3-12.空を回る星
「この場は新たな真実へと辿り着く為の神聖な場所である筈だ。決して物を投げたり怒鳴り声で文句を言う場所ではない。」
ライノスの声は決して怒鳴り声ではなかったが、それでも怒鳴り声よりも鮮明に人々の頭の中に刺さった。
「しかしライノス殿……」
「議論は不要だ。お前達はこの場所に不敬だった。それにあの人喰いを恐れずとも、ここには私やローガンがいるではないか。何も心配することはない。」
ライノスの言葉に反論する者は一人もいなかった。あの騒がしさが幻だったのかと疑ってしまう程、講堂は静謐さを取り戻していた。
「続けろ、クライン。私は真実を発見する為に、そいつ等をお前に預けたのだからな。」
「勿論。」
クラインは講堂を今一度見渡す。もう誰も不要な物音を立てることはなかった。
「さて、続けましょう。この実験の結果により、私はある仮説を立てました。……それは、人喰いはその身に宿る悪魔の脳を無くす、または止めてしまえば、人間の肉を食わずに生きていられるのではないかと。そういう仮説です。」
この仮説には流石に静寂を保つことは難しかった。席に座っている聖職者どころか、アデルとリティアの側に立つ衛兵すらもざわめき、各々の心から漏れ出る言葉を吐き出した。
それもその筈だ。クラインの言う仮説が本当だとすれば、レグル派の最大の願いである共存というゴールまで、一気に到着してしまうような事だからだ。
「これは私の伴侶であるアーシェリア・シンクロードの現状からも確実な事でしょう。彼女は自身に宿る悪魔を引き剥がされ、今現在は人間の肉を少しも食わずに生活しています。」
声の波がどんどん増えて重なり、大きくなっていった。クラインはこの講堂内にいる人々の心を掴んでいることを確信した。
「勿論、引き剥がされた悪魔がどんなに恐ろしいかは、私は十分分かっております。しかしこれはそれすら解決出来ます。悪魔をその身に宿したまま、人喰いを人間の肉を一切食べないですむ体に、安全にすることが出来るかも知れないのです!」
「しかしどうやって、その悪魔の脳を取り除いたり、または停止させたりするのです?クライン司教は、まさか人喰いの悪魔に聖銀を使うという禁忌を破るのですか?」
前列に座っていた若者が疑問を思わず口に出す。
「勿論、聖銀は使いません。他の方法を試みます。しかしそれには時間が必要です。……私に時間を、そしてこの仮説に必要不可欠である二人の人喰いにも時間を頂けないでしょうか?」
講堂の戸惑いの声が大きくなっていく。クラインはやってやったと思った。これでアデルとリティアの命を引き伸ばすことが出来るだろうと。
しかしこの発表はクラインにとって、心地の良いざわめきでは終わらなかった。
「少し、質問をすることがある。クライン司教。」
クラインにはその声の主は直ぐに分かった。その声を聞き逃す筈が無い。今までずっと沈黙を保っていたアルベルト王の声だった。
「どういったご質問でしょう?」
「お前はその人喰い共は研究の為に必要だと言ったな?」
「ええ、この研究にはその者達が必要不可欠です。」
「それは本当か?私にはその様には見えないが。」
「……一体どういった意味なのでしょうか?私には分かりかねます。」
その問答には誰も口を挟まなかったし、そんな勇気のある者はいなかった。
「お前のその人喰いに対する実験は、既に終わっているのではないかと言っている。少なくとも私の元に配られた報告書からはそう見える。」
「それは……」
クラインは答えに迷った。アルベルト王の予想は完全に的中していた。クラインはこの実験を終わらせかけていて、後は人喰いの数さえ揃えば完成するところまで進んでいた。リオル派の追求を防ぐ為に完璧に仕上げた報告書が、アルベルト王の前では仇になってしまうのだった。
「確かに材料はほぼ、出揃っておりますが、見落とした条件があるかも知れません。この少女達はまだ必要です。」
「私を浅学の者と同じにするなよ。クライン司教。お前はこの報告書の結論には書いていないが、この人喰い共がなぜこんな体質なのか、既に検討がついているんだろう?……原因は、血の組み合わせで起きた突然変異といったところか。違うか?」
「……!」
今度こそクラインは何も反論することが出来なかった。自分の心中を尽く見破られ、抜け道として使おうとしていたトンネルを目の前で埋められた気分だった。
「研究なら、そのまま続ければいい。しかしそれにその人喰いはもう必要無い。私はそう考えるが、クライン司教、他にこの二人の人喰いを生かす理由があるかね?」
「……研究にはもしもの発見が付き物です。価値はあると思われます。……この実験を進めれば、もう人喰いは人間を食わずに済むようになるのです。万全を期すべきかと。」
言いながらクラインは苦しい言い訳だと感じていた。もう王の出す結論は、クラインの目の前にはっきりと見えていた。
「それではその価値と、外から来た人喰いをこの国の中で生かすこと、二つを天秤に掛けて私がどちらの方が重いと考えるか?分からない訳ではあるまい。クライン司教。……この者達は無垢ではない。」
王の獲物を射止める様な眼光がクラインを貫いた。いつもと同じならば、クラインは堂々とその視線を受け止めてみせる筈だったが、今日だけは目を逸らした。
アルベルト王はレグル派では無い。彼はどこまでも宗教的にも政治的にも中立で、そしてどこまでもこの国のことを考えている。その彼にとって、人喰いが生きることと国の安全にすることを比べた時に、選ぶ答えは一つしかなかった。
クラインの目が逸れた先にはアデルとリティアが並んで座っていた。その二人の顔は、たった今目の前で死刑宣告をされた者達の顔とは思えない程に、爽やかな表情があった。既に死を受け入れてしまっている表情だった。それがクラインには悔しくて悔しくて堪らなかった。
しかしどれ程の激情を胸に秘めようとも、事実は氷の様に溶けて形を変えてはくれなかった。現実は目の前に反り立つ崖の様に、ただそこに鎮座していた。
語り終わった爺様は崩れる様に安楽椅子に座った。その姿は精魂尽き果ててしまっていて、一気に歳を取った様にも見えた。
「これで終わりです。まぁ、今回も駄目だったということです。」
「……それじゃあ、二人は……」
「……ルーク?」
僕の肩に何か乗せられた感触がした。けれど僕は横を振り向いてソフィアの方を見ることが出来なかった。思わず立ち上がって叫びそうになったのに、僕の足は筋肉が無くなってしまったみたいに、少しも動いてくれなかった。
「あの二人は、今頃はヤーマハル神殿から憲兵団の本部へ、処刑場へ向かっている頃合いでしょう。そして、今日……」
僕の言葉の先を察した様に、爺様は感情の一切籠もっていない声で言った。いつも通りに察しが良くて、人の次の言葉を探り当てるのが得意な爺様だった。けれど今だけは察しが悪い方が良かった。その事実は聞きたくなかった。
「……僕は、嘘つきになってしまうんですか。」
妙なくらいに自分の息遣いが聞こえて、目頭が熱くなって目の前が滲んだ。絶対に譲れないものを自分の体ごと踏み躙られ、馬鹿にされた様な気分だった。
「爺様。……お願いです。最後に一度だけ、一言だけでもっ、……僕を二人に会わせて下さい!」
「……」
爺様は弱々しく顔を上げ、僕の方を見た。爺様は酷く苦々しい表情をしていた。それは何かに申し訳なさそうにして様に僕は感じた。
「……止めておきなさい。ただ辛いだけですよ。」
「嫌です!……お願いですっ、一目だけでもいいんですっ!……僕を、僕を嘘つきにしないで下さい……」
「……ルーク様。」
大きな手が僕の肩を掴んだ。その温かさと力強さに、僕は思わず顔を上げてアーロンを見た。アーロンの表情は優しく、そして意志を感じる不思議なものだった。
「クライン様。……お願いします。ルーク様の……いえ、私の身勝手な我が儘を聞き入れてはくれませんか?」
「アーロン……しかし――」
爺様はアーロンの目を見て固まった。何かに驚いている様な、初めて見る爺様の顔だった。それが気になって、僕はアーロンの方をまた見上げた。けれどそこにいるのはやっぱりアーロンだけで、いつもと変わりないようだった。
「いえ……分かりました。特別です。……ルーク、行きましょう。今なら、もしかしたら会えるかも知れません。」
「は、はい!」
「わ、私も行くっ。」
「ソフィアは留守番です。」
「何で?爺様!私だって……」
ソフィアは爺様のきっぱりとした態度に食い下がった。
「本来、これは褒められたことではありません。行くのは私とルークだけです。」
「うう……はい。」
「行きましょう。ルーク。」
爺様は苦い表情を持ったまま、僕に手を伸ばした。
「ごめん、ソフィア。直ぐに帰って来るからっ。」
僕と爺様は部屋を飛び出し、馬車に乗った。馬を全速力で駆けさせ、僕は二人に再会出来るように必死に祈った。
あの日、必ずまた会おうという二人とした約束を、僕は絶対に守りたかった。
どれくらい馬車を走らせたのだろうか。僕は何時間も風を浴びている気がしたけれど、実際にはもっと短い時間なのかも知れない。
それが見えたのは唐突だった。聖道の真ん中だというのに、馬車が数台ばらばらに止まっているのだ。こんな時に何事だと僕は愚痴ったけど、爺様が言うには、それが僕達が追っていた護送車だった。
「どうしてこんな事に……あっ!あの馬車は、一体?」
僕の目を捉えて離さなかったのは、止められた馬車の一つだった。その何が目を引いたのかというと、その馬車は堅牢なつくりの護送車である筈なのに、その屋根が半分引き剥がされていたのだ。
もう辺りは暗くなっているのに、野次馬はかなりの数が集まって来ていた。けれどまだまだ寄って来ているその人の数から、この状態になってからまだ時間はあまり経っていないのだろう。僕は護送車の方へ走り出した。
「あ、あの!一体何が起こったんですか!? この護送車は……」
「危ないから近づかないで。ここは聖道の真ん中です。早く道の端に移りなさい。」
僕の体は騎士の一人によって押し戻された。何があったのかすら教えてくれない様だ。
「ルーク。」
「爺様、これは一体どういうことなんですか!」
「落ち着きなさい。どうやら、人喰いの仕業のようです。」
「人喰いの?まさか、アーロン達が尾行していたあの?」
アーロンは殺した人喰いを見ながら、これで最後だと言ってきたけれど、まだ他にもいたということだろうか。
「……その人喰いは護送中だった馬車の上にそこの建物から飛び乗り、屋根を引き剥がして二人を馬車の中から引き摺り出して、建物の屋根から街に消え去ったそうです。」
「そんな……」
「それが数十秒の間のあっという間に起こったそうで、憲兵団は今、捜索をしているらしいのです。」
爺様の言葉が段々と遠くなっていく感覚があった。これはあまりにも、あんまりだと思った。ようやくまたその姿を見れると期待したら、予想もつかない方向から思い切り殴られた様だった。
僕は屋根が半分引き剥がされた護送車を見た。それから人喰いが去って行ったという建物を見上げた。けれど、どこにもアデルとリティアの姿は見えなかった。
屋根の輪郭を形取る様に、夜空があってそこに星が浮かんでいた。星は手が届きそうなくらい近く見えるけれど、それは絶対に掴めなかった。それでも手を伸ばすと、雲がかかって見えすらしなくなった。
「……爺様、二人は、どこに行ってしまったんですか。」
「分かりません。憲兵に託すしか、私達に出来ることはありません。」
「……そう、ですか。」
次第に雲が厚くなって雨が降り始めた。それは冷たい雨だった。それでいてもう空を見上げることが出来ないくらいの密度の雨だった。
唐突に降り始めた雨は石畳を打ち、どこか憂鬱を吹き飛ばす様な軽快な音を刻んでいた。しかしそれでもこの空間の沈黙は中々破るのには時間が掛かった。
「……良かったのか?」
ベルナンドは屋根の下で雨を避けながら、道を挟んだ先の小屋にいる二人を見ながら言った。
「せっかくお前が、そんな怪我をしながら取り返したっていうのに。」
ベルナンドの前には腕や足に傷を負ったアーロンが佇んでいた。一歩歩けば屋根があって雨に打たれずに済むのにも関わらず、彼は外套を被ったまま濡れていた。
「……本当は、こんなことする予定じゃなかったんです。……クライン様と相談をして、あの二人は、心苦しいですが諦めることにしたんです。」
アーロンは雨の天幕を挟んで向こう側にいる二人を見た。この雨の音ならば、この会話は二人には届いていない筈だ。
「これは私の勝手にやったことなんです。」
「それなら尚更だろう。そんなに苦労したのに、ルークの奴に会わせないのは何でなんだ?」
ベルナンドはそれが不思議だった。アーロンの行動はまるで、サーカスのチケットを買って会場まで入ったのに、始まる直前で帰ってしまうくらい意味不明だった。
「……私は、実際のところを言うと、どちらかといえばクライン様ではなくて、アーシェリア様の意見に賛成なのです。人喰いと人間は、無闇に関わってはいけないと思うのです。」
「じゃあどうして、こんな事をしたっていうんだ?」
「それは……何ででしょうね。私も、まだはっきりとはしていません。色々あります。恐らく一つは、私はルーク様に約束を破らせたくなかったんだと思います。」
「ふぅん?」
「ルーク様は、約束が破られる事がどんなに辛いことか分かっていますから。……でも、ルーク様とあの二人は、本当に一生会えなくなる訳ではありませんよ。……ルーク様が成長して、この世界のことをもっと知った時、必ず再会出来ます。」
アーロンの表情は、ベルナンドから見ても決して清々しい様子ではなかった。
「ですから、後は頼みます。あの二人を守ってやって下さい。」
「ああ、任せろ。恩は必ず返すさ。」
アーロンは頷くと踵を返して雨の中へ去っていった。雨は当分、止みそうになかった。ベルナンドは雨の中を突っ切り、二人の待つ小屋へ歩いた。
「これからどうしようか?」
「ん?」
「ほら、また生き残っちゃったじゃない?」
アデルはリティアの言葉に頭を掻いた。そしてベルナンドが歩いて来るのが目の縁に入った。
「そうだな。……どうしようか?」
アデルには特に良い考えが思い浮かばなかった。死ぬつもりでいたのに、確かに死神の鎌は首に掛けられ引かれた筈なのに、鎌は二人をすり抜けてしまった。
これから先が何も想像出来なかった。それで二人は数ヶ月前はあれ程生きたいと思っていた筈なのに、いざ生きることになると生き残ってしまったという言葉が一番最初に浮かんで、何をすれば良いか分からなかった。
雨はまだ降るようだった。




