2-15.夢物語
「ここで降りるよ。」
御者に運賃を渡し、俺とエミィは大きな十字路の手前で降りた。もう夜は既に空を九割覆っていて、街灯が等間隔に街を照らし始めていた。
俺はエミィの手を引き、十字路と反対方向へ歩き出した。二番目の曲がり角に着くと右手の道に入り、そしてその後も何度も道を曲がった。曲がる度に道は細く曲がりくねっていった。
いつしか、俺達が歩いているのは空き地だらけの人の気配が全く無い場所になっていた。
俺はいくつもある空き地の内の一つに足を踏み入れた。恐らく以前はそれなりの大きな家が建っていたのだろう。しかし今は横に倒された腐りかけの木材と、端に一辺だけ積まれた石材が当時の名残としてほんの少しだけ残っているだけだった。誰の手からも見放されて随分な時間が経っている様で、手入れすらされていない地面には足首程の草が生い茂っていた。
誰もが辺境の寂れた土地に見間違えてしまうこの場所は、その外見に反して街中の真ん中にあった。周りがどこまでも発展を繰り返しているというのに、この場所だけは浮浪者すら寄り付かない禁断の場所なのである。
活気ある筈だったここがこんなに寂れ始めたのは七年前からのことだ。
それはよく晴れた日の街道での事だった。普通の日常を過ごしていた人々を、突然二人の吸血鬼が襲った。憲兵団が駆けつけ二人の吸血鬼が逃げるまでに、八十七名が惨たらしく殺された。
討伐隊はすぐに組まれた。そしてその日の夜、正に今夜の様な暗闇の内で、二つの吸血鬼の命と引き換えに、五十六名もの兵士の命が無残に散った。
ここは一日の昼と夜、二度も血の海に沈んだ。元凶は討伐されたと頭では理解していても、ここの住民は道や建物に張り付く乾いた血を見て、恐怖を忘れることは出来なかった。そして住民は一人、また一人と、ここを離れて行った。いつしか、街中に大きな沈黙の大穴が出来ていた。
俺は崩れかけた家の残骸に腰を落とした。目の前のエミィは既にフードを脱いでいて、金色の髪が風に揺れていた。
「エミィ。」
「……何?」
「いつから知っていたんだ?」
俺は神殿の前でのエミィの質問に質問で返した。
「……ずっと前から。物心ついて、そのすぐ後に。……レイリーは隠そうとしていたみたいだけど、どうしても聞こえて来るの。」
「そうか。……ここが嫌だとは思わなかったのか?ここから逃げようとは?」
「思った事なんて無いよ。……逃げる場所も無いしね。」
「それは本当か?レイリーは何もお前に言わなかったのか?最近、俺がいなかった十日間があっただろう。そのくらいの時間があれば、レイリーが逃げ道を用意しない筈は無いと思っていたんだがな。」
あのレイリーなら、只の孤児院院長ではないレイリーなら、逃げ道の一つや二つ、作っている筈だ。それくらいは用意周到なあいつならしていた筈だ。
「……ごめんなさい。嘘をついた。レイリーからは逃げないかと言われた事はあるよ。でも、私は断った。……ローガン、レイリーを怒らないであげて、レイリーは私を思って言ってくれただけだから。」
「……用意されていて、お前は逃げなかったのか。何故だ?知っているんだろう?お前がこんな境遇にいる原因も、全部。……俺がお前の親を二人共殺した事も、知っている筈だろう?俺が怖いとは思わなかったのか?」
「……私、分からないの。」
エミィは俯き、息を吐く様に言った。俺はその『分からない』とは何の事なのか理解出来なかった。
「分からない?」
「うん。……皆が私の事をたくさん知っているのに、私だけ知らないの。……私、何も覚えてないの。お母さんやお父さんや、今も生きてるかも知れないお兄ちゃんの事も、何も覚えてないの。皆私のことを影で話しているのに、私はその話の中の一つも心当たりが無いの。」
「……」
「私が知らない間に、私は家族を殺されて、一人になっているの。私は何も知らないのに、皆が私を可愛そうだと思ったり、憎んだり、嫌な顔で見たりするの。……でも、私は悲しくないの。……何にも覚えてないから。」
エミィの頬に涙が流れていた。いつの間にかそれは零れ落ちて地面に染みをつくっていて、今も大きくなり続けていた。拳は強く握り締められ震えていた。
俺はエミィが泣いているところを初めて見ていた。こんなに強い感情を吐露する彼女は、普段とは別人の様だった。しかし、別人に思えるその感情は、今迄エミィが抱えて来た本物の思いで、今俺に明かされたのはこれまでずっと隠して来たエミィの本当の思いだった。
「……私、もう嫌だよ。私を、私が知らない私で見られるのは。私がいるのはここなのに、ここで育ったのに、レイリーもケインもまるで、私が帰りたいと思っているみたいに、逃げないか、なんて言ってくるの。私は皆しか知らないのに。」
「……」
俺は彼女の思いを聞いて、何を言うべきなのか迷っていた。頭の中でいくつも言葉を並べたが、正解と思われる言葉は無かった。どれもエミィの慟哭に対して力不足過ぎただった。
「……逃げた先に、ここより良い場所が待っているとは思わなかったのか?同じ歳の奴が一人もいない部屋で、ただ勉強ばかりしているより、ましになるだろう、とは。」
「思わないよ。だって、ここから逃げて、どこか新しくて優しい場所に行ったって、結局そこでも私は、何も知らないままなんだもの。……そうじゃなくて、私は、優しい場所じゃなくて、私が知っている場所で生きたいの。」
それはまるで、どこかの哲学書にありそうな言葉だった。しかしその言葉は、エミィがそこからただ盗ってつけたようなものでは決してなかった。それはエミィの言葉だった。今迄生きてきた分の、とても短いがいつも荒波に飲まれ、針山に刺され、いつしか磨かれていた言葉。愛しい者の善意に苦しめられて、それでなお、そこにいたいと願う強い言葉だった。
「……それなら、お前はこれからどう生きたいんだ?エミィ。」
俺は柄にもないことを聞いた。いつの間にか、エミィの言葉をもっと聞いていたくなっていたのだ。
「……ローガン。私ね……夢があるの。」
「夢?」
「うん。馬鹿な夢だと自分でも思うけど、私ね……憲兵になりたいの。」
エミィの口から飛び出た言葉は、子供がよく口にする微笑ましい夢だった。しかし、エミィがそれを言うと、子供が口にする荒唐無稽な夢よりも実現が困難な夢に変わった。世界から争いが無くなりますように、という夢の次くらいに大人がまともに取り合わない夢の類いだった。
「……ははっ」
喉が掠れる様に笑い声が口に出た。これは決して、エミィを馬鹿にしている訳ではない。エミィの言葉があまりに予想外で、痛快で、思わず漏れてしまった感情だった。
「そりゃいいや。」
俺は腰にあった剣をエミィに投げやった。エミィは驚きながらそれを受け取る。
「エミィ。それで俺を斬ってみろ。」
「えっ?」
剣を不器用に抱えたまま、エミィは呆然としていた。自分の手にあるものをまじまじと見つめている。
「どうした?ただ鞘から剣を抜いて、振れば良いんだぞ?それくらい剣術を知っていなくても出来るだろう?」
「で、でも……」
「何だ?憲兵になりたいなんて言っている癖に、そんな事も出来ないのか?」
「……」
エミィは手にある剣をじっと見ると、覚悟を決めたように剣の柄を持ち、そして銀色の刃を闇夜に晒した。その銀色はエミィの髪の金色とよく調和していた。しかしそれと同時にちぐはぐな印象を受けた。それはエミィの背丈に比べて剣が少し大きいというのもあったが、吸血鬼が聖銀の剣を持っているという、俺の意識が訴える違和感が大きかった。
エミィの構えは勿論、褒められた様なものではなかった。恐らく前に見た憲兵達の真似をしているというのは分かったが、それらしい格好をしているだけで、何の意味も成してなかった。
「い、行くよ……」
「ああ、来い。」
エミィは恐る恐るといった言葉とは裏腹に、駆ける様にこちらに向かって来た。そして勢い良く剣を振り被る。刃が呆気なく空を切る。いや、この様な弱々しい軌跡ならば、空を通ったと言った方が正しいだろう。
「どうした。怖がっているのか?安心しろ、お前にうっかり斬られる程、俺はまだ衰えちゃいないぞ?」
俺の言葉に反発するように、エミィの次の振り下ろしは随分早くなった。しっかりと俺の体を斬ろうとする剣の軌道だった。だが、それも斬るのは空だけで、勢いの付き過ぎた剣は地面にあった大きめの石ころにぶつかった。その衝撃で剣が跳ね返され、エミィは咄嗟に石ころに当たった刃の部分を見た。
欠けてないか確かめたようだったが、聖銀はそんな事では欠けたりしない。エミィは一切傷のついていない刃を見て一安心した様だ。
「なんだ、そんなものか?お前はもっと速く動けるだろう。さぁ、もっと全力で剣を振れ。」
「う、うん……」
俺はエミィをどんどん煽る。こうでもしなければ、今迄剣を振ったことの無いエミィは本気で向かって来ないと思ったからだ。
果たして俺の言葉にエミィは、心の内の禁忌感を捨て去った様に今迄とは比べ物にならない速度で肉薄して来た。それはきっと新兵ならばいつの間にか首を斬り飛ばされている様な速度だ。はっきり言って、人間の限界をあっさりと超えていた。まだ子供の体のエミィがだ。
俺はそれを辛うじて横に避けた。予測はしていたが、予想よりもずっと早かった。子供でこれなら大人になった時にどれ程までになっているだろうと思った。
エミィはその早すぎる速度で引っ張られる様に体を地面に滑らせると、こちらを振り向き構え直した。最初に構えた時と変わらない構えだが、達人より速い斬撃を繰り出すと分かれば、それはある意味恐ろしかった。
エミィはまた、途轍もない速度で肉薄した。俺はそれを今度は余裕を持って躱した。するとエミィは学習したのか、避けられたと分かるや否や突進中だった体の向きを強引に切り替え、こちらに目標を向けた。
体勢の悪さなどをずば抜けた体幹や力で無理矢理に整え、俺が息つく暇も無くエミィはこちらに突進した。既に剣の速さは当たれば確実に即死するようなものになっていた。
俺の目の前を死神の鎌より死を彷彿とさせるものが通り過ぎる。剣筋が悪いこともあってか、それは空を切るというより、空を叩き破るといった音に変貌していた。そしてそれが留まることを知らずに暴れ回る。
いつの間にか、エミィの眼は赤く鮮やかに輝いていた。二本の赤の双眸が、闇の黒を切り裂き駆けた。暴風の様に苛烈に舞って回った。
しかしそれでも暴力の切っ先は空しか捉えず、肉を食い破ることはなかった。いつまでやっても掠りもしない事に、エミィは痺れを切らしたのか、先程より一段と低く深く俺の懐に入り込んできた。
今までの剣の切っ先に当てようとする間合いではなく、それよりも近い剣の根本に当たる様な間合いだ。それほど近づけば、掠りくらいはするだろうとエミィは考えたのだろう。
「それは近過ぎだ。」
しかし、エミィの体は剣を振るう前に吹き飛ばされた。接近し過ぎた為に、俺の体当たりを食らったのだ。エミィは剣を手放し、地面を派手に転がった。突進の速さ分だけ、反動が大きかったのだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
だがそれでもエミィはすぐに立ち上がり、剣を拾った。息を切らしていたが、先程とは正に目の色が違った。そこに諦めの色など、どこにも感じられなかった。
「はぁ……はぁ……すぅ、はぁぁぁぁぁぁぁ!」
エミィは雄叫びを上げながら、一直線に突進をした。それは今日一番の速さで、今日一番真っ直ぐだった。俺を貫こうとする剣は、直線の銀の軌跡を一瞬で描いた。
俺は腰に隠していたナイフを抜いた。目の前には赤い眼のエミィがいた。
そして、暗闇に染まった灰色の廃墟に、銀色の音色が鳴った。それはどこまでも高く、伸びやかに、美しく鳴った。自分の呼吸の音も、踏みしめられる草や土の音も、風の囁く音も、全てが銀色の鐘の音に飲み込まれた。
その長くて短い間は、どこかで剣が落ちる音で終わりを告げた。耳に届く音は正常に戻った。俺の前には相変わらずエミィがいて、剣を持った手の形のまま呆然としていた。
俺は手に持ったナイフを見た。刃に一つ、大きな欠けた跡があった。俺はそれを元通りに仕舞った。それと同時に、エミィが膝を落として座り込んだ。
「……弱いな。」
俺は呟く様に言った。
「……うん。」
「とても夢を叶えられるとは思えない。」
「っ……うん。」
「馬鹿な事を言うのは止めて、じっとしているのが身の為だ。そうすれば、生きることくらいは出来るだろう。」
「……」
「それでもお前は、夢を叶えたいのか?」
「……うん!」
「……そうか。」
それは、前線を生きた者とは考えられない最悪な行動だった。恥ずべき事だった。今も前線で戦う仲間を裏切る様な行為だった。この国の、この街に生きる人間として、完全に間違った選択だった。
「それなら……」
しかし、俺はこの行為に迷いを抱いていなかった。それは何故かは分からなかった。分からなかったが、確信に似た感情が俺の心の中にあった。
これはレグル派の様に、エミィを人間と同じ様に見ているという訳ではない。外の脅威からエミィを守るものでもない。これは寧ろ、安全な場所から危険な場所へ後押しする行為だった。
ならばこれは何なのか、俺はこの感情を表せる言葉を知らない。知らないが、これは人に対する心ではなく、行動に対するものであるという事ははっきりと感じていた。これは敬意の様な、希望の様な、未来に向かう想いだった。
「エミィ、お前に、剣を教えよう。」
これは大きな決断だった。前から見ても後から見ても、俺はここを大きな分岐点だったと思うだろう。しかし、今の俺はこの道以外に、ここに分かれ道は無い様に感じていた。これは確かに一世一代の大きな決断だったが、道を選んだ訳ではなかった。俺は迷い無く、確信を持ってこの一つだけの道を選んでいた。




