1-20.因縁は巡り合う
「お前……アデルか?」
大男はもう一度繰り返す。それは慎重にこの緊迫した空気に針を刺して割ってしまわないようするかの様に、疑り深くむしろ自分の勘違いではないかと思わせる口振りだった。
「……レウノフ……」
俺はアデルさんに、嘘でもいいから人違いだと言って欲しかった。アデルさんの口からその名前が飛び出た瞬間、その大男――アデルさんがレウノフと呼んだ男――の目つきが疑いの目から、何か理解したような、据わった目に変わったのだ。
「……まさか……奇遇だな、と言うべきか……それとも、定めと言った方が正しいのか……」
レウノフは一歩、こちらに踏み寄って来た。その圧力に圧され、思わず俺は一歩後退る。
「……あんたがどうしてこんなところに? 私達を捕まえられなくて、クビにでもなったのか?」
アデルさんの口振りから察するに、何か因縁のある相手らしい。ということはここでばったり会ってしまったのは、運が悪いどころの話ではないんじゃないかだろうか。
俺はアデルさんに、せめて相手を挑発するような事は言わないでくれ、と伝えようとする。
「っ……!」
しかし、俺はその出かかっていた言葉を飲み込んだ。何故なら、俺は分かったからだ。アデルさんが戦っているということに。
アデルさんは恐怖と戦っていた。あの言葉はこの大男を挑発する為に発した言葉ではない。アデルさんが自らを奮い立たせる為に口にしたものなのだ。
「……アデル……お前、レティアはどこだ? 何故一緒にいない? それにその男は誰だ?」
「答える義理は無いな。レウノフ、お前の方こそなんでこんなところにいる? 御主人様を守ることで一杯一杯のお前が、人間の国にいるのはなんでだ?」
「……状況が変わった。それだけのことだ。……疑問なのはお前の方だ。今までこの国で生き残っていて、何故ここに来た? 何の為だ?」
また一歩、レウノフが俺達に近づく。床が軋みを上げてこの大男の巨大さを証明した。この様子では墓参りに来た、なんていう言い訳はきっと全く聞かれないだろう。
「……いいや、この国で一人で生き残れる筈がない。人間に保護されたと考えるのが正しいか……レグル派とか言ったかな……そこからここを探りに来たという訳か、お前は。」
「……さてね。」
おおよそ最悪に近い勘違いだ。これでは誤解を解くことなんて出来そうもない。せめて悪意は無いと伝えたいが、恐らく無理だ。レウノフの目は狼の様に獰猛に俺達を睨んでいる。
この大男を前にして、俺達は逃げ切れるのだろうか。すぐ後ろにも数人の人喰いがいた筈だ。俺達は今、包囲されている。
「……まぁいい。お前がどんな者であっても、とりあえず拘束させてもらう。」
「……殺さないのか?」
「状況が変わったと言っただろう。我等が主にとって、もうお前はどうでもよい存在なのだ。」
一歩、レウノフはにじり寄る。その巨体は近づけば近づくほどにその大きさというものがはっきりと分かるようになり、俺達の前を遮る分厚い壁となった。
「ボス! 大変です!」
それが圧迫される空気を打ち破った。はちきれんばかりの空気は別のところから開けられた穴で萎んでくれた。俺は扉が乱暴に開けられる音とその大声に少し感謝した。
「突然っ、吸血鬼共が境界線を突破! 私達の区域に侵入しました!」
「何? 数はどれくらいだ?」
「それが……数え切れないほどで……もう境界線は無いも同じです!」
突然部屋に入って来た男の言葉は嘘ではないらしい。俺の耳は遠くで怒号が飛び交っているのが聞こえてきた。この大きさではこの場所の外――人間達の領域――にも聞こえてしまうのではないだろうか。
「……何だと? ……クソッ……どうなっている? あいつら、人間が怖くないのか? ……いや、今はそれよりも……」
揺らいでいた視線はまた俺達ががっしりと捉える。
「また状況が変わった。アデル……と、そこの男は人喰いなのか人間なのか分からんが、お前もだ。時間が無い。大人しくするなら拘束するだけで済ませてやる。もし暴れるようなら、どうなるかは分かるな?」
後ろに二つ分の足音が現れる。やはり、俺達は完全に包囲されている。
「……アデルさん……」
「落ち着け、アラン。……レウノフ、分かった、大人しく捕まることにするよ。全く、私はいっつもついてないな……」
アデルさんは言いながら床に膝をつく。あっさりと諦めてしまったことに俺は驚いたが、アデルさんの視線を受けて慌てて俺も膝をついた。
「っ……!」
膝を床につけたその瞬間、俺は頭も埃っぽい床にくっつけることになった。それはレウノフの部下に後ろから押し倒されてそうなったのではない。俺はアデルさんに胸ぐらを捕まれ、引き摺り倒されたのだ。
「っ何を――」
抗議をしようと俺が声を荒げるのも束の間、俺は床から一瞬で離れることになった。
「なっ……!」
それは俺が言ったのか他の誰かが言ったのか。ともかく俺を引っ掴んだまま、アデルさんは限界まで溜めた足のバネを伸ばし切り、レウノフに向かって突進をした。
「ッオラァ!」
アデルさんの既に変異した右足がレウノフの側頭部に突き刺さろうとする。完全に虚を突いた攻撃だった。
「ふんっ……!」
しかし、その間際にアデルさんの右足は動きを止められる。レウノフのまるで大岩の様な巨大な腕に掴まれたのだ。
「よくもそんな不完全な鎧で、私に挑もうとしたものだ。」
「……!」
レウノフはもう元の姿が分からなくなるほどに変形した。ただでさえ狭く感じていた部屋が、まるで小さな子供の秘密基地に入り込んだ大人の様だ。少しレウノフが腕を振るえば、近くの家具や壁を壊してしまう。
「……ふんっ!」
そんな、正に壁になったレウノフだったが、それでも隙間はあった。肩と天井、そこに人が一人すり抜けられる場所が残っていたのだ。
そしてあろうことか、そこにアデルさんは俺を投げ入れた。
「……なっ!」
今度は誰が言ったのかが分かる。俺が大声で言った。予想外過ぎたのだ。まさか味方に投げられるなんて思わなかった。
それはアデルさんの奇襲を見抜いたレウノフも同じだったようで、俺はそのままレウノフの肩を通り過ぎる。
アデルさんは最初からこれが目的だった。しかし俺がそれに気づいた時にはもう遅く、俺の体は窓ガラスを破り外に放り出されたのだった。
「チッ……!」
「……よそ見するんじゃねーぞッ!」
アデルさんの左足が視線を逸らしているレウノフの頭を蹴飛ばそうとする。
しかし、それも簡単に止められてしまった。レウノフはかなりの猛者のようだ。完全に不意を突かなければ、攻撃は入らない。
「あのガキを逃せたつもりか? 無駄だ。すぐに捕まる。」
「……」
アデルさんの両足は言葉の通りレウノフの手の中にある。逃げ出すことなど俺には不可能に見えた。
「今度こそ逃がさんぞ。アデル。」
「……いや、今回も逃げさせてもらうよ。レウノフ。」
まるで現状を理解していないかの様に、アデルさんはそう高らかに宣言する。この状況を覆せる何かがあるのだろうか。
「何を――がッ……!」
しかし、その秘策は使う必要は無い。何故なら、外から舞い戻って来た俺が隙だらけのレウノフの後頭部に、渾身の飛び蹴りを食らわせてやったからだ。
壁の様な巨体、アデルさんの後ろから迫っていた人喰い達も纏めて吹き飛ぶ。感覚からして頭蓋骨がひび割れするくらいにはなっただろう。
「……なんで戻って来た……アラン。」
そう言って俺をアデルさんは睨み付ける。援軍はいらなかった、と言いたいのだろう。
「そ、それより! 逃げよう! アデルさん!」
煙に巻く為に、俺は今すべき最善の提案をする。
「……全く……」
不満そうな顔を隠さないまま、アデルさんは俺が破った窓の方を向いた。
「行くぞ。」
「うん――っ!」
俺が返事をした瞬間、アデルさんの腕がまた俺の胸ぐらを掴む。嫌な予感が頭を過り、そしてその嫌な予感の通りに、俺はアデルさんに夜の暗闇に引き摺り出されるのだった。
冷たい夜の空気は今、人の息遣いに暖められていた。沈黙の闇は簡単に掻き消され、活気とは到底呼べないざわめきが今日の夜を支配していた。
俺はアデルさんに自分で走らせるように頼んだ。けれど明らかに自分が走るより、アデルさんが俺を抱えて走る方が速いという事を実践され、俺の意見は却下された。
俺はアデルさんに重い荷物でも運ばれるかの様に担がれている。
傍から見たら凄く格好悪いんだろうなぁと考えながら、俺は少し顔を上げ、後ろで俺達を追いかける数人の人喰いを見た。
俺だって緊迫した逃走戦なんだから少しは緊張したいけど、担がれて何を出来る訳でもない。それにアデルさんの速さは尋常じゃなく、追手は小さくなるばかりだ。
未だにこの場所は人喰いが多くいた。けれどアデルさんは人混みを避ける様にして、その変形し巨大になった爬虫類とも鳥類とも区別のつかない足で、地面や屋根はおろか、壁すらも走った。
アデルさんは真っ直ぐこの場所の出口に向かっているから、追手も回り込みようが無い。
「アデルさん、このままここを出るの?」
「そうだ。この騒ぎを聞きつけた憲兵に出くわさなきゃいいけど……もうすぐここを出るぞ。」
そう言ってアデルさんは速度を殺さないように壁伝いに屋根から降りる。人喰いの姿は殆ど消えていて、ここが人間の領域との境目なのだと俺は分かった。
また追手の方を向けば、絶対に逃がすものかと距離を詰めて来ていた。しかし、流石の彼等も人間の領域まで追って来ることは無いだろう。
そう高を括った俺は追って来る人喰いではなく、向こうの通りに一般人がふらふらと歩いていない事を願った。もしアデルさんの今の姿を見られて、更に顔まで晒してしまったなら、かなり不味いことになる。
「ッ……!」
俺の予想はある意味で外れる事になった。
俺が何かが起きたと感じたのは、今まで担がれていたアデルさんの腕の感触が消え、代わりに地面に叩きつけられたときだった。
「ッ――!」
かなりの痛みが腹と顔面に走った。俺はアデルさんに文句の一つでも言おうとして、顔を上げる。
その時だった。俺の怒りは感謝に変わった。地面に叩きつけられてうつ伏せになった俺と同じく伏せていたアデルさんの頭上を、いくつもの矢が雨の様に流れて行ったのだ。
「ぐっ……!?」
追手の人喰い達が流れ矢に当たってしまった様だ。しかしそんなことを気にしている場合ではなくなってしまった。俺とアデルさんは矢が全てすり抜けてゆくのを見た後、すぐに立ち上がり、そして矢を放った者達を見た。
「……憲兵……」
いくつもの弓と剣の矛先が俺達の方を向いていた。俺はその光景を見て愕然とした。彼等は到底、騒ぎを聞きつけた憲兵という風には見えなかった。
俺がそう思う一番の根拠はその数だ。一体何人いるのだろう。少なくとも、俺が一瞬の内に数えられる人数ではなかった。しかし、俺達の後ろにいる人喰い達のことを理解している人数だということは、俺は瞬時に理解した。
また矢が引かれる。
俺は少しの既視感を感じていた。そして、それを教訓に、これからは例えどんな状況だろうとも、油断することだけは絶対にしないと、胸に誓った。
矢が放たれた。




