1-3.隠家
「凄い熱気だな。」
俺は思わず呟いた。
今俺達は人混みに紛れながら町の広場を通り抜けていた。かなりの大きさの広場の筈だが、乱雑に押し込められるようにして屋台が立ち並んでいるからか、狭苦しい印象を受けた。
あちこちから客を引き込もうとする声が響き、肉が焼けた匂いが辺りに漂い、屋台の派手な色調が目に痛い。音と匂いと色が雑多に混ざり合い、市特有の空気を作り出していた。情報量の多さに酔ってしまいそうだ。
「アランは市なんて初めてだろ? はぐれるなよ。」
「分かってるよ。子供じゃ無いんだからはぐれないって。」
そうギルさんに言い返すものの、目を逸らしたら本当にはぐれてしまいそうなくらいの人の多さだった。しかし村には無い物がどこを向いても有るこの場所では、ついつい欲望に負けて屋台の商品に目を向け、二人を見失ってしまいそうになる。
「そういや、朝から何も食って無かったなぁ。アラン、何か食いたいものあるか?」
「え? じゃあ俺っ、あれ食ってみたい!」
そう言って俺は一つの屋台に指を指した。その屋台ではぶつ切りにした肉を串に刺して焼いていて、その肉の匂いは他を圧倒するとても刺激的な匂いだ。空腹の身からすると、逃れられない強烈な魅力を放っている。
「アルノーもそれでいいか?」
「うん、構わないよ。」
屋台で肉を焼いていた頭にタオルを巻いている店主のおじさんに、ギルさんは慣れた様子で懐から取り出した硬貨を渡し、串を三本受け取った。
「ほらよ。」
「おっと。」
手に持つと予想よりずっと重みがあった。串に刺さっている肉は焼きたてで先程嗅いだ数倍の香ばしい匂いがした。肉汁が肉の表面でぬらりと光った。その肉汁は串を持っている手に垂れてくる。
俺は肉汁の一滴も食い逃すまいと、縦に持っていた串を横に持ち直し、そして齧り付いた。熱々の肉汁と強めに効いた塩が口の中を蹂躙した。今まで食べてきた肉の中で一番美味いと思える味だった。
「旨いっ!」
「ん、まあまあだな。」
「塩が少し強めだね。」
俺の中では良い味だったのだが二人には不評のようだ。なぜこんな美味い肉をそんなしかめっ面で食べることが出来るのだろう。
「何だよ、旨いと思わねえのか?」
「食い慣れてるからかな。これより、俺等の店の方が何倍も旨いぜ。」
「店?」
「今から連れていくところだ。」
そう言ってギルさん達はまた歩き始めた。俺は残りの肉を勿体なく思いながらも口に詰め込み、店に向かうという二人の後を追った。
たどり着いた建物はレストランかカフェのように見えた。三階建てで煉瓦の壁は新品とは程遠いくすんだ色をしている。いかにも歴史がありそうな佇まいだ。
上げていた視線を下ろして店を見ると、店内だけでなく店の外にもイスとテーブルが並べられていた。客がまばらに座って軽食を摂ったり、紅茶を飲んだりしている。
もう昼飯時を過ぎている為か、そこには先程の市のような喧騒は無く、静かでゆったりとした時間が流れていた。
二人はテーブルの合間を縫って店の中に入る。俺もそれに続いた。
「いらっしゃいませ〜……あっ、アルノーさんギルさんお帰りなさい。そちらの方は? もしかして……」
「おう、今日からここに住むアランだ。アラン、この娘はこの店の看板娘のハンナだ。」
「酒蔵亭にようこそ。初めまして、ハンナと言います。これからよろしくお願いしますね?」
「あっアランです。よろしく。」
店で出迎えたのは笑顔が印象に残る少女だった。更に村にはいない同年代の女の子だったせいで、俺は不覚にも言葉が詰まってしまった。しかしそのハンナという少女はそれを笑って受け流してくれた。
ハンナは太陽のように輝く金色の髪を後ろで纏めていて、淡い黄色の瞳を持っていた。今まさに給仕の仕事をしているといった服装で、確かにその外見は看板娘と呼ばれるのに相応しかった。
それにしてもここの店は酒蔵亭と言うのか。てっきりレストランかカフェだと思ったのだが、酒も売っているということだろうか。
「ハンナ、あんまり頑張り過ぎたらダメだよ?」
「分かってます、大丈夫ですって。」
アルノーさんはそう言うと店の奥に入って行った。ついて行くと厨房があり、その奥に上へ向かう階段があった。アルノーさん達はその階段を登る。そこで俺は疑問を口にした。
「なぁ、あの娘って人間か?」
「そうだよ。」
「俺達が吸血鬼だって知ってるのか?」
「知ってるよ。」
「それって……大丈夫なのか?」
アルノーさん達は信用しているようだったけれど、俺は初対面の人間を信頼することは出来なかった。
「安心しろってアラン。ハンナは信用出来る。それに……」
「それに?」
「この場所で……いやこの世界で僕達が生きるには人間が必要なんだ。それだけは、僕達だけじゃどうにもならないからね。」
ギルさんの言葉をアルノーさんが引き継いだ。
階段を登ると扉が等間隔に三つ程横に並び更に廊下は左奥に続いていた。一階と比べると少し薄暗い気がする。アルノーさん達は奥に進み曲がると突き当りにもまた扉があった。
アルノーさんはその扉を開く。そこにあったのは部屋ではなく、なんと階段が存在していた。しかも上ではなく下に降りる階段だ。ちらりと覗いてみると一階よりも下に続いているようだった。
アルノーさん達はそこを降りていく。地下へと続く階段は薄暗く、足元すら容易に見えない程だ。手前の木で出来た床と違い、石造りだった。
俺はその雰囲気が本当の隠家みたいで少しわくわくしてしまった。いや、本当も何もこれは本物の隠家なのだ。子供の頃に夢想したことが目の前にあると思うと、心がくすぐったくなるような感じがした。
階段を降りていると奥にオレンジ色の優しい光がうっすらと見えてきた。ランタンの明かりのようだ。
階段は小さな物置のような部屋に繋がっていた。特に天井が低く、軽く跳ねただけで頭をぶつけてしまいそうだ。
そんな部屋に三人の人影が見えた。二人の男と一人の女だ。小さなテーブルを囲んで談笑している。男達はどちらもアルノーさん達よりだいぶ老けて見えた。一方が細い体つきをしており、もう一方は樽のような腹をしたずんぐりとした体型をしている。
女の方は反対に若く、特徴的な赤く長い髪を後ろで纏めていた。そして三人共ジョッキを片手に持っている。酒を呑んでいるようだった。
こちらに気付いたのか男の細い方が声をかけて来た。こっちは知っている。ベルン爺だ。たまに村に来て、遊んでくれたのを思い出す。最近は村に来ることはあまり無かったのでどうかしたのかと思ってはいたが、大丈夫そうで安心した。
「アルノー、ギル、それにアラン久しぶりだな。帰ってきていたのか。まぁ取りあえず飲め、旅で疲れただろう?」
「飲まねーよ。まったく爺さん達はいっつもだな。昼間から飲むのは止めたらどうだ?」
「あァン、何で儂の酒を儂が呑んだらいかんのだ。それよりもギル、そっちのガキは誰だ?」
太い方の老人が身を乗り出しこちらを見てきた。酒の匂いが漂ってくる、どうやらずいぶん飲んでいるようだ。その老人の質問にギルさんが答えた。
「オズワルドさん。言ってただろ? アランだよ。アラン、こっちはオズワルドさん。この店の店長だ。」
「アランです。よろしく。」
「お前がアランか、確かにクリフに似てるな。」
「父さんを知ってるの?」
「ん? おお知ってるぞ、あいつがまだちっちゃいときから知ってる。」
「なぁ、父さんってどんな人だった?」
「アラン、その話は後でな。紹介するよアラン。こいつは人喰いのアデルだ。」
俺はアデルという女性の方に向き直す。アデルは俺達吸血鬼のような白い肌ではなく、日に焼けた肌を持っている。酒が入っているからか少し顔が赤い。
「アランです、よろしく。」
「ああ、よろしくな。」
そう言って手を差し伸べて来る。俺はその手を握った。その手の感触に俺は驚いた。アデルの手は女の子のようなまめ一つない手などではなかった。むしろその逆で、まめをいくつも潰し、それでもなお酷使し続けた手だったのだ。こんな手はベルン爺くらいしか見たことがない。今はただの飲んだくれに見えるが、正体は違うもののようだ。
「アランは明日からここで働いてもらうから、先輩達とはしっかり顔合わせはしとかないとな。まだいるんだが……また今度紹介するよ。」
「じゃあ顔合わせも済んだことだし、アランおいで。今度はアランの部屋に案内するよ。」
アルノーさんが言った言葉は、さっき秘密の階段を見たときくらいに、俺の心を弾ませた。
「部屋? 俺の部屋があるのか?」
「空き部屋がちょうどあるんだ。ギル、報告は頼んだよ。僕はアランを部屋に案内してくるから。」
「はいよ。」
自分の部屋と聞き、俺はわくわくしながらアルノーさんについていった。
視界の隅でギルさんが三人が囲っていたテーブルの余っていた椅子に座ったのが見えた。
「で、俺達がいない間この街で変わった事でもあったか?」
ギルはそう訪ねた後、頬杖をつきながら酒を舐めるように飲んだ。これに答えたのはアデルだった。
「悪いニュースが一つある。」
「いいニュースは?」
「無い。」
「マジかよ。」
「強いて言うなら、悪いニュース以外は何にも起こって無いよ、ここは。」
そう言ってアデルは髪を乱雑に振り解き、ため息を一つついた。
「それで悪いニュースはどんなことなんだ?」
「またあいつが出た。」
「……どいつがやられた?」
「安心しな、外の奴だよ。憲兵に見つかるなんてヘマ、あいつらじゃないとしないって。」
「なぁ……やっぱり本物がやってると思うか。」
「……さあね、私達は直接会ったわけじゃないから。」
ほんの三ヶ月前から現れた同族殺し。その者は吸血鬼でありながら同じ吸血鬼をもう四人殺している。同族殺しは憲兵と行動し、今街ではレグル派が関わっているのではないかと大きな話題になっている。
ギル達は何故急に出てきたのか、事実を確認しようと憲兵内部でも探りを入れたが、まともな情報は出てこなかった。
場を沈黙が覆った。この出来事はここの人物達にとって、些事では済まないものだった。
「お前等、黙りこくるんじゃねぇよ。酒が不味くなっちまうだろ。」
そう言ったのはこの場で唯一の人間であるオズワルドだった。その言葉により、一旦場は穏やかな状態を取り繕う。しかし四人の心の内には不安がのしかかったままだった。まるで自分達の心臓にずっと刃物を突き付けられているかのような嫌な感覚に襲われていた。
「おお、すげぇ。」
部屋の中を見て、思わず言葉をこぼした。村にある俺の家より縦にも横にもずっと広い。部屋にはベッドとタンスと小さなテーブルと椅子が二脚あって、ベッドの横の窓には分厚いカーテンが日の光を遮っていた。
「どうだい? いい部屋だろう?」
「ああ、すげぇいい。」
言いながらベッドに近づきそして飛び込んだ。ニ、三回小さく弾んだ後、体がベッドに沈み込む。このまま眠れてしまいそうだ。
「タンスの中に着替えが入ってるから、夕方になったら着替えて降りてきな。」
「分かった。」
アルノーさんは部屋から出ていってしまった。部屋の光はカーテンから漏れるものだけになる。俺はゆっくりと目を閉じた。どうやら十五年ぶりの人混みに疲れているようだ。遠くの方から喧騒が聞こえ、市の活気の良さを思い出していると、次第に意識が闇に沈み込んでいった。
「アランさ~ん、起きて下さ〜い。」
頭上から声が聞こえる、どうやら寝込んでしまっていたらしい。重い瞼をゆっくりと開ける。瞳に映ったのは昼に給仕をしていた少女、ハンナだった。
「おはよう。」
「なーに言ってるんですか、今は夕方ですよ。早く起きて降りてきてください。アルノーさん達、待ってますよ。」
そういえばアルノーさんはそんなことを言っていた気がする。
目を擦りながらベッドからもぞもぞと抜け出す。カーテンの隙間からの光がベッドの端を朱に照らしていた。
「着替えはタンスに入ってますから、早く着替えて降りてきて下さい。」
ハンナは言いながらドアを閉め、駆け足で降りていってしまった。部屋が一段と暗くなる。俺はタンスから着替えを引っ張り出した。
一階に降りると厨房ではハンナ、ベルン爺、アデルが慌ただしく作業していた。ハンナは山積みにされた食器を洗い、ベルン爺とアデルが隣り合って作業している。何を作っているのだろうか。
「ようやく起きたか、ねぼすけ。」
「ベルン爺って料理出来たんだ。」
「ここで働いてるんだから当たり前だろうが。明日からお前にも手伝ってもらうからな。」
「えっ、俺料理出来ないんだけど。」
「バカタレ、雑用に決まっとるだろうか、だーれが初心者に包丁を渡すか。」
ベルン爺は喋りながらも作業を続けていた。村での様子とは随分違う。
「何か手伝おうか?」
「そんなことよりアランさん、向こうでアルノーさん達、待ってますよ。」
ハンナにそう言われて俺は厨房を急いで通り抜けた。どうやら俺はここに居たら邪魔らしい。
厨房を通り抜けると、そこには昼間の静かな雰囲気とは打って変わってやかましい程の話し声や笑い声が満ちている。その変わりように本当に昼間のレストランなのだろうかと疑ってしまいそうな程だった。
「おーいアラン、こっちだ。」
驚きで固まっているとギルさんの声が聞こえた。聞こえた方に首を向けてみると、丸テーブルに座っている二人を見つけた。駆け寄ると座るように言われた。
「ったく、いつまで寝てんだよ。」
「ごめんごめん、疲れてたみたいでさ。」
「そんなで明日から大丈夫か? やっぱり村で大人しくしとくべきなんじゃないのか。」
「大丈夫だってっ、平気だよ。」
「アラン、あんまり無理するんじゃないぞ。」
「大丈夫だって!」
そんな話をしていると、ハンナが三人分の皿を持ってやって来た。皿には何かの肉のステーキと副菜が盛られている。
「はい、お待ちどうさま。しっかり食べてね。」
そう言い残し、ハンナは忙しそうに去っていった。
辺りを見渡すと俺達が座っているような丸テーブルで、男達が食べ物を食い漁り、酒を浴びるように呑んでいた。辺りの空気には酒と煙草の臭いが濃く漂っている。よく見るとカウンター席の奥ではオズワルドが客に酒を出していた。
「ギルさん達はこれからどうするんだ?」
「散歩だな、最近の街を見てないからな。」
「アルノーさんは?」
「僕もだよ。」
「二人して散歩? まぁ気をつけて行ってきてね。」
「馬鹿野郎、お前も行くんだよ。」
「えっ俺も?」
「ああそうだ。食い終わったらすぐに行くぞ。」
「まあ、いいけど。なんで俺まで……」
俺の言葉は無視をされ、二人は食べ始めてしまった。仕方なく俺も食べ始める。皿に乗っている肉は昼に食べたものとは違う種類のようだ。肉が柔らかくすぐに飲み込めてしまう。二人の屋台の肉の不評の理由が今、分かったような気がした。