3-8.レグル・シンクロード
それは人間が最も追い詰められていた時代の話だ。人間達の領土はサインクラストの独立峰、イェイルの周囲ほんの僅かしか残っていなかった。
周りの他の領土は全て吸血鬼達の物であり、つまり人間は絶体絶命の窮地に立たされていたのだ。
しかしそんな中で人間達はその状況に絶望していなかった。全ての人間はその命の全てを賭けて毎日を戦っていた。その気迫は鬼より鬼気迫った形相で、悪魔より冷徹に残酷に戦場を闊歩した。人間達を相手する吸血鬼達は自分達が圧倒的に有利だというのに、そんな人間の意思の強さにたじろいだ。
その時代の前線は街のすぐ側にあった。それは器に並々と注がれた水の様に、何かあれば崩壊してしまう砂の城であったが、確かに今はまだ均衡を保っていた。
そんな戦況にいつしか吸血鬼達は痺れを切らし、最近になって奥の手を使ってきた。その奥の手とは、奴隷として連れて来た人喰いに人間の肉を溺れる程に食わせることで、人喰い達に宿る悪魔に宿主を乗っ取らせ、人間達の元で暴れさせることだった。
悪魔に乗っ取られ理性を失った人喰いは人間の大きな驚異になった。彼等は引く事をせず一人残らず死ぬまで暴れ続けた。それでいて彼等は吸血鬼達にとっての捨て駒であったから、人喰いがいくら死のうが吸血鬼達は痛くも痒くもなかった。
人間がその人喰いの決死の攻撃に苦心していたある日、レグル・シンクロードは戦場にて負った傷を癒やす為、自分が主である小さな神殿にいた。
そんなレグルが朝食を取っていた時だった。突然、神殿の裏の方で何か大きなものが落ちる音が聞こえてきた。レグルが何事かと裏へ回ってみると、なんとそこには、所々に赤い鱗を張り付かせ、それ以上に赤い血を大量に流した男がいた。
「……た、助けて、くれ……」
人喰いの男は今にも消え入りそうな声で、どこか虚空を見ながらそう言った。身に纏う悪魔の欠片は段々と縮んでいっており、何かしなくてもすぐに死んでしまいそうだった。
「助けるだと?なぜ、私がお前を助けなければならぬのだ。お前達は私達の仲間を何人も殺しているだろう。」
「それは……仕方が無かったんだ。……そうしなければ、私達の家族が吸血鬼に殺されてしまうんだ。」
「何を詭弁で取り繕っておるのだ。吸血鬼に言われまいと、お前達は人間を食うだろう。」
レグルはこの突然の状況に取り乱すことなく、その人喰いの男を観察した。レグルがすぐに男を殺してしまおうとしたり、兵士を呼ぼうとしないのは、レグルが人喰いの中身を初めて見た為であった。
眼が真っ赤で、傷を負っても瞬く間に治ってしまう吸血鬼と違い、大きな傷が痛々しく体に刻まれているその男は、レグルからすれば人間と見間違えてしまいそうだったのだ。
「……確かにそうだ。私達は人間を食う。しかし、私達は人間を大切にしていた。あの吸血鬼共とは違う。……私達は人間をあんな風にゴミの様に扱い、侮辱したりはしない!頼むっ!私に、ほんの少しでいい、生きる時間をくれ!私に仲間を救い、吸血鬼に報いを受けさせる時間をくれ!」
死にかけの男の力強い宣言に、レグルは思わずたじろいだ。それはまるで信じられない作り話だと一蹴されて然るべき言葉だったが、レグルは男の言葉には嘘の気配が感じられなかった。その言葉はレグルの心を非常に揺らした。
今までレグルは人喰いと吸血鬼を同一視していた。なにやら遠くでは国が割れて戦争しているらしいが、なぜ戦争しているのかレグルは理解出来ていなかった。
しかし今その答えを教えられた気がした。この傷だらけの男の言葉から感じる気高い誇りと意志は、吸血鬼達とは何かが決定的に違うと、レグルは予感したのだった。
「……しかしだ。お前がいくら人間を大事にしていたとしても、私が助けるには理由が足りんだろう。私は理由無く人喰いなぞ助けることはしない。理由無く人喰いを匿う程この国は優しくない。」
「……私は、吸血鬼に捕まる前は、故郷で大将として吸血鬼達と戦っていた。……だから、吸血鬼達の国のことはよく知っているぞ。それでどうだ?私が知っている限りの、吸血鬼達のことを教えよう。」
「……」
「……それとも、お前達は山脈より向こうのことを深く知っているか?……そうだとしたら不味いな、私はそれくらいしか持っていないぞ。」
レグルは人生の中で一番早く頭を働かせた。しかし、レグルの頭が結論を出すより早く、神殿にいくつもの鉄靴の音が聞こえてきた。
「ここにいたか!」
兵士が続々と神殿の狭い裏手に入って来る。その先頭にいた者にレグルは見覚えがあった。
「レグル司教!?人喰いから離れて下さい!危険です!」
「リオル司祭……いえ、今は隊長ですか。」
先頭にいたのはまだ若い見た目をしているリオル・ネイメルクだった。若い身でありながら司祭である彼は、それと同時に騎士団の部隊隊長でもあった。
「今はそんなことはどうでも良いんです。さぁ、その人喰いに止めを刺しましょう。体力を回復されないうちに。」
リオルはそう言って鉄の剣を構える。
「……まぁお待ちなさい。私が見たところ、この者は理性が戻っています。人喰いが理性を持ってここにいるのは、私達に取って都合が良いことです。すぐさま殺してしまうには惜しいでしょう。」
レグルの口からは咄嗟にこんな言葉が出た。まだレグルはこの人喰いの味方をするか敵をするか、決断がついていなかった。
「レグル司教。その人喰いは吸血鬼の奴隷なのです。大した情報など持っていないでしょう。それに情報を聞き出すなら私達の方が得意です。貴方が私達と人喰いとの間に立つ必要は無いと思われますが?」
「本当に得意ですか?それにしては最近の聞き出し方は随分と乱暴な様ですが。」
「渡す気は無いと言うことですか?」
「……」
レグルとリオルは視線をぶつけ合わせ、そしてお互いを睨み合った。その状態を先に解いたのはリオルの方だった。
「……ふん、まぁいいでしょう。どうせその人喰いはすぐに死にます。治すには人間の肉が必要でしょうが、戦場ではないここに都合良く肉は落ちていません。レグル殿の様な人物なら、まさか人喰いの為に周りの人間に肉を渡せとは言えないでしょう。」
リオルの言う通りだった。ここには新鮮な死体などは無く、肉は生きている者達しか持っていなかった。
「まぁ、死ぬまでの間に何かを聞き出せたなら教えて下さい。貴方の言葉に免じてここは引きましょう。しかし、気をつけて下さい。人喰いはどんな手で貴方を騙そうとするか分かりませんから。……行くぞ。」
狭い裏手から兵士達が渋々と去って行った。一つ深呼吸をした後、レグルはまた人喰いの男の方に目を向ける。
「……お前が言うことは、本当なのだな?」
リオルの言う通り、レグルはまだ選択の余地がある。このまま放置すればこの人喰いの男は死ぬ。もしこの男を信用出来ないなら、そのようにすればいい。
「本当だ。……誓おう。私はまだ死ねない。吸血鬼達の根城には、まだ仲間達が捕らえられているのだ。私はその者達を救わなければならないっ。」
「そうか。……ならば――」
レグルは人喰いの男の前に座り込み、そして自分の左腕を差し出した。レグルは決断し、そして決意したのだった。
「食え。」
「何?」
「食えと言っておるのだ。分からんのか。」
レグルの選択は、この時代でなくとも狂っているとしか思えない様な答えだった。しかしレグルはこれを選んだ。レグル本人にもなぜなのかは分からない。この道を選ぶべきだと、レグルは直感していたのだ。
「本当に良いのか?」
「構わん。……私はお前を信じよう。」
人喰いの男は恐る恐るレグルの腕を取った。そして少しの間逡巡すると、意を決したように食らいついた。
「ぐっ……!」
レグルの左腕から白い布を染め直す様に血が溢れた。その代わりに男の体からは怪我が大小関わらずに消え、それと同時に赤い鱗が皮膚の中へ引っ込んでいった。男はまるで人間の様な姿になった。
「……そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。お前は何と言う名前だ?」
「……ガウスだ。ガウス・アイマン、それが私の名前だ。」
その広間の大きな長テーブルを数人が囲んで座っていた。誰しもが全員の内の一人を見ており、誰が話の中心人物なのか誰が見ても明らかだった。
「私は反対です、レグル殿。貴方は唆されているのですよ。」
一人の司祭が忠告する様に、しかし断固とした意思を感じさせる声でそう言った。
「確かにその人喰い、ガウスが言っている事は本当の様に聞こえます。しかしです。それがもし本当だとしても、貴方がそうまでして救う価値はこの男には有りません。どうかお考え直し下さい。」
男は――というよりレグルとガウス以外の者達は――レグルの公平の精神に敬意を抱く者達だった。この誰もがレグルの集合を受け、馳せ参じたランベル教の信徒である。
しかしその者達でもレグルの行動は受け入れ難いものだったようだ。その者達の視線は人喰いのガウスよりもレグルの左腕の方に注がれていた。
「……」
レグルはその言葉に黙って立ち上がった。そしてゆっくりと、しかし底の見えない堅牢な意思でもって、その頭の中にある考えをそのまま紡ぎ出した。
「確かに、私達にとってこの行いに得は無いだろう。寧ろ危険を多く孕む、誰も触れたがらない禁忌の物事だ。」
辺りからレグルの声以外の全ての音が止んだ。誰もが自らの意思で自分の口を縛り付けていた。皆はこの言葉を遮ってはならないと、頭で言葉にするまでもなく心の奥底で分かっていた。
「確かにそうだろう。その方が利口だ。そちらの方が何倍も簡単で安全だ。臭い物には蓋をすれば良い。嫌な事を喋る口は封じてしまえば良い。」
レグルはこの部屋にいる全ての者を見渡した。誰もがレグルの次の言葉を待っていた。
「しかしだ。しかし、だからと言ってこの真摯な願いを踏み躙り、侮辱し、殺してしまうのが私達のする行いなのか?……それではあの吸血鬼共が私達にしてきた行為と、まるで同じではないか!」
「……!」
「それを私達は許容するのか?……確かに得は無いだろう!しかし、だからと言って私達は、この者の、仲間を思い、そして心の奥底からの助けてくれという言葉を、聞かぬふりをする理由があるだろうか!」
レグルは力の限りで叫んだ。
「これは君達には何の得も無い、ただの感情だ。理論など無い。正論でもない。しかしそれでもお願いだ。……彼の声を、私の頼みを、どうか聞いてやってくれ。」
レグルは深々と頭を下げた。この願いは本当にただの感情であった。下手をすれば自身の身どころか人間という種族全体を危険に晒す事である。しかしそれと同時に、この行動はレグルの信条に当たるものであった。
レグルはそれを全て理解していた。だからこそ、最もらしい文句を長々と並べるよりも、全力で頭を下げることを選んだのである。
「……レグル殿、貴方の考えは分かりました。しかし、貴方がどれ程の熱意を持っても、人喰い達は答えないかも知れませんよ?裏切るかも知れない。」
「そんな者達には私が説得して見せよう。」
司祭の一人の言葉に、ガウスは椅子から勢いよく立ち上がり、握り拳をつくることで答えた。
「説得しても駄目だとするなら、私の仲間が貴方達を裏切る様なら、私自身がその者を殺します。……しかし、そのようなことは一つも起こらないと宣言する!私の仲間は恩を忘れない者達なのです!」
「……」
「……貴方達の考えは痛いほど分かる。だがそれでも頼むっ!これには私の……いや、私達の命運が掛かっているんだ。……絶対に貴方達の期待に答えて見せる!」
ガウスは机に打ちつける様にして頭を深く下げた。
それを見た司祭達はお互いに目を見合わせた。吸血鬼しか見たことがなかった彼等には、ガウスはとても誠実で仲間思いの男に見えた。
彼等の意見は一つになった様だ。彼等は頷き合い、司祭達の代表が腰を上げる。
「いいでしょう。私達の尊敬するレグル殿が信じる貴方がそこまで言うのなら、私達は出来る限りの事を致しましょう。」
「っ本当か!」
ガウスは頭を上げてその驚きと喜びに溢れた顔を見せる。彼の心の中に首の皮一枚繋がったという言葉がふと浮び、全くその通りだと、人喰いの自分を信じてくれたレグルに感謝した。




