だけこの臭いが僅かに紛れた。
俺達は全力で走る事を止めて地面の道の上にいた。全力で走るのはあまりに目立ち過ぎるからだ。振り切ったのかいつの間にか追手は消えていた。
辺りは混乱の坩堝で大半の者は何故相手がこちらに向かって来るのか理解していないだろう。ただ衝突する為にお互いを押し退けあっている。
「いいか? アラン。ここを走り抜ければ目的地までぐっと近づく。」
「分かってる……」
俺はまた目の前の光景を見る。路地も屋根も人喰いと吸血鬼だらけで、偶に近くに死体が転がってくる。しかし俺達以外の者は我先にとその地獄に走って行く。
それは多分、背後にもっと恐ろしい者が追って来ているからだ。彼等は全員がこの国のここまで忍び込んでいる者達で、憲兵の恐ろしさを知っているが故に逃げているのだ。
「……準備はいいか?」
「……勿論。」
俺達は今からそこに飛び込むのだ。そうしなければ俺達も生き残れない。
「行くぞ……3、2、1っ……!」
飛んで来た身体を弾きながら、俺は走り始めた。すぐにこちらに走って来る男の吸血鬼に目を合わせられる。内心で舌打ちをしながら俺はそれでもその男に向かって走る。止まることは出来ない。
そんな様子の俺を見たその吸血鬼は、側に落ちていた銀色の剣を拾い上げる。
「ッ……!」
男は剣を構え、我武者羅に突進してくる。俺の目の前に銀色の切っ先が迫り来る。
俺はそれを直前まで引きつけ、そして当たるギリギリの瞬間に身を屈めて刺突を避けた。
「うわぁぁッ……!」
俺は自身の勢いを利用して男の足を担ぎ上げ後ろに投げる。どうやら男はあまりこういった事に慣れていないようで、受け身を取れずに地面に激突した。
そんな風に一人を切り抜けたとしても、すぐに目の前に新たな障害が現れる。俺は肝が冷える様な思いを一秒毎に体験しながら、先へ進んで行く。
しかし、衝突している中心へ向かうほど、人の密度が上がっていった。もう誰がどちらへ行くのか、それどころか自分の行き先すら見失いそうなくらいに人の壁が厚かった。
「……畜生っ……!」
悪態をついても、やはり目の前の光景は変わらない。しかし、これ以上先へは物理的に通れない。隙間など見当たらず、近づけば誰かが誰かを攻撃するものに巻き添えを食らってしまいそうだった。
「アラン! こっちだ!」
横から声が聞こえた。見てみればアデルさんが建物の窓から顔を出し、手招きしている。屋内を進んで行こうということらしい。
俺はすぐにその方へ走る。地面を転がってきた異形の身体を飛び越え、アデルさんが顔を出していた窓から飛び入る。
「こっちから行こう。」
アデルさんは反対側の窓を指差す。そちらの方が若干人が少ないようだ。俺は頷いて駆け出す。
俺達が出た通りは随分人喰いが吸血鬼を押しているらしい。視線の先の遠くにまた隣と同じ光景が見える。
「……!」
少し希望が見えて、また走り出そうとした、その時だった。
俺達の目の前の壁が内側から崩れ、その中から巨人が現れた。
そいつは俺の三倍はありそうなくらい大きい化け物だった。その肌は霞んだ黄土色で、指は他の生き物なら簡単に引き裂いてしまえそう程太かった。
そして何より、そいつは形だけなら人の様な姿をしているくせに、人として一番大事な部分の筈の頭がついていなかった。
「……レウノフ……」
その化け物の正体は、アデルさんがいとも簡単に教えてくれた。化け物は耳が無いというのにアデルさんのその呟きの様な声は聞こえるらしく、こちらに体の正面を向けた。
巨人が一歩こちらに歩く。それと同時に巨人の体は萎んでゆき、殻が割れるようにして巨人の胸が割れると、そこから先程見た顔が出てきた。
「まさか追手を振り切っているとはな。逃げ足の速さは前と変わらんようだ。」
いつの間にかレウノフは一つの死体を持っていた。どうやら先程の巨人の格好でも持っていたらしかったが、全くそれに気がつかなかった。
死体の男はレウノフに頭を掴まれていた。頭以外は血だらけで、体の形が平たく歪んでいる。どんな殺され方をされたのか容易に想像出来た。
「随分と余裕だね。レウノフ。この状況はあんたに取っても予想外だろ?」
「まさか、想定はしていたさ。こんな人数がいつまでもバレない筈が無い。そんな無能しかいないようだったら、この国はとっくに滅んでいるさ。」
「……だけど、この速さは想定外だったんじゃないか? ここに来た目的を、あんたは果たせたのかい?」
「……無論だ。既に私達の任務は達成している。」
レウノフは男の死体を放り投げた。鈍い音が妙に響く。
「……今なら、主にもっと良い報告を聞かせられると喜んでいるところだ。」
「……すぐ近くで憲兵がいるってのに、よくそんな事を言えるね……私は御免だよ。仲良く憲兵に殺されるのは。」
アデルさんは口ではそんな事を言っているが、どうやら戦いは避けられないと感じているらしい。俺はいつレウノフが飛び掛かってきてもいいように構えた。
「……そうだな。確かに聖銀は怖いな。恐ろしい物だ。」
しかし、レウノフはあっさりとアデルさんの言葉に頷いた。まさか戦いを避けられるのだろうか。
「聖銀は恐ろしい。睨み合っていれば横から刺されてしまうだろう。……そこで提案だ。」
レウノフはまるで、それは必然のものであるかの様に振る舞った。
「故郷へ帰りたいとは思わないか?」
剣の震える音はすぐ近くまで迫っていた。