2-外伝.英雄譚の始まり
俺はゆっくりと腕を動かした。痛みなどは無い。腕が動くことが分かると、他の体の部位も動かしてみた。どうやら、問題無く動いてくれるらしい。
俺は自分が仰向けになっていた場所に手をついた。そしてその掌から伝わる感覚と、辺りに充満する匂いから、自分は茶葉が入っている大きな袋に落下したのだと理解した。
首を回して周りを見ると、ここは大きな倉庫のようだった。目の前を見てみれば小さなガラス窓が割れていて、よくこの窓の隙間を割ってここに着地出来たものだと、俺は自分の幸運に驚いた。
もし少しでもずれていれば、少なくとも骨の一、二本は折れていただろう。そうなっていたら、今の戦いに復帰出来ないどころか、二度と戦闘で役立たない体になってしまうところだった。
俺は吸血鬼や人喰いではない。体が壊れてしまえば、元通りにはならない。俺は自らの緩んだ心にその当たり前の事実を刻み込んだ。
しかし、あの悪魔の攻撃はまるで、俺が攻撃する為に近づくのを完全に読んでいたかの様だった。俺が出す足音を頼りに攻撃したのだろうか。いや、そんな筈はない。もしそれ程耳が良いなら、最初に俺がナイフで目を潰した時にだって避ける事が出来た筈だ。あの時は馬をかなりの速さで走らせていた。俺はそんな馬の蹄の音より大きな足音を立てる様な馬鹿な真似はしない。
そうだとするなら、残りの可能性としては悪魔に作戦が読まれていたということだろうか。
いくつも可能性を考えても釈然としなかった。しかし悪魔に作戦を読まれた理由が分からなければ、恐ろしくて近づきようがない。もう一度あれを食らったら、今度こそ無事では済まないだろう。
「大丈夫かっ!ローガン!」
思考する俺の頭に、その声は扉を蹴破る音と共に入って来た。薄暗かった空間に光が差し込み、俺は目を細めた。
「ヘイゲルか?何で、こっちに来たんだ。早くあっちに戻れ。」
「何言ってるんだ!お前っ、馬鹿見てぇに吹き飛んだんだぞ!?」
「大丈夫だ。怪我は一つも無い。丁度これが衝撃を和らげてくれたんだ。」
俺は差し込んだ少しの光を頼りに、近くに落ちていた剣を広い、そして茶葉の袋から飛び降りた。
「あれで大丈夫な訳ねぇだろう!今は興奮で痛みを感じてないだけだっ。もう良い、お前は引いておけ。」
「……この剣が無くては、あの悪魔には有利に戦えないだろう。」
「それなら俺が使ってやる!貸せっ。そしてお前は休めっ。ローガン。」
「駄目だ。」
俺はヘイゲルのその言葉に即答した。ヘイゲルは面食らった様な顔をして、そして納得しかねると言う様な、少し怒りを滲ませた顔を見せた。
「これは、俺が受け継いだ物だ。俺が使うのが道理だ。」
「……っお前って奴は何で、そんなに戦おうとする?……ローガン、何でだ?……お前はもう、どんなに強い奴だろうと、死ぬ時は死ぬって知ってるだろう?」
それは本当に珍しいヘイゲルの表情だった。まるで苦虫を噛み潰した様な、弱々しい覇気のない顔だ。
「……俺達にとって戦う理由なんて、街を守る。それ以外にないだろう?」
「っ……それだけか?」
「何だ?そんなに俺がこんな台詞を言うのが珍しいか?……確かに、俺は哲学者もどきみたいに、色んな事をゴチャゴチャ考えるのはよくするし、寧ろそれが好きだ。……けどな、戦う理由だったら、それだけで十分だろう?」
少なくとも、あの悪魔と戦うのにそれが理由にならない訳がない。
「……お前が、そんな事を言う様になってたとはな。」
ヘイゲルは声も表情も、力が抜けて、またしても今までに見たことが無い顔だった。どれだけ自分の発言に面食らっているのだろうと、逆に俺が自分を心配になりそうだ。
「……当たり前だ。俺は親父みたいに優しさは無いし、お袋みたいな思いやりもない。……だけどな、一番基本の一番大事なところは、しっかりと教え込まれているのさ。」
「……そうかい……クソッ!分かった!お前の好きにすればいいさ!だけどな、ローガン。もう一度あの怪物から一撃食らったら、今度こそお前……」
「大丈夫だ。あの悪魔が何で俺達の作戦を見抜いていたか、それはもう分かった。」
「何だって?」
複雑に考えなくとも、ただそういうものだと考え直せばいいだけの事だったのだ。
「あいつは、俺達の言葉を理解しているんだ。」
「……!」
いくら賢いからと言って、まさかそんな筈は無いと、どこか心の中で思っていた。しかし、あの悪魔はあの巨大で異形な体を持ちながらも、その戦い方は乱暴とはかけ離れたものだった。あの時、悪魔は確実に俺が攻撃するのを待っていた。
それは少なくとも、あの悪魔は自らの戦術を持っているという事だ。あれはもう決して、人喰いの抜け殻と考えてはいけない類いのものなのだ。あれは、人喰いともまた違う、全く新しい生物として認識しなければならない。
「あの悪魔は恐らく、この世で最も恐ろしい生き物なんだ。」
「……一番、か?」
「ああ、そうだ。吸血鬼よりも人喰いよりも、人間よりも、どんな人よりも恐ろしい生き物だ。」
「……それで?お前にはその化物を倒す作戦があるのか?」
「ああ、ある。だがそれは俺一人じゃ出来ないことだ。……手伝ってくれ、ヘイゲル。」
「勿論だ。俺は、何をすれば良い?」
ヘイゲルの返事は少しの間も置かずに帰って来た。その眼差しから感じる意志の強さは、いつも前線で見ることが出来るヘイゲルが今まさにここに現れた様で、俺はそれにとてつもない頼もしさを覚えた。
「この作戦は、言うだけなら簡単だ。やるのは中々に難しい。だがヘイゲルと、それに騎士と憲兵がいるならば、絶対に成功させてくれると信じている。」
悪魔は先程よりも多くの者達に囲まれていた。騎士の数が増え、更にあの特徴的な黒い外套は憲兵だろう、馬に乗った者と、弓で援護をしている者がいる。
その二つの者達は悪魔の周りを包囲し、追い詰めていた。それにヘイゲルが加わり、指揮官に耳打ちで作戦を伝えている。指揮官が頷いたのを見るに、作戦は受け入れられた様だ。
その間にも戦いは熾烈を極めていた。憲兵が持っている武器、あれは斬馬刀だろうか。光沢が聖銀には見えない。恐らくこの化物の巨大さを聞いて、普段使わないどころか骨董品に間違われても仕方ないそれを態々引っ張り出して来たのだろう。
しかしそれに見合うだけの効果はある様だ。その圧倒的な質量と間合いの長さは、あの巨大な悪魔を相手するのに丁度良い。長剣では斬り難い悪魔の皮も、斬馬刀ならば切り裂くことが出来る。
勿論、それは聖銀で出来ていない為、その傷はすぐに塞がってしまう。しかし騎士が持つ聖銀の剣は、憲兵によって出来た傷口に向かって振るわれる。それによって悪魔は何が何でもその攻撃を避けねばならず、その攻撃を避ける悪魔に、また憲兵達の斬馬刀が襲うのだ。
予想以上にあの巨大な生き物を抑え込めていた。しかしそれでも倒すまでにはいかない。脚をいくら斬ったところで、あの巨体にはダメージになっていないだろう。狙うべきはやはり頭だ。もしあの悪魔が騎士の言う通りに人喰いから引き剥がされた生き物なら、体の中の器官は脳と胃袋だけ。胸部では駄目で、頭を狙うしかない。
今戦っている者達もそれは分かっているだろう。しかしその頭が遠い。刃が届かない。悪魔がそういう風に立ち回っているのだ。
更に悪いことに、あの化物は体力まで化物らしい。周りを囲まれて一つ対応を間違えれば崩されそうな戦局の中、少しも疲れた様子を見せないのだ。
反対に人間や馬は動き続ければ当然疲れ、動きから彩度が失われていく。それは時間が経つごとに顕著になっていった。さらなる応援を待つ様な余裕も無かった。彼等は悪魔が聖道の向こう側の行ってしまうのを絶対避けなければならず、少しでも悪魔が跳躍しようとする動作を見せれば、それを阻止しなければならなかった。
悪魔はその人間の心理すら利用し始めた。傍から見れば明らかに誘い込む様に脚の関節を曲げて人馬を誘い、乗ってきた馬の脚を爪で掠める様に薙ぐ。敢え無くその馬に乗っていた騎士は悪魔の下に転がり、避ける間もなく踏み潰された。狡猾で賢い悪魔のやりそうな事だった。
それを見た指揮官の号令は早かった。時間を掛ければ悪魔を逃してしまう。咄嗟にそう思ったのだろう。
「全員っ、突撃!」
単純なそれだけの命令だったが、剣士達にはそれで十二分に伝わった。全ての者達が一斉に悪魔の方に体の向きを変え、そして腹の奥底から滾る闘志を今一度振り絞る様に咆え、全力で突撃する。
悪魔でもこの量の攻撃は捌き切れるものではないだろう。例え一度に纏めて薙ぎ払おうとしても、一拍子ずらして突進する者にその隙を突かれるだけだ。正に決死の突撃だった。全ての馬が少しの恐れも抱かずに、一直線に己より何倍も大きな化物に向かって駆けた。
その命を賭けた攻撃の気迫に悪魔は気圧され、ほんの瞬きの間だけ動きが止まった様に見えた。その硬直は戦いにおいて致命的で、騎士と憲兵の攻撃を避けることが出来ずに、悪魔は四方八方から刃を突き刺された。
悪魔がそれを避けれなかったのではなく、避けなかったと俺が気づいたのは、その後すぐだった。
悪魔の体には確かに多くの刃が侵入していた。しかしその悪魔の体が異変を起こしていた。悪魔の体はまるでカーテンを束ねた様な分厚い襞が本体の身を守っていた筈だが、その黒い衣が今はまるで花が開いた様に、まるでドレスのスカートの様に膨張し、そしてそれは不気味なぬめりを感じさせる鈍い光を放っていた。
悪魔は攻撃を受け止めるという選択肢を取ったのだ。と頭の中で文字が組み上がったその時だった。
まるで間近で銅鑼を思いっ切り叩いた様な桁違いの音圧の、怒りという感情の籠った咆哮が聞こえてきた。それを出した主は探す間も考える間もなくあの悪魔だ。
悪魔は突き刺さった武器をそのままに、体全ての筋肉を使い暴れ回り、自らを攻撃してきた者達を吹き飛ばした。鎧を着た者達が悪魔の背よりも高く打ち上げられる。
しかしどうやら、騎士と憲兵の攻撃は全く無意味という訳ではなかったらしい。傷つけられた箇所からは血が溢れる様に出ており、明らかに悪魔も弱っていた。が、しかし、それでもあの化物は動ける様だ。安全なところまで逃げる為か、今まで人間達が守っていた聖道の向こう側へ歩を進めていた。
その悪魔の前に一頭の馬と一人の人間が現れた。その人間は銀に輝く剣を持ち、その冷静な目で悪魔を見据えていた。まるで圧倒的な質量を持つ相手に正面から向き合っているとは思えない圧力を、その男は持っていた。
そして男は何の躊躇いもなく馬を悪魔の方へと、全速力で走らせた。
それはどう考えても無謀な突撃に見えてならなかった。悪魔が少し前脚を伸ばして向かい打てば、それで潰える様な命にも見えた。しかしそれが分かっている筈の男は、何故か剣を構えていた。それは人間からすれば圧倒的な力を持つ悪魔と正面からぶつかって、必ず勝てると悪魔に宣言している様だった。
その気迫に押し負けたのか、それとも今は無い右脚に幻肢痛を覚えたのか、ともかく悪魔はその場から飛び退いた。それは狡猾で慎重で、生き残る事を第一に考えるその臆病な悪魔の性格に適した行動だった。
悪魔は飛び退いた体を宙で反転させて、建物の壁をがっしりと掴んだ。四階建てのこの建物すら悪魔には簡単に登れる様で、地上の人間など置き去りにして、安全な屋根に残った左前脚の爪を立て、そして自らの体を引き上げようとした。
そこで俺は屋根から飛び降りた。
目の前には悪魔の頭があった。あれだけ俺達の頭上で手の届かない場所にあった物が、今は俺の真下にあった。
恐ろしい程の鋭い目が、俺を見ているのがはっきりと分かる。その下にある口からは巨大な牙が気味が悪いくらい綺麗に揃っていて、そこから濃密な血の臭いがした。
しかしそんな物はもう関係無かった。俺は銀色の剣を逆手に持って、高く掲げていた。
悪魔は咄嗟の事態にも反応し、その大口を開けて俺を噛み砕こうとする。驚く程に真っ白な牙が、俺の視界の中で楕円に並んで、中央にはその奥が見えた。
しかしそんな事はもう意味が無かった。何故なら、その悪魔の牙も、口蓋も、脳も、全て纏めて俺の剣は刺し貫いていたからだ。
「……死ねッ!」
骨が砕ける音と、何か柔らかい物を潰した感触があった。
悪魔の爪が壁から離れ、俺はほんの一瞬だけ宙を浮いた。俺はただ剣を握ったまま、着地する前にもう一度だけ力を腕に込め、悪魔の頭を抉った。
予想よりも鈍く大きな音を響かせて、悪魔の死体は地面に叩きつけられた。俺は悪魔を下敷きにして落下からの難を逃れた。そして石材に突き刺さってしまった剣を杖にして立ち上がる。
「……よくやった、ローガン。」
声の方へ目を向けると、馬から降りたヘイゲルがまるで自分の功績だと言うかの様に笑っていた。俺はそれを見て、そして手にある感覚を意識して、ほんの一週間前には見れた筈の男の顔を思い出した。
「……ああ、……やってやったよ。」
気づけば今にも沈みそうだった太陽はいつの間にか、完全に向こう側に行ってしまっていた。聖道の真ん中に明かりが灯り、悪魔の黒を際立たせていた。
騎士や憲兵もなんとか生きている者達が多そうだ。今回の出来事は成功に終わった、と言っても良いのではないだろうか。
「……ああそうだ、ヘイゲル、これを引っこ抜くのを手伝ってくれ。地面に突き刺さってしまったみたいなんだ。」
「ああン?ローガン、お前、どんな力で振ったんだよ?……おっと、それよりこいつはしっかり死んだんだろうな!死んだふりをしてたらどえらいことになるぞ?」
「ちゃんとトドメは刺したさ。そんなの基本中の基本だ。」
俺は振り向いて仰向けに倒れ、頭を聖銀で地面に縫い付けられた悪魔を見やった。よく見てみると腹のところに切り開かれた様な大きな傷口があって、そういえばこの悪魔が引き剥がされたという人喰いはどうなったのだろうと、ふと頭の中で過った。




