1-13.思い出した誓い
「……おや?」
モルアドは馬車から覗いた先にある屋敷に、不思議なものを見た。近づくにつれて鮮明になっていくそれは、彼が最初に想像した人物で、だからこそ彼はそれを不気味に思った。
「……まさか外で出迎えてくれるとは……答えは出たのですかな?」
馬車から降りながら、モルアドは最大限の侮辱と軽蔑の念を込めて、彼女に話し掛けた。
その彼女は玄関の前に傍若無人の様に座っていた。二、三段しかない階段の段差を椅子代わりに、柱を背もたれにしていた。それはまるで人間が日光を浴びてうたた寝をしているように、とても自然で緩やかで、うっかりモルアドさえもその風景に呑まれてしまいそうだった。
「……そういえば、ここに来るまでに村を通ってみたのですが、人の気配というものを感じませんでしたねぇ。一体、皆さんはどこに行ってしまったんでしょうか?」
じろりと舐め回す様で、そして圧力を感じる視線がセイレアを包んだ。
「……答えは出ているわ。」
「ほほう!そうですかそうですか。答えは出ましたか。……それではお聞かせ下さい。……と言っても、村の様子を見る限り、もう答えている様なものですかねぇ?」
モルアドが合図を送ると、彼の脇に構えていた二人が一歩前へ出た。どちらの手にも銀色の剣が刃を光らせていた。
「あら、随分本気で用意して来たのね?……それとも、もうそれは珍しくないくらいに、人間の国から奪っているのかしら?」
「ふふふ、腐っても王の血を貴方は引いておりますからね……これくらいの準備は必須でしょう。」
「私が、素直に諦めるとは考えなかったの?」
「そうだとしても、もしもの為の準備は必要ですから。」
「……嘘つきね。貴方達皆、私が何と答えようと、結局その剣を振るうつもりでしょう。」
「……ふふふ、抵抗せずにいてもらうと、ありがたいのですがね?」
セイレアは背後から感じる気配を読み取った。屋根には二人、裏庭に三人、屋敷には五人、はっきりと分かるだけでその数、そして各々に感じる不穏な違和感。彼女が言った準備とは、この事を言っていたのだ。
「本当に、意味の無いことしか話さない人ね。私が従おうと、抗おうと、結局することは変わらないくせに。」
「分かりませんよ?貴方が従順でいてくれるなら私達は、あの村の人々に情けをくれてやってもいい。」
「……やっぱり嘘ね。貴方の顔を見れば、心の中でずっと高笑いをしているのがよく分かるわ。……でも、貴方達が卑怯と邪悪を全うするなら、それだけ私は……私を全う出来る。」
セイレアの眼が、その怒りを示すかの様に赤く染まり、その奥からいくつもの暴虐の眼が浮かび上がった。
今だけは、セイレアの中にある感情は、夫への心配も、騎士達への信頼も、子供達への愛情も、全て怒りの中へ包まれて見えなくなっていた。
「ふうむ。穏やかには、ならないようですな。」
「貴方達の前で誇りを捨て去るくらいなら、命を捨てた方がマシよ。」
「ふふふっ、やはり貴方は気高く、そして賢い人物だ。……しかし悲しいかな。それだけじゃあ、何も出来ないということを、貴方は今まで分からなかったようだ。」
男はもう一度笑った。それは男の持てる全ての侮辱と軽蔑と、そして愉悦が形を変えて出来た笑いだった。
鬱蒼とした森は太陽からの光を受け止め、しかし僅かに漏れ落ちた光を見て、ベルナンドは今が日の出だと知った。彼は後ろを振り返って、自身に続いて歩いている者達の人数を数えた。
険しい道を歩く人々は老若男女、戦士や農民、吸血鬼や人間が混ざり合い、お互いに助け合って歩いていた。
ベルナンドは数え間違いがないように、最前列から最後尾まで歩いて行って、ちゃんと数が合っている事を確認して安堵する。
「な、なぁ、ベルナンド……」
最後尾にいた大柄の男が眠っている子供を背負い直しながら、不安そうに聞いた。
「……ん?どうしたんだ?」
「あっちの方は大丈夫かな……あっちは子供も多いし……それにセイレア様も心配だしよ……」
「大丈夫だ。あっちにはエドワードもいる。心配する必要はないさ。」
ベルナンド達は今、二手に別れて、村を出て山道を進んでいた。二手に別れたのは理由が二つあって、どちらかが逃げ切れる確率を上げる為と、もう一つあった。
その理由の為にベルナンドは彼等に嘘をついていた。彼等は彼女を敬愛している。それをベルナンドは知っている。だからこそ、彼女が残るのを知れば彼等は自分達も残ると言って聞かなかっただろう。だからベルナンドは嘘をついた。
もう一つのエドワードが率いる集団にも、セイレアはいない。彼女は今も屋敷に一人で残っている。
エドワードもあちら側で同じ嘘をついている筈だった。あちら側の人々は、こちら側にセイレアがいると思っているのだ。
勿論ベルナンドも、彼等に嘘をつくのは気が引けた。しかし、そうしなかったなら、村から逃げるのが遅れて、囚われる確率が高くなってしまっていただろう。それだけは避けなければならなかった。
ベルナンドは今一度固く口を閉ざして、もとの最前列に戻った。
「さぁ、皆。もう少しで休める場所に着く。それまでの辛抱だ。」
ベルナンドは声が響かないように、しかし歩き疲れている者達を奮起させる為に、明るいを声を作った。
それを聞いた村の住人達は、安堵の声を口々に漏らした。彼等は夜の真っ暗闇からずっと歩いていたのだ。
これで皆を一安心させられるだろうと、ベルナンドが気を抜いた瞬間、彼は何か違和感を覚えた。彼は合図をして村の住人達を静かにさせる。
確かに、音が聞こえた。森で響く筈のない、金属が擦れ合う音だ。沈黙が場を支配した。誰も話し声を出そうなどと馬鹿な真似はしなかった。
しかし、それでもその金属音は、無慈悲にもこちらに近づいて来ていた。そしてベルナンドの視界に、全身鎧に見を包む者が現れた。
「……ッ」
「……ベルナンド、だな?お前は。……降伏しろ。そうすればその無辜の民にも、手出しはしないと誓おう。」
ベルナンドはその全身鎧に細心の注意を払いながら、その周囲にも目を配らせていた。一人で姿を現す筈が無い。必ず仲間が近くにいるのは確実だった。
「私達も、無闇に剣を振りたい訳では無い。……降伏することをおすすめするよ。」
「……」
「ふむ、隠れていては、信用出来るものも出来ないか……」
鎧の男は手を上げてどこかに合図を送った。すると物音と共に、ベルナンド達の周りを黒い鎧が取り囲んだ。いつの間にかベルナンド達は完全に包囲されていたようだ。
エドワードの方は無事だろうか、とベルナンドは考えた。あちらはこちらよりも見つかり難い道だ。逃げ切っていると信じたかった。
「さぁ、どうする?」
目の前にいた鎧の男の言葉に、ベルナンドは意識を現実に戻した。そして、自分は村の皆を守り切れるだろうかと、冷や汗をかいた。
もしベルナンドが一人だったなら、僅かな可能性ながらも逃げ切れたかも知れなかった。しかし、ベルナンドは一人ではなかった。一人で逃げたところで、それはベルナンドにとっては何の意味も無いことだ。
彼がセイレアと約束した事は、守るということだった。決して逃げることではなかった。だからベルナンドは逃げるという選択肢は取れなかった。
「……」
ベルナンドは腰に隠したナイフの感触を感じながら必死に考えた。どうやったらこの窮地を脱することが出来るだろう。ベルナンドは頭を最大限に回転させた。
しかし頭を働かせれば働かせるほど、守る為の道筋は頭の中で途切れていった。耳を凝らして情報を集める度、鎧の音が響き、退路を絶たれているのを理解した。
「……」
「……無言は、肯定と受け取るぞ。」
全身鎧の男が一歩前へ出た。ベルナンドは決断しなければならなかった。しかし、悲しいことにベルナンドは理解していた。どんな決断を自身が取ろうとも、最善はありえない。最悪を避ける為には、屈辱に下らなければならない。
現実は既に、ベルナンドをその大口に放り入れ、噛み砕こうとしていた。彼は砕かれてしまうその前に、その大口の奥に滑り込んで行かなければならなかった。
「……それで、お前は仕方なく、ここで人間を殺し続けてるって訳かい?」
「……私は、自分を慰める為に語ったんじゃない。オズワルド、お前には話しておかなければならないような気がしてな。」
「……はんっ、何だそりゃあ……言っておくが、俺はお前がどんなに苦労したって分かっても、同情したりはしねぇ。……お前はやっぱり吸血鬼だ。」
「……そうだな。私は吸血鬼で、お前は人間だ。……中々分かり合えるものじゃない。だが、感謝は伝えられる。お前は私に大事なことを思い出させてくれた。」
「……」
「私は――」
「やっぱり、な。」
ベルナンドの言葉は、黒い雰囲気を持つ言葉に塗り潰された。
「……お前は……」
「ふふっ、やっぱりな。やっぱりお前は、そうするだろうと思ったよ。ベルナンド。」
その男は、口角を吊り上げて笑った。まるで罠に獲物が掛かった様な喜びが、その男の身を包んでいた。
「……ハリス。お前、今日は仲間と、くすねた酒で賭け事をするんじゃなかったのか?」
「ああん?嘘に決まってるだろ?お前をカゴ罠に入れる為だよ。まったく、お前が無駄に長生きするからよ。俺がこんなことをしなくちゃいけなくなったんだぞ?」
ハリスは頭を掻きながら面倒くさそうな顔をした。
「まぁいいや。それも今日で終わりだ。……さて、どうするよベルナンド?持ち場を離れてしゃべくりまくりやがって、この責任はどうするつもりだぁ?」
「……ッ」
ベルナンドは顔を歪めた。言い逃れ出来ない事態になってしまった。
それを見たオズワルドは、この予想出来た状況に、ベルナンドに小声で苦言を呈する。
「……だから俺は言ったんだ。ベルナンド。……お前はこんなところにいるべきじゃなかった。」
「うるせぇぞ!人間!お前が捕虜として何の役にも立たねぇから餌の役割を与えてやったってのに、餌のふりして黙ってることすら出来ないのかテメェは!」
「ハッ、餌のふりしろなんて、初めて聞いたな。本当に酒で酔ってるんじゃねぇのか、お前。」
軽口を叩いたオズワルドに、ハリスの激昂の視線が送られる。ハリスの雰囲気から、小馬鹿にするような余裕を持った感情が消え去っていた。
「……はぁぁぁぁ……どいつもこいつも、立場が分かってねぇみたいだな?」
ハリスは言いながら両手で頭を掻き毟っていた。それと同時に歯を打ち鳴らす音も聞こえて、二人はこの男が、酒よりも酔ってしまう物を飲んでいるんじゃないかと疑った。
そのハリスの乱暴な動作は、言葉が言い終わると同時に、ぴたりと止まった。そしてハリスは暗い眼球で、目の前の二人を見据える。
「……ベルナンド、お前にチャンスをやるよ。その牢屋に入れ。」
ベルナンドに一つの鍵が投げ渡される。少し錆びついた鍵だ。
「ほら、早く入れ。俺はチャンスをやるって言ってるんだ、ベルナンド。お前の受ける罰を帳消しにしてやってもいいって事だよ。」
「……どういうつもりだ?」
「喋るな!ベルナンド!まさかお前も、自分の立場が全く分かってない、なんて言わないよな?」
静かに据わった目がベルナンドを睨む。どうやらハリスは相当頭にきているようだ。ベルナンドは警戒しながらも、牢屋の鍵穴に投げ渡された鍵を差し込んだ。
「……」
鍵が開く金属の小気味よい音が響いて、ベルナンドはそっと扉を押した。
キィ、という産毛を逆立てる様な蝶番の擦れる響きは、ベルナンドの不安をより一層強いものにして、もう一度ハリスの方を彼は見る。
「ほら、早く入れ。」
投げやりな態度でハリスは言う。ベルナンドは鉄格子を抜けて、牢の中へ入った。
オズワルドは片足を立ててベルナンドの方を向いていた。
「よし。じゃあ次は、鍵を掛けろ。内側からだ。」
「一体、お前は何をやろうとしているんだ?」
「喋るな、ベルナンド!一言も話すな!……お前は、大切なものを、自分の過ちから救ってやりたいだろう?……だったらやるんだ。理由なんて聞くな。」
「……」
静かに、ゆっくりと、ベルナンドは牢の鍵を掛けた。またこの男の癇癪が起きない様に慎重にだ。
「その鍵を渡せ。」
ハリスは手を差し出す。ベルナンドはその手に向かって鍵を放物線を描くようにして投げた。
「それでいい。それで。……じゃあそのご褒美に、お前にはこいつをやるよ。」
そう言ってハリスは、鍵の代わりに取り出したナイフを、鉄格子の隙間を縫ってベルナンドへ投げつけた。
「っこれは……」
ベルナンドの手に収まったのは鋭利に研がれた大ぶりのナイフだった。一振りすれば肉など簡単に裂けてしまえそうな、そんな殺意を感じる刃だった。
次にベルナンドの鼓膜に突き刺さったのは、手に持つナイフより殺気と冷たさのある言葉だった。
「ベルナンド。そいつで、そこの人間を殺せ。」
「……ッ!」
「どうした?何をそんなに驚くんだ?簡単だろ?」
「……」
「いつもやってることじゃねぇか。……それとも、簡単過ぎて驚いたのか?……なぁ!ベルナンド!」
「お前は……!」
檻の外にいる者は笑い、中にいる者は怒りで拳を震わせる。
「何だ?やりたくないか?それならそれでもいいんだぜ?その代わりに、怠惰なお前と、お前の仲間が数人、その人間の代わりに処刑されるだけだ。……俺は人間を殺す方をオススメするぜ?そっちの方が断然賢い。」
「……ッ」
「……なぁ、何を悩む必要がある?もうお前は人間を何人も殺しちまってるんだぜ?もうお前の手は、汚したくないって思うほど綺麗じゃねぇ。」
ハリスは言葉の刃で少しずつベルナンドの心を削いでいき、彼が取れる選択肢が一つになるまで枝打ちをしていく。
ベルナンドは自らが持つ刃を目に入れた。それはとても鋭く輝いていて、命を刺し殺すには的確な凶器だった。
「……」
ベルナンドの視線が、オズワルドの方へと向いた。力強く握り締められていたナイフはだらりと垂れ下がり、緊張に震えていた空気が途端に静かになった。
「……」
「オズワルド……お前は私に、甘過ぎる、と言ったよな。……私も、自分自身のことをそう思う。……遠くの理想ばっかりを見て、足元の石ころに転ぶなんて、馬鹿らしい。」
「……ああ、馬鹿らしいな。全部抱え切れないくせに、全部を助けるなんて言うのは傲慢だぜ。……だから、ほら、一息にやっちまえよ。覚悟はとっくに出来てる。」
オズワルドは軽く鼻を鳴らした。壁に頭をつけて上を見上げ、体には一切の力も入っていない。
「そうだ。私は間違っていたんだ。……皆を守る為、という言い訳で、本当に守っていたのは自分の心だったんだ。……そろそろ、現実を見なくちゃいけない。」
ベルナンドは手に持つナイフの重さを感じ取った。そして彼はそれを、頭上まで引き上げた。
「私は忘れていたんだ。……だから、それを思い出させてくれたお前には、感謝している。」
「……そうかい。」
「……ありがとう。」
ベルナンドは自らの肩と腕の筋肉を躍動させ、ナイフを指先から手放した。
刃は高速で回転し、真っ直ぐな軌道を描いて……鉄格子をすり抜けた。
「……ッ!」
鋭利な軌跡はハリスの髪を僅かに切って、そして勢いそのままに石壁に突き刺さった。ハリスが咄嗟に避けていなければ、きっと脳味噌を破壊していただろう。
「だが、私は騎士だ。例えそれが無謀でも、傷つく者に手を伸ばすのが私だ。……それが私に私が課した誓いだ。」
それが主から受け継いだベルナンドの意志だった。
もうその目には迷いは無く、ただその視線の行き着く先は一つであり、吸血鬼はその眼を赤く染めた。