表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖銀と巨大都市《メガロポリス》  作者: 久野 貴文
43/62

3-14.彼女は何者だ

 周りにある光はただ一つ、クライン自身が持つランタンの物しか無かった。壁に等間隔に掛けてあった明かりは全て捻り潰れていた。

 クラインが歩く階段の異常はそれだけではなかった。足元にある鉤爪の跡がまるで足跡の様に真っ直ぐに続いていて、それは気を抜けば足を取られて転げ落ちてしまいそうなくらいに深かった。

 傷跡というのはそれだけではない。丁度クラインも手を添えている壁にもそれはあって、階段の物と比べて乱雑に点在していて数も多く、この痕跡を残した生き物が途轍もない力を持つ化物だと物語っていた。

 そして何より、クラインの心を竦ませ、恐怖させる物は、彼の掌に張り付いていた。それが何より恐ろしくて、彼は殆ど目を開けていられなかった。しかし、ほんの気の迷いで彼はふと、ランタンの光でそれを見てみようとした。もしくは、いつまでも目を瞑ったままではいられないと思ったのかも知れなかった。

 どちらにしても、彼は自分の軽率な行動に後悔した。

 「……ッ!」

 もう目を瞑っても無駄だった。その光景はクラインの瞼の裏にはっきりと焼き付いた。

 彼は今見たその光景に身を竦ませて、危うくぬめる物に足を取られて、階段を滑り落ちそうになった。彼の足裏に張り付いている物は、血だけではなかった。それは液体だけではなくて、何やら柔らかい固体の様な物も混ざっていた。

 それが何なのかはクラインにははっきりとは分からない。しかし、自身の目の前にある光景は、頭の中に頼んでもないのに容易に浮かんできて、その光景にある、階段の隅に落ちている布の切れ端や、赤黒く汚れて砕けた白い何かを見れば、彼は想像することだけは出来てしまった。

 それでも彼に足を止める選択肢は無かった。彼はあの悪魔を地上で見たとき、もう後悔し尽くしてしまったのだ。これ以上逃げることは、その事実自身が彼が生きていく上で更なる重しになり、そして自信と勇気を失ってしまう事になると、彼は悟っているのだ。

 彼はただ階段を降りていった。暗闇はずっと続き、そこに赤色は付き添った。

 この光景の何が一番恐ろしいかというと、長い階段にある血の量は明らかに一人の人間の量ではなくて、そして何より誰の血か分からないところが彼にとって恐ろしい事だった。





 クラインの足がとうとうその空間に踏み入った。その中心には白い服を着た女性が倒れていて、彼は咄嗟にその女性に駆け寄った。

 「……アーシェ?」

 その体を抱き抱え、彼は彼女の名前を呼ぶ。返事は無かった。しかしその体には怪我は見当たらなかった。彼女の顔はいつもの様に白磁の様に美しく、芸術家に作られたのではないかと思わせる美貌だった。しかし、その生き物ではない様な見た目が反対に、彼女は生きていないのではないかとクラインの心を揺さぶった。

 彼はその体を抱き上げ、すぐにでも医者に見せようと思った。体温はまだあった。

 「……待て。」

 クラインは分かりやすく顔を歪ませた。その声はよく見知った物で、そして会って愉快な人物ではないと知っていたからだ。しかし無視をする訳にもいかなかった。クラインは声が聞こえた方に目を向けた。

 「その、女を……どこへ、連れて行く気だ……?」

 「医者のところに決まっているでしょう。」

 「駄目だ!」

 それは命令するというより、悲痛で、まるで悲鳴の様な声だった。クラインは彼が発した言葉の意味より、その事に驚いた。彼は少なくとも、レグル派である自分の前で、どんなに小さな弱みや弱点でも曝け出すことはしない人物だと思っていたからだ。

 「……ワーグナー、安心して下さい。今、救急隊が降りて来ている筈です。」

 「そうじゃない……その女を、連れて行ってはならんのだ。……そいつは、ここで、死ななければならないっ!」

 「なっ!何を言うのですかっ!……実験は終わりました!彼女はもう自由なんです!」

 「そうさ。実験は終わった。……それで分かったんだ。……そいつらはやはり悪魔だ、殺さなくてはならないっ。」

 ワーグナーは錯乱しているのだとクラインは思った。きっとこの現状の衝撃が強過ぎたのだろう。それで訳の分からないことを言っているのだ。

 「クライン。今すぐその女を降ろせ。……私が殺してやるっ。」

 その恨みと怒りの籠った宣言と共に、ワーグナーは側に落ちていた剣を杖にして立ち上がった。

 「……ッ!」

 そしてクラインはそのワーグナーの足の状態に顔を歪ませ、恐怖で心を波立たせられた。その足は片方が奇妙な形に変わっていた。それはまるで羊皮紙の様だった。人間の体の一部がしていいような形状ではなかった。まさに(おぞ)ましいという言葉が相応しいものだった。

 「それは……」

 「さぁ、早く……起きる前に、殺してしまわなくては……!」

 その足で動ける筈がなかった。ワーグナーは何かに躓き、手を地面につけた。

 「落ち着いて下さい、ワーグナー。彼女が何をしたって言うんです?彼女は関係無いでしょう。」

 「……関係無い?……関係無いだと!貴様っ、これを見ても、お前はまだ、そんな甘ったれた考えが持てるのかっ!」

 そう言ってワーグナーは自分が躓いた物を掬い上げてみせた。それは恐らく、手がほっそりしているから女性だろうとクラインは思った。恐らくというのは、それ以外にその物が女性だったと断定出来る特徴が無かったからだ。もしかしたら手が細いだけの男性かも知れなかった。

 「……お前は、ここに居ながら、この場所が地獄だとっ、そう思わないのか!」

 その言葉は、クラインの視野に無意識に掛かっていた物を力ずくで剥ぎ取った。クラインはこの部屋の隅々まで視界を広げさせられた。いや、彼女を視界の中心に据えられていたのが、元通りになったのだ。

 「あ、ああ……」

 その途端、クラインの元に視覚以外の他の感覚も戻って来た。そして一番最初にクラインを苦しめたのは臭いだった。それまで嗅いでいた筈なのに、それを認識した瞬間に、鼻が鋭敏になったかのようにその死臭は劇的に強くなった。いつかの前線で嗅いだ事のある、ここは近づいてはいけない場所だと、瞬時に理解させられる様な、あの臭いだった。

 その臭いが強過ぎて、クラインは舌が痺れる様な感覚にも陥った。長い時間走ったときの様に、喉が乾いて張り付く感覚があった。

 耳を澄ませてよく聞いてみれば、呻き声があちこちから聞こえているような気がした。その声はまるで怨嗟の合唱の様で、それはクラインに、いや、クラインの抱き抱える彼女に向けられていた。

 「……そんな筈は……私は……」

 「……クライン。お前は、あの悪魔を見ていないのか?……そんな筈はないな?……見たから、そんなに急いで、ここまで降りて来たんだろう?」

 「……」

 「……その悪魔が、その女の体から出てきたものだと、お前は一番、分かっている筈……だろう?」

 勿論クラインはあの時見た悪魔が彼女のものだとすぐに気づいていた。

 「それならば……何故だ?お前は、何故今でもその女を、抱き抱えていられるんだ!」

 自分の腕にある彼女を、クラインはまた見つめた。先程と一つも変わっていない顔がそこにはあった。しかし、クラインはその顔を見て、新たな感情が芽生えているのを感じていた。今までに無い、それは、自分がそう思っていると思いたくない感情だった。

 「私は、彼女を……」

 「殺すべきだ。」

 クラインは自分の手が震えているのが分かった。それは不安と絶望と、そして自分への失望でそうなっているのだ。これは考えてはいけない事だ。もし少しでも疑い出したら、今まで信じていたものが、崩れ去ってしまう。

 クラインは目の前にある階段と、その先を見た。赤黒い物が全面に塗りたくられていた。足元には原型の残っていない物があった。

 それ等全てをやったのは、彼女だ。それをクラインは信じたくなかった。彼女は全ての者に優しさを向けることが出来る人物なのだ。これは彼女の中にいた悪魔がやった事で、彼女は関係無いとクラインは思っていたかった。

 今まではそういう風に思っていたのだ。人喰いと悪魔は別々の存在だと考えることが出来ていた。しかしクラインは今、揺れていた。彼女は今、悪魔と引き離されて生きているのだろうか。

 そう思うと、クラインは彼女を医者の元へ連れて行くのが怖くなった。彼女がもし死んでしまっていたなら、平静を保てる気がしなかった。

 医者に彼女の死を告げられたとき、クラインは二重に苦しむことになるからだ。彼女が生きていないという事と、そして彼女が悪魔だった――この地獄をつくり出した本人だった――という事にだ。

 腕に抱いている彼女は、まだぴくりとも動いていなかった。死んでいるのだろうか。いいやそんな筈はない、と彼は頭の中で何度も繰り返した。

 殺してしまうべきではないか。

 「……いいや……そんな筈はないっ……私は、私はっ……彼女を信じています!」

 「……」

 とうとうクラインは階段を駆け出した。その言葉は彼にすら、誰に向かって言ったのか分からなかった。しかもその言葉を何度も何度も頭の中で唱えたとしても、彼の頭の片隅には疑念が残ったままだった。彼は信じ切ることが出来ていなかった。

 今まで生きて来た彼女と、今腕の中にある彼女は、何か違ってしまっているのではないか。それとも、何も変わっていないのか。彼には分からなかった。

 彼女は何者だ?










 「本当は……私は反対なのですよ。ルーク。」

 生きていた彼女、婆様はそう言った。生きていたのだから若い時の爺様の恐ろしい想像は、ただの杞憂だったのだと、残念ながら僕は思うことは出来なかった。

 「その後、私が私が生きているのを知って、クラインは大いに喜びました。……更に、その時のレグル派の司教、クラインの父親ですが、その人はとても政治的に優れていた人で、その事件の責任をリオル派だけに集中させて、それまで絶対的と言ってもいいくらいだったリオル派の信頼を崩してしまいました。……結果的には私達は、捕虜という立場から、もう二度と実験の対象にされる事の無い、いえ、させてはならない、国民になることが出来ました。……あの惨劇を鑑みれば、最良の結果、と言えるでしょうね。」

 「……」

 「ですが、それでも私は、人間と人喰いは関わり合うべきではないと思うのです。……関わってしまったから、私達の子達は死んでしまった。……結局、人喰いは人間に害を与える存在なのです。」

 「……僕は、そうは思いません。……思いたくありません……」

 「……ああ、別に、貴方とソフィアを今更になって切り放そうと言っている訳ではありませんよ。勿論、あの二人の女の子の方も、貴方にとっては大事な友達だったんでしょう。」

 その言葉に僕は少し耳を疑ってしまった。それはいつになく婆様の口調は柔らかくて、話す内容も別人の台詞を持って来たかの様だったからだ。

 「私はね、ルーク。貴方が人間に生まれてくれて、本当に良かったと思っているんです。……私の血が入っていても、人間が生まれてくることが分かったから。……私は、こんな体になっても、人間にはなれませんでしたから。」

 「人間に生まれて……良かった?」

 それは考えもしなかった事だった。僕は今まで、人喰いの様な力を持って生まれてこなかった事に悩んでばかりで、少なくとも、人間に生まれて感謝したことはなかった。

 「ええ、そうです。……それで、貴方にお願いがあるのです。ルーク。」

 「……何でしょう?」

 「貴方はきっと、これから生きていく上で、必ず人喰いと出会うことになるのでしょう。……ですが、その出会う人喰いとは関わり合いを避けて欲しいのです。必要以上に……いえ、例え必要であっても、その者と関わってはいけません。もし関わってしまえば、きっと貴方は不幸に見舞われることになります。」

 僕を乗せた箱は、僕をどこかへと連れて行っていた。僕はその景色を眺めているだけだった。風が窓を打つ音は聞こえるけれど、風を感じることはなかった。

 「僕は――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ