2-12.二人の少女
俺は手の込んだ装飾がされた扉を開ける。部屋には数人の装備を外して身軽になった本部の兵士達がいて、広めの客室の中で思い思いに寛いでいた。
「団長。お疲れ様です。」
「ああ、お疲れ。寛いでいるところに悪いが、急がなければならない用事が出来た。今から人喰いを乗せてここを出るぞ。今すぐにだ。」
「今すぐにですか?」
兵士の顔が驚きに染まる。他の兵士達も視線をこちらに向けた。その表情には何故なのかという疑問の言葉がありありと浮かんでいた。
「理由は後で話そう。ともかく、一刻も速く人喰いを護送車に運べ!」
会話を打ち切る様な号令だったが、兵士達はそれを聞くと考えるより早く行動に移った。手にあったカップを放り投げて武具を装備する。準備は一瞬で終わった。
「これは一体どういう事ですかっ団長!」
薄暗い中庭に支部長の驚愕の声が響き渡る。昼間に着ていた格式張っていて動きにくそうな軍服とは違う、身軽な服装をしていた。
「どういう事も何も、報告に行かせた部下の言う通りだ。」
「そんな、いきなり牢屋の囚人を外へ出してもらっては困りますよ!一体どうしたと言うのです?」
「それについてはすまないと思っている。しかし急がなくてはならない用事を思い出してな。本当にすまない。」
「いえ、しかしっ、それでも前もって私に報告して頂かないと――」
押し問答をする俺達の横から馬車の車輪が回る音と、馬の大きな嘶きがすぐ近くで聞こえた。そちらを向くと目の前に大きな鉄の箱を牽いた、見上げる程大きな馬が二頭いた。
その馬達は大柄である筈の俺の頭よりも高いところに背中があり、頭などはそれこそ首が痛くなる程見上げなければならなかった。色は闇に紛れる真っ黒で、休んでいたところを起こされて腹が立っているのか鼻息が荒く、合わせて四つある大きな目はじっと俺達を見つめていた。
支部長は上から突然降りかかる嘶きに驚き、馬から離れる様に後退りをした。その隙を突いて俺はさっと御車台の上に登る。
「ああっ、待って下さい、話は終わっていませんよ!」
「安心しろ。少し予定が早まっただけ……いや、元に戻っただけだ。貴方に都合の悪いところは一つも無い。」
「そういう問題ではありませんっ。人喰いなどというものは、もっと慎重に扱わねばならないのです!」
「それについても問題無い。部下達は捕獲の専門の者達で、人喰いの扱いや対処は俺が一番分かっている。こいつ等は無事に王城まで送り届けられて、然るべき対処をされる。何の問題もないだろう?」
「し、しかし……」
支部長は何かを言い淀む。
「出してくれ。」
だが、支部長が言いたかった言葉は馬車の音に掻き消される事になった。俺の隣にいた兵士によって馬は走り出し、そのまま馬車は速さを増して、遂には支部長は建物の群れに隠れて消えてしまった。
「こんな事をして良かったのですか?」
隣にいる手綱を持った兵士が聞く。馬車の受ける風に掻き消されないように、少し声を張っていた。
「少し、ハイドントルの支部長に失礼だったのでは……」
「失礼どころか、もう少し過激だったら、あの支部長は剣を抜いても良い程だったな。」
「それならどうしてこんな風に突然、奪う様なやり方をしたのですか?」
「……そうしなければ、俺達の仕事が失敗しかねなかったからな。」
「一体、どういう事なんです?」
「今俺達の丁度後ろにいる人喰いの二人組が、殺されるかも知れなかったんだ。」
――支部長は人喰いを殺す気だ。急いだ方が良い。
先程、ヘイゲルが雑談の間に紛れ込ませた言葉は、恋愛話などという穏やかなものでは決して無かった。俺達より前に支部にいたヘイゲルは、人喰いを手に入れた支部長を危惧していたのだ。
「支部長が、殺す気?どういう事なのですか?」
「俺もあの支部長の事はあまり知らないが、あいつは両親を人喰いに殺されている。今じゃ珍しい事だ。人喰いに独立されてから、エルラインには人喰いがほぼいなくなっているからな。……それで、前線にいたあいつは復讐出来る相手がいないまま、怪我をして前線を退いた。ここまでは俺も知っている。前線にいたあいつを見た事もあるからな。それで、ここからは唯の俺の想像なんだか……」
「……」
「街の中にいて吸血鬼しか手元に来ないあいつに、ようやく復讐出来る相手が現れた。それで復讐しようとしたが、想像以上に俺達が到着するのが早かった。それで焦ったんじゃないか?だから一晩休んでいけなんて事を咄嗟に言って、時間稼ぎをした。」
「しかし、復讐したいなら、もっと早くやっているのでは?捕獲したのが三日前と、私は聞きましたよ。」
「生きて引き渡せと言われている者を分かりやすく殺すのを躊躇ったんじゃないか?だから餓死させようとした。……人喰いのあいつ等は肉を長い間食っていないみたいだったが、それ以前に普通の飯も食って無かった。お前も見ているだろう?あの二人組の人喰いの痩せてる姿を。」
「それでも、信じられません。命令を無視してそんな事をするなんて。」
「まぁ、もしかしたらそんな事はしてないのかも知れないがな。ヘイゲルと俺の勘違いかも知れない。」
「え?」
手綱を握ったまま、兵士は拍子抜けだという顔をした。どっちなんだという声が聞こえて来そうだ。
「これは唯の想像なんだ。もしかしたら本当に餓死させようとしていたのかも知れない。もしかしたら人喰いが飯を食う事を拒否していたのかも知れない。どちらかは分からない。……だから俺は支部長に命令違反をしただろうなどという事は一切言っていないだろう?無理矢理俺が人喰いを連れ去っただけだ。」
「じゃあ何故態々こんな事を?」
「これは保険さ。もしもの為のな。……俺だって出来る事なら復讐を手伝ってやりたいさ。だが、これは仕事なんでな。」
「そ、そうだったんですか。では、支部長は関係無く、人喰いを餓死で死なせない為にこんな手荒な方法を取った、と。」
「そういう事だ。……すまないな、付き合わせてしまって。本部に戻ったら、その分の休みを多くするように取り計らおう。」
「いえ、私達は結局、今回の件では何もしていませんよ。それに、支部長もそこまで落胆していないのではないでしょうか?どうなったとしても、結局はこの人喰い達も騎士団の元に連れて行かれて、苦しんだ後に死ぬのでしょう?寧ろ餓死よりも苦痛を多く与えられて死んだだろうと、支部長は満足するのではないですか?」
「もしかしたら、そうかもな。」
きっとそうなるだろう。後ろにいる二人の少女は、どうなろうと生き長らえる事は無い。この街に入り込んだ悪魔に人々は容赦を知らない。
この人間の街で、人間と生きようとする方が間違っているのだ。エミィなどは例外中の例外で、この国は吸血鬼と人喰いを相手に、何百年も生きる為の殺し合いをしてきたのだ。そんな者達に慈悲を与える存在など、ほんの一握りの、憎しみや怒りを何らかの形で超越してしまった異常者だけなのだ。
夜は長く続いた。その間に冷たい風はずっと吹き続き、赤レンガの赤が流れ続けていた。それはまるで業火と血の飛び交う戦争そのものを流し見ている様で、その赤には怒りの赤が混ざっていた。しかしその怒りが、人間の物なのか、吸血鬼の物なのか、人喰いの物なのか、俺には判別する事が出来なかった。
王城へ着いた俺達を迎えたのは騎士団長のライノス、そして周りにいる他の騎士団員だった。その誰もが門を潜るこの馬車を注視しており、張り詰めた空気が少し遠くからでも感じられた。
時間は真昼を過ぎた辺りで、今日の天気は特別に良く、更に太陽も最近は絶好調だった。馬車で風を真正面から受け、外套を被り日光を遮断していた俺でも、暑いと感じざるを得なかった。それはあの団長室に帰って執務でもしていたいと初めて思う程だった。
馬車がゆっくりと速度を落として、王城の入り口に止まる。ここは裏口の様な場所で建物が入り組んでおり、馬車が止まった場所も日陰になっていた。しかし走っていた時の風が消え空気が停滞すると、暑さを和らげていた空気が途端に体に熱を纏わりつかせるものに変わってしまった。
それで外套の首元をはためかせていると、こちらにライノス達が歩み寄るのが見えた。特に何かの重要な式が執り行われている訳ではないというのに、ライノスの後ろにいる六人の騎士団員達は、美しい程一糸乱れぬ整列をしていた。
「よう、ライノス。依頼の人喰いだ。」
「ああ、ありがとう。随分と早かったな。見つけたという報告を受け取ってから、まだ十日しか経っていないが。」
「早い方が良いと思ってな。」
「ああ、有り難いよ。……そうだ、久し振りに会ったんだ。少し話でもしよう。……おい、お前達、人喰いを運んでくれ。」
号令が掛かった騎士は威勢の良い返事の後に、駆け足気味に馬車の後ろに回って行った。俺とライノスはその横を通り過ぎ、そして王城へと入った。
俺とライノスは光が足下に差し込む、長い長い廊下を歩いていた。近くに人の気配は無く、遠くの方で何か人が話している事が分かる程度だった。
「ありがとう、ローガン。今回は本当に助かったよ。」
「そう思うなら街に入り込む前にお前達だけで解決してくれ。……こんなに長く馬車に揺られたのは久し振りだよ。」
歩きながら俺は愚痴を零した。日光に照らされた足元から熱が這い寄って来ていたが、外にいた先程よりかなりましな暑さになっていた。
「……私達も、入り込ませようとして前線を守っているのではないのだがな。奴等、もう我々とはまともに戦う事をせずに、とにかく街に侵入する事に全力を注いでいる。」
「ヘイゲルも同じ様な事を言っていたな。そこまで露骨なのか、奴等は。」
「ああ、最近は忍び込むという事すら放棄して、数で無理矢理押し通ろうとするくらいだ。」
「そりゃ随分と舐められてるな。」
「しかし有効だ。聖銀は奴等をまともに斬り倒す事が出来るが、当たらなければ意味が無い。更にその様な行為が前線の全ての地区で起こっているんだ。正直、いくら人手があっても全く足りない。奴等を街に侵入させないという事は、不可能だ。」
ライノスの顔は苦々しく歪められていた。その目は憎たらしい誰かを見ていて、その言葉には悔しさが篭められていた。俺はライノスが決して無能ではないという事をよく知っている。この男はきっと戦争が終わり、俺が前線を離れた後でも前線に残り続け、魔の手から街の平和を守ろうとした。
しかしそれは失敗に終わった。長大な国境線と圧倒的な数により、侵入を防ぐ事はどうやっても不可能だった。
「そんなこと、分かっているさ。オルトラムは大きくなったが、隣はそれ以上に大きい。そんなに簡単に対策が出来るなら、先人達は苦労してない。……まぁ、街に入り込んだ奴等は、俺達が一つ一つ潰していくさ。」
「……頼んだぞ。」
「言われなくても、近くに吸血鬼やら人喰いがいると思うと、ぞっとしないからな。……ああいや、そういえば近くに吸血鬼はいたか。」
俺は人間かぶれの吸血鬼を思い出していた。
「街の中にはそんな者もいたな。最近ようやく貴族達から話題になることが無くなって失念していた。」
「全く、王様の『十分に育ったとき』というのがいつなのか、はっきりして欲しいもんだ。まさか、忘れている訳じゃないだろうな。」
「あの御方に限ってそれは無いだろう。……まぁ、あの王が考える事だ。悪いようにはならんさ。」
いつの間にか、俺達は王城内の広場の様な場所の端にいた。広場の真ん中では多くの騎士達が一人一人向かい合って剣を振っていた。その怒号は歩いている途中で聞こえ始めていた声で、今では耳鳴りがする程迫力のあるものになっていた。
「……それで、あの人喰いの二人組は何者なんだ?」
不意打ちする様に俺はライノスに質問を投げ掛ける。それに対してライノスは少しの間考えると、言葉を選ぶ様に言う。
「あの二人は、もし捕えた人喰いの言う事が正しいならば、今お前が保護しているあの吸血鬼、あれが霞む程の重要な人物になる。」
「ほう?それは、嬉しいような、嬉しくないような……いや、どう考えてもきな臭い分、嬉しくないモノなんだろうな。」
「まだ本当かどうか確かめてないから言う事は出来ないが、もし本当だと分かれば、ローガン、お前に一番に報告するとしよう。」
「期待せずに良い知らせを待っているよ。まぁ、最悪さえ避けてくれれば問題は無いさ。」
ライノスのどう考えても問題が発生するだろう発言に、俺は軽口で返した。しかし、心の中で俺は後悔に暮れていた。エミィが霞む様な人物など、どんな事になろうと面倒な事になるに決まっている。
あのまま餓死させておけば良かっただろうか。そんな何の役にも立たない考えが頭の中で巡る。取り返しはもうつかないのだ。面倒を回避しようとして、とんでもなく深い落とし穴に落ちてしまった。もう俺には心の片隅で諦めながらも、これから起こるだろう事態が小さいものになるよう、祈る事ぐらいしか出来なかった。
太陽は自分の熱を地面に落とし、その熱はあやふやな実体を持って体を取り囲んでいた。先程まで鬱陶しいだけだったそれは、いつの間にか体に巻き付く鎖になって、俺は未来と温度にどうにもならない焦燥を感じていた。じわりと汗が額を流れた。