2-7.知っている人
いつもの通り、この部屋には山積みの書類があった。いつも通りに本棚には本が所狭しと詰め込まれ、背中の窓からは柔らかい光が差し込んでいた。
何も変わっていない景色に見えたが、最近それに新しい光景が加わっていた。それは机越しに見える目の前のソファにいた。背もたれの部分に体の大部分が隠れているが、テーブルに本が数冊積み上がっているところを見ると、その人物が読書をしているのだと分かる。
この光景は数日前から見られていた。最初はこの行動に困惑したが、ただここにいるだけなのですぐに慣れてしまった。おそらくレイリーが何か言ったのだと思われるが、真意は謎のままだ。いくら本人に聞いても何も答えてはくれなかった。
妙に居心地の悪い空間だった。もしかしたら本当に何の意味も無く、ただ嫌がらせの為にいるのかも知れない。それくらいはされても可笑しく無い程には、自分は嫌われているだろうという自覚はあった。
無理矢理閉じ込めようかとも少し思ったが、それをするとレイリーやクライン等が五月蠅いだろう。それに俺の目的は人間と引き離すことにあるのだから、この事自体が大きな問題になるということもなかった。それで結局、俺はこの行動に何も言わずに無視をすることにした。
しかし無視をすると言っても、何も話さない訳にもいかない。最低限のことは話す必要があった。
俺は一通り終わった仕事の後片付けをして、椅子を立ち上がった。ソファにいる少女がこちらを向き、様子を伺っていた。そのままの俺は少女の向かい側のソファに行き、そして腰を下ろした。少女は本を閉じ、こちらが何を言うのかじっと待っていた。
「エミィ。今日は先生が来る。」
「……先、生?」
エミィは何の事か分からないと言った顔をした。
「そうだ。先生だ。」
「どういう事? 何の先生?」
「色々だ。この街の事、世界の事、お前の事もだ。」
「私……」
エミィは自分の腕を触った。そこには何の傷も無い肌があった。
「もうすぐで来る筈だ。準備しておけ。」
「準備って、何をすれば良いの? ちょっといきなり過ぎるよ?」
「勉強はここじゃ出来ない。お前の部屋でやる。そこを片付けておけ。」
「わ、分かった……」
エミィは何か言いたげだったが、結局何も言わずに部屋の横の扉を開けてその中へ入って行った。その先には本来団長室に付属する形で廊下があり、書斎や小さな物置、寝室に繋がっていた。それらは出入り口がここからしか無い構造なので、誰も使わず無駄になっていたその空間をエミィに貸し与えていた。これが無かったら別の所に部屋を用意しなくてはならなかったので、丁度良い場所があって幸運だった。
扉の奥の方で物音が聞こえる。この建物外の人と会うのはエミィからすれば初めての筈なので、慌てている部分があるのだろう。
ふとテーブルの方に目をやると置き去りにされた本が目に入った。一つ手に取って見ると、童話の類いの本だと予想出来た。レイリーが孤児院から持って来た本の一冊なのだろう。少し捲ってみると、意外にも絵本のようなものではなかった。ページの上には三、四枚程の挿絵があるだけで、その他にはびっしりと文字が押し込められていた。まだ五歳かそこらの子供に読ませる本にしては少し難し過ぎるように思った。他の本の題名も見てみるとひと目で子供向けでは無いと分かる物が大半だった。孤児院にはそんな本しか無かっただろうか? それとも、既にそのような本は読み終わってしまっているのだろうか?
そんな事を考えていると、扉がノックされた。どうやらもう到着したようだ。
エリオットはいつも通りの貴族らしい服では無く、動き易そうなシャツを着ていて、肩には大きめの鞄を下げていた。郵便局の若い配達人だと言われれば、十人中九人くらいは何の疑いも持たずに頷くだろう。
「おはよう、ローガン。」
「ああ、おはよう。どうしたんだ? その格好は?」
「これかい? いつものゴテゴテしたのじゃ、怖がられるんじゃないかと思ってね。」
「そういう事か。悪かったな。気を使わせて。」
「いやいや、これくらいなんてこと無いよ。それより、彼女はどこにいるんだい?」
「ああ、こっちだ。」
俺はエリオットをエミィのいる部屋まで案内した。エミィが使っている部屋の窓には分厚いカーテンが引かれてあり、昼でも薄暗い。その為か、この部屋は他より少し涼しい印象があった。
その中でエミィは部屋の真ん中にある椅子に背筋を張って座っていた。話し声が聞こえて来たので慌てて座ったのだろう。後ろの方にあるベッドの上にはまだ本が数冊積み重なっていた。
「君がエミィちゃんかい? お久しぶり……いや、初めまして。ローガンから頼まれて君の教師になった者で、エリオット・ディノワールだ。これからよろしくね。」
「は、はい! えっと、エミィです。よろしくお願いします!」
調子の外れた声でエミィは自己紹介をする。どうやら随分と緊張している。それもその筈で、彼女が教師が来ると知ったのはつい先程だ。心の準備も何も出来ていないだろう。もう少し早めに知らせておけば良かっただろうか。
「ふふっ、元気が良いね。良い事だ。さて、色々と聞きたい事もあるけど、無駄話をしているとローガンに怒られそうだからね、早速始めていくよ。」
「はい!」
エリオットは嫌味の無い笑顔でエミィの向かいの椅子に座り、机の上に教材らしき物を広げ始める。エミィはエリオットの気遣いも功を奏してか非常に大人しく従っていた。
「まずは、取り敢えず君の基礎がどれだけ出来てるか確かめさせて貰おうか。ローガンから聞いた分だと大丈夫みたいだけど、一応ね。」
エミィの前に一枚の紙とペンが置かれる。どうやら簡単なテストから始めるらしい。まぁ、レイリーから十分教えられているようなので、おそらく大丈夫だろう。
後は二人で授業は進められるだろう。そう考え、俺は部屋を後にしようとする。するとエリオットが振り向き、一つの提案をした。
「そうだ。ローガンも一緒にどうだい?」
「俺が?」
「そうだよ。」
「エリオット、もし俺がそれくらいのテストが出来ないんだとしたら、お前達の所に来る報告書の半数くらいは何が書いてあるか分からない紙束になるぞ。」
「ははは、それもそうだね。まあ、テストはしなくともここにいてくれないかい? 僕も人にこうやって教えるのは初めてだからね。」
どうやらここで見ておけということらしい。仕事をサボる口実としては上出来である。俺はエミィの授業を間近で見学することにした。
部屋にエミィの唸り声が響いている。どうやらエリオットはかなり難しめの難易度に設定したらしい。
その間に暇な俺は部屋にある本棚を見渡していた。壁一面に本が並べられている。この本の殆どは前々団長の物であったらしい。その団長が引退をする際、寄贈という形でこの本達は残ったそうだ。彼は随分な乱読家だったようで、様々な種類の辞書を始め、百科事典に法律書、哲学書に古い文字で書かれた小説もある。確かにエミィが言っていた通り、子供には読み辛い本ばかりだ。それに年代が古い物が多くを占めている。
しかしその中に真新しい本が数冊並べてあったのが目についた。高い所にあり、最初は気づかなかったが、そこだけは周りと違う種類の本だった。それは伝記のような、英雄譚のような本だった。それらの装丁は同じような物の為、シリーズ物だと予想が出来る。題名を見てみると、『オーレイ・エイドスの旅』『レグル・シンクロード』『太陽の日記』『リオル・ネイメルクの奇跡』『進軍記』……おそらく年代順に並んでいるのだろう。嫌な予感がして、列の最後の方を見た。予感は的中して、想像通りの物がそこにはあった。俺は眉を歪めてそれを本棚から取り出し、懐に入れた。
「で、出来ました……」
「はい、お疲れ様。」
「……どうですか?」
「……うん、ちゃんと出来ているね。」
「良かったあ。」
エミィは初めて姿勢を緩めた。ずっと気を張っていて、力が入らない様だ。
「これなら問題無いね。授業はしっかり進められそうだ。」
「あの、授業って、何をするんですか?」
「あれ? ローガンから聞いて無いかい。」
「うん。少し聞いたけど、詳しくは……先生が来るって聞いたのもさっきだし。」
「おやおや、それは困ったね。……そうだね、君に教えるのは色々あるけど、主に歴史だよ。」
「歴史?」
「ああ、僕は歴史の研究をやっていてね。それを君に教えようと思うんだ。……ああ、安心して。そんなに急に難しい話にはしないつもりだから。」
「歴史って、この街の?」
エミィは目を輝かせて言った。歴史というより、外の情報に興味があるのだろう。
「いいや、それだけじゃないよ。僕の研究している学問は歴史は歴史でも、『世界史』だからね。この国の外の事もさ。」
「この国の、外……」
まるで想像がつかない。そういう顔をエミィはした。エリオットは少し嬉しそうに続けた。
「そうさ。まだ『世界史』は歴史が浅い学問だけれども、奥深さなら他の学問にも負けてないよ。と言っても、初めから遠い場所のピンと来ない話をしても何だから、まずは身近な話をしようか。」
エリオットは鞄から、薄暗いこの部屋でも眩しく輝く銀色の延べ棒のような物を取り出した。丁度エリオットの掌に乗る大きさだ。
「これって……」
「ああ、聖銀だね。大抵の歴史書は聖銀を軸にして書かれている物が多い、というかそれが殆どなんだ。直接見た事は無くても、聞いたことはある筈だろう?」
「うん。物語とかでも、半分くらいの主人公は聖銀の剣をよく持ってる。」
「そうだね。その物語に出て来る聖銀だ。そしてそういう聖銀を軸にした歴史書はその中で二種類に分ける事が出来る。聖銀が見つかるまでを纏めた物と、見つかった後を書いた物の二種類だね。そのくらい、聖銀が発見されたっていうのは歴史上で大きな出来事なんだ。」
「……」
食い入る様にエミィは聖銀を見つめていた。それはまるで何かに取り憑かれているみたいだった。
「エミィちゃん?」
「はい! 聞いてます!」
「それなら良いんだ。……それじゃあ、この聖銀について話していこうか。」
エリオットがちらりとこちらを見る。
「ローガン。良かったら、君のそれを見せてもらえないかい?」
腰に携帯している聖銀の剣が指差される。
「これか?」
「そう、見本としてはそっちの方が分かりやすいからね。」
「まぁ、良いだろう。」
俺は剣を鞘から抜いた。輝く銀色は薄暗い部屋でも光を反射させて、その存在を際立たせていた。それを俺はエリオットとエミィの間に置く。その剣の鋭さは本に囲まれたこの場所では少し浮いていた。エミィは刃を怖がったのか少し身を引いている。
「それじゃあ聖銀について説明するね。聖銀っていうのは百五十年前にサインクラストで初めて採掘された金属でね、産出量がとても少ない希少な物なんだ。これくらいはエミィちゃんでも知ってるよね。」
「うん。」
「それで聖銀は見た目も綺麗だけど、一番凄いのはその特性なんだ。」
「特性?」
「そう。言い出せばきりが無いくらいに役に立つ特性ばかりなんだ。『兵士と農家と漁師と猟師と庭師と大工と商人と美術家が使う金属は全て聖銀が成り変わる事が出来る。そしてその後逆の事が起きることは無い。』と一昔前の偉い人が言うくらいにはね。」
「全部?」
「そう、全部さ。例えばこの剣、聖銀が使われているこの剣は鉄の物と比べて、折れず、曲がらず、錆びず、潰れず、欠けず、それに軽くて扱い易い。……そして何より、吸血鬼や人喰い達の再生能力を著しく下げる事が出来る。この特性を最初に発見したのが、リオル・ネイメルク、今のリオル派の創設者で……って、これは蛇足かな。」
「再生……」
エミィはまた自分の腕を掴んだ。その顔は火傷の痛みを思い出してしまったかのように歪められていた。
「君も自分の再生能力は見た事があるだろう?」
「うん。火傷が一杯あったのに、血を飲んだら一瞬で消えちゃって。普通なら、こんなに早く治るなんてあり得ないのに。」
「いやいや、それは普通の事だよ。エミィちゃん。」
「え?」
「吸血鬼にとってそれは当たり前の事だよ。それどころか、君なら例え腕を無くしても十数秒で元通りになっちゃうだろうからね。それくらいは驚く事でもないんじゃないかな。」
「普通? これが?」
エリオットの言葉はエミィにとって受け入れ難いことのようだ。それは彼女の感覚がどうしても人間寄りだからこそ起こる事だ。彼女はどこか、自分と人間はあまり変わらない生き物だと思っている節がある。
「そうだよ。それが吸血鬼にとっての普通。それに吸血鬼は人間一人と比べてとても力が強い。人間と同じくらいの大きさなのにね。だから、もし君が人間と一緒に暮らしたいと思うなら、自分が吸血鬼なんだって事を自覚しないといけないね。」
「私は、吸血鬼……」
口から出た言葉はどこか具体性に欠けて聞こえた。それは声の主がまだ認識しきれていないからだろう。
「自分の力を見間違えて、うっかり大切な人を傷付けてしまった、なんてことは起こったら嫌だろう?」
「うん。それは、嫌。」
少女は頷く。その声は先程よりはっきりとしていて、強い意志があった。その調子で吸血鬼である事をしっかりと自覚してくれれば、この授業にも意味があるというものだ。
「いい返事だ。それじゃあ、話を戻すよ。聖銀っていうのは――」
エリオットは授業を再開した。それから話は聖銀から地理の話へと移り変わって行った。それをエミィは真剣な表情で聞いている。そのお陰か授業は滞り無く進んで行った。
「今日はありがとう、エリオット。これでエミィも自覚が付くと良いんだけどな。」
「そうだね。そもそも、彼女は普通なら何の問題も無い子だと思うから、ちゃんと教えればすぐにクライン司教も納得するような教養は身に付けられるんじゃないかな。」
エリオットは気楽そうに言う。授業が終わった後、大量の宿題を渡されたエミィを部屋に残し、今団長室にいるのは二人だけだった。
「それよりも、僕が歴史を教えるのはいいけど、他はどうするつもりなんだい? クライン司教が言うようにするなら、礼儀作法なんかも教えなきゃいけないけど。」
「そっちの方はレイリーにやらせるから問題無い。」
「レイリー? ……ああ、前線からこっちの孤児院に来た。そんな事も教える事が出来るのかい? 前線にいた時は軍医をやっていなかったかな、あの人。」
「あいつは元々貴族の三女だったらしい。そこがそういうのには随分厳しい場所だったらしくて、だからやれるんだそうだ。」
「ああ、道理でもう随分な歳の筈なのに、今日会った時も少しも腰が曲がっていない訳だ。伯母さんを思い出すから苦手な人だと思って避けてたけど、そういう事だったんだね。」
納得した、というようにエリオットは頷いた。
「それじゃあ、クライン司教からはもう催促の手紙は来ないって事だね。」
「あいつは何も無くても送って来るさ。気味が悪いくらいエミィに執心しているからな。」
「おや、そうなのかい。君も大変だね。」
「全くだ。……そういえば、本当に外では何も起こってないのか?」
「と言うと?」
「最近また吸血鬼達が妙な動きを見せていてな。」
「妙な?」
「ああ、何か知らないか?」
「いいや、外では何も起こってないね。僕の知る限りだけど。」
「そうか……ああいや、それなら良いんだ。今日はありがとう。これで悩みが一つ消えそうだ。」
俺は出口の扉を開け、エリオットと共に部屋を出る。
「お願いに答えられて僕も嬉しいよ。それじゃ、エミィちゃんによろしくと言っておいてくれるかい?」
「ああ、また頼むよ。」
「……そうだ。」
エリオットは思い付いた様に口にした。
「彼女の部屋は何時もああなのかい?」
「ああ、ってどういう事だ?」
「あんなに自由にさせているのかい? 閉じ込めてる……っていう割には随分と緩いよね。」
「あれはわざとだ。」
「わざと?」
「ああ、逃げる意思があればすぐに逃げられるようにな。」
「それはまた何でなんだい?」
「逃げてくれた方が今よりずっと話が簡単になるからだ。」
「……随分な自信だね。」
「それくらい出来なきゃ俺はこんな立場になってないさ。それに、」
「それに?」
「お前も態々嫌がってる相手に無理矢理教えてるって思うより良いだろう?」
「ふふっ、これも自主的に、とは言い難いと思うけど。」
「どちらかと言えば、こっちの方がそう思いやすいだろう? それにあいつの本当の気持ちなんて誰も分からんさ。」
あんな境遇の奴は歴史の中でもあいつが最初の存在だろう。
「それもそうだね。でも、君は彼女をそんな風に割り切って見ているけど、彼女はあんまり君を悪く思っていないみたいだね?」
「……止めてくれ、それは俺がただ接触していない事と、あいつが何も知っていないだけの事だ。俺は何時も面倒が無くなってくれる事を願っているよ。」
「それじゃあ、前線にでも戻ってみるかい? それが一番早く彼女から離れられると思うけど。」
「それは無いな。俺があそこに戻る意味なんて一つも無いさ。」
「それなら彼女とはもう少し長く付き合う事になるね。」
「残念ながら、そうなるな。」
俺がそう返すと、エリオットはそれに誰にも聞こえないように声を潜めて言った。
「……僕は君の事を完璧には知らないけど、君が今しようとしていることは何となく分かるよ。」
「……」
「僕もそれには賛成だ。だから君がその立場でいる限り、僕は君に出来る限りの協力をしよう。」
「良いのか? そんな事を言って?」
「構わない。僕の家は信仰心が強い家だけど、僕自身はそれほど信心深くないからね。自分が正しいと思った道を進むさ。」
「……そうか。」
「だから、エミィちゃんによろしくと言っておいてね。僕もこれから付き合いも長くなるだろうからさ。」
「ああ分かった。伝えておこう。」
俺はエリオットを正門まで見送った。日は傾きかけていたが、未だ光は強く、目の前の道を照らしていた。