2-10.不思議な日常は緩やかに流れ去る
またもや日常回に見せかけた説明回です。
本当は話の中に織り交ぜながら全部書ければ良かったのですが、私にそんな力はありませんでした。
「――つまり、この国の歴史というのは吸血鬼との戦争の歴史、という事さ。」
エリオットはそう言った後に一息ついた。その隙にエミィは手元にあるノートに要点を纏めて書き連ねる。部屋にはペンが忙しく走る音が聞こえていた。
俺はその部屋の片隅で本を読んでいた。それは本棚から適当に取り出した少し大きめの本で、かなり内容の古いものだった。種類としては小説の様だが、所々に今と違う言葉遣いがされている。
エミィのペンが響かせる音が無くなると、エリオットは隅に置いてあった分厚い本をテーブルの真ん中に持って来て、そしてそれを広げた。一枚一枚が分厚い羊皮紙で作られた本で、どうやら地図の様だった。今開かれている頁には俺達の住む大陸が描かれていた。
「さて、人間の国の話は軽く通したし、今度は外について話そうか。吸血鬼達に王が現れる所からだ。」
「ようやく、外の話?」
エミィはそう零したが、その声色には抑えきれない好奇心が入っていた。今迄のこの国の話より、ずっとこちらの方が興味がありそうだった。
「そうだよ、これから僕の分野の話さ。さて、まず吸血鬼の王についてだね。この人物も物語か何かで一度は聞いた事があるんじゃないかな?」
「うん、あるよ。……怖い目を持った悪魔の生まれ変わり、だっけ。」
「そうだね。大抵の物語にはそういう風に悪者として取り上げられる事が多いね。まぁ、実際には生きている年代が今からは遠過ぎて、禄な文献が残っていないんだよね。特に出生については全く分かって無いんだ。あるのは物語に書かれている様な、王は突然現れて、配下を連れて大地を北から人間達の国々を侵略した。ということだけ。」
エリオットは言い終わると、指を地図の上に乗せた。
「そうして、その王の死後もその子孫達の侵略は続いて、結局人間達はここまで追い詰められる事になった。」
その地図には紙の切れ端の北の方から、突き出す様に大陸が一つ描かれていた。エリオットはその大陸の一番南、アドワベル山脈と海に挟まれた場所、丁度今の王宮があるエイドスの土地を指差した。この地図上にはそれを含めても人間の街が三つしか描かれておらず、オルトラムは北の大陸から押し潰されそうな程小さな国だった。
「さて、少し話が戻るけど、この吸血鬼の王はとんでもない人物でね。今迄伝えられてきた伝説の中には、この王はこの地上のものとは思えない程の力を持っていたとされていて、例えば、一つの家程もある岩を持ち上げてそれを投げて城壁を壊したり、たった一晩で大陸の隅から隅まで移動したり、剣で斬ったとしても煙の様に手応えが無くて、水が元に戻る様に斬った途端に傷が治ってしまったり、まぁ何でもありの人物だったんだ。」
「……何だか、嘘くさいね。」
「まぁ確かに、いくらかは誇張かも知れないね。でも優秀な人物であった事には違いが無かった様でね。勿論沢山の子孫をつくった訳だ。そして仲間と一緒に大行進さ。人間の国は次々と無くなっていった。」
「……」
「そんな吸血鬼の王なんだけど、彼はどうやら少なくとも生物であった様でね。寿命で死んでしまうんだ。そして残ったのは数多くの吸血鬼の王の子供達。そんな吸血鬼の王の子供達は父親がいなくなって最初に何をしたかというと、内戦をした。」
「え?」
エミィは何を言っているのか分からない、という顔をした。
「何で?何があったの?家族なのに何でいきなり争うの?」
「いきなりで驚くかも知れないけど、記録にはそうあるんだよね。本当に王が死んだ直後に、肥大化した吸血鬼達の領内で彼等はいくつもの集団に別れた。原因としては諸説あるんだけれど、一番言われているのは増え過ぎたことだね。」
「増え過ぎた?」
何を言っているのだろう、と未だに分からないという風に、エミィは困惑を表に出している。
「そう、増え過ぎた。もう一人だけの王様の椅子じゃあ、なる人にとっても、支配される人にとっても少な過ぎたんだ。」
「皆が王様になりたいから、喧嘩しちゃったの?」
「そうだね。それに増え過ぎたことで、人間も足りなくなった。……エミィちゃんも血を飲むだろう?」
「うん。」
「その人間の血が圧倒的に足りなくなっていたのさ。だから彼等は人間も求めた。」
「でも、それなら内戦じゃなくて、一番最初にこの国が狙われるんじゃないの?」
「いい所に気がつくね。それじゃあ、もう一度、この地図を見てみようか。」
エリオットはまた地図の上に指を置く。エミィの視線はそれに従って机に動いた。
「これは二百年前くらいのオルトラムを表しているんだけど、大陸に比べて小さいって思わないかい?」
「確かに小さいけど……それがどうしたの?」
「つまりね、もう既に侵略するだけの価値がオルトラムには残っていなかったんだよ。ほら、見てご覧。オルトラムはこれだけの土地なのに対して、吸血鬼の王の子供達はこれだけの領土があったんだ。それならば、こちらの土地を奪い合った方が何倍もましだったんだ。」
エリオットは大陸の南の端から、西の方の大地にまで指を動かした。
「こんな小さな国を態々侵略するよりも、こちらの手付かずの大地を開拓した方が効率的だ、という風にオルトラムの隣にあった国、当時のエルラインもそう思った訳だ。……まぁ、簡単に言えば、僕達の国との戦争をほったらかしにして、食料の確保を優先したんだね。もういつでもオルトラムなんて潰せると思ったんだ。……でも、これが現在までこのオルトラムが生き残った理由になって、このアドワベル山脈周辺の土地を全て失う原因になってしまうんだから、分からないものだよね。」
エリオットはエイドスからアドワベル山脈の周りにある平野を反時計回りにぐるりと指先で撫でた。そして脇に置いてあったもう一冊の本を開き、既に開かれていた本の上に乗せる。そこには今現在のオルトラムの地図が描かれていた。
アドワベル山脈は大陸の突き出した部分に、水が器に収まる様にしてあるオルトラムを、西の海岸線の真ん中から真横に真っ直ぐ四分の三横断するようにしてある。オルトラムは先程の地図と比べても、少なくとも面積がニ十倍にはなっていた。
「さて、こういう理由でオルトラムは五十年の間、ほぼほぼ放置をされていた。そして、このまま生殺しの状態で存続するかに思われた五十年後、そう百五十年前だ。その時、人間達に転機が訪れた。もう分かっているかも知れないけど……そう、聖銀の登場だ。」
エリオットはエミィを見やって、言い放った。練習した通りの授業の運びになったらしい。その顔には笑みが隠せないでいる。それは研究者というより、教師の様な顔だった。
「といったところで、今日の授業はここまでだ。続きはまた今度だね。」
「え〜、ここで終わり?」
「ははは、それじゃあエミィちゃん、今日の宿題を出そうか。今日は――」
エリオットは何やら本を捲りながらエミィに宿題を言い渡す。エミィは不貞腐れた顔をしながらもそれをノートに走り書きで書き留めていた。
俺達がエミィの部屋を出て、団長室まで戻るとそこに丁度居合わせたかのようにレイリーがそこにはいた。手にはトレイを持っていて、紅茶などが載せられていた。
「おや、丁度良い時間だった様ですね。ディノワール様、お茶でも如何ですか?」
レイリーがエリオットに尋ねる。丁度良いというより、態々時間を見計らってこの部屋にきたのだろう。
「ええ、頂きましょう。」
「ローガン、貴方もついでにどうですか。」
「……貰うとしよう。」
俺達はソファに座り、レイリーがカップに紅茶を入れるのをじっと見ていた。やがて人数分のカップから湯気が上るようになり、誰が合図するわけでも無く、皆が紅茶を楽しんだ。
「ディノワール様。エミィの勉強の調子はどうですか?」
「ええ、エミィちゃんは優秀な子だと思いますよ。特に問題があるところは見当たりませんね。」
「そうですか。それを聞いてほっとしました。」
「心配しなくても大丈夫だよ、レイリー。……ちょっと宿題が多過ぎるとは思うけど。」
エミィがエリオットの方をちらりと見た。
「勉強にやり過ぎなんて無いさ。何故なら、学問というのは毎日発展を繰り返していて、どれほど熱心に勉強に励んでいたとしても追い付く事なんて不可能なものなんだからね。」
紅茶を飲んでいたエリオットはエミィをそう言って諭した。
「ええ〜、でも先生、宿題が多過ぎると本が読めなくなっちゃうから、少しで良いから減らして欲しいんだけど、ダメ?」
「……ふむ、考えておくよ。」
確かに、最近のエリオットはエミィの利口さに気づいてから、授業の速度や難度をどんどん上げていた。それだけでなく、エリオットは授業するのが楽しくなってきたのか、俺に授業の時間の引き伸ばしを求めるまでして、本来の内容とはかなり逸脱したものもエミィに教えていた。
本来の勉強の内容はしっかりとやっているので何も言わなかったが、エミィにとっては負担になっていた様だ。しかし、俺としてはそちらの方が都合が良かった。
何故なら最近のエリオットからの宿題に忙殺されているのか、エミィはここに住み始めた当初と違い、「私はいつになれば孤児院に戻れるの?」という質問が無くなってきているからだ。このまま勉強に忙殺され続けてくれれば良い、とすら思っていた。
時間はこれ以上無いという程に緩やかに進んでいた。しかしそれでも時間は過ぎるものである。皆のカップの中からは紅茶が無くなり、この時間もそろそろ終わりだろうか、というそんな時だった。部屋にドアがノックされる音が唐突に響いた。
「団長、ケインです。渡された報告書の始末、終わりましたよ。」
「ああ、入っていいぞ。」
ドアノブが捻られ、ケインが分厚い書類の束を持って部屋に入って来る。
「おや、そういえば今日はエリオットさんが来る日でしたね。もしかして、お邪魔でしたか?」
「いいや、今はただエミィちゃんの勉強の疲れを癒しているだけだったからね。それにそろそろお暇しようかと思っていたところだから、邪魔なんかじゃないよ。」
「そうでしたか、それは良かった。」
「ケインさん、お久しぶり。仕事、忙しいの?」
エミィはケインが持つ書類の束を見ながら言った。
「そうだね、これは本当なら団長がやる仕事なんだけど……」
ケインが愚痴を言いながらこちらを見てきた。
「こんな量、一人で毎日やれる量な訳ないだろう。一人で全部やってたらいつか病気になるぞ。」
俺は奥にある机の方に振り向いた。そこにはケインが持って来た書類の五倍程度の書類が積み重なっていた。
「仕事が増えてるっていうのは分かってますけど、何で僕だけなんですか?他にいないんですか?」
「他ねぇ、事務出来る奴等はあっちはあっちで忙しいからな。」
「仕方ない、ですか。まぁ、仕事が増える分の給料は貰っているので文句は無いですけど、ちょっと量が尋常じゃないですよね。……ああ、これここに置いておきますね。」
ケインはがっくりと肩を落としながら机の隅に書類を置いた。そしてその横にある書類の山を見て、今度は溜息をついた。
「ケインさん、一緒に紅茶はどう?少し冷めてるけど……」
「ありがとうエミィちゃん。だけど僕はこれからこれから合同訓練に参加しなくちゃいけないから、今日は遠慮しておくよ。」
「そうなの?……ねぇ、ケインさん。その合同訓練に一緒について行っても良い?」
「え?それって、訓練をしてるところを見たいってこと?そんなのもう見飽きてるでしょ?」
「最近は外に出てなかったから……久しぶりに見たくなったの。」
「僕は構わないけど……」
ケインはこちらに目を向けてきた。こちらに許可を出せと言っているらしい。
「……まぁ、端の方で邪魔にならないようにしてれば、良いんじゃないか?俺より、訓練監督の方の許可を取ってくれ。」
「それじゃあ私、取ってくるね!」
エミィは俺の言葉を聞くと、間を置かずに隣から飛び上がって奥の部屋に走って行った。おそらく外套を取りに戻ったのだろう。
「では私もついて行く事にしましょう。」
エミィの走り去った後を見ながらレイリーは言った。
「ええ、お願いします。僕は訓練に参加しなければならないので――」
エミィが戻って来ると、三人はすぐに部屋を出た。賑やかな部屋が途端に物静かになった。
「エミィちゃんは、もうすっかりここに馴染んでしまったね。」
「ああ、そうだな。」
エリオットは三人が出て行った扉を見ながら、どこか感心する様に言った。
「僕はもう少し時間が必要だと思ったんだけどね。」
「周りがあれだからな。」
「そうだね。ここまで吸血鬼に好意的な人が集まっているのは、本当に奇跡だと思うよ。特に、あのケインという人物は、君と同じ様にあの作戦に参加していた筈なんだけど……よくああやって吸血鬼に、警戒心だったり、恐怖心だったりを持たずにいられるものだね。普通ならあんな風に好意的に接するなんて出来ないものなんだけど。」
「いや、エリオット。それは違うぞ。」
「え?」
「あいつは吸血鬼に対して、恐怖心を忘れている訳じゃない。警戒心も、敵対心だって残っている。その証拠に……最近、街に入り込んだ吸血鬼を憲兵で討伐する作戦があったんだが、あいつはちゃんと怖がって、そして立派に殺した。晴れ晴れとした顔だったよ。」
「……それじゃあ、あの態度はエミィちゃんだけにとっているものかい?」
「ああ、エミィは、何と言うか、人に取り入るのが上手いんだ。……それは多分レイリーに教えられた技術じゃない。レイリーは子供を慰めるのは得意だが、大人を上手く説得するのは得意じゃないからな。それにあれは技術という様なものじゃない。天性のものだろうな。」
「確かに、彼女には人を惹きつける才能があるのかも知れないね。……それじゃあ、君はどうだい?」
「俺?」
「そうだよ。君はエミィちゃんに今、懐柔されてる最中なのかい?」
エリオットは戯ける様に言った。その質問に俺は答えを窮した。俺は懐柔されているのだろうか。自分の中では、今までエミィとは出来るだけ会話を持たないようにしていた積りだったのだが、もしかしたら、があるかも知れない。
「おや、すぐに否定するのかと思っていたんだけど、どうしたんだい?」
「いや、どう答えたものか分からなくてな。」
「というと?」
「俺は今、懐柔されているのか、されていないのか分からない。……そもそもされて良いのか悪いのかも分からない。早く会話をして意思疎通を図るべきなのか、それともこのまま距離をとっておくべきなのか。」
「……変な事を考えるね。こんなの君からすれば答えは一つだけだと思っていたんだけど。」
「俺はそんな風に見えていたのか?」
「僕が前線で最後に会った時の印象からすればね。……そうなると、やっぱり君はあの時から変わっている、という事なのかな?」
エリオットはいつだったか話していた会話を、今ここで引っ張ってきた。
「……そうなのかも知れないな。大人になった、と言う事なんだろう。時間が経てばそうもなるさ。」
勿論それは悪い意味での大人になる、だろうが。
「それは、諦めがつくものなのかい?君は僕に対して言っていたよね。『本当に良いのか?』って。家族を殺した者の子供を、許せるのかってね。……君はどうなんだい?君は、彼女を許せるのかい?」
「エリオット、俺はただ一人の吸血鬼を殺せばすっきりするような、単純な事情は持っていない。そんな事で解決するなら、俺は既にやっている。」
どこか遠くから兵士達の掛け声が聞こえていた。部屋に入る光が段々と少なくなってきていた。
「……お前は、エミィを恨んでいたのか?それなのに、この仕事を引き受けていたのか?」
「復讐心、とかそういうものではないよ。ただほんの少し心に引っ掛かっているものが今でも残っていてね。……でも、僕は本当に、エミィちゃんは良い子だと思うよ。少なくとも、悪い者ではない。眩しく笑う、普通の少女さ。」
「それは、俺でも分かるさ。数年見ていたんだからな。……あいつは運が悪かっただけだ。生まれる場所が悪かったし、生まれた時期も悪かった。それに何より、吸血鬼として生まれてしまった。ただそれだけだ。」
しかし、ただそれだけの事実があまりに大きかった。
エリオットが帰ると、より一層この部屋は音が無くなった。その中で俺は団長室の一番奥にある椅子に座り、机に置かれているケインが持って来た報告書を見返していた。その報告書の一枚に、俺は目を止める。そこにはライノスに捜索を依頼されていた二人組の人喰いを見つけた、という趣旨の事が書いてあった。
「……久しぶりの遠出だな。」
俺の言葉は誰にも聞こえる事のないまま、物静かな部屋に吸い込まれていった。




