3-7.世界の裏表
その次の朝、僕はいつもと変わらずに剣の訓練をしていた。朝日は勿論変わらずにそこにあって、朝露と一緒になって草花をきらめかせていた。いつもと違うのは僕の心だけだった。それは昨日の夜に置き去りにされたままで、ここに僕の意識は無かった。
「どうしたの、ルーク?元気無いよ?」
そんな僕を見兼ねてか、横で僕と一緒に剣を振っていたソフィアが心配そうな顔をして言った。表に出さないように隠していたつもりだったが、ソフィアにすらお見通しだったようでは型無しだ。僕は心の中で反省をした。
[そうかな?昨日は少し眠れなかったからかな。」
眠れていないのは本当の事だった。僕は昨日の夜に突然垣間見えたこの神殿の裏と、そこで出会ったあの少女達の事が頭の中で暴れられて、目が冴えて仕方なかったのだ。
「そんな調子じゃ、また私が勝っちゃうよ?」
「まさか、今日は負けられないよ。」
「二人共、やる気があるのは良いことですが、今は模擬戦ではなく素振りの練習の時間です。集中して下さい。」
僕等の口論を目敏く見つけて、アーロンはそれを打ち切る様に手を叩いた。
「はーい。」
「はい!」
僕は両手に持った剣を真っ直ぐに振り下ろした。その剣はなぜかいつもより軽く感じて、柄は別のすり替わってしまったのかと思う程に手に馴染んだ。
その一時間後、僕とソフィアは向き合って剣を構えていた。いつもと同じ様な光景だったが、僕の心は先程とは打って変わっていつも以上に滾っていた。今僕は剣術以外の事をすべて忘れて、目の前のソフィアの挙動をつぶさに観察していた。
「行くよ!」
「ああ来い、ソフィア!」
ソフィアは駆け出し、その勢いのままで僕に攻撃を仕掛けた。しかしその攻撃はいつもの様な勢いが無かった。
それはもしかしたら昨日のローガン様との手合わせの事が、ソフィアの頭に残っているのかも知れない。僕がソフィアの全力を打ち返すなど、どう考えても無理なのだが、意外とソフィアは全力の攻撃を止められた事で堪えているのだろうか。
僕はソフィアの攻撃を悠々と躱した。ソフィアはそれを見て第二の攻撃を繰り出すが、それはやはり丁寧なだけで、いつものソフィアの剣の速度を見慣れている僕からすれば遅過ぎる。
そこで僕は動いた。迫り来る剣を避けつつ、同時に自分の剣を振り下ろす。ソフィアはそれを防ぎ、剣を上半身に近づける。その瞬間、僕は屈み込みソフィアの足を払った。
「きゃあ!」
空中でソフィアは回転し、地面に背中を打ちつけた。ソフィアはもう立ち上がる事が出来ない。なぜなら僕が首に剣先を置いているからだ。
「そこまでです。」
僕は剣をソフィアの首元から退かした。ソフィアは僕が手を貸す前に飛び上がった。
「もう一回!」
「駄目です、ソフィア様。手合わせは一日一回までという決まりです。どれ程短くともこれは一つの勝負なのですよ。」
アーロンはソフィアの言葉をきっぱりと切り捨てた。
「そう何度も負けてられないよ。それにソフィアは昨日の事のせいなのか、変に丁寧な剣筋だったしね。」
「え、そう?……だって、力負けするなんて初めてだったから……」
ソフィアはいじける様に言った。僕は直接食らった訳ではないから分からなかったが、それくらい昨日のは記憶に刻み付けられる程の剣撃だったのだろう。
「あれは気にせずに、もっと力強い剣がソフィア様には合っていると私は思いますよ。」
「アーロンもそう思うの?」
「ええ、それにローガン殿のあれは本当に人喰いのソフィア様より力が強い訳ではありません。相手に力を出させないやり方と、自分の力を上手く伝える技術があるだけの事です。」
ソフィアは考え込む様に腕組みをした。
「アーロン。僕の方はどうでした?」
「ルーク様は、とても綺麗な足払いでしたね。」
「ええ、昨日は最高のお手本を何度も見れましたから!」
僕の手のひらは知らずの内に握り拳を作っていて、アーロンに昨日の剣術と体術にどれだけ自分が感動したかを伝えようとしていた。
「しかし多用は禁物ですよ。戦いにおいて屈むという動作は基本的にとても不利です。ここぞという時に使わないと、それこそ足元を掬われますよ。」
「はい!注意します!」
僕等の剣の訓練はもう少しだけ続いた。
その部屋は神殿の最奥、人気の無いとても静かな場所にあった。動きが極限まで無いこの部屋に変化があるのは、窓の側に落ちる木漏れ日だけで、それは絶えずゆっくりと変わり続ける自然の模様を作り出していた。
そして部屋の主はこの部屋の雰囲気を纏ったようにおおらかで、周りと一つの絵画となって溶け込む様に安楽椅子に座っていた。
「お呼びですか?婆様。」
「ルーク、よく来たね。さぁ、そこに座りなさい。」
「はい。」
僕は促されたままに椅子に座った。クッションが僕の体を深く沈み込ませ、包み込んで動けなくした。それはまるで僕までがこの風景画の一部になってしまった様だった。
「顔色が悪いですね。どうかしましたか?」
「いえ、大丈夫ですよ。なんでもありません。」
「……もしかして、眠れなかった?」
「……はい。」
「クラインが貴方に何かしましたか?」
僕はふと、昨日の爺様の言葉を思い出した。婆様は地下室の事を知っているのだろうか。僕は念の為に軽い探りを入れることにした。
「何かした、と言うより……何と言えば良いのでしょうか……」
「嫌なものを見せられた?」
「嫌なものという訳ではありません。どちらかと言えば僕には急過ぎたというか、謎が多過ぎたというか……」
「……ああ、そういう事ですか。大丈夫ですよ。私は分かっています。ゆっくり話しなさい。」
婆様は全てを理解した様に微笑み、僕に優しく語り掛けた。僕の疑いは杞憂だったようだ。爺様の言葉に僕はきっと、少し疑り深くなっていたのだ。
そうと分かると、僕の頭の中は婆様に質問したいことで一杯になった。昨日の夜の爺様は僕の質問に殆ど答えてくれず、疑問は溜まっていく一方だったのだ。
「……ごめんなさい。話すと言っても、僕には殆ど何も分からないんです。……あの部屋は、あの女の子達は一体何なのですか?僕は結局、あそこに行かされただけで、爺様には何も教えてもらえませんでした。……爺様はあそこで一体何をしているのですか?」
「落ち着きなさいルーク。貴方が見て来た事を、少しづつで良いから私に話してみなさい。」
婆様の声は、昨日の事をありありと思い出してしまって早くなった僕の心臓を落ち着かせた。僕は心臓の鼓動が正常に戻ったのを確認した後、婆様に言われるがまま、爺様に部屋に呼び出されたところから時系列順に話していった。
「……そうですか。そうだったのですか。それはそれは、クラインは不親切でしたね。」
「はい。……婆様、あの場所は一体何なのですか?」
僕はようやく質問を切り出せた。あの場所について知ることがやっと出来ると喜んだ時、婆様から飛び出した言葉は僕の予想を軽々と越えていた。
「……ふむ、後一歩と言ったところですね。」
「え?」
「ルーク。貴方はクラインから地下室の事について、誰であっても話してはならないと言われている筈ですよ。」
婆様のその言葉に、僕は心臓を掴まれた思いをした。婆様の声には明らかに問い詰める様な、尖った声色が混ざっていた。
「それはそうですが、婆様はこの事を知っているでしょう?なら喋ったって……」
「本当に私が知っていると確信出来ていましたか?」
「それは……」
次の言葉は僕の口からは出なかった。そして僕は、僕の勘違いと失敗を完璧に悟った。確かに婆様は知っているとは一つも言っていなかった。ただ知っている様に装っていただけなのだ。
「けれどそこまでして家族を疑うなんて……」
「家族であろうと関係ありません。貴方は将来シンクロード家の主となるのですよ。それくらいは必要最低限の事です。」
「……はい。」
僕はただ頷くことしか出来なかった。婆様の表情は部屋に入った時と少しも変化していなかったが、滲み出る気迫が全く変わってしまっているのは肌で感じた。僕はこの神殿の地下と同じ様な、婆様の隠されていた裏の表情が見えてしまって、見慣れた光景が形を変えずに中身だけ変わっていっている様な妙な感覚に襲われた。
「……はぁ、やはりルークにはあそこの事を教えるのは早かったようですね。クラインにはまだ足りないと私から伝えておきましょう。」
「……ちょっと待って下さい。それってつまり、爺様と婆様の二人で、僕を試していたということですか?」
「まぁそういうことになりますね。結果は後一歩、といったところです。」
「合格で無かったら、僕はどうなるんですか?」
僕の声は何か嫌な予感を感じ取っていて、少し震えていた。
「貴方はどうにもなりません。ただ、秘密を守れない者に秘密は教えられないというだけです。」
「……それってもしかして、僕はもうあそこへは行けないという事ですか?」
「ええ、秘密を守れない者にあそこの実情を教えるのは危険過ぎます。そもそも連れて行ったのだって、私の反対を押し切ったクラインの考えなのです。」
「そんな……僕に、もう一度だけ機会を頂けませんか!僕はあの二人とまた会うと約束したのです!」
僕は声を荒げて婆様に必死に頼んだ。それはもし今、ただその言葉に頷いているだけだったなら、僕は絶対に後悔してしまうだろうと分かっていたからだ。
「駄目です。ルーク。気構えていて対応する事は誰にだって出来ます。私が求めているのは常に警戒していられる胆力、もしくは警戒せずとも対応出来る力量です。」
だから婆様の言葉は僕にとって絶望そのものだった。世界と自分の感覚が切り離されて、胸に大きな穴が空いた気がした。
「僕は、本当に再挑戦をさせてもらえないのですか?」
「……貴方は今、シンクロード家の一人息子です。再挑戦はさせますよ。でも今じゃありません。理由は言った通りです。」
「……彼女達はいつまであそこにいるのですか?」
「言えません。」
「僕は、もう一度彼女達に会うことは出来ますか?」
「今の貴方には何も言えません。」
何を言っても無駄だった。僕には資格が無かった。彼女達はきっと今もこの場所の近くにいる筈なのに、僕はそこへ行く権利を呆気なく掴み損ねて、唐突に失ってしまった。
「僕は……」
僕は言葉も失った。喉と舌が乾いて粘つき、上手く口を動かすことが出来なかった。飛び交う言葉が一つも無くなって、部屋は静かになった。
「おや、来たようですね。」
「え?」
婆様のその言葉は、場の空気に合わない明るくて軽い調子で出てきた。僕が婆様の視線の先に目を向けると、そこには扉を開けて固まったソフィアがいた。
「……ルーク?」
「ソフィア。」
「何で、泣いてるの?」
僕は慌てて振り向き腕で目元を擦った。白い袖に灰色の染みが広がった。
「どうしたの?ルーク。何があったの?」
「何でもないよ、僕は大丈夫。」
「……ふうん?」
ソフィアは訝しげな表情だったけれど、取り敢えず気にしないでくれる様だった。
「それで、婆様。私達をここに呼んで何をするの?」
「……二人に昔話をしようと思ってね。」
婆様はまるで僕との会話が無かったかの様に話し出した。それは正に裏表が切り替わった様だった。
「昔話?」
ソフィアの疑問の声に、婆様はゆっくりと頷いた。
「そう昔話。ただの昔話じゃないよ。私達の昔話さ。」
「私達の?」
「そう。私達の祖先の話。」
婆様はゆるりと立ち上がり、窓辺の隣にあった木漏れ日の絨毯を足元に巻き付けた。そよ風がゆらりと流れて、その模様が少し揺れ、そして元に戻った。
「どうしていきなりそんな話をしようと思ったの?私達、誕生日でも記念日でも何でもないよ?」
「話すその時が来たと、感じただけです。」
婆様の視線は優しく、そして真っ直ぐに僕を見ていた。僕は婆様が今何を思っているのか、読み取る事が出来なかった。けれど、それがとても大事な昔話である事は、直感が教えてくれた。
「退屈な話かも知れませんが、どうか真剣に聴いて下さい。……話は百五十年前、聖銀が見つかるほんの少し前の話――