2-6.1.母娘の様な二人
ローガンの後ろ姿がどんどん小さくなってゆき、そして足音が消える。気配が消えたの感じたのか、団長室の中にあるもう一つの扉がゆっくりと開けられる。そこから出てきたのは金髪の少女、エミィだった。
「エミィ。そこに居たのかい。」
「ローガンはもう行っちゃった?」
「ああ、あいつはもうここには居ないよ。すまなかったね。私が目を離していたばっかりに。」
「いいの。これは私が悪かったことだから。……心配かけてごめんなさい。」
「そんなこと無いよ、エミィ。あんたは何も悪くない。まだこんなに小さいってのに、それを考えられないあいつが悪いのさ。」
レイリーはエミィの体を優しく抱擁した。エミィはくすぐったそうに身じろぎしたが、やがて素直に受け入れた。抱擁は数十秒続いた後、レイリーは腕を解きエミィの顔を間近で見た。どうやらローガンが嘘をついていたという様子は無く、そこに傷などはついておらず痩せている様子も無かった。
「火傷は、もう大丈夫かい?」
「大丈夫。もう治っちゃったから。」
「そうかい。それならよかった。」
エミィのどこを見ても、火傷をした痕は一切見られなかった。これで何も知らない人に大火傷をしたと言っても嘘だとしか言われないだろう。
「そうだ。朝がまだだったね。そこで待っていておくれ。直ぐに温かいご飯を持って来るから。」
「うん。」
レイリーは近くのソファを指差すと、食事を取りに厨房へと向かった。
レイリーが部屋に戻るとそこには大人しくソファに座っているエミィがいた。
「お待たせ。さぁ、残さず食べるんだよ。」
「はぁい。」
エミィはテーブルに置かれたスープとパンを食べ始めた。その様子から随分とお腹が空いていた様だ。
「本当に大丈夫だったのかい? 今日まで一体どんな所で過ごしたんだい?」
レイリーはエミィが出て来た扉の方を見た。レイリーはその先にある部屋に入る機会は無く、エミィがどんな所に移されたのか気になった。
「大丈夫よ、レイリー。安心して。そんなに酷いところじゃないから。ちゃんとベッドがあって、壁がほとんど本棚で埋まってるくらい本がいっぱいあるところよ。」
「本当かい? ったく、シンシアの奴がもう少し黙っていてくれたら、エミィも孤児院にいられたかも知れなかったってのにねぇ。」
「ううん。レイリー、シンシアはあのことは喋ってなかったよ。」
「え?」
「私、ちゃんと聞いてたの。シンシア、ローガンに問い詰められても何も言わなかったよ。」
「何だって?」
レイリーはローガンに鎌をかけられたことに気がつき、それにまんまと嵌ってしまった自分の不甲斐なさに顔を歪め、歯を噛み締めた。
エミィは確かに一年前、他の子供に怪我をさせた。血を飲んでいる最中、同じ孤児院の男の子が不用意に近づいてしまい、赤くなった眼を見られたくなかったエミィは男の子を追い払おうと目を瞑りながら手を払った。それが予想より近くにいた男の子に当たり、男の子はバランスを崩して倒れた時に掠り傷を負ってしまった。
それは子供達の間ではよくある怪我の一つだったが、その時以来からレイリーは、エミィと周りの距離が一層離れていっていることを感じ、それをただ眺める事しか出来ない自分を不甲斐なく思った。
そしてレイリーはローガンにこの事を知られ、それを理由に干渉されてこれ以上に周りとの距離を離される事を恐れた。その為、エミィを今より一人にしたくないという思いで、レイリーはこの事を今迄ローガンに秘密にしていたのだ。
しかし今回でそれもバレてしまった。そしてレイリーはそのことを自分のせいだと思っていた。こんなことはずっと隠し通せる事ではなかったし、それにレイリーはエミィの心の内を見誤っていた。エミィは気丈に振る舞ってレイリーに心配を掛けさせないようにしていたが、エミィは彼女が思っているよりも遥かに、ローガンの言葉が突き刺さっていたのだ。そして更に心の支えとしていたレイリーの不在で、少女の心は遂に平衡を崩した。
エミィに対する処置がこの程度で済んだというのは、レイリーにとっては不幸中の幸いだった。
エミィはレイリーのその様子をじっと窺っていた。レイリーはそれに気付いて、咄嗟に表情を戻した。
「それじゃあ、ローガンに酷いことはされてないんだね?」
「うん。でも、逆に何にも無さ過ぎて暇だったの。ローガンにそのことを言ったら、本でも読んでろって言うんだけど、部屋にあったのは難しい本ばっかりで、読める本は少ししか無かったの。」
エミィは話しながらこの数日間の様子を思い出していた。エミィは最初、きっと自分は牢屋のような所に閉じ込められて、もう一生出られないのではないかと思っていた。レイリーからはそう言われていたし、あの時のローガンの目はひどく冷徹な目だったからだ。しかし、結局あの夜に連れて行かれたのは本で壁が出来ているかのような部屋で、そこで寝ろと言われただけだった。
その部屋は誰も使っていなさそうな部屋だったが、ベッドがありテーブルもあった。その上に指を這わせてみても埃一つ無く、清潔にされていた。更に部屋の扉や窓には鍵が付いていなかった。開けてみても監視の人がいる訳でも無く、ローガンが言った通りに場所を移っただけに感じた。部屋の外にしか無いトイレへ行っていいか尋ねると、勝手にしろと言われるだけで、その時も誰一人として見張りはいなかった。
ローガン本人もあの夜以降は全くと言っていい程話す事は無かった。こちらから近づかなければ目を向ける事さえせず、距離を取り続けられていた。まるで閉じ込められている感じは無く、そのまま孤児院へ帰れそうな程だった。
しかしエミィはそれをしなかった。確かにここは狭い牢屋とはかけ離れた場所だが、何も無いという訳では無く、壁や鉄格子より薄い、区切りのような物があった。それは勿論簡単に飛び越える事が出来るが、それをしたら嫌な事が起きる。それをエミィは直感で感じていた。
「おや、エミィがそんなことを言うなんて珍しいね。それじゃあ、エミィも読める本を持って来てやらないとねぇ。」
「いいの? 本当に?」
「勿論だよ。」
あの男にはやっぱり子供を世話出来るだけの細やかさは無い。やはり私がエミィを面倒を見なければならないと駄目だ。心の中でそう思い、どれだけ邪魔されようとエミィの側に最後まで居続けようとレイリーは自分に誓った。
「――エミィも、言いたい事があったら言って良いんだよ? あいつになんか遠慮しなくたってさ。」
「大丈夫よ。それにローガンはそんなに悪い人じゃないわよ? ……良い人とは言い難いけど。」
「エミィ、人を良い人かどうか簡単に判断しちゃあいけないよ。どんな人でも心では何を思っているか分からないんだから。」
「じゃあ、レイリーもローガンが何を考えているのか分からないの?」
「そうさ。あいつが何を考えているかなんて少しも分かりゃしないし、想像したことも無いね。」
「……同じ人間なのに?」
その言葉に、レイリーは少なからず驚いた。今迄のエミィならば、こんな言い方は絶対にしないからだ。良くも悪くもエミィは自分と周りの人との距離を近く感じていた。しかしそれはレイリーが居ない数日で遠ざかってしまっているようだった。
それは火傷が原因なのか、ローガンの言葉が原因なのか、それとも別の事が原因なのかはレイリーには判断出来ない。けれども確実に、エミィは変わってしまっていた。今迄しなくて済んでいた自覚をしてしまっていた。それにレイリーは寂しさを覚えた。
「……エミィ、人には色んな奴がいるけどね。あいつは誰よりも特別な奴さ。それこそ、ここにいるあんたよりも、ね。」
「え? ……どういうこと?」
「そのままの意味さ。あいつは人にしちゃあ随分と他とは変わってる。あんたが思ってるあんたよりも、ずっとバケモンみたいな奴さ。」
「え?」
エミィは無意識に自分の腕を触っていた。そしてあの夜、血を飲んだ自分から火傷の痕が消えて無くなる様を思い出した。
「だからね、エミィ。遠慮しなくたって良いんだよ。」
レイリーは座っていたソファからエミィの隣まで行き、そしてエミィを包み込むように抱きしめた。
「この世界にはね、色んな奴がいる。エミィみたいな奴もいれば、ローガンみたいな奴もいる。そして私みたいな奴だっているのさ。だからね、心配する必要なんて無いんだよ?」
「レイリー……」
レイリーの抱擁は先程よりも長く、そして力強かった。エミィはどこかに隠し持っていた甘えたいという感情を強がりの感情で仕舞いきれなくなり、レイリーに抱きしめ返した。レイリーはエミィのその頭を撫でながら語り掛けた。
「エミィ。例えどんなに他と違っていても、それでエミィが落ち込むことは無いんだよ。エミィは吸血鬼だけど私達に悪い事をしようとする子じゃあないだろう? 自信を持ちな。お前は優しい良い子だよ。」
レイリーの嗄れた掌がエミィの頭の天辺から髪の毛に沿って緩やかに落とされる。その掌はまた上に登り、またそれが繰り返される。二人の呼吸がお互いの耳に響き、やがて鼓動は穏やかになっていった。心にあった棘や重りはその形を崩して溶けていった。部屋に香るスープの匂いは暖かさを二人に感じさせていた。
どれくらい時間が経ったか。エミィははっと目が覚めるようにレイリーの後ろに回していた腕を解いた。
「ごめんなさい、レイリー。」
「良いんだよ。……エミィ、お前はこれからきっと色んな苦労をするだろう。でも、それは私には止められるものじゃないし、逃げられるものでもない。だからね、せめてその中では自由に生きて欲しいんだ。」
「レイリー……」
「安心しな。ちょっと突付くくらいじゃ、あのバケモンは怒りはしないさ。それに私もいる。お前が遠慮する必要なんか無いのさ。」
「ふふっ、ありがとうレイリー。」
エミィはくすりと笑った。レイリーにとって今日初めて見る笑顔だった。その顔にレイリーは心の底から安心した。エミィがこの場所でまだ笑えるなら、当分は大丈夫だろうと思った。もしエミィがここに居ることに堪えられず、逃げたいと思うようになってしまったら、レイリーには止める術が思いつかなかったからだ。エミィは子供だが、なまじそれが出来てしまうだけの能力がある。
「でも、バケモノ呼ばわりはローガンが可哀想じゃない? まるで人じゃないみたいな言い方だし。」
「あはは、エミィはやっぱり優しいね。でもね、逆だよ。エミィ。」
「逆?」
「あれはバケモノだって呼んで良いんだよ。あいつを人だなんて言うのは、それこそ、あいつに対する侮辱ってもんさ。」
レイリーは笑いながら言った。それは冗談を言って場を和ませようとしたようにも見えたが、ただ単純に自分が素直に思っている、事実を話しているようにも見えた。




