2−5.影に生きる者達
日は既に落ち、窓から入る光が無くなったことで、部屋からは暖かさが消えていっていた。肌寒い空気が辺りに留まり続けていたが、それは面倒な事務仕事による眠気を吹き飛ばしてくれていて、寧ろ有り難いものだった。
部屋にはペンを走らせる音が二つ響き続けていて、いつも通りの日常が繰り返されていた。
「そういえば、」
ケインが思い出したように言葉を零した。
「団長、聞きましたよ。あの子……エミィちゃんを泣かせたって。本当なんですか?」
簡潔に言葉にするとあまり肯定したくない内容だったが、残念ながらそれは事実だった。
「……まぁ、そうだな。」
「一体、どんなことを言ったんです?多分団長ですから、子供に聞かせるには厳しい事を言ったんだと思いますけど。」
「あいつが日を浴びたい、みたいな事を言ったから無理だと言っただけだ。」
「やっぱり、そういうことでしたか。団長は、何と言うか真っ直ぐに言う人ですからね。レイリーさん、怒ってましたよ。あの馬鹿のせいでエミィが今迄で一番落ち込んでいる、って」
「そうか。」
部屋からはいつの間にかペンが走る音が消えていた。代わりにケインの声が多く響いていた。
「日に当たれない、かぁ。」
ケインは天井を向き、腕を組んだ。
「どんなものなんですかね?」
「眠る時間が昼夜で逆転するくらいだろう。今の俺達と同じだ。」
「そんな程度じゃないでしょう。僕だって正確に想像出来る訳じゃありませんけど、周りの子供達と遊べなくて独りぼっちになってるってことぐらいは、見てたら分かりますよ。」
「ケイン、随分とあの吸血鬼を気にかけているんだな。」
「え? だって、心配になるじゃないですか。」
心配になる、か。五年前は吸血鬼が怖いなんて言っていた人物が随分と正反対の事を言うものだ。心情を百八十度変える何かがあったのだろうか。それともただ、その恐怖の記憶が風化して忘れてしまったのだろうか。どちらかは分からないがどちらもあり得る話だった。俺はどちらも見た事がある。そもそもこの大きな世の中でさえ目まぐるしく刻一刻と変わっていくのだ。一人の人間が変わらない理由は無い。
「心配になる、ね。」
「だ、団長だって、偶に様子を見に行ったりしてたじゃないですか。」
「あれは義務的にしてただけだ。……それよりも、さっさとこれを終わらせるぞ。」
「……はい。」
部屋に人声が消えた。またインクを機械的に文字にする作業が再開した。それから事務作業は黙々と行われ、そろそろ終わりそうかと思った時だった。
部屋の扉が強くノックされた。
「団長! ローガン団長! いらっしゃいますか? 大変なんです!」
扉の向こうから若い女の声が聞こえた。その声は緊迫した空気を孕んでおり、何かが起きたのだとすぐに分かった。
「どうした? 何があった?」
俺は扉を開けその先にいた女の姿を目に映した。女は呼吸を乱していた。どうやらここまで走って来た様だ。そしてその顔には見覚えがあった。確か孤児院でレイリーの手伝いをしていた者だ。
「た、大変なんです!」
「落ち着け。何があったか言ってみろ。」
「エミィちゃんが何処かに行ってしまったんです!」
「何処かへって、どういうことです? シンシアさん?」
ケインが後ろから孤児院の女性に言った。
「ええと、それがですね――」
シンシアが言うには、いつも通り皆が寝静まった後、見回りしていた彼女によってエミィが孤児院に居ないことが判明したらしい。その事により孤児院は大騒ぎになり、彼女は急いで俺の元に報告に来たということの様だ。
「一体何でそんな事になってるんだ?」
「それが、ですね……」
シンシアは中々次の言葉を口に出さなかった。
「何だ? 何かあるなら早く言ってみろ。」
「エミィちゃん、今日の昼に外に出て……火傷を負ってしまったんです。」
「火傷?……おい、まさか直接日に当たったのか?」
「はい……目を離した隙にフードすら被らずに外へ出て、火傷してしまって、それから落ち込んだままで、私達も慰めたんですけど………火傷の痕も残ったままで――」
「そんなこと報告されて無かったぞ。」
「すみません! そこまで頭が回らなくて……エミィちゃんが落ち着いたら報告はしようとしてたんです!」
この反応、火傷の件を隠そうとしていたのだろうか。怪我なら治してしまえば隠し通せると思って黙っていたが、流石に本人が消えてしまっては隠しきれるものでは無いと判断しここに来た、というのが経緯なのだろうと想像出来た。
しかし不思議だった。重大な失敗したをしたとしても、レイリーは隠して誤魔化そうとする性格ではない筈だ。
「全く、あのババアはどうした? 俺に関わるなと言っておいて、何をやっているんだ?」
「レイリーさんは今、他の孤児院の視察に行っておりまして……」
だからか。彼女は――というか孤児院の職員ほぼほぼ全員が――孤児院の育ちで、レイリーに育てられた者だ。おそらくレイリーにどやされるのが怖くて、どうにか有耶無耶にしようとしたために、こんな事になったのだろう。
「間の悪い奴だな。それでこの事を知っているのは誰がいる?」
「今知っているのは孤児院の職員だけの筈です。今皆でエミィちゃんを探している途中です。」
「……」
「あ、あの、どうしましょう?」
「探すしか無いだろう。火傷が治らない程なら、周りの柵は越えられない筈だ。ケイン! お前も探せ。敷地の何処かには必ずいる。」
「はい!」
ケインは勢いよく返事をすると、部屋を飛び出した。俺達は手分けをしてエミィを探す事となった。
それから、何の不幸か幸運か、俺はエミィを直ぐに見つけた。本音を言うなら誰かに見つけて欲しかったが、仕様がなく俺はエミィの方へ近づいた。
本部の中でも端の方の花壇と柵の間にエミィはいて、柵を背にして座り込んでいた。柵を登ろうとして諦めたのだろうか。それを越えてくれたのなら、よっぽど分かり易かったというのに。
塞ぎ込んでいたエミィに、俺は意を決して話しかけた。
「何をしているんだ?」
エミィがこちらを向いた。今迄で人が近づいて来ていたことに、気づいていなかったらしい。
「……」
エミィは何も言わなかった。それどころかこちらをちらりと見た後、また頭を膝と胴の間に隠し、顔すら見せようとしなかった。
俺は頭を上げさせようとして、気がついた。エミィの膝を抱えている腕の火傷の痕に。それは半端な火傷じゃ無かった。指先のほんのちょっとだけ、などではない。火傷は指先から手の甲、二の腕までに広がっていた。予想よりもずっと酷い。ひと目見るだけでも、かなり奥の方まで焼けているのが分かる。
その火傷の痕に包帯が巻かれていないことに疑問を持ったが、彼女の足を見るとそこにはしっかりと包帯が巻かれている。どうやらエミィ自身が剥ぎ取った様だ。
「どうしてこんなことをした? 日に当たってはいけないと、教えられなかったか?」
エミィはほんの少し顔を上げた。そこから見える頬や首筋にも火傷の痕があった。こんなもの、子供のふとした間違いで出来る火傷では無い。首を吊るよりよっぽど分かり易い自殺行為で出来るものだ。
「……だって、皆大丈夫なんだから、私だって平気だと思ったんだもん。」
エミィは吸血鬼だとは思えないようなことを口に出した。それでこんな大火傷を負ったなんて、前線の兵士達がこの事を聞けば笑い話になる話だったが、それがエミィの本心であるというのは、直接聞いた俺は分かった。
この子供はただ、周りと自分は似ているからと慢心したのだ。だからこんな間違いを犯した。彼女はやはり勘違いをしている。大人がいくら日を浴びてはいけないと言っても、彼女の周りには同じ吸血鬼がいなかった。だから彼女は自分の体がどれだけ人間と違っているのか、いまいち分かっていなかった。甘く見ていた。太陽がどれほど自分を蝕むのかを。
そして俺は気付いた。この件に関して、エミィには何の非も無い。もし非があると言うのなら、それは海で育った子供に、山にある毒草を判別しろと言うのに等しい行為だ。
しかし俺は愚かしいことにそれをしてしまっていた。知識は遺伝しないということを忘れてしまっていた。
「戻るぞ。」
エミィは返事をしない。先程と同じく膝を抱えて座り込んでいた。それは戻る事を拒否しているのではなく、周りと自分との間の溝に絶望し、反応する意思も無くなる程、無気力になっているのだった。
それもそうだ。彼女にずっと日陰の中で生きろと言うには、隣にある光のある世界は眩しすぎた。本当なら太陽の側ではなく暗闇に閉じ込めておくべきだったのだ。それだったらきっと、自ら太陽の下に飛び込むような真似はしなかっただろう。
しかし、だと言って何時までもここに座らせているわけにはいかない。仕方なく俺はエミィの腕を取り、立ち上がらせようとした。しかしそれは彼女の片腕が上がるだけに終わった。
エミィの目がゆっくりとこちらを見据える。その時、目線が一瞬合った。見えたその目は何も見ていなかったが、しかし何かが映っていた。それの形姿は俺の目からははっきりと見えなかったが、それは世界に自分を打ち砕かれ、生きる気力を失ってしまった者の影だと、俺は不思議と理解する事が出来た。
「……戻るぞ。」
俺はその影の姿を頭から必死に振り払い、エミィの腕をもっと上まで引き上げる。すると彼女の体はようやく立ち上がってくれた。しかしそれは腕が持ち上げられているからバランスを保っているだけで、手を離せば直ぐにまた座り込もうとしているように感じた。何処までも無気力で、もう何もしたくない、と言外に言っていることが分かった。
「……!」
仕方なく俺はエミィを抱き上げる。それはこんなところで愚図愚図したくないという理由と、この少女とこれ以上話したくないという思いがあった。彼女と話しているとようやく忘れることが出来そうだった記憶を呼び戻されてしまう。
エミィは抵抗はしなかったが、落ちないように腕を掛けることもしなかった。まるで意識の無い人を抱えている感覚だったが、エミィは非常に軽く、抱き上げることが大変ということは一切無かった。
持ち上げている手にエミィの火傷をした腕が当たっていた。火傷の部分は既に乾いていて、ざらざらとした感触から火傷の深刻さが直に伝わっていた。
本棟に向かっている途中で、ケインとシンシアが走って来るのが見えた。
「団長! 良かった、見つかったんですね。……って、エミィちゃん、酷い火傷じゃないですか! どうしたんですか?」
「それはそっちに聞いてくれ。それにこれは吸血鬼にとって大した怪我じゃない。」
エミィは疲れからか、運んでいる途中で寝てしまっていた。
「大したって、そんなものじゃ無いですよ! エミィちゃんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。……ああ、面倒だ。明日話す。二人共、今日は戻って良いぞ。」
「二人共って、団長。エミィちゃんはどうするんですか?」
「この火傷を直さなきゃならないからな。」
「治療なら、私に任せて下さい!」
シンシアが名乗り出た。
「いや、いい。どうせ血も俺の部屋にしか無い。……ああ、そうだ。他の奴等はまだ探してるんだろう。そいつ等に見つかったと伝えてやれ。」
「で、でも。」
「構わないと言っているだろう。」
「は、はい。」
シンシアは渋々といった様子で引き下がった。
「取り敢えず、明日の昼にケインとシンシアは俺のところに来い。そこで、こいつのこれからの扱いを決める。」
ケインとシンシアは納得出来ないというような顔をしながらも頷いた。
部屋にはランタンの明かりしか無かった。その中で眠りから覚めた少女は自分が見知らぬ場所にいることに、戸惑っているように見えた。
「目が覚めたか。」
ソファで横になっていた彼女は、自分が今まで眠っていたことをゆっくりと自覚していった。
「ここは?」
「俺の部屋だ。」
俺はエミィに血の入った小さな筒を渡した。しかし彼女はそれを受け取ったものの、握り締めたまま何か言いたげにこちらを向いているだけだった。
「どうした? 使い方は分かるだろう。今まで何回も使っていた筈だ。」
「何でこれを飲まなきゃいけないの? まだ最後に飲んでからそんなに時間は経ってないのに。」
最初俺はこの吸血鬼が何を言っているのか、分からなかった。しかしよく考えてみると、この吸血鬼は今まで一度も怪我を負ったことが無いのだと、ようやく分かった。
その事実に俺は頭を抱えた。今まであまりにレイリーによって大切に育てられたせいで、彼女は自分の体の特性を一つも理解していないのだ。失敗した、と思った。道理で吸血鬼が太陽の光を浴びようとするなんて異常な行動をする訳だ。
「……しまったな。」
「?」
「いや……いいから飲め。理由は直ぐに分かる。」
「……はぁい。」
エミィはとても嫌そうな顔をしたが、意を決して小さな筒を己の犬歯で噛んだ。
数秒後、彼女の湖を思わせる眼の中央に、一滴の赤が落ちた。それはゆっくりと、しかし着実に湖を染めてゆき、最後にはその縁まで全てが紅になった。そしてその紅は呼び声となり、湖の奥深くで眠っていた悪魔が水面まで顔を出す。
それは何も知らない物が見れば、ただの虹彩の模様に見える。しかしこの眼を知っている者は皆、この虹彩にある瞳孔から角膜に向かって延びるいくつもの黒い楕円を、悪魔の眼と言う。これを眼に宿す者はどんな者なのか、よく分かっているからだ。
血を飲んだ後のエミィの変異は眼だけでは無かった。彼女の肌にへばり付いていた火傷の痕が、まるで水が引く様に体の端から消えていっていた。
エミィはその様子に自分で驚き、そして恐がっているようだった。
「消え……ちゃった。」
やはりこの光景をエミィは見たことが無いようだ。
「どうして?」
「お前が吸血鬼だからだ。」
「吸血鬼は、皆こうなの?」
「ああ。」
エミィは既に火傷が消えている肌を、何度も撫でた。未だに自分の体に起きた現象を信じられていない様だ。
「さて、怪我も治ったことだ。明日からの話をしよう。」
「……私はどうなるの?」
不安げな表情を浮かべながら、エミィは言う。自分がやってしまった事について、多少は自覚があるのか、それともレイリーに何か言われているのを怖がっているのかも知れない。
「別に痛いことしようってわけじゃない。外に出さないようにするだけだ。」
「……え? それじゃあ――」
「お前はこれから孤児院で暮らすことを止める。」
これは彼女が眠っている間に決めた事だ。このままで放置しておくと、もっと悪いことになる。直感だが俺はそう確信していた。
「それって……? どういうこと?」
「そのままの意味さ。」
「そ、それじゃあ私は、もう皆と会えないの?」
こいつはこんな目に合っても、まだそんなことを言えるのか。
見つけてからの様子から、人間と暮らすのは無理だと分かってくれているかと思っていたが、凄まじい神経だ。全身を焼かれたというのに、少しも考えは変わっていないらしい。
……いや、それは少し違うだろう。この吸血鬼は孤児院しか自分の居場所を知らないだけだ。だからそれに縋ろうとしている。
「もう一度も会えないって訳じゃない。ただ住む場所を変えるだけだ。」
「それは、私が言う事を聞かずにこんなことをしたから?」
「まぁ、そうだな。俺もお前が勝手に死んじゃ困る。」
俺は少し柔らかい言い方でそう言った。つまり、目の届く所に置いて、勝手なことをさせず監視をもっと強くする。そういう事だ。
「じゃあ、私が良い子にしてたら、また、孤児院に戻れる?」
「それはまだ分からん。お前次第だな。」
それは嘘だった。少なくとも太陽の下に出るなどという吸血鬼としての自覚を全くしていないこいつに、俺は孤児院に戻す判断をするとは思えなかった。
今回はまだ、こいつが自滅するだけで良かった。問題はこいつが加害者になってしまう事だ。今はまだ子供だが、成長するにつれてその力はどんどん強くなっていく。成長したときには、今以上に、人間と自分との差でストレスが溜まっているだろう。その時、誰かがこいつの琴線に触れてしまったら、もしこいつ自身が自暴自棄になってしまったら。彼女はいとも容易く人間を殺すことが出来るだろう。
そうなるくらいなら、暗闇に閉じ込めてしまっていた方が何倍も良い。彼女の怒りも、俺にしか向かないだろう。俺ならたった一人の吸血鬼なんて簡単に止められる。
何時もやってきたものと同じだ。違いは体を壊すか、心を壊してしまうのか。それだけの違いだ。
「本当に、戻れるの? レイリーは悪い事をしたら、もう戻って来れないって言ってたよ?」
「……別にお前は悪い事をした訳じゃない。吸血鬼だったってだけだ。」
「吸血鬼……」
エミィはまた腕を撫でた。その少女の姿に、後ろめたさを感じたような気がした。