1-15.救う者
この砦が落ちるのは、予想よりもずっと早そうだとベルナンドは感じた。門はまだ破られていないようだったが、何やらあちこちで悲鳴が聞こえる。すれ違った者達が話していた内容から察するに、どうやら何人かが砦に侵入し、暴れているようだった。
ベルナンドは混乱の中をすり抜けて、皆が待っている部屋まで早足で向かった。
「……皆、揃っているか?」
「あっ、勿論だよ。ベルナンドさんっ。さぁ、早くっ。」
飛びついて来たリゲルは少し焦っていた。ベルナンドが戻って来るのが遅れていたからだ。
「落ち着け、リゲル。……皆の準備が済んでいるのを確認してからだ。」
「だからっ、もうとっくに準備は……って、ベルナンドさん! その腕の傷……」
リゲルは応急手当したベルナンドの腕の傷に気づいたようだ。ベルナンドの左腕のそれは聖銀につけられた傷の為、吸血鬼の再生能力が働いていなかった。
「気にするな。こんなもの、なんでもない。」
ベルナンドは素早く部屋の中を見渡した。全員の視線が、ベルナンドに集まり、その多くが不安そうな顔を隠せずにいた。
「……大丈夫だ、皆。心配することは何もないさ。……この時の為に、皆は必死に耐えてきた。そうだろう?」
ベルナンドが一つ一つの視線と目を合わせると、彼等は返事の代わりに、深く頷いた。誰もがベルナンドという人を信じていた。
その皆に、ベルナンドも頷いて返した。そしてベルナンドは高らかに宣言をした。
「本当に、皆よく今日まで堪えてくれた。ありがとう。……こんな場所に押し詰められる生活は終わりだ。……私達はこれから、この砦を脱出する!」
その言葉に、人々が賛同し共鳴する。ここにいる人々は、その言葉を長い間待ち焦がれていたのだ。そしてその歓びを邪魔する者はここにはいなかった。何故ならそんな事をするような暇を持た余している者は、もうここには残っていないからだ。
この砦は確かに人間の国との最前線にある砦だった。しかし、そこに駐屯する者達が全て生粋の兵士というわけではなかった。
ここには様々な境遇の者達がいた。農民の次男や三男、町で食っていくことが出来ずに仕方なく従軍した者、更には聖銀を盗み取り一攫千金を狙う者。
しかし、今はその殆どの者達がこの砦から消えていた。感の良い者からこの砦は落ちると気づき、そしてひっそりと脱出を図り、それを見た感の悪い者達も後に続いて逃げていった。
ここに残っているのは、生粋の兵士か本物の馬鹿者だけだった。そしてその者達すらも、今は侵入者の対処に追われている。ベルナンド達の脱出にとって、最高の条件だった。
「……それで、ベルナンド。結局、抜け道を使うのか?」
男が確かめるように聞く。例え逃げるのに最適な条件だったとしても、ベルナンド達は十数人であり、しかも吸血鬼だけでなく人間もそれには含まれている。
「いや……最初の予定では使うつもりだったが……変更だ。地上から出よう。」
「地上……? 大丈夫なのか、ベルナンド。」
「大丈夫だ。予想はしていたが……予想以上だった。ここはもう捨てられている。……ここに戻って来るときに感じたんだ。もう誰も、ここを守ろうとしていない。」
心の中でベルナンドは、きっとハリスは後片付けを任されたのだろう、と付け加えた。
「そ、そうか……ならいいんだ。……よし、早くここを出よう!」
「そうだな。……皆、私に着いて来てくれ。大丈夫だ。本当に、誰もいないから。」
遠くの方で、まだ戦いの音が耳に届いていた。だけれどもベルナンドの周辺は、本当に無音だった。誰もいなかった。昨日まで押し込められる様にしていた筈の吸血鬼達が、ここだけは誰一人として残っていなかった。
通路を急いで走る伝令の姿も、本職の兵士達に隠れて酒を飲みながら賭け事をやる農民上がりも、軽やかに響いていた馬の足音も、本当に何も聞こえなかった。
その為か、最初は緊迫した空気を湛えていた村の皆の心も――特に子供は――小さな声で話し始める程度には弛緩しきってしまっていた。慎重な者が注意を促すが、周りがこんな有様では効果は薄かった。
そして、そんな状態は咎められることもなく、彼等は城門の前まで辿り着いてしまった。
しかし、本当に誰とも接触しないまま砦を出られるという訳ではないようだ。ベルナンドの視界に二人の男が入る。
「……ベルナンド。」
「……皆はここで待っていてくれ。……大丈夫だ。あいつらは恐らく、敵じゃない。」
ベルナンドは堂々と男達の前へと歩を進める。一人は大きな腹を鎧に押し込めていて、城壁を背にして小袋を手で弄んでいた。硬質な音が鳴るそれは、硬貨が山のように入っているのだろう。男はその音を聞いて笑みを浮かべている。
もう一人はかなり大柄な男で、片手に長剣を握っていた。もう片方で硬貨を弾いて遊んでいる。見るからに守銭奴だと分かる二人だった。
男達の隣には荷物を載せた馬もあった。今すぐにでも逃げられる――そんな装いだ。
そして遂に、ニ対の視線ががっちりとベルナンドを捉える。まるで、次の獲物が来たぞ。と言っているようにベルナンドは感じていた。
「これで最後かな? ……ふふっ、お前らも逃げたいんだろ? なら……ほら、渡す物があるだろ? ん?」
「……こうやって、荒稼ぎしてる訳か。」
ベルナンドは腰につけた小袋から、金貨を一枚取り出し、弾いて寄こした。
「ハハハ! 役得だよ。役得。いつ落とされるか分からねぇ場所で……いや今落とされてるのか……まぁいいや。そんな場所で働かされてるんだぜ? このくらい良いことがあっても、罰は当たらねぇだろうよ。」
「おお! いい心がけだな。いいぞいいぞ。ここを通してやる――」
小袋を小さく投げて遊んでいた男は、自分の手に収まった金貨見て機嫌が良くなったようだ。
「――一人だけな。」
しかし、その胸の奥から、欲深い性根が滲み出た。
「あっちにいる奴らも、通して欲しいんだろ? なら……少し足んねぇんじゃねぇか? ん? ん?」
「……チッ」
ベルナンドは腰につけた小袋ごと、その男に投げ渡した。ニヤついた笑みを顔に張り付かせたまま、その男はそれを受け取り、中身を物色する。
「へへっ、分かってるじゃねぇか。賢いなぁ、お前。俺等のことがちゃんと分かってる。」
男はそれを懐に隠す様に仕舞った。
「……まぁ十分だろ。通っていいぜ? そっちの奴らも……と言いたいところなんだが……」
男の強欲さは際限を知らずに、更に加速していく。
「実はな、俺達はお前らをこの砦から出すなって、あいつらから言われてるんだよな……残念だけどよぉ……」
男は下手な演技をしながら、掌を上に向けて指を何度か曲げた。
「……分かった。これは出したくなかったんだが……しょうがないな。」
ベルナンドは二人の男に近づきながら、腰の後ろを探った。そしてそれを右手に掴んで、目の前に持って来る。
「これをくれてやるよ。」
ベルナンドの拳が、長剣を持った男の鳩尾に突き刺さる。
「なっ……!」
「静かに。」
いつの間にかベルナンドは殴った男の首元に聖銀の刃を添えていた。
「げぇっ……! 何でお前がそんな物を……」
「おおお、分かった分かったっ。いいぞっ。好きに通ってくれっ。」
「おい! グラハム! いいのか!?」
「命あっての物種だ。……ほら、そいつを離してやってくれ。なっ?」
「……」
聖銀の刃がゆっくりと男の首元から離れていく。それを見た男は殴られたときに落とした硬貨を急いで拾うと、真っ直ぐに馬に乗って逃げ出していった。
「……ベルナンドさん。良かったの? お金、全部取られちゃったけど……」
いつの間にかベルナンドのところまで近づいていたリゲルは、走る二頭の馬を不満げに見た。
「構わない。どうせ、私達が使うことなんてもうないからな。」
「え?」
「さぁ、今度こそ脱出しよう。もうそろそろ、時間切れだ。」
ベルナンドは後ろを振り返り、そしてそろりそろりと近づいてくる皆を呼び寄せた。
この砦は山地につくられた物で、坂を下ればすぐに森の中に入り込むことが出来た。森に隠れることが出来ればとりあえず、見つかる可能性は減り一安心出来る。
森の中を歩いて暫くして、ベルナンド達が休息をとっていた時だった。
「……ん?」
木陰から、一人の女が姿を見せる。反射的に身構えたベルナンドだったが、すぐに味方だと気づき、警戒を解いた。
「久しぶりだな、マルハナ。……森の中の生活はどうだった?」
ベルナンドにマルハナと呼ばれたその女性は全身が随分と汚れていた。髪も肌も服も土だらけで、体からは野草の臭いがした。まだ若い容姿なだけに残念な格好だった。
「ベルナンド、久しぶり……その腕は?」
「問題無い。」
「……そう……これで全員?」
マルハナはベルナンドの腕の傷が気になったようだったが、ベルナンドの言葉から何か察したようだった。
「……そうだ。全員、揃っている。」
「……分かったわ。こっちに来て?」
ベルナンド達は促されるまま、マルハナに着いていった。
「準備はどのくらい出来たんだ?」
ベルナンドが先を歩く彼女に語りかける。
「馬車はすぐに手に入ったよ。そこら中に捨ててあったしね。それに、運良く馬も見つけられた。逃げていくところを見つけたんだ。多分、こっち側の……吸血鬼の国の馬だね。オルトラムの馬は住処まで帰ろうとするから……」
「それじゃあ、少なくとも私が馬車を引っ張らなくて済む訳だな?」
「そうだね、見つかりさえしなければ、目的地まで行けると思うよ。……こっちだよ。」
彼女は今まで森の中で、ベルナンド達の逃走の為に様々なことをやってきていた。逃げる道筋や手段、そして物資を掻き集めて準備をしていた。
「……ここだよ。」
「……」
辿り着いたのは腐りかけた廃屋だった。しかしその中からは馬の嘶きが聞こえてきた。ベルナンドが廃屋の裏へと回ると、そこには馬が二頭と、幌付きの馬車があった。
「少し荷台の中が狭くなるけど……大丈夫な筈、だよ。」
「いや……殆ど完璧だ。ありがとう、マルハナ。」
「どうってことないよ。それより、いつ出発する?夜にするか?」
「いや、今すぐにでも出発しよう。砦はもう落とされた頃だろう。それに追手も心配だ。ハリスだけだと楽観的には考えられない。早くここから離れた方がいい。」
ベルナンドは自分達が逃げるのを阻む障害が、あまりに少ないことに違和感を覚えていた。悪いことはまだ来ていないだけで、この先で集まって待っているかも知れない。ベルナンドは心情的にも早くここを離れたかった。
「本当に、お前が御者でいいのか?お前だって疲れているだろう、マルハナ。」
「いやいや、それはその怪我を早く治してから言いなよ。……それに、私は人間だから日の光の下でも頭に被り物せずに済む。……だから視野を広く保てる。……それに、御者が人間だって分かったら、少しは油断してくれるかも知れないだろう?」
「休むのも大事だぞ?」
「その言葉をそっくりそのままあんたに返すよ。どうせまた働くことになるんだから、今は休んどきな。」
マルハナは言い終わると視線を前へと戻した。
ベルナンド達は馬車に乗り、山道を出て馬車を進めていた。この方向には逃げ出した吸血鬼達が大勢いる筈で、そこに紛れ込めば逃げ切れるとベルナンドは考えたのだ。
しかし、物事はそう上手くはいかないようだった。
「……何だ? この煙……」
「煙? どうしたマルハナ。山火事か?」
ベルナンドが目の前の光景を覗こうとする。
「……ッ!」
それと同時に、馬が嘶き足を止める。何かがその馬の視線の先で燃えていた。
「これは……」
燃えていたのは死体だった。吸血鬼の死体だ。ベルナンドはその煙の特有の臭いで分かった。それは吸血鬼が太陽の光を浴びて、焼き尽くされようとしているときに出る臭いだった。
そして死体はそれだけではないようだ。ベルナンドの視線の先、そこにはまるで霧の様に濃密な煙が滞留していたのだ。
吸血鬼が焼かれて出る煙は、確かに空気に流され難い。まるでその場に縋り付いている様な、海で烏賊の吐く墨の様にその場に残る物だが、それにしたって、ベルナンドの目の前の現状は異常だった。
霧の様な吸血鬼の煙なんて、ベルナンドは見たことも聞いたことも無かった。しかし彼は確信していた。まだ死体は一つしか見ていなかったが、必ずこの先にこの世の物とは思えない様な光景が広がっている筈だと。
そして、その死体の霧の中に、ベルナンドは一つの影を見る。
彼はまだまともに動かない左腕を、右手で触った。




