1-7.ここにいる理由
出来れば目を開けたくなかった。目を開けても俺が歩こうとする方向と逆の風が吹いているだけだし、もし風に乗って来たゴミが目に入りでもしたら、俺は本当に目を開けてられなくなるかも知れない。それにこのベッドは温かい。この中なら風が少し吹いたところで、何も影響は無い。
分かってはいる。もう朝だ。カーテンの下の隙間から朝日の光が部屋に入り込んで俺のすぐ横の床を照らしていることなど、目を開けていなくても温度で感じ取ることが出来る。
俺はベッドから出なくてはいけないのだ。しかし、そうだと分かっていても、俺の体はぴくりとも動かなかった。当たり前だ。頭の方は体を動かそうなんて少しも思っていない。脳の片隅の壁には、「起きなければならない」というもっともな言葉が張り紙として主張している気もしたが、頭の大部分はベッドから出たくないと声を揃えて言っていた。
そんな風にベッドの上で寝そべっていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。随分と急いだ様子でそれはこの部屋の扉の前で立ち止まり、それから強くノックする音が聞こえてくる。続けざまに扉が開かれる音がして、足音はこちらに向かって来た。木材の床の微かな軋みが俺のすぐ隣まで来て、そして頭の上から、
「アラン! 起きて下さ〜い!」
ハンナの声が響く。予想よりかなり大きい声だった。とうとう目を開けなければいけない。俺は嫌々ながら目を細く開ける。すると目の前にハンナがいて、俺の顔を覗き込んでいた。明るい瞳には怒気の色が少し混ざっている。それでも真っ先に浮かぶ感想が可愛らしいなぁというものだったので、流石はここの看板娘だと俺は素直に感心した。
「もうとっくに起きる時間を過ぎてますよ。ベルナンドさんが待ってます。早く起きて下さい。」
「ああ、うん……」
ハンナの張りのある声と対象的に、腑抜けた声が頭に直接響いた。俺はそれで、起きたくないと言外に言ったつもりだったが、どうやらハンナには届いてくれなかったようだ。それとも、もしかしたら気付いていても態と無視をしているのかも知れない。寧ろ、ハンナの性格を考えてみればそちらの方が可能性は高い。
「ほら、早く起きて下さい。」
頷きながら一向に起きようとしない俺を見兼ねて、ハンナは俺の肩に手をやって、無理矢理体を起こそうとしてきた。
「分かった、分かったから。」
その行動を俺は急いで止めようとする。肩にあった手を咄嗟に退かした。それから自分でベッドに包まれていた自分の体をゆっくりと起こす。それから体の向きを左に回転させ、ベットに腰掛ける。
「早く降りて来て下さいね? ベルナンドさんが早くしろってうるさいですから。」
体を起こした事に満足したのかハンナは部屋を去って行った。足音が遠ざかり、部屋が途端に静かになる。
俺は起こした体をそのまま後ろへ投げ出した。柔らかいベッドは体を心地良く跳ね返した後、優しく俺の体重を支えてくれる。
分かっている。どれだけ先送りにしていても何の意味も無い事は。ただそのまま従うのは癪に触った。言う事を聞いているだけなのは、なんとなく嫌だった。
分かってはいる。こんな事をしても、どちらにしても何も変わらない事ぐらい。俺はもう子供じゃない。自分の思い通りに進む事なんてそうそう無いと分かりきっている。それくらい、子供の時から知っている事だ。
俺は勢いをつけ、また上体を起こした。それから立ち上がる。ふと、窓の方を見てみた。陽射しは強く部屋に落ちていて、いつもならもうとっくに働いている時間だと理解した。
階段を降りていると下の方からアデルさんやギルさんの忙しない声が聞こえてきた。昨日は俺と同じように寝るのが遅かった筈なのに、その声は活力に溢れている。
やがて階段を降りると、丁度アデルさんが料理を持って客席へ厨房から出て行き、ギルさんが包丁を持って野菜の前に立っていた。
「おっ、アラン。ようやく起きたか。ベルン爺はそっちだぞ。」
ギルさんがアデルさんが出て行った出口と反対側の店の裏手に出る方を指差した。
「分かった。……アルノーさんは?」
「あいつは他の用で昨日から居ないよ。」
「そっか。」
するとギルさんの後ろからハンナがこちらに向かって来る。手には何かの包みが握られていた。
「はいっ、どうぞ!」
ハンナからその包みを受け取る。少々の重さのある物だった。
「これは?」
「お弁当です。ベルナンドさんの分も入っているので、お昼に食べて下さいね?」
「……ありがとう。」
こんな遅くに降りてきてこれを受け取るのは、居た堪れない気持ちが強かった。自分の考えている事は悪い事だと、良くない事だと、無駄な事だと、自身で確認をした気持ちだった。
「それじゃあ、行ってらっしゃい。」
「ああ、行ってきます。」
ハンナの顔に眩しい笑顔の花が咲いた。それは俺の心で燻っていたものを、少しではあるが取り払って、空いた隙間には諦めのような感情が代わりに埋まった。
俺は厨房を通り過ぎ、倉庫を通った後に店の裏手へ出た。外へ出ると店の影で待っていたベルン爺がいた。壁に背を預けて腕を組んでいる。この様子だとかなり待たせていたのかも知れない。
「やっと起きたか、寝坊助め。」
「……昨日は寝るのが遅かったからさ。」
「言い訳するな。ほら、早く行くぞ。」
ベルン爺は外套のフードを被って歩き出す。俺もフードを被り、置いて行かれないようについて行った。
「なぁ、ベルン爺。本当に俺は外に行くのか?」
「何だ?全心配事でもあるのか?」
「いや、俺は昨日血を飲んだばかりだろう? 関所に引っかかるんじゃないのかなって。」
「あれは入る時だけじゃ。出る時は無い。」
「え?」
関所としてそれは杜撰過ぎはしないだろうか。それじゃあ出て行く時は誰でも簡単に通れてしまうじゃないか。
「それに考えてみろ。お前が関所を越えられないなら、どうやって壁を越える?」
「……壁を登って越える。」
「そう。門番達もそう思っている。だから儂等はその足元を潜れる訳じゃ。」
それはがさつ過ぎる理論じゃないだろうか。
「……それに。」
「それに?」
ベルン爺は言ったきり、早足で進み出した。前に目をやるとそこにはいつの日か見た門番の姿が見える。既に俺達は関所に辿り着いていたのだ。俺は内心びくびくしながら、ベルン爺について行く。そしてとうとう門番がこちらに注目した。
「……おや、ベルナンドさんじゃないですか。久しぶりですね。お孫さんに会いに行くんですか?」
「まぁ、そんなところです。」
「そうですか、……そちらは?」
「こいつは最近こっちに越して来た方の孫です。……前に話しませんでしたかね?」
「んん〜? ……ああ、思い出しました。二人の若い男二人と一緒にいましたね。」
「ええ、そうです。ほら、アラン。挨拶をしなさい。」
「……あ、ああ。おはようございます。」
「ええ、おはようございます。」
「それじゃ、セイルさん。また今度な。」
「はい、またお話を聞かせて下さい。」
ベルン爺は当たり前の様に門を潜り抜ける。それから門を離れて声が聞こえなくなったところで言う。
「それに、ここは立地上人通りが馬鹿みたいに少ないからなぁ。顔は覚えられるし、こっちも覚えとる。態々一度検査をしたと分かっている奴にもう一度する訳無いだろう?」
「えぇ……」
何だか釈然としない。通れないのは困るが、しかしそれで良いのだろうかとも思う。現にそれでたった今通れてしまっているので、俺は色々な言いたいことを飲み込むことにした。
俺とベルン爺はどんどん森の中へ入って行った。ほんの少しの間見なかっただけなのに、随分と懐かしく感じる。この木々の間から僅かに降り注ぐ木漏れ日も、辺りに充満する苔むした匂いも、あの街には無かったからかも知れない。
かなり歩いて、太陽が登り切った頃、俺達は森の中でハンナがくれた弁当を食べることにした。中にはサンドイッチが数切れ入っていた。それをベルン爺と分け合い、数時間分の山登りの疲れを癒した。
あっという間にサンドイッチは無くなり、また出発の準備を整える。それが一通り終わった辺りで、ベルン爺が呟く様に言う。
「……そうだな……皆に土産でも持って行ってやるとするか。」
「土産?」
「そこに丁度良い獲物がおるだろう?」
ベルン爺が指差した方へ目を向ける。しかしその先には何も見当たらない。もっと目を凝らしてみる。すると、いた。ずっと遠くの木々の隙間から大きな角を覗かせている、人の背くらいの高さの鹿だ。
「土産にはピッタリの獲物だな。行くぞ、アラン。」
「え?」
いきなりベルン爺は荷物を持ったまま鹿の方へと駆け出す。俺は出遅れながら、それについて行った。しかしベルン爺の体はまるで風になったかのようで、追いつくどころかじりじりと引き離されていく。気を抜けば見失ってしまいそうだ。
そしてそんな風に疾走する狩人に気が付かない鹿などいない。鹿は近づいて来る敵を素早く察知し、逃げ出した。だが、その鹿が木々を走り抜けるよりも、ベルン爺がまるで猿の様に木々すらも足場にして追い駆ける方が何倍も速かった。二つの生き物の距離が確実に、そしてあっと言う間に無くなっていく。
ベルン爺は必死に逃げる鹿との距離を無慈悲な程素早く詰めた後、狼が獲物に飛びかかる様にして鹿に跳躍した。その体が鹿に真っ直ぐに近づき、そしてベルン爺は鹿の背に飛び乗った。鹿は敵が飛びかかってきたことに気がつき振り落とそうとする。がしかし、その前にベルン爺の手刀が鹿の首の骨を折った。
鹿の体が走っていた勢いそのままに、地面に頭を打ち付けた。その立派な角が地面に引っ掛かり、少し大袈裟に見える程大きく転がった。そこで俺はようやくベルン爺に追いつくことが出来た。
「遅いぞ。」
振り向いたベルン爺の眼はいつの間にか赤く染まっている。しかし、それが見えたのも一瞬で、その赤はすぐに目の奥に沈んでいった。
「ベルン爺が速いんだよ。このくらい俺に任せてくれれば良いのに。」
「このくらい、なんだから儂がやろうと構わんだろう?」
「それはそうだけど。」
「土産も手に入れた事だ、さっさと帰ろう。ほら、縛るのを手伝え。」
俺とベルン爺は鹿の足を運び易い様に縛り、その鹿はベルン爺が担いだ。俺が運ぼうかと言ったが自分が捕えた獲物は自分が持って帰る、と言って聞かなかった。
二人はまた森を歩き始める。村まではもう少し出着く筈だ。
「……」
しかし、またもやベルン爺の足が急に止まった。
「どうしたんだ?」
「気配がする。」
「気配? 何の……」
「嬉しくない方の標的じゃ。アラン、お前はここで待っておれ。」
ベルン爺はそう言い放ちながら、その眼を瞬く間に赤に染めた。そして先程とは比べ物にならない速度で駆け出した。
「ベルン爺?」
今度は何を見つけたのかすら分からない。それについて来るなと言われてしまった。俺は一瞬、訳が分からなくなってしまったが、それもベルン爺を追えば分かる事だと気がつき、急いでその背を追った。
ベルン爺を必死に追う。しかしその速度に自分の足は中々追いつけない。引き離されるばかりだ。一体ベルン爺は何に向かって走っているのだろう。
そう思っていると、走るその先に人影が二つ見えた。ベルン爺はその二つを追っていた様だ。やがてその二人もこちらに気がつき、それぞれに身構えた。ベルン爺は二人の前で立ち止まり、そして言った。
「お前達、どこから来た?」
ベルン爺は二人に向かって冷たく質問をする。
「何だぁ? 誰かが近づいてくるかと思ったら、吸血鬼か? もしかしてエルラインの奴等か?」
「そう言うお前達は、人喰いか?」
「それがどうしたって言うんだ?」
「外の者だと言うのだな?」
「それだったら何だって言うんだ!」
人喰いだと言う者達と、ベルン爺の距離が僅かづつ近づいていく。両者の間の空気に緊迫の糸が張り詰めていた。
「……待っていろと言った筈だぞ。」
「あんな風に置いて行かれて、待つ奴がいるかよ。」
「はぁ、仕方無い。下がっているんだぞ。」
ベルン爺はこちらに振り向く事無く、俺に向かって言い放った。後ろから見ている俺にも分かる程、ベルン爺の周りには殺意が纏わっていた。
「……糞がっ、面倒な事になったな。」
「仕方ねぇ、やるしかねえだろ。」
人喰いの二人はベルン爺と対面し、そして覚悟を決めた様にその身から鋭い殺意を迸らせた。
そして彼らの身の内から、異形が染み出してきた。
まず最初に見えたのは腕だった。直前まで普通の皮膚に覆われていた腕からまるで魚の鱗の様な物が浮かび上がって、指が五本あった筈の手が四本の大きな鉤爪になっていた。
変貌はそれだけではなかった。彼等の目はいつの間にか蜥蜴の様に鋭くなり、口元は大きく切り開かれ、その中から無数の牙が覗いていた。背骨が極端に曲がり、体の後ろに尻尾がちらりと見えるようになった。
この量の体の部位を一体どこに隠していたのかと思ってしまう程に、その体躯は膨れ上がっている。
それは異形のものが人を飲み込んでいるかのようだった。その異形は魚類の様にも爬虫類の様にも鳥類の様にも見る事が出来る生き物だった。少なくとも先程までいた人ではなくなっていた。人であった部分は全て異形に包み込まれてしまった。そして、俺はそれが何なのかようやく思い出す事が出来た。そう、この生き物は何より一番、悪魔に似ていた。
「お前は、あっちだ。」
「ああ。」
悪魔がその蜥蜴の様な鰐の様な口で人の声を発した。それは人の形であった時と比べ、くぐもってはいたが確かにその爬虫類の様な口の構造のものから人の声が出ていた。それに俺は若干の悍ましさを覚えた。
「お前達の相手は儂だ。」
ベルン爺はそう言い放ち、急速に二人との間合いを詰める。それに対して一人はベルン爺を迎え撃ち、もう一人はベルン爺から離れ、大きく迂回しながら、こちらに走ってくる。
「チッ」
ベルン爺は舌打ちをして、目の前の敵に向き直す。二人を同時に抑え込む事は困難だとして、一人に集中しようというのだろう。離れたもう一人に目もくれず、待ち構えている方にもっと速度を上げて近づいた。
ベルン爺の接近に対して、人喰いの男の方は自分の大きくなった腕についている鉤爪を振ることで応じた。凶爪がベルン爺の体を引き裂こうとする。ベルン爺はそれを避けるのでも無く防御するのでも無く、自分の拳を爪と衝突させた。
俺には何かが折れる音と肉が裂ける音が同時に聞こえた。俺の想像通り、ベルン爺の拳からは血が滴っていた。がしかし、その傷はすぐに何でも無いかの様に無くなってしまう。それに対して人喰いの方は鉤爪の一つが変な方向を向いている。それを男は元に戻そうと捻じ曲げるが、その治りはベルン爺より遥かに遅い。この攻防は男の方が損傷が大きい様だった。
「どこ、見てんだ、ガキぃ!」
俺の方に近づいて来ていたもう一人の人喰いが鉤爪を大きく振るいながら叫ぶ。俺はその攻撃を大きく後ろに飛び跳ねることで避ける。男の攻撃は空を斬った。
大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせる。恐ろしさで足を竦ませているわけにはいかない。
男が空振りした方の腕とは反対の腕で俺を切り裂こうとする。俺はまた後ろに飛んで避ける。
「――っ!」
しかし男の鉤爪は俺の胸を撫でる様に切り裂いた。俺が間合いを読み間違えたのだ。切られた部分から血が染み出して衣服を赤く染めた。眼が熱くなるのを感じ、胸の傷は浅かったのかすぐに治った。
「おいおい、その眼……俺等は運が良いみてぇだな。」
蜥蜴の様な尖った目が見開かれる。そしてその巨大な体躯を生かして物凄い速さで体当たりをしてきた。俺は咄嗟に避けようとしたが、その巨大さ故か避けきれず諸に受けてしまった。頭の中が容器と一緒に揺らされ、空中に吹き飛ばされた事で、一瞬上下の判別がつかなくなる。その勢いは収まる事の無いままに、俺は木の幹に叩きつけられた。
「痛ってぇ……」
打ちつけられた骨がその痛みを脳に伝える為に、少しうるさいくらいに悲鳴を上げている。目の焦点が上手く合わない。頭も強く打ったようだ。しかしたとえ俺がこんな状況でも、敵は待ってはくれない。近づいて来る男に応戦する為、俺は頭を振って意識をはっきりさせた。
人喰いは手加減などするはずも無く、またその鋭い鉤爪を振るう。やられっぱなしという訳にはいかない。覚悟を決め俺はその攻撃を丸裸の左腕で受け止めた。肉が深々と裂け、爪と骨が直接ぶつかっているのが、痛みで嫌という程感じられた。その苦痛を全て飲み込み、俺は空いている右腕で力の限り苦痛の恨みを込めて男のがら空きの脇腹を殴る。
拳がゴツゴツした鎧の様な鱗にめり込む。男の体が少し空に浮いた。効果は男の恨めしい顔を見れば一目瞭然だろう。
「この野郎ッ……」
男は怒り狂った乱暴な攻撃を空いていた腕を使って繰り出した。俺はそれを右腕で受け止める。しかし人喰いの力は凄まじく、俺の体はどんどん押し込まれていき、背中がまた木の幹にぶつかった。男の膂力は俺よりも強いらしく腕の骨が悲鳴を上げていた。
その無限に感じられる時間の中で、俺は人喰いのその悪魔の様な相貌を間近で観察することが出来た。その目は蛇の様な縦長の瞳孔があって、それが俺を睨みつけている。口の中にある牙の鋭さが間近に来るとより際立って見えた。
「死ね。」
人喰いの口が開いた時、その真っ赤な口の奥に、もう一つの口がちらりと見えた。
骨が軋む音を響かせ、腕が震えてきた。もう限界だ、そう思ったその時だった。
人喰いの首から銀色に光る何かが突き出した。
「え?」
抑えつけられる力が突然消える。力を失った人喰いの体がゆっくりと倒れていく。そしてその人喰いの後ろから現れたのは、血に濡れてもなお銀色に輝く大ぶりのナイフを持ったベルン爺だった。