8★冷たい手
「二度目に会った時、すぐにあの時の子だと分かったわ。もう十年も経っているというのに何一つ変わってないんですもの。夢見るタヌキみたいな垂れ目も、適当に結ってるボサボサの髪型も」
「ボ、ボサボ……ボサボサじゃないもん。ちゃんと結んでるけど横髪が落ちてきちゃってるだけだもん……」
あと、夢見るタヌキってなぁに? って聞きたかったけど、よく分かんないしボサボサに結ってるわけじゃないということだけ説明できたから、とりあえずおとなしく続きを聞こう……。
「あなたは覚えてないでしょうね。初めて会った時のことも、二度目に会った時のことも」
「二度目って寮のお風呂で幽霊って言った時のこと? それはさすがに覚えてるけど、初めてって……十年前なの?」
「お風呂で会ったのは三度目よ。もっとも、ちゃんとした会話をしたのはその時だったけれど。初めて会った時は一言交わしただけだし、二度目は一言も話していない」
「うぅ……もうちょっとヒントちょうだい? どこで会ったのかとか、何を話したのかとか……」
覚えてないかと質問されているのに質問で返したのが機嫌を損ねたのか、砂塚さんはじっと見つめてから小さいため息をついた。
「……お父様は……お元気?」
「……お父さん? うちのパパ?」
「えぇ、小さい弟さんもいたわね」
「なんで知ってるの……? 元気……だと思うけど……。よく分かんないや。弟はママに引き取られたし、パパは再婚して女の人と暮らしてるから……私は入寮してから会ってないんだよね……。でもなんで知ってるの?」
「兄の担任の先生だったの。……でも言いにくいことを聞いてしまったようね……失礼したわ。じゃあこの話はもうやめましょう」
「うぇぇっ? 私、まだ何も思い出せてないよぉ! 話してよ、ちゃんと話そ? 私、砂塚さんと話したくて来たんだもん! うちの事情なら全然気にしないでよ。私は全然気にしてないし、言いにくいことだなんて思ったことないから全然大丈夫! 家族いなくたって全然寂しくないから!」
そう、私は何も気にしてなんかない。パパとママは一緒にいないほうが幸せだったんだもん。今はバラバラだけどみんな幸せに過ごしてるんだもん。みんな自分の幸せの為に好きな人と暮らしてるんだもん。それって全然悲しいことなんかじゃないもん……。
それでも砂塚さんの表情は私なんかよりずっと重たそうだった。悲しそうな、辛そうな、だけど憐れんでいるようにも見える。
私がいけないのかなぁ? そう思ってニカッと笑ってみせると、少しだけ重さが減ったようだった。
「一緒ね、私も父と暮らしてないの。……私が六歳の時に亡くなったの。だけど五つ年上の兄が父親代わりをしてくれているから、今は寂しくないわ。あなたと初めて会ったのは父が亡くなってすぐ、泣いてばかりの私を兄が水族館へ連れて行ってくれた時よ」
「十年前……初めて家族で水族館行った時だ……。水族館で初めてイルカさん見た時……」
「それは覚えてるのね……。じゃあ、イルカの水槽の前で駄々をこねて座り込んでいるあなたに話しかけた女の子のことは?」
「女の子……?」
少し考えた。思い出そうとしたけど、あの時はイルカさんのこと以外何も考えてなかった気がする……。
そう、イルカさんのことしか考えられなくて、イルカさん飼ってくれないパパなんか嫌い、パパなんかいなくなっちゃえ、パパの代わりにイルカさん飼うもん……って……。
「ビンタしておいてなんだけど、泣きたいのはこっちのほうだったわ……。これで思い出せるかしら?」
「ビンタ……されたような……。あの時のビンタ少女が砂塚さん……?」
「……今もビンタしたいくらいよ」
え、なんでそんな酷いことするの? と聞き返しそうになって気付く。彼女の目にうっすらと浮かぶ涙に……。
私たちは少しの間沈黙した。お互いにあの時のことを思い出して、でも、それぞれ違うことを考えていたに違いない。
今なら分かる。どうしてビンタされたのか、どうして私のことを嫌いと言ったのか。
お父さんを亡くしたばかりの砂塚さんの前で「パパなんかいなくなっちゃえ」と心にもないことを言ったからだ。「嫌い」とも、「代わりに」とも言った。亡くなったお父さんを取り戻すことなんてできないのに、代わりなんていないのに、六歳の私はただイルカさんを飼ってくれないからというワガママで酷いことを口にしていたんだ。パパだけじゃなく、たまたまその場にいた砂塚さんまで傷つけていたんだ……。
「ビンタしていいよ! ううん、殴ってもいいよ! 私バカだから酷いこと言って傷付けちゃったんだよね……」
「……確かにバカね。あの時は私も父を亡くしたばかりだったし子供だったから思わず手が出ちゃったけれど、ビンタしても謝ってもらっても父は戻ってこないのよ。あなたのお父様はとても優しそうで素敵な方だったのを覚えているわ。水族館でバッタリ会った教え子にも自分の子供と同じように優しく語りかけてくれていたもの。素敵な先生であり、素敵な父親なんだろうなと思って見ていたわ。とても厳しかったうちの父とは大違いだな……とも思ったけれど」
どうしてだろう……辛かった話をしているはずなのに、さっきより表情がほころんで見える。もう過去のことだから? 謝ってもどうにもならないことだから?
なんか……なんか私まで切ないじゃない……。
「……砂塚さん! 今から川原行こう!」
「……は? こんな雨の中何をしに行くのよ」
「いいから! 部活終わってからでもいい、一緒に来てほしいの!」
「嫌よ……雨の中川原なんかに行ったら足元がグチャグチャじゃない。だいたい私、雨は嫌いなの」
「知ってるんでしょ? 私が川原で何してるか。一緒に見たいの! 砂塚さんに見せてあげたいの!」
叫ばないと泣いてしまいそうだったから……。涙を流すのなんて私らしくない。私じゃない……。だって、アクティブ&ポジティブが私の……。
「栗橋さん……どうしてあなたはいつも……」
勢いで手を引こうとした私を一瞬振り払おうとして、そのまま黙って握り返してきた。その手は冷たくて細くて、まるで張り詰めた弓の弦のようだった……。
冬の雨よりも冷たい手は、雪になりきれない切なさも痛みも知っているかのようで、私の中に深く突き刺さった。心臓が凍りつきそうに浅い鼓動を打つ。白かった息も凍りつきそうに薄く消えていく。鼓動も、呼吸も、私の中で止まってしまいそうなくらい、全ての音が消えていく……。
静かな弓道場には、静かな十二月の雨音だけが寂しそうに泣いていた……。