1-16.胸に掲げた誓い
まるで先が見えない霧の中、恐らくその光景を作り出しただろう影がゆっくりと歩いている。その体に纏わりつく煙は殺された怨念を感じる粘り気でその影の視界を遮るが、影は何の問題も見当たらないと言うが如く悠々とその煙を切り裂いてゆく。
そしてまた、新たな気配を感じたその影は、己の感覚に任せて霧を真っ直ぐに突き進んだ。霧が段々と薄くなり、太陽の光がまた影に当たったとき、ようやくその姿は、冷や汗を流す様な光景を見ていた者達にはっきりと確認された。
あくまで、その影は一人だった。まるで霧の様な現象――天候を見間違える程の――をつくった存在が、ただの一人なのかと疑問を覚えるが、少なくとも、ベルナンド達の前にその一人以外が姿を見せることはなかった。
しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。ベルナンドは次に男の風貌に驚愕した。
百歩譲って、あの霧の中から出て来た男が軍服を着ていて、太陽の元で光を享受出来ている――人間だということ――のには、その手にある銀色の長剣を見てなんとか納得することにしよう。しかし、その風貌はベルナンドが到底納得出来るものではなかった。
彼は若過ぎた。それこそベルナンドの常識から鑑みれば、まだ子供と言っていい様な顔立ちで、もしかしたら、今ベルナンドの横にいる十二歳であるリゲルと五つも離れているかどうかといった具合だった。
そしてベルナンドが最も衝撃を受けたのは、その青年と少年の間の様な男から放たれる、容姿に見合わない程の気迫だった。それは、ベルナンドの人生で目の当たりにした圧の中で最高に値するもので、ベルナンドはこれに似た巨大さを持つ人物など、王の血を引く主以外に会ったことはなかった。
それはベルナンドが正面から相対したしたとき、絶対に勝てない。と思わせる気迫だ。どう足掻いても、まるでその者に自分が勝つことは、地面を蹴って空を飛び続けるのと同義であるかの様に、絶対に負ける事が確定している。それを実際に試さずとも実感させられるものなのだ。
「……また、吸血鬼が逃げて来たのかと思ったら……人間か……」
不意に、その男が口を開く。その目は手綱を握るマルハナを見定める様に鋭く光り、その眼光に刺し貫かれたマルハナは息を殺して、開かない口の代わりになんとか男に視線で敵意は無いことを示そうとした。
「一つ質問がある。……お前達は、どっちの国の人間だ?」
「……」
ベルナンドはマルハナの肩に手を置いた。
「……」
マルハナは頷き、そしてベルナンドは馬車の影の中から飛び降りた。
「ベルナンドさんっ……!」
「……大丈夫だ。」
その声に後ろ髪を引かれながらも、ベルナンドは一歩踏み出し男の前に立った。
「どうやら、こっち側ではなさそうだな。」
「……」
男は剣の切っ先をベルナンドへと向けた。太陽の光を刃が反射しベルナンドを射貫く。
時は正午。左腕は殆ど使えない。勝てる見込みは一つも無かった。しかし逃げることは出来ないと、ベルナンドは悟っていた。後ろを向けば男は必ず、自らの首を刈り取ってくると、ベルナンドは男から感じる気配で分かった。
「……行けっ!」
馬の嘶きと共に、蹄の音が去って行く。男は追わないでくれるようだった。しかし、その代わりにベルナンドが逃げ切ることは叶わないだろう。これからベルナンドが出来ることは、ここでたった一つになった。
「……もしかしてお前は……吸血鬼か?」
幸運にも、男は会話をしてくれるようだ。ベルナンドは若干の驚きを隠しつつ、返答を考えた。
「……吸血鬼は、珍しいか?」
「……いいや、毎日見る。……だが人間の為に囮になる吸血鬼っていうのは、初めて見たな。……それとも、逃げ切れるって思っているのか?」
「……まさか、私は、私の弱さを理解している。……そして私は、人間だから囮になったんじゃない。……守るべき人達が偶々、人間と、そして吸血鬼だったって話だ。」
それはベルナンドが再び胸に掲げた誓いだ。
「……だから……逃して欲しいって言ってるのか?」
「いいや、私はこの考え方が、人間と吸血鬼、どちらの敵にもなるってことは、嫌になるほど分かってる。……それでも私は、私達は、共に暮らせる時を待っている。信じている事は変わらない。」
「……」
「だから私は、もしかしたら殺す必要の無い君を殺してしまうのかも知れない。呆気なく殺されてしまうのかも知れない。……それで良いと思ってる。……だから人は、殺し合うんだと分かってる。」
「……」
ベルナンドの言葉に疑問を持ったのか、怒りを覚えたのかは定かではなかったが、少なくとも男はその言葉を認識をしたようだった。
男は剣を構える。ベルナンドはもう時間稼ぎ出来ないことを知った。
「……ッ!」
男が駆ける。ベルナンドは腰に隠した聖銀のナイフを取り出し、男の攻撃にその刃を合わせた。
「ぐっ……!」
なんとか衝撃を受け止め切り、ベルナンドはニ歩下がる。それだけでベルナンドは、自分の勘が正しかったことを知った。
今の一瞬の攻防でさえ、このナイフが聖銀製でなかったら、ベルナンドは真っ二つになっていただろう。
男もそのナイフが聖銀であることを理解したようだ。冷や汗をかくベルナンドに、命ごと止めてやると言わんばかりの突きを繰り出す。
ベルナンドはその冷たい絶望を文字通り死ぬ気で避けた。そして回避の勢いでベルナンドは木陰に入って行く。視界の邪魔だったフードを外す為だ。
しかし、無料で相手が有利になる行動をさせる敵はここにはいなかった。男は片腕を使い難くなったベルナンドのその僅かな隙を狙い、必殺の攻撃を放つ。
ベルナンドは防御する為に構えるが、一瞬だけ遅かった。剣はナイフに当たるが、勢いを殺し切れずに吹き飛ばされる。
「チィッ……!」
ベルナンドは指の骨が折れた感触を覚えた。直接聖銀の剣に砕かれたのではない。その勢いを伝えられたナイフの鍔に折られたのだ。しかし、幸運なことに元々使い物にならなかった左腕だ。ベルナンドはこの瞬間こそが好機であると直感した。
「……!」
ベルナンドは太陽から身を守る外套を、男に投げつけた。ベルナンドと男の間に仕切りが生まれ、二人はお互いに相手を認識出来なくなった。
その瞬間、ベルナンドは自らの脚に万力の力を込め、男に攻撃を仕掛けようとする。
しかし、ベルナンドは自分の足が踏み出す直前に、自身の直感を信じて飛び上がった。ベルナンドの視界に、直前までいた足元を銀の軌跡が、通ったのが見えた。
男は自分に降り掛かる外套を払い落とし、頭上のベルナンドを見上げた。このままベルナンドが落ちれば、男に一刀両断されてしまうだろう。ベルナンドは周りを見渡し、咄嗟に木の枝を掴んだ。
「逃がすかっ!」
男は腰に手を回し、ナイフを投擲しようとする。ベルナンドは数時間前に見たその動作から、空中にいる自分に対する攻撃だと理解し、手に掴んだ木の枝を引き寄せ、体を反対方向に移動させる。
しかしそれは男の想定内の行動であったようだ。ナイフは男の手から離れず、一拍置いてからベルナンドの移動が終わったその時にようやく離れる。
「……ッ!」
ベルナンドの脳が右太腿に深く突き刺さる感覚を訴える。更に悪いことに、その投げナイフは聖銀で出来ているらしい。ベルナンドは木から滑り落ちた。
地面に落ちたベルナンドは咄嗟にナイフを引き抜いた。聖銀触れると吸血鬼は激痛に苦しみ、戦うどころではなくなってしまうのだ。
ベルナンドはナイフを引き抜くという隙を突かれるかと思っていたが、男は攻撃してこなかった。その代わりにベルナンドの周囲をぐるりと回っていた。
その意図は簡単に理解出来た。ベルナンドは背中に暖かさを感じていた。男にベルナンドは完全に逃げ場を無くされたのだった。
「……」
「……」
じりじりとお互いの間合いは縮まっていく。ベルナンドは一歩後ろへ下がるが、木漏れ日に左手が焼けて、咄嗟に引っ込めた。
「……」
「……ッ!」
遂に、男は剣を構えベルナンドに突進した。ベルナンドは逃げ道の無いこの状況で、静かに無手で構えた。刃は一瞬の内に迫り、ベルナンドの胸に突き刺さらんとする――
「……!」
その剣は、ベルナンドを貫くことはなかった。ベルナンドは全く無防備な状態で、太陽の元へ飛び出たのだった。
「ぐぅぅッ……!」
すぐさま太陽は仇敵を見つけたかの様な容赦の無さで、ベルナンドを焼き尽くし始めた。ベルナンドが着ている服では光を遮ることは難しかったらしい。全身が熱く、そして崩壊してゆく感覚が彼にはあった。
ベルナンドは筋肉が燃えて動けなくなるまで、五秒程だろう、と頭の中で静かに考えた。髪の毛が先に燃えて、視界が潰れずに済んだのは幸運なことだとも考えた。
そして三秒後には消えているだろう眼球の為に、ベルナンドは目の前に突き出された剣の腹を指でがっちりと掴んだ。手の甲が焼け、指の腹が痛みに苦しんだが、それでもベルナンドは剣を離さなかった。
「……ッ!」
ベルナンドは壊れかけの左腕で、男に渾身の一撃を食らわせようとする。しかし、拳は無念にも男が取り出したもう一本のナイフに突き刺さり、途中で止まる。
「はあッ……あああ!」
最後の悪あがきだというように、ベルナンドは右足を持ち上げ、男に攻撃する。
「なっ……!」
しかし、その足は男が振り下ろした剣の鍔に打ち付けられて、またしても止まってしまった。離したつもりはなかった筈だと、ベルナンドが自らの右手の方を見てみれば、そこには焼けて砕けて、何も残っていなかった。
「ちっ……届かなかったか……」
視界は潰れかけていたが、男が剣を振り上げているだけがベルナンドには見えていた。そこでベルナンドは目を閉じた。それ以外に出来ることはなかった。四肢の先は殆ど燃え尽きてしまっていた。
しかし、そこでベルナンドが考えていたのは、時間は十分稼げただろうか、ということだけだった。
金属を打ち付ける音が、二回聞こえた。ベルナンドは咄嗟に目を開ける。まだベルナンドは斬られてなかった。男も、剣を振り下ろしていなかった。
混乱するベルナンドを余所に、男は何故かその場を飛び退いた。
そして、馬の嘶きがベルナンドのまだ残っていた耳に届いた。
霧の中を馬が駆けていた。いつの間にかベルナンドは馬に乗せられていた。ベルナンドは馬を操る者を、まだ残っていた視界を通して認識した。すぐに誰だか分かった。その後ろ姿は見慣れない者だったが、それでも誰なのかというのは、簡単に理解出来た。
「……何で……お前、が……」
喉が焼けていて、上手く声を出せていなかった。しかし、それでもベルナンドは疑問に答えてもらう為に、その者の名前を呼ぶ。
「……何でだ……オズ……ワルド……?」
霧はまだ晴れず、太陽の光を遮り続けていた。その視界が最悪な状況でも、オズワルドは馬を駆けさせ、追跡を置き去りにしていた。
「……何でだ?」
「……なんてこたぁねぇよ。お前が……俺の行く道でうろうろしてやがっただけだ!」
「……そうか。」
「そうだこの野郎。人の邪魔しちゃいけないって、習わなかったのか?」
「……はは……済まない。」
いつしか霧を抜けていた。その代わりに木々が太陽の光を防ぎ、ベルナンドを守っていた。流石にこの木々の密度だと走らせられないのか、馬は早足で、器用に木の幹を避けて進んでいる。
「……それで? 俺はどっちに進めばいいんだ?」
「ここに……道は無いぞ?」
そんなことよりも聞きたい疑問がベルナンドにはあったが、それを飲み込んでベルナンドはそう返した。
「そういうことじゃねぇ! どの方角かって聞いてるんだよ。あるんだろう? 目的地くらい。」
「連れて行ってくれるなら、アドワベル山脈の、麓まで。」
「……俺の聞き間違いか? 今、アドワベル山脈って聞こえたんだが。」
「いや、聞き間違いじゃない。私達が目的地にしたのは、人間の国の中にある……アドワベル山脈だ。」
「本気か?」
オズワルドは後ろを振り向いて、その言葉が冗談ではないことを確かめる。
「勿論。私達は、そこしか行き先がないのさ。」
「……まぁ、いいや。俺も丁度そこに行く予定だったんだ。……しょうがねぇ、連れて行ってやるよ。」
「……ありがとう、オズワルド。」
馬を九十度回転させ、オズワルドは無言で手綱を引いた。
ベルナンドは自らの焼け落ちた右手と、治るか分からない左腕を見ながら、それでも笑っていた。