1-18.空白の街
茹だるような暑さが後ろで膨らんでいて背中がむず痒い。汗が額から流れて、目の中に入ってしまいそうになる。もうとっくに背中と衣服はべったりとくっついてしまっていて、俺は逃げることの出来ない不快に思わず溜息をついた。
「……ねぇ、ハンナ……まだ?」
「まだです。」
俺のささやかな、そして悲痛な願いは、その一言で呆気なく掻き消されてしまった。両手に持ったバッグの重さは俺の気持ちをじりじりと際限なく引き下げていき、朝に出かけたときのどこか浮ついたものは地に落ちて萎んでしまっていた。
俺達は今、太陽の熱と人の熱気が渦巻く真昼の市にいた。ハンナと俺の休日が丁度噛み合い、皆から護衛役、もといエスコート役を任されたのだ。
俺は軽い気持ちでその任を承ったのだが、まさかこんな重労働を強いられるとは夢にも思わなかった。これなら昼飯時の手伝いをする方が動き回れる分、精神的に楽で良い。その場から少しも動けずにただ待っているだけというのは、俺の性分との相性が非常に悪かった。
だからと言って、この任務を放り出す訳にもいかないし、俺は放り出すつもりは微塵も無かった。そんなことをすればようやく緩和されてきた俺の行動範囲がまた狭まることになってしまうし、それに俺はハンナが丸一日休みを取る、というのを初めて見たからでもあった。
ハンナはアデルさんに次いで働き過ぎる人だ。休憩を取ったとしてもほんの半日程度で――アデルさんの場合、本当にいつ休んでいるのか分からない――それ以外は殆ど働いている。まず確実に俺なんかよりも休みは少ないだろう。
だからこんな日にはしっかりと休んで欲しいという気持ちがあった。
「……あの、」
「まだです。」
この現状を体験すると、そんな純粋な気持ちもあっという間に溶け出してしまいそうだったけれど。
「ありがとうございます、アラン。お陰で今日は楽しかったです!」
「はは……それは良かったよ。」
慣れ切ってしまった両手の痺れを感じながら、俺は出来る限りの笑顔をつくった。結局、ハンナが買った物は俺の両手からは溢れ出してしまい、彼女の片手も煩わせることになってしまっている。それでも彼女の笑顔が絶えることは無く、その笑みに俺は少しだけ報われた気分になった。
「あっ、そうだ。アラン、お礼にアイスを食べさせてあげます。」
「アイス?」
「はいっ、こんな日に食べると、冷たくって美味しいですよ?」
ハンナはいつもよりも上機嫌なまま、早足に先へ進んで行く。どうやら朝からのエスコートは彼女の御眼鏡にかなったようだ。俺は逸れてしまわないよう、両手のバッグを揺らしながら彼女を追った。
「――はいっ、どうぞ!」
そう言って彼女が俺の前に差し出したのは、オレンジ色で棒状の物だった。今まで全く見たことのないそれに、俺はどうすれば良いのか分からず固まってしまう。ただ口元に少し冷気を感じることで、これがアイスなんだろうなということが分かった。
「えーっと……」
「どうぞ、ガブッといっちゃって下さい。」
俺は考えることを止め、ハンナに促されるままにそれにかぶりついた。軽い歯触りの後に、口の中で冷たい感覚とオレンジの味が広がる。
「どうです?」
「……冷たい。美味しい。」
「でしょう?」
ハンナはもう片方の手に持った紫色のアイスを一舐めした。バッグを前腕に引っ掛けながら、器用なものだ。
「……あっ」
「どうした? むぐっ……!」
「いいからこっちに来て下さいっ。」
口にアイスを突っ込まれ何の反論も出来ずに、俺はハンナに手を引かれるまま路地裏に連れて行かれる。それはまるで何かから逃げ出しているようで、何から逃げているのか分からない俺は言い様のない不安を抱えながら、ただ早足に歩かされた。
「……っなぁ、どうしたって言うんだ? そんなに急いでさ?」
ようやく口の中のアイスが溶け消え、口が開放された俺は当然の疑問を彼女にぶつける。
「……憲兵ですよ。さっきの道の先で、抜き打ち検査してました。」
「え? そんな人達いたのか?」
確かに俺は少し浮かれていたかも知れないけど、あんなに分かり易い真っ黒な格好をしている人達を、真昼のこの時間帯に見逃すとは思えない。
「あの黒い制服でやってたら、そりゃあ抜き打ちが抜き打ちじゃなくなっちゃいますよ。大体、紛れてやってるんです。」
「じゃあ何でハンナは――」
「私は顔を覚えてますから。それに仕草とかでも分かりますし。」
「……そうなの?」
憲兵と他との見分けが全くつかなかった俺は、そう零すしかなかった。ハンナに腕を掴まれた状態のまま、俺はただただ引っ張られて行く。
「……ねぇ、ハンナ。こっちの道は? こっちの方が全然人通りが少ないけど……」
俺は視界の隅に捉えた一本の道を指し示す。その道は真っ直ぐ続いていて奥の方まで見渡せるけれど、人影は一つも見当たらない。それに酒蔵亭に帰るなら、こちらの方が近道ではないだろうか。
「そっちは駄目です。」
「え? どうして……」
「……駄目って言ったら駄目なんです!」
ハンナはまるで聞き分けのない子供に言い聞かせる様に言った。提案が否定されるのは少し予想していたけれど、ここまで完璧に拒絶されるとは思ってなかった。
ハンナのその言動は危険なものから俺を遠ざけようとしているみたいだった。しかし、やったら駄目と言われるとやりたくなるのが人の性分であり、俺はそれに違わずその道の先に興味を抱いた。
引っ張られながら俺は無理に後ろを振り向いた。その道の先に、建物の窓のその中に、何かが蠢くのを俺は見た気がした。
「ただいま戻りました! アルノーさん、アデルさん!」
「おかえり、二人共。今日は楽しめたかい?」
両手に料理の皿を持ちながら、アルノーさんはハンナに微笑みかける。今日もこの時間帯は大変そうだ。
「はいっ、お陰様で。あっ、手伝いましょうか?」
「いや、ハンナは今日は休みの日だろう? ちゃんと休みな。」
アデルさんは鍋を掻き回しながらハンナを諭す。
「はーい。……アラン、今日はありがとうございました。それ、もう大丈夫ですよ。自分で持って行きますから。」
ハンナは俺の両手に掛かったバッグを指差して、そして自分で持っていたバッグと合わせて、三つを一人で持とうとする。
「え? いや、最後まで持ってくよ。」
「いえいえ、アランは今日は夜があるでしょう? 早く準備しないと遅れちゃいますよ?」
俺の抵抗虚しく、バッグは奪い去られてしまう。ハンナは鼻歌を歌いながら階段を登って行ってしまった。やっぱり彼女はどこまでも真面目で優しい女の子だ。
だけど、彼女の気遣いを無下にするようで悪いけれど――
「アデルさん、今日は休んでもいいかな? 思ったよりも疲れが溜まってるみたいでさ。」
「ん? ……まぁ、いいよ。今日は人は足りてるし、それに随分こき使われたみたいだしね。」
「……ありがとうアデルさん。」
俺は階段を登って自分の部屋へと向かった。
勿論、日頃の疲れを癒す為ではない。今日見つけた、あの道の先へこっそり行く為だ。その場所のことを話したら皆はきっと、行くな、と言うだろうから。
暗闇の中を俺は歩く。辺りに人の気配は無く、とても静かなものだ。少し道を逸れれば賑やかな通りに繋がっているというのに、まるでここだけ忘れ去られてしまっているようだった。
風が高揚した気持ちを撫でて静めさせていってくれた。こんな風に一人で街に出るのは初めてではないけれど、それに秘密が加わるとこんなにも違うものだと、俺は初めて知ったのだった。
「おい、アラン。」
「ッ……!」
そんな考えを頭に浮かばせていたせいか、それとも彼女の勘が鋭いのか、肩に置かれた感触に従って振り返ってみると、そこにはアデルさんがいた。
ふと気づいたが、俺は酒蔵亭にいないアデルさんというのを、ここで初めて見た。どこか新鮮な気持ちと違和感を覚える頭が混合して、俺は少しの間言葉を失ってしまった。
「一人で何してるんだ? まぁ、この場所に来たってことは目的は一つなんだろうけど?」
アデルさんは腰に手を当て、ふうと息を吐いた。見つからないように来たつもりだったりけれど、どうやら俺の隠密能力はまだまだらしい。
「……最初は本当に、興味本位だったんだけど……近くの人達に聞いたよ。ここ……俺の母さんと父さんが死んだ場所なんだって?」
「……いつか知られるとは思っていたけど、結構早かったね。皆ここのことはあんまり口にしようとしないから、大丈夫だと思ってたんだけど。」
「……俺を止めるの?」
「別に止めないよ。もう子供じゃないんだろ?」
俺は少し驚いた。絶対に止められるんだろうなと考えていたのに、これじゃ肩透かしだ。
「じゃあ、どうして俺を追って来たんだよ?」
「ん? まぁ、子守りみたいなもんだよ。」
「……結局子供扱いするんじゃないか。」
「はは、誰だって何も言わずに出て行かれたら、心配になるだろう?」
「……」
俺はまた、何も言い返すことが出来なかった。皆が俺を信頼しているのを信頼出来ていなかったのは俺だ。
俺は溜息をついた。そしてもうアデルさんは無視をすることにして、俺は歩き出した。その場所のことを聞いてから、行くのを止めるという選択肢は俺には無かった。
「それに、ここは本っ当に誰もいない場所だから、危険も無いだろうしね。」
「……誰もいない?」
アデルさんの言葉に引っかかるものを感じて、俺は無視をするという心決めをあっさり解いた。
「どうした? アラン、聞いてないのか? お前が行こうとしてる場所は、浮浪者だって寄り付かないことで有名なんだぞ?」
「……」
俺はやっぱり、アデルさんの言葉がよく分からなかった。それは昼に見た筈の人影のこともあったし、そして目の前の現実の光景と、その言葉の意味とが噛み合わなかったからだ。
「……あれ?」
思わず、といった風にアデルさんが漏らした。それはそうだろう。今、この目の前にある筈の光景というのは、誰もいない空虚な街があるべきで、人が一切の明かり無しに蠢く光景ではないのだから。
「……おかしいな……アラン、お前、道を間違えたのか?」
「いや……合ってる……筈だけど……」
俺達の横を、人影が通り過ぎる。まるでそれが当然だと言うように、誰も寄り付かない筈の街へ、堂々と入っていく。
「……アデルさん、俺はあの街へ行くのを止めないからね。」
釘を刺す様に俺はアデルさんにそう宣言する。
「……はぁ……是非とも止めて欲しいけど、仕様がないね。……でも一つ約束して。危険を感じたらすぐに逃げること。そして、用事が済んだらすぐに帰ること。」
「……分かってるよ。俺も、自分を危険に晒したい訳じゃないから。」
俺とアデルさんは慎重に歩を進めた。その道の先――空白だった街へと。
ようやくラノベっぽいこと出来た……