1-5.知らない世界
食器同士がぶつかる甲高い音が水音と共に厨房に響いていた。しかしそれを気にする人はここにはいない。何故ならここの人達はそんな音は毎日耳に入っていて無いのとまるで同じだからだ。
それに厨房には、火に熱せられた金属が肉を焼く音や人の話し声が充満していて、食器がぶつかる音など掻き消されている。だからこの音を気にしているのは自分だけだろう。本来なら意識しなければ、気になることすら無いものだ。
しかし、この耳の奥から頭の中に浸透してくるようなこの音を聞いてしまうと、俺はどうにも落ち着かない気分になってしまう。それはおそらく、手伝い始めて一日目に手を滑らせて皿を一枚割ってしまったからだ。あの時の音は頭どころか心の中に直接入ってきて、まるで責められているかのような音だった。
あの音を聞いてから皿がぶつかるこの音が苦手になってしまった。少しでも大きな音を立てようものなら、また割ってしまったかと不安になる。だから皿洗いをする時はいつも水音を大きく立てるようにしている。少しでもこの苦痛を和らげるためにだ。
そうやって皿洗いをしているとアデルさんがカーテンから出てきて言った。
「アラン、客も少なくなってきたから、それ終わったら休んでいいぞ。」
「はい!」
どうやら昼前からのこの苦痛はもう少しで終わるらしい。水に漬けられた皿の数量を見た。山積みだが次々と追加の皿が来ていた先程よりかはマシだろう。
あの日から一週間が過ぎていた。俺は吸血鬼であることを隠しながらこの店で働いている。まだ皿洗いくらいしかさせてもらっていないが、いつかは給仕や調理もやってみたいと思っている。
それとこの店の店員の一人でもあるリゲルさんとも、この一週間で何度か会った。リゲルさんはたまにしか顔を出さないが、いない間は他の何かをしているようだ。おそらくアルノーさんが言っていた人の世界の情報収集だろう。
皿洗いが一段落終わる頃、裏口から厨房へアルノーさんがやって来た。
「アラン、ちゃんと働いてるか?」
「ちゃんとやってるよ。アルノーさん。」
「ならいいんだ。……そうだな、アラン。それが終わったら一緒に出かけようか。」
「出かける? どこに?」
「薬師のヴェイン先生の所と、あと市に買い物だね。」
「ヴェイン先生って誰?」
「僕達に良くしてくれる人だよ。アランもお世話になるんだから挨拶をしなくちゃね。」
「分かった。すぐに終わらせるよ。」
アルノーさんはまた裏口の方へ戻っていった。俺は皿洗いを手早く終わらせ、急いでそちらへ向かった。途中で着けていたエプロンを脱ぎ捨てる。裏口から外へ出るとアルノーさんが馬車と共に待っていた。アルノーさんは走っていた俺に気づくと手に持っていた外套を投げ渡した。
「おっと。」
その外套に両手で受け止めるとすぐに羽織りフードをかぶった。アルノーさんも同じ物を既に羽織っている。屋根で遮られているが、今太陽は真上にあった。
「早く乗りな。」
言いながらアルノーさんは馬のすぐ後ろの席に座った。馬車は茶色の馬が二頭並んでいるもので、その後ろの荷台も多くの荷物を運べそうな広さだった。
荷台の席は高い所にあり、そこに座ろうとするなら、跳び乗らなければならなかった。俺は椅子の背もたれに手を掛け、そこを支えにして一気に跳んだ。アルノーさんの横に座ると、まるでいきなり背がうんと高くなった気がした。外を行く人が子供になってしまったようだった。
「じゃあ行こうか。」
アルノーさんは手綱を握り馬を歩かせ始めた。屋根で作られた影から馬車が出て行く。フードを深くかぶり直して後ろを振り返ってみた。店の後姿が小さくなっていく。馬車は徐々に速度を上げ、小走り程度になるとその速度を保ったまま街道を走った。何も積んでいない荷台が、軽く弾ませる様な音を奏で始めた。
やがてそれは高いものや低いもの、人の声も混ざる大合唱へと変わっていった。馬車はいつの間にか聖道へと入っていた。
「アランは昼の聖道に入った事は無かったね。」
「うん。というより、外に出るのも久しぶりかも。」
あの日見た聖道は、こんな広さの道なんて必要なのだろうかと少し疑ってしまっていたが、今目の前にある光景はそんな考えを吹き飛ばしてしまう程だった。片道だけで五台の馬車を並べて走る事が出来る聖道は、馬車で所狭しと埋め尽くされており、左端に居るこの場所からでは右端の向こうにあるはずの景色は馬車によって隠されてしまっていた。
「ほら見てみな。真ん中にいる馬車程スピードを出しているだろう?」
「確かに……何でなんだ?」
「これは聖道の決まりごとでね。急いでいる人程真ん中で走る決まりなのさ。」
そう言いながらアルノーさんは馬車を右に寄せていった。小走りだった馬が段々と駆け足になっていく。とうとう聖道の真ん中に来た馬車は左端にいるもの達を置き去りにして疾走していた。
吹き付ける風が体をすり抜けていく感覚は心地よかった。不意に風がフードを持ち上げようとした。咄嗟に先端を指で抑える。間違えて日に当たってしまったら大変だ。
「どうだい? 風に当たるのは気持ち良いだろう。」
アルノーさんの声が風に紛れて聞こえる。アルノーさん自身もこの涼しい風を受ける事を楽しんでいるようだ。しかし、その風を切る感触を楽しめたのは少しの間だけだった。馬車はどんどん左に寄って行き、比例してその速度を落としていった。そして遂に聖道に繋がっていた横道に入ってしまう。道は急に狭くなり両脇には建物が立ち並ぶようになり、馬車の数も減って喧騒が一気に遠ざかった。
「ヴェイン先生の所へはここから橋を渡って行くんだよ。」
馬車は裏通りの様な所から馬車がすれ違えるくらいの道に出た。そこを右に曲がって少しすると道は上を向き始めた。どうやら橋を登り始めているようだ。次第にあの日見たような光景が目一杯に映し出された。しかしあの時と違いこの街は生命の気配で満ちていた。どこを見ても、目に見える大地の全てに人の気配があるのだ。改めてこの街は途方も無く広いのだと実感させられた。
アルノーさんが紹介したいと言うヴェイン先生の所へは、橋を降りるとすぐについた。アルノーさんは裏通りの建物の一つの前に馬車を止め、その三階建ての家の扉をノックした。
くぐもった返事が聞こえたと思うと、扉から一人の男が出てきた。その男は誰もが医師を想像すると浮かぶであろう白衣とその年齢を示すかの様な白髪の男だったが、不健康そうな青白い肌と目の下に大きなクマがあり、どちらかと言えば科学者の様な印象を与える男だった。
「おや、アルノー君。いらっしゃい。……ああ、そっちがアラン君かい? 連れて来てくれたのか。丁度良い、入りなさい。」
ヴェイン先生らしきその男は手招きしながら奥へ入って行った。中へ入ると男が階段を登って行くのが見えた。それに続いてアルノーさんと共に階段を登って行く。
ふと一階の奥から話し声が聞こえた。気になって聞き耳を立ててみると、それは二人の女性の声だった。聞こえる内容から察するに一人の女性がもう一人の方の女性から風邪薬を買い求めているようだ。おそらく俺達が入った扉は裏口で、逆の表側にも出入り口があり、そちらから見るとここは薬局なのだろう。
好奇心を満たしたところで、アルノーさんから呼び掛けられた。アルノーさんはもう階段を登り切っていた。
招かれた部屋に入った時一番初めに感じたのは、薬草特有の吐き出しそうなあの臭いだった。残り香程度のものだったが、部屋の棚に入っている薬草の様な物や、周りにある見たこともない器具等から調薬室の様な部屋だろうと想像がついた。あまりの臭いに知らない間に鼻を摘んでいた。
「ん……? ああ、臭いに慣れていないんだね。」
男は部屋の奥の窓を開けた。街の喧騒と共に新鮮な空気が入り混んで来る。先程の臭いはどこかに流されたようで、俺は摘んでいた鼻を離した。アルノーさんが笑いながら俺の事を男に紹介した。
「分かっていると思うけれど、この子がアラン。挨拶がまだだったからね。今日会わせに来たよ。」
「やっぱり君が。どうも、私はヴェイン。ここで薬師をしている者だ。アルノー君達は長い事診てきていてね。君も何か具合が悪かったりしたら相談しに来るといい。」
「アランです。よろしくお願いします……」
「ああ、ようこそ。そんなに緊張しなくても良いよ。君はまだ街に降りてばかりで色々と慣れていないだろうけど、私は君が生きてるよりずっと長い間、吸血鬼や人喰いと過ごしてきたんだ。心配は要らないよ。」
ヴェイン先生は安心させる様に笑った。
「長い間って、どれくらいですか?」
「ん? そうだね……ベルナンドがまだ老人でなかった、今のアルノー君くらいの時から、私は君達を診ているね。」
「ベルン爺が、アルノーさんくらい?」
正直、あまり想像出来なかった。記憶の中のベルン爺はいつも老人で姿が変わっておらず、若いときのベルン爺なんていたのだろうかと疑ってしまう程だった。
そんなに長い間診てきたということは、この人もかなりの歳なんじゃないだろうか? 不健康そうで老けてそうに見えていたが、実は年齢より若く見えていたりするのだろうか?
「あの……ヴェイン先生は何で俺達を診たりするんですか?」
「……」
俺の口が突然、言おうとも思っていない事を言葉にした。何で俺はこんな事を突然言ったのか分からなかったが、口からこの言葉が出た途端、それはこの街に来てから心に引っかかっていたものと一緒になって、疑問に変わった。
何故この目の前にいるヴェイン先生やハンナ、オズワルドさん達は人間であるにも関わらず、人間の血肉を欲しがる俺達と一緒にいるのだろうか。
不思議に思っていた。母さんが言っていたことやアルノーさんがいつも言っていることを。自分の目からはどうしても不可能に見えてしまう、俺達と人間が一緒に生きるということを。
しかしこの長く俺達と過ごしたと言うこの人ならば、何故こんなことをするのか、何故一緒に生きようとするのか、もしかしたらこの心の中の疑問を解いてくれるかもしれない。そう思った。
「……そうだねぇ、簡単に言えば、君達を恐れていないから、かな。」
「恐れていない…ですか。」
「ああ、そうだよ。君達の中には外にいるような人間を目の敵にする奴らもいれば、アルノー君達のように人間と分かり合おうとする者達もいる。それを私は知っているんだ。」
「……」
ヴェイン先生の答えは単純明快なものだった。それは驚く程想像出来るもので、俺は本当にこの人はこの理由で納得しているのだろうと理解出来た。しかし、自身の心に引っかかったものは、残ったままだった。
「君は……人間が嫌いかい?」
今度はヴェイン先生の口から質問が投げ掛けられた。それはあの日からずっと仕舞い込んでいた自分への問であり、いつの間にか答えを出すことを諦めて久しいものだった。
俺は人間が嫌いなのだろうか。いや、きっと嫌いなのだ。ヴェイン先生は俺達という生き物が嫌いじゃないから歩み寄る事が出来て、俺は人間というものが嫌いだから、こうやって悩んでいる。
あの日、何の罪も犯していない家族をいきなり奪われ、それから俺は人間に対するどうしようも無い憤りを抱えていた。しかし一人になった俺の傍にずっといてくれたアルノーさんやギルさん、ベルン爺は必ず『人間を憎んではいけない。』と言うのだ。
更にこの街に来てハンナやオズワルドと出会った。彼等は怖がらないどころか、人間に嫌われている筈の吸血鬼と人喰いに積極的に近づき、寧ろ信頼している様にも感じた。
今の俺にはどちらが本当なのか、どちらの感情を信じれば良いのかが分からなくなってしまっていた。
「あの日、母さんや父さんが殺されて……でも、アルノーさん達は憎んじゃ駄目だって――」
「あれは……不幸な事件だった。」
ヴェイン先生は思い出す様に言う。しかしそれは俺にとって、初めて聞いた情報だった。
「不幸? 不幸って何ですか? 俺の母さんや父さんは運が悪かったから殺されたって言うんですか!」
「アラン!」
アルノーさんが俺の腕を掴んだ。いつの間にか俺は立ち上がって、体を前のめりにしていた。その事に気がつき力無く椅子に座り直した。
「すまない。ただ不幸と言うのは少し配慮が欠けていたね。ただ君には知っておいて欲しいと思ったんだ。……アルノー君、良いかな?」
「構いませんよ。今日で無くとも、話そうとしていたことです。……どちらにせよ、この街にいたらいつかは知ることですし。」
「ありがとう。……アラン君。君の両親は今のアルノー君達と同じように、人間と共存しようと奮闘していた。人間を襲う事なんて絶対にしない人達だったし、騎士や憲兵に気付かれないようにこの街で生活していた。……アラン君。君はレグル派と呼ばれる人々の事は知っているかい?」
ヴェイン先生はゆっくりと、しかし今迄アルノーさんやベルン爺が教えてくれなかった事を確実に話そうとしていた。俺はそのヴェイン先生の言葉を一文字も聞き逃すまいと耳を傾ける。
「あまり知っていません。ただ俺達に味方をする人達というくらいしか……」
「大方それで合っているよ。私達は罪の無い吸血鬼や人喰いを守ろうとする者達だ。もちろん君の両親もその対象だった。しかしある時、街の中心で吸血鬼の二人組に何人もの人が襲われる事件が起こったんだ。その被害者達は揃って、街で暮らしていた君の両親の特徴を言ったんだ。」
「……俺の両親がしたって言うんですか。」
「分からない。彼等をその時別の場所で見たものはその日いなかった。それにいたとしても彼等が吸血鬼という事はばれてしまっていただろう。私達は彼等を守りたかったが被害者の証言を覆す証拠を見つけられず、秘密裏に逃そうとするくらいしか出来なかった。しかしそれも失敗してしまった。」
「……それじゃあ、誰かが俺の両親に成りすまして罪を被せたってことですか?」
「それは分からない。吸血鬼の中にも色んな者達がいるからね。だけどそうだったとしても確たる証拠は無かった。……どうにかして助けたかったんだけどね。色んなことをやったが助けられるどころか、今日この日まで事実すら分からないままさ。」
「……」
「本当にすまない。私達の力不足だ。」
ヴェイン先生は机に引っ付く程頭を下げた。
「……別にいいですよ。もう十五年前なんですから。どうしようもなかった事だったというのは分かっています。……でもそれじゃあ妹は、エミィはどうなったんですか。ヴェイン先生なら知っているんじゃないんですか?俺、見たんです。エミィを! 今エミィは何処に居るんですか?」
俺はまた質問をヴェイン先生にした。アルノーさんが中々教えてくれないことでも、この人なら、と思った。
「彼女は今憲兵団の所にいる。でもね会いに行こうとしちゃいけないよ。」
「……何でですか?」
「彼女は今、ようやく王様からこの街で生きる事を許されたんだ。刺激しちゃいけない。」
「生きる事を許されたってどういう事ですか?」
「そのままの意味さ。あの時から保護されていた彼女は、最近ようやくこの国の民だと認定されたのさ。……詳しく話すと長くなるが、……つまり彼女は安全だよ。」
ヴェイン先生は誤魔化すように言った。それはアルノーさんやベルン爺に聞いたときと同じ様な反応で、この人もか。と俺は思った。もう俺は掴んだ命綱がどこにも繋がっていなかったようなこの感情を、どうすれば良いのか分からなくなっていた。
俺は頭を俯かせ顔が見えない様にした。何となく顔を合わせるのが嫌だった。色々な事を一気に話されて頭がどうにかなりそうだった。
「……今日はもう帰ることにするよ。ありがとう、ヴェイン先生。」
アルノーさんが椅子から立ち上がった。それを真似する様に俺も立ち上がった。俺はその場から早く離れたくて堪らなかった。早くこの感情を誰も居ない場所で爆発させたかった。アルノーさんに続いて早足で部屋を出ようとする。そこでほんの少しだけ残った理性で扉の前で立ち止まり、頭だけ振り返って言った。
「ごめんなさい。……ありがとうございました。」
「いや、こちらこそ済まなかった。今度はもっと多く話せることを願っているよ。」
俺とアルノーさんはヴェイン先生の家から出た。太陽は変わらずに頭の上にあった。車輪が地面を転がる音が、建物を挟んで向こうの方から幾つも重なって聞こえてきた。
アルノーさんが買い物を終わるまで俺は頭の中でこの感情を整理しようと躍起になっていた。いつの間にか後ろの荷台は荷物で一杯になっていた。主に食材が積み込まれており、その重みで馬車が出す音は低くなり、積まれた荷物から葉っぱが擦れる音やガラス同士がぶつかる音等の新たな音が生まれ、後ろから流れる音は賑やかなものになっていた。しかしその音楽でさえも、この心に溜まったものは洗い流せそうになかった。
「ねぇ、アルノーさん。」
「何だい?」
「ヴェイン先生が言っていた事って本当?」
「ああ、そうだよ。」
アルノーさんの視線は前を向いたままだった。
「何で今まで教えてくれなかったの?」
「もし教えたらアランはすぐそこに行ってしまいそうだったから。」
「母さんや父さんのことも……教えてくれたって良かったんじゃないの?」
「あの時のアランは妹を助けに行くんだって聞かなかったからね。それだけでも大変だったのに、何処まで言って良いのか分からなかったんだ。あの時の僕等にはアランを止める術が無かったからね。」
やはりアルノーさんはあの日のことを俺に話すよりずっと知っているようだ。
「飛び出したりなんてしないよ。」
「いや、したよ。今だって会いに行きたいって思ってるだろう?」
「そりゃエミィには会いたいけど……ねぇアルノーさん。エミィが安全って本当?」
「ああ、本当だよ。…アラン、何でレグル派の人達がいるのに俺達が隠れて暮らしているか分かる?」
「……分からない。」
「認められて無いからだよ。安全だってね。だから隠れて支えてもらっているのさ。それに比べてエミィは凄いよ。これまで国王から認められていたのはレグル派の、そのレグル本人が生きている時に認められた人喰いの子孫だけだったんだよ。それなのにエミィは認められたんだ。エミィは頑張っているんだよ。」
「そっか……」
満杯まで詰め込まれた荷台を引きながら馬が聖道を駆ける。その足取りは先程よりも軽やかでは無かったが、荷物の重さに押し潰される事無く、その足を使って一定の速度を保っていた。速度も少し遅くなっていたがその分、風は優しく頬を撫でていってくれていた。
聖道は変わらずに馬車で一杯だった。俺達の馬車は両脇を馬車に挟まれながら馬を走らせていた。その中で最初に異変に気付いたのは俺だった。最初は声だった。馬の嘶きや人の驚いた微かな声が右の方で聞こえてきた。
咄嗟に声が聞こえる方を向いて見ると、馬車の荷台の縁や馬の背中を、飛石を渡る様にして聖道を横断している人影が見えた。その身体能力は凄まじいもので、あっという間に半分を渡り切り、その方向はこの馬車の方に向いているようだった。
「アルノーさん!」
「分かってるよ。」
アルノーさんは俺を抑える様に言う。その間にも人影はこちらに近づいて来る。そしてとうとう目の前で走っている俺達の馬の上に着地した。その身のこなしはまるで重さを捨て去った様に軽く、人が一人飛び乗ったというのに馬はバランスを崩す事なく走り続けていた。
その男は俺達と同じ様に外套を羽織り頭巾を深くかぶっている。やがてその男はこちらを向いた。やはりと言うべきか、その眼は鮮血の様にどこまでも赤く染まっていた。
「やぁ、アルノー。久しぶりだね。まだ人間ごっこをしてたのかい?」
後ろ向きで馬の上に座った男はアルノーさんにそう語りかけた。その気安さからもしかしたらアルノーさんの知り合いか何かだろうかと一瞬思ったが、アルノーさんを横目で見るとどうやら知ってはいるが友好的な存在ではないらしい。アルノーさんの顔は警戒と怒りで満ちていた。
「何の用だ。コード。」
「何の用もないさ。友達の所に行く途中で見かけたから、挨拶しようと思っただけだよ。まぁついでに前の王様のもいるようだから、そいつの顔見たさってのもあるけどね。」
アルノーさんからコードと呼ばれた男が俺の方を見ながらそう言った。一体何の事を言っているのかさっぱりだった。前の王様って誰の事なんだ?
「用が無いならさっさとどこかに行ってくれ。それとも直接馬車から叩き落とされたいか。」
「物騒だねぇ。折角挨拶しに来たってのにさ。やっぱり血を飲んで無いから鬱憤が溜まってるんじゃねえの? わざわざここに留まらず外に来れば、いくらでも、コソコソせずに浴びる程飲めるっていうのにさ。」
「黙れ。僕達はお前達とは違うんだ。さっさと退け。本当に叩き落とされたいか。」
「はは、それならいいよ。昼間から鬼ごっこなんてやってられないからね。……またね。」
男はそう言い残すと馬から跳んで別の馬車に乗り移った。そして来た方と逆の歩道に辿り着くと今度は深く腰を下げ、まるで蝗の様な大跳躍をして、建物の屋根に飛び乗った。本当に立ち寄っただけ、という風だった。男はそのまま奥へ消え去り見えなくなった。その間、アルノーさんは警戒の表情を緩める事は無かった。
馬は何も無かったかの様に走り続けていた。まるで白昼夢でも見ていたようだった。ただ夢では無い証拠にあの男が残して行った謎は、自分の頭にあるままだった。それは消え去ることの無い疑問だった。
俺はこの一日で、とことん気付かされたのだった。俺は、この世界はおろか自分のことや周りのことさえ、全く、何も知らないという事を。