1-9.想いと強さ
「聞きたいこと、とは何だ?」
ベルン爺がゆっくりとそう聞き返す。組んでいた足を解き、その眼差しをはっきりとこちらに向けた。その力強さに思わず後退りしそうになる。しかしそんなことでは何も変えられない。足を踏み留まらせ、俺は心に一番強く留まる思いを言葉に変えた。
「ベルン爺達は、エミィをどうするつもりなんだ?」
「……どう、とはどういう意味だ?」
「そうだな……言い方を変えるよ。俺は、もうエミィに会えないのか?」
俺の心に一番強くあったもの、それどころか俺の悩みや無力感の感情の元を辿れば、全てがこれに行き着いた。これがあやふやなものからはっきりとしたものに変われば俺は、良くなるか悪くなるかは分からないが、変わる事が出来る様な気がする。
「……」
「何とか言ってくれよ。ベルン爺。」
「……儂は会えないと言っている訳ではないだろう。」
ベルン爺は答えをはぐらかした。少しの含みを持たせて、そして俺に待つという選択肢を取らせるいつものやり方だ。その言い草に俺の体は怒りで沸騰しそうになる程熱くなった。
「誤魔化さないでくれ。本当はもう分かりきっているんだろう?決めているんだろう?俺はエミィと会えないし、会わせる気も無いって!」
ベルン爺はいつもそうだ。普通の事なら誤魔化しなど一切無しにはっきりとものを言う性格のくせして、俺に話せば傷付くだろうという話になると途端に、俺に大きなショックを与えまいと、どこまでも過保護に話をあやふやにして話の全体像を掴めないようにする。俺をいつまでも子供扱いをして、何も本当の事を直接伝えようとしない。
「落ち着け、アラン。」
「落ち着けだって!」
ベルン爺がこぼした言葉に、俺の内に溜まっているものが噴火しそうになる。この心のマグマを溜め続けたのは、誤魔化し続けたベルン爺達だっていうのに、落ち着けだと?
取り澄ましたベルン爺の顔が俺は今迄の人生の中で一番腹が立った。そしてそんな顔面をぶん殴ってやりたいと思った。いや、本当にぶん殴ってやろうか。
今日まで俺はどれだけもどかしい思いをしても、ただ耐えて来た。この感情をずっと伏せてきた。しかし、それはもう限界だった。浮ついた理屈をこねくり回すベルン爺に、俺のこの言葉は理論立った理由じゃなく、抑えきれない感情なのだと分からせてやりたかった。
そう思うともう体は理性によって動かなくなった。この心の奥底に溜まり続けていたマグマに、体は突き動かされていた。
「――このっ、クソ爺が!」
俺は拳を痛い程に強く握り、そしてベルン爺の顔面に向かって力の限りに振り抜いた。それは心の内にある全てのものを、一切合切全部噴出させる勢いだった。
しかし、そんな隙だらけの殴打など、ベルン爺にとって避けるのは朝飯前だった。俺の拳はベルン爺の横をすり抜け、勢いのまま俺は拳を振るった方向に転がった。
「落ち着け、アラン。」
「これがっ、落ち着けだって?」
俺はベルン爺を睨めつける。未だにベルン爺は取り澄ました顔は崩れなかった。
「あんたが隠し事なんてせずにいれば、俺だって落ち着いていられたさ!」
もう一度俺はベルン爺に力一杯の拳を振るう。それは今度もベルン爺の顔面には当たらずに、その目の前でベルン爺の腕によって止められていた。
「こんな事をしても、何にもならんぞ。」
「じゃあ、何をすれば変わるって言うんだ?口を開けてただ待ちぼうけてれば、何かあるって言うのか?ベルン爺はそう思うかも知れないけどな、俺はそう思わないんだよ、俺にとってそれはただ流されてるって言うんだ。……俺はそれが嫌で嫌で、堪らないんだよ!」
俺は俺の拳を掴んでいたベルン爺の掌から振り払う。そしてまたベルン爺と真っ向から対峙する。
ベルン爺のその顔がようやく取り澄ましたものから変わっていた。それは怒っているのか、苦々しく思っているのか判別がつかないが、ともかくベルン爺はいい顔はしていなかった。
「……お前はまだ子供だから分からんのだ、アラン。いつか理解する日が必ず来る。」
「だから、子供扱いするなっていつも言っているだろう!俺はもうとっくに子供じゃないんだよ!」
また俺はベルン爺の体を吹き飛ばす勢いで殴りかかる。俺とベルン爺では言葉は通じないということなど、もう分かりきっていることだ。
「何を言っている!お前のどこか子供じゃないだ?思い通りにならんからと暴れている今の自分の姿を見てみろ!」
ベルン爺は飛んでくる拳を腕で横に反らした後、反対の方の腕を俺に向かって飛ばしてきた。体制を崩している俺はそれを避ける事が出来ずに、まともに顔面に受ける。俺の体が一瞬浮いて地面に転がった。
「少しは頭を冷やせ。そしてそろそろ大人になれ、アラン。」
「何が、大人になれ、だよ。あんたはそれと真反対の事しかやってねぇだろうが。」
「何を言っている。儂はお前が大人になれるようにといつも思っておるぞ。」
「嘘つくなよ。」
「何?」
「嘘つくなよ。あんたが俺に何かしようと促したことなんて、一度もないだろう。いつも俺からだよ、家族のことも俺が聞かなきゃ絶対に何も言わないし、戦い方を教えてくれと言ったのも俺だ。……でも、それにベルン爺がまともに取り合うことは無かった。いつも街のことや俺の家族の事は暈してまともに教えなかったし、戦い方を教えてくれと言っても何かと理由をつけて真剣に教えてくれることなんて殆ど無かった。」
「……」
「むしろベルン爺達は俺を戦いからいつも遠ざけようとしてたよな。テッドに村を守れって言っている横で、俺は村にずっと閉じ込められてた。そうだよな、ベルン爺!」
「……お前を戦わせないのは、儂が決めた事だ。お前は戦う必要など――」
「嘘つくなって言ってるだろう!」
ベルン爺の言葉を大声で遮る。
「それはあんたの考えじゃないだろ?それは、俺の父さんと母さんの願いだ。」
ベルン爺の表情がぴくりと動く。
「ベルン爺、いつも言っていたよな。俺の父さんと母さんに、いざというときは子供達を守ってくれって言われているって。その約束をずっと守ってるんだろう?」
「……」
「けどな、もうその父さんと母さんはもういないんだよ。父さんと母さんが守ってくれって言った子供の俺も、もう今はいないんだよ!」
「……お前が自分を子供ではないと思っていようと、儂からすればいつまでもお前は子供なんだ。約束を破る理由にはならん!」
「子供じゃないって、言ってるだろう!」
俺はベルン爺に向かって一気に間合いを詰める。そして体ごとぶつかる様にしてベルン爺を殴ろうとする。ベルン爺はそれに冷静に反らしてまた反撃の殴打を俺の脇腹に入れた。衝撃が体全体を揺らす。
しかしそれだけされて、やられっぱなしになるわけにはいかない。俺は脇腹を殴ったベルン爺の腕をがっしりと片腕で掴んだ。ベルン爺は咄嗟に振り払おうとするが、振り払われるよりも前に俺の反対の腕が、込められる最大の力でベルン爺の顔を殴っていた。
ベルン爺の頭が後ろへと仰け反る。ようやくベルン爺に一撃を入れる事が出来て、やってやったという気持ちになった。
しかしベルン爺もやられっぱなしのままで引き下がるような者ではなかった。その仰け反った体をばねに、掴まれた腕を支えにして体重が乗った重い一撃を、仕返しの様に俺の顔面に食らわせた。
俺の体が今度ははっきりと空に浮かんだ事を認識する。顔に受けた衝撃はとても重く、口の中が切れたらしい。血が出てきていた。
「痛ってぇ……」
「どうした、アラン。もう子供じゃないって言うなら、こんな老いぼれ一人さっさと伸してみろ!」
「言われなくても……」
ベルン爺の煽り文句に俺は堂々と乗る。そしてまた俺は愚直なまでにベルン爺に向かって走り出した。煽ってきたベルン爺も鬼の形相をしながら一気に駆ける。俺とベルン爺との距離があっという間に縮まり、そして二人の拳が交錯する――
「そこまでだ。」
二人の間に唐突に入って来たのは、テッドだった。その両手はそれぞれ俺とベルン爺の拳を掴んでいる。
「離せ、テッド。こいつには言葉で言っても聞かんようだ。」
「離せよ。俺はまだ一回しか殴れてねえぞ。」
二つの尖った視線が、テッド越しにぶつかる。
「二人共落ち着けって。喧嘩はもう十分だろう?」
「俺は十分じゃないぞ。」
「だから、落ち着けって。……ベルン爺もさ、もう良いんじゃないか?意地を張らなくてもさ。」
「……何だと?」
テッドが捕まえていた二つの腕を離す。
「アランの言う事も一理あるってことだよ。クレアさんやクリフさんはもうこの世界にはいないんだ。アランのことは、アランに決めさせても良いんじゃないか?」
「……」
ベルン爺がテッドに説得され、これ以上無いくらいの苦々しい顔をしていた。
しかし、テッドが分かりやすくこちらの味方をするなんて、少し意外だった。風みたいなこいつの事だから、どっちの味方にもならずにただ場を収めようとするだけだと思っていた。
「それと、アランもだ。気持ちは分かるけど、でも殴るのはやり過ぎだろ。」
「じゃあ、どうすれば良かったって言うんだよ。」
ベルン爺を殴る以外にどんな解決策があるって言うんだ?
「そりゃあ、誰かに相談するとか、面と向かっていると誤魔化されるなら手紙で自分の言いたいことだけ伝える、とか色々あるだろう?」
「……」
そういう方法もあるのか。いやもしかしたら、それを俺は思いついていたのかも知れない。しかし実行に移す勇気が無く、それで頭の底に隠して思いつかなかったふりをしていたのだ。
俺に勇気は無い。さっき俺がベルン爺を殴ってやろうとした事だって、丁度一対一の状況で、寝覚めの悪い夢を見て鬱憤が溜まっていて、そしてベルン爺の取り澄ました顔が苛立ったから出来た事だ。
「アラン。」
「……何だよ。」
「今度は、ちゃんとした言葉にしないか?」
「……」
「殴るくらいの思い切りがついてるんだろ?なら言葉にすることなんて簡単だよな?言ってやれよ。」
ベルン爺に目を向けると、腕を組んでこちらを見ていた。それはその無言の圧力で喉から出ようとしている言葉が抑え込まれている様に感じた。しかしそんな堤防などは、この長年貯えられ、そして動き出した激流を前にすれば無いに等しいものだった。
「ベルン爺。」
「……何だ。」
「俺はもう、守られてばかりじゃ嫌なんだよ。」
一度流れ出した濁流は留まる事無く外へ流れ出る。
「俺だけ守る事が出来ないなんて嫌なんだよ。たとえ知れば不幸になってしまう事だって知りたいんだよ。俺だって、皆から大人だって言われるようになりたいんだよ。」
「……」
「なぁ、ベルン爺。気づいてないかも知れないけどな、俺は数ヶ月前、ベルン爺がどこかへ行っている間に、母さんが俺を産んだ歳と同じになったんだよ。なのに俺は、今日みたいに自分すら禄に守れない体たらくなんだ。弱いままなんだよ。……俺はそれが、悔しくて悔しくて堪らないんだ!」
木々の間に最後の叫びが風と一緒に通り抜ける。俺は息を切らしてベルン爺の方を見つめていた。場に一瞬だけ沈黙が通り過ぎる。
「……そうか。お前は、もうそんな歳になっていたか。」
ベルン爺は溜息をゆっくりと一つついて、目を閉じた。そして少しの間の静寂の後、またゆっくりと目を開く。
「……アラン。やはり儂は、お前をそう簡単に戦いの場に出す事は出来ん。お前の言う通り、それがあいつ等との約束だからじゃ。破ることはあいつ等を裏切る事になる。」
「……それじゃあ、」
「……アラン。お前は妹に会えるのか、と言っていたな。」
「……ああ。」
「代わりに、それに答えよう。アラン、お前はもう妹と会うことは出来ん。いや、してはならん。何故なら、儂等とあいつは敵同士だからじゃ。」
風に揺られる木々の葉が、唐突にその歌を響かせなくなった。