2-13.吸血鬼の少女
夢を見ていた。それは決して見ていて楽しい夢ではなかった。寧ろそれは、幸せだとか楽しいだとか、そういう良い方向の感情とは真逆の夢だった。その夢は血の臭いがした。しかしそれは、体を全て動かして、生きるか死ぬかを賭けて斬り合い、自分の汗と共に嗅ぐものではなかった。その夢で血と共に流れるのは、涙だった。
強烈な死の臭いが、冷静な感情を頭の片隅に追いやった。しかしそこに出来た空間に埋まるものは何も無く、ただそこに大きな穴が出来ていた。穴を埋めようとして手を伸ばしても、この空間を埋めてくれるものはどこにも有りはせず、手は空を切り、穴は痛々しくそこにあるだけだった。
目の前に血の赤が広がっていた。所々に乾いて黒ずんだ部分があり、その光景が作り出されるのには、かなりの時間が掛かった事が分かった。その場所は檻の中だった。人を十数人押し込めるくらいの大きさの檻。その中には十数人の人が入っていたのだが、それは全て死体に変わっていた。生きているのは元の色が銀色だと辛うじて分かる程血に染まった剣を持つ二人だけだった。足下に積み重なる死体は様々な大きさのものがあった。普通の大人の大きさのものから、まだ小さなものもあった。それ等は全て、死んでいた。
俺は壁にもたれ掛かり床に座っていた。目線の先には胸を大きく切り裂かれた男がいて、その眼は鈍く赤く染まっていた。その仰向けに倒れた男に覆い被さる様にして、女が泣いていた。部屋は薄暗く、ここで戦闘があったのだと分からせる傷跡が家具や壁に刻まれていた。女は泣きながら何かを言っている様だったが、何を言っているのかはわからなかった。いや、分かりたくなくて頭の中で耳を塞ぎ、その言葉を俺は理解しようとしていなかった。俺の手には血に濡れた銀色があった。
そこはまるで戦場に戻って来た様な凄惨な場所だった。そこかしこに鎧を着けた兵士が横たわり、地面や壁に、その兵士達に入っていただろう血がぶち撒けられていた。誰が死んでいるのか確認したくなかった。だから俺はこの地獄を作り出した者を、その場から逃げる様に探した。そして犯人を見つけた時、その女は死にかけだった。その体は血だらけで、それが返り血だけでない事は誰でも分かった。そしてその死にかけの体で、女は自らの歩いた道を示す様に、壁に寄りかかり血の痕をつけながら、どこかへ行こうと歩いていた。俺は、その無防備な背中に、剣を突き立てた。
目を開けると、俺はいつもの部屋のソファに寝そべっていることに気がついた。視線を少し横にやると、机の上にいつもより高く積まれた報告書があり、昨日はその処理に疲れてここで寝てしまったのだと思い出した。
嫌な感覚がある顔を撫でると、掌に汗の油がべっとりと張り付いた。寝ている間にかなり汗をかいたらしい。昨日の夜は特別暑い訳でもなかった事から、これの原因はあの夢なのだろう。
あんな夢を見るのは初めてだった。今迄は心の下で押し殺せていた筈だったのだが、今回ばかりは違った。それはきっとあの吸血鬼のせいだ。俺は頭の中で文句を言いながら、体をソファから引き離した。寝覚めが悪いのか、体が全体的に重い。俺は体を起こしながら部屋を出る扉を開けた。
一番近くの手洗い場に行って、水で顔についた鬱陶しい油を流す。それと同時に水の冷たさで、頭と体が覚醒をしていくのを感じた。濡れた顔の水滴を拭き取っていると、完全に意識が冴えた。
少し薄暗い廊下は日が入っていなかったが、窓の外から見える西棟の壁が差し込む光によって下半分が灰色に、上半分が真っ白に見えている事から、太陽が出てから少し時間が経っているのが分かった。
俺が廊下を歩いていると、後ろから足音が聞こえた。こんな朝早くに誰かと思って振り返ると、そこには白髪の老人がいた。しかしその老人は年寄りらしからぬ屈強な肉体をしていた。俺はその髭だらけの顔のこの人物は誰だったかと思い、記憶の奥底から当てはまる顔を探し出そうとした。
ようやく思い出した。この男は憲兵団の教官だ。随分前に現役は引退したが、本人の意思と好意により、主に新兵の指導をしている。前に会った時はきちんと髭を剃っていた為、記憶の物と上手く一致させる事が出来なかったのだ。
「少し、よろしいですか?団長。」
彼は言いにくそうに敬語を使った。普段は兵士達に檄を飛ばしているばかりだからか、無理をして使っている印象だった。
「どうしたんだ?こんな朝早くに。」
「あー、……実は、お願いがありまして。」
「お願い?」
「はい、この前、あの吸血鬼の子が訓練場に来ていたんですが……その時は隅で見るだけで邪魔をしないと、レイリーさんが言うもんですから許可を出したんです。けれども、後で兵士達から『気になって集中出来ないから、やめてくれ』と結構な人数に言われましてね。それで、もう訓練場に来ないようにして欲しいんですよ。」
「……ふむ。」
「本当は俺が叱っておくところなんですが、あいつらがどうしてもって言うもんで。……最近は吸血鬼が多くて、実際に襲われている奴もいて、皆気が立ってるんです。気持ちを汲んでやって下さい。」
「そうだな。確かに配慮が欠けていたか。……分かった、もう邪魔はさせないようにしよう。」
「ありがとうございます。では、俺は朝の訓練を見なきゃいけないので、これで。」
老人は気持ち足取りを軽くして去って行った。後輩達を慮っていた発言ばかりをしていたが、きっと本人も吸血鬼が近くにいるのは気になっていたのだろう。
今、吸血鬼達の被害が増えているのは街の人々だけではない。憲兵団の兵士達もまた被害が増えているのだ。吸血鬼との戦闘になり、大怪我をしている者もいれば、命を落としてしまった者もいる。
いつも見ている俺からすれば無害に見えていたエミィも、他からすれば数年前に大虐殺を起こした吸血鬼の子供であるのだ。それをうっかり忘れていた。本当に配慮が欠けていた。
俺は一体何をやっているのだろう。冷えた廊下で、俺は一人で溜息をついた。
部屋に戻ると、目の前のソファにエミィが座っていた。いつもの定位置で、いつものように本を読んでいる。俺は向かい合うソファに静かに座った。
俺はまた、自分は何をやっているんだろうと思った。そして何をやろうとしているんだろうと思った。
あの教官もタイミングが悪い。せめて明日に話してくれたら、今の俺の心持ちは大きく変わっていたというのに。あんな話をされた後でこんな事をしようとするなんて、まるで俺が裏切った様になるではないか。
「……」
エミィが伺う様にこちらを見ていた。向かい側のこの場所に座るのは大抵何か話す事がある時だから、何を言うのか待っているのだろう。
俺は一旦目を閉じ、心を落ち着かせた。これは必要な事だと言い聞かせた。そして、目を開ける。目の前には変わらずエミィがいた。
「エミィ。」
「何?」
「街に行きたい、と言っていたな?」
「……覚えてたの?私、てっきり忘れられちゃったとばっかり……」
エミィは目を見開いて、開かれていた本を閉じた。テーブルの上に分厚い本が音を立てて置かれた。
「連れて行ってくれるの?」
「ああ……誰にも話していないな?」
返事をする変わりに、エミィは首を大きく縦に振った。自信に満ちた顔で、その様子から俺は嘘をついていないだろうと思った。
「なら良い。今日だ、今日行くぞ。」
「えっ、今日?」
「ああ、今からだ。」
「今から?ちょっと、急過ぎるんじゃない?」
「なんだ?行けない理由でもあるのか?今が駄目なら、もうずっと街には行けないぞ。」
「だ、大丈夫。行けるよ。」
エミィは慌ててテーブルに手をついて身を乗り出した。
「そうか、じゃあ外套を持って来い。……ほら、早く。」
「う、うん……」
何か言いたげだったが、結局何も言わずにエミィは部屋を出た。俺はまた目を閉じ、溜息を吐いた。そして目を開けると、目の前のテーブルの上にある数冊の本を脇に退かした。そうした後に立ち上がって、廊下に繋がる扉の鍵を閉める。これでもう誰もこの部屋に入る事は出来ない。
体を反転させ今度は机の方に向かって歩く。机の上には積み上がった紙束があって、それもまた真ん中を開ける様に端に寄せた。
窓の外を覗くと、もう聖道にはたくさんの馬車が走っていた。俺は窓を開けて、辺りを見渡す。聖道に沿って目線を目の前に向けると、本部の敷地と一つ道を挟んだ先に三階建ての建物があった。そしてここは四階の為、その平たい屋根を上から見る事が出来た。
「よし。」
呟きながら俺はこちらを見ている者がいない事を確認した。窓から離れ、部屋の隅に置いてあるハンガーから少し古びた外套を手に取り、これを着るのも久し振りだ、と思いながら腕を通す。そして深くフードを被った。
そこでエミィが戻って来た。腕に外套を掛けて持っている。エミィはこちらを見ると少し驚いた顔をした。
「ローガン。どうして部屋の中にいるのに、もうフードを被っているの?」
「いいから早くそれを着ろ。」
「でも、」
「早く。」
渋々といった様子でエミィは腕にあった外套に頭を通した。
「でも、ローガン。こんなに朝早くなのに、こっそりここを出て行くなんて無理だと思うんだけど、一体どうするつもりなの?門には衛兵さん達がいるし……それに抜け出しても誰かが私達がいない事に気がつくんじゃない?」
「その為に今日まで用意してきたんだ。今日の分の仕事を早めたり遅らせたりして調節して、緊急の事も副団長に任せてある。そして仕事以外で来る奴等、レイリーは孤児院の視察でケインはサインクラストで重要な任務をやった。……さて、無駄話は外でいくらでも出来る。フードを深く被れ。火傷しても俺は知らんぞ。」
「今日はここに誰も来ないのは分かったけど、でもやっぱり気付かれずに外に出るのは無理じゃないの?門番の人達をどうするのかまだ聞いてないよ?」
「監視がいるなら、そこを通らなければ良いだろう。」
俺はフードを深く被り顔が見えなくなったエミィを肩に担ぎ上げた。エミィの体は拍子抜けする程軽かった。
「な、何するの?」
「落とされたくなかったら暴れるなよ。それと静かにしていろ。舌を噛みたくなかったらな。」
俺はエミィを担いだまま、鍵を閉めた扉の前まで歩いた。俺の目線の先には、開け放たれた窓がある。
「行くぞ。」
「えっ?えっ?」
まだ何が起きているか分かっていないエミィを尻目に、俺は助走をつけ始めた。最初は小さな歩幅で、速度がついてきたら大きな歩幅で。幸いにしてこの部屋はそれが出来るくらい広かった。
大きな歩幅で二歩走って目の前のソファを飛び越しテーブルを蹴る。もう一つのソファを飛び越したらもっと速度を上げる。机まで三歩全速力で走って机に飛び乗る。
そして俺は最後の加速をする為に机の端を思い切って蹴る。俺の足はとうとう窓の縁に掛かり、そして、俺の体は宙に浮いた。
太陽の光に目を細める。どこか間延びして見えた時間も通り過ぎ、足下にあの建物の屋根が近づいた。俺は両足で勢いを殺す様に着地する。しかし勢いが強過ぎたのか、足と屋根は少し滑ってからようやく止まってくれた。
俺は肩に担いでいたエミィを下ろす。しかしエミィは立つことなくその場で座り込んでしまった。立つ代わりにエミィは振り返り本部の方を見る。そしてまたこちらに向き直して何かを言おうとして、口が動くだけに留まった。驚きで声が出ていないようだ。
「……今、あそこから飛んだの?」
「ああ、別にそんなに驚く程の事じゃないだろう?お前ならこちらから戻る事すら出来るだろうしな。」
「それもだけど、何で前もって言ってくれないの?」
「監視が戻る前に、さっさと部屋を出たかったんだ。これまでの事を無駄にしたくなかったからな。」
「監視?」
「さて、とっとと屋根を降りようか。」
屋根の上というのは視界からは普段見えない場所だが、見上げられると簡単に見つかってしまう場所なのだ。
隣でエミィの視線を感じたが、無視をする事にした。誰かに見られるということだけは避けたかった。




