42★へんてこ家族
「お先にどうぞ」、そう言われてお言葉に甘えたはいいけど、どうにも落ち着かないお風呂だったのでカラスの行水になってしまった。あんなに広いお風呂、いったい何人同時に入れるんだろうと、寮の大浴場と比較してしまう。もちろん寮の方がはるかに大きいのだけど。それでも浴槽に六・七人、洗い場に四人は余裕で入れそうだった。嗅ぎ慣れないボディソープで身体をごしごししながらそんなことばかり考えていた。
脱衣所に用意してくれていたバスタオルでよく、よぉく身体を拭く。私のよりさっぱりとした香りのシャンプーの匂いがする髪も、よぉく、よぉくタオルドライする。タオルでわしゃわしゃする度に水滴を含んだ毛先が、火照った顔をぺしぺしと叩きつける。これが嫌いで堪らない。できるだけ水滴が目に入らないように、しっかりと瞑って手を動かした。
「ふぃー……」
お借りしたパジャマを濡らさないように、いつもの何倍も拭いた。もこもこした手触りの良いパジャマからは、これまた嗅ぎ慣れない柔軟剤の香り。それと、ちょっとだけ和ダンスの匂いもする。袖を通してくんくんと鼻を腕に埋めると、まるで自分じゃない気がした。髪も身体もパジャマもいつもと違う、そわそわするようなわくわくするような変な感じがした。
「栗橋さん? 入ってもいい?」
脱衣所を隔てている扉の向こう、曇りガラスに映った人影が申し訳なさそうに小さなノックをした。私はパジャマの中に入っていた後ろ髪を捲し上げながら「いーよー」と大きく返事をした。
「お先にぃ! いやぁ、おっきいお風呂だねー! なーんか落ち着かなくてさぁ……って、あれ?」
「初めまして、栗橋さん。聖がお世話になってます」
「聖ちゃんの……」
お母さん、なんだろうけど……全く似てない! 顔ももちろん、雰囲気もしゃべり方も、なんというか聖ちゃんのお母さんという印象からはかけ離れた柔らかくて暖かい空気を纏った女性だった。
「よぉく暖まった? パジャマ大きくない? 化粧水と乳液は……いらないわよね、お肌ぴちぴちだものね!」
「うぇっとぉ……はい……」
「あらあら、うふふ……びっくりさせちゃったわね。聖のお友達ってどんな子かしらと思ったら、まぁかわいらしい女の子だこと! お目々ぱっちりで垂れ目ちゃんで……どこかで見たお顔ね……。誰かに似ているような……」
「タヌキ……って言われたことありますけど……」
「やだ! ひどいわねー? こんなかわいらしいお嬢さん捕まえてタヌキだなんて!」
お宅のお嬢さんですけどね……とはツッコめない。笑った顔も驚いた顔もとっても素敵だったから。それに、とっても楽しそう。なんでだろう? お客さん珍しいとか? お友達連れてくるの珍しいとか? 友達、という言葉で思い出した、まだご挨拶してなかった。また「聖さんのお友達はご挨拶もできないんですか」という桂子さんの言葉が蘇った。
「あ、あのっ、こちらこそ仲良くしてもらってます、栗橋莉亜です! 今日はお言葉に甘えてお泊りさせてもらうことに……」
「いいのいいの。ご挨拶なんて堅苦しいことやめましょ? そう、莉亜ちゃんてお名前なのね! じゃあ……りーちゃん! なんてどうかしら? りーちゃん、ドライヤーかけ終わったらアイス持ってってあげるから、お部屋で待ってて?」
「りー……ちゃん……」
「どうしたのりーちゃん。アイス嫌いだった?」
「い、いえ! 甘い物大好きです!」
「そう! 良かったぁ。じゃ、湯冷めしないようにちゃんと乾かしてらっしゃい? うふふ……」
私の返事もまたず、お母さんは小さく手を振って廊下の向こうへと消えていった。あのテンションの高いお母さんが、ほんとにあの聖ちゃんのお母さん……? もしかして後妻さんなんだろうかとか、もしかして義母さんなんだろうかとか、いらん妄想がぐるぐる駆け巡った。
元来た廊下を進み、元来た階段を昇り、目指すは牡丹模様の襖。相変わらずしんと静まり返った廊下が、あのお母さんは幻影だったんじゃないかと疑わせる。似合わない、似合わない。聖ちゃんにもこのお家にも、あのほわんとしたお母さんは違和感だらけなんだもん……。
「ただいまぁ。お風呂、お先させてもらったよぉ」
「早いのね。あまり暖まってないんじゃないの? まだ二十分も経ってないわよ?」
「だはは……広すぎて落ち着かなくてさぁ……。そんなことより聖ちゃん、下でお母さんに会ったんだよ!」
「あらそう。挨拶したがってたからちょうど良かったじゃない」
聖ちゃんは何事もないように、相変わらずの涼しい顔をしている。自分と雰囲気が違う義母さんをどう思ったか、なーんてことは微塵も感じて無さそうな、そんな顔。やっぱりあの人は正真正銘の実母さんなのかな、と私の疑問は完全に消えないままだった。逆に、そのクールな素振りが私の疑いを晴らせない要因の一つなんだけど。
「あのね、お母さんが髪乾かしたらアイス持ってきてくれるって言ってたよ? 優しそうなお母さんだね。正直、ちょっと意外だっったよ」
「似てないって言いたいんでしょう? 母と私が。別に気を遣わなくてもいいわよ。昔から言われ慣れてるもの」
「え……う、うん。だってほら、聖ちゃんもお堅いしさ、桂子さんは何十倍もお堅くて怖いしさ、その血族の人だよ? カッチコチに硬いおかあさんだと思ってたからさぁ……。なんていうか、雰囲気が全く違ったんだもん。それに、桂子さんはお母さんのお姉さんだって言ってたけど、お母さんはずいぶん若く見えたよ? 雰囲気のせいかなぁ」
「うちの母は六人姉妹の末っ子だから……。長女の桂子さんと違って甘やかされて育っていたのよ。だから私にもとても甘いの。母はあんな感じだけれど、兄は父譲りの堅物だし、桂子さんもあんな感じだから、私が母に似てなくてもおかしくないのよ。……悪かったわね、母みたいに明るい人間じゃなくて。栗橋さんには母みたいなテンションがちょうど良さそうよね……」
黙って聞いていると、言い終わってからちらっとこちらを見た。その目つきは「返事は?」と催促しているようで……。催促に気付いて隣に座り、私もあわてて返した。
「そりゃさ、びっくりはしたけど聖ちゃんと同じだったら、それはそれでびっくりしたかもしれないよ? なんとかって人のなんとか村ってお話あるじゃない? えっと……墓……墓の村? なんだっけなぁ……」
「八つ墓村……とか失礼なこと言い出さないわよね? 誰が呪われた一族よ。……それに、思い出せないくらいの知識を引っ張り出そうとしないでいいから。栗橋さんの成績は知らないけれど、話していれば大体の程度が分かるし。ボロが出る、というやつよ」
「し、失礼だなぁ。これでも中学の時は美術と家庭科は優秀だったんだぞ? ズボラに見えるかもしれないけど手先は器用なんだからね!」
「……へぇ」
全く信じてない「へぇ」なんだけど……!
「家庭科って言っても料理の方はダメだけど、お裁縫とか作る物が得意なの。技術も成績良かったよ? とにかく作ったりお絵描きが好きだったから……って、聞いてないでしょー!」
「聞いてる聞いてる。音楽は? 歌、得意じゃない」
「譜面読めないから楽器苦手なんだよねぇ。歌は聞いてれば覚えられるから好きなんだけどさぁ……って聞いてるー? 今、絶対聞いてなかったよねー!」
「……ぷっ」
振り返ったかと思うと急に私を見て吹き出した。意味が分からず首を傾げると、それを見てまた口に手を当てる。聖ちゃんが笑っててくれるのは嬉しいけど……理由が分からないままなのはちょっと気持ち悪い。
「なんで笑うのぉ? 私が器用なのがおかしいの? 成績良かったって言ったのがおかしかったの?」
「そうじゃないわ。うちの母と同じようなことを言うからおかしかったのよ。母はお料理も得意だけれどね、栗橋さんのように勉強以外のことが得意だったっていつも自慢してたわ。私が成績表やテストを持って帰るといつも『わたしに似なくて良かったね』と笑うの。……おかしいでしょう? 栗橋さんが母親になったら、うちの母と同じことを言いそうで……想像したら笑っちゃったわ」
「ふぅーん……。いいなぁ、うちは逆だったよ。うちはパパが小学校の先生だったじゃない? だから私が悪い点取る度にぶつぶつ言ってた。普段は滅多に怒らないし優しいんだけど、勉強に関しては厳しくてさ……。頑張ってもできないもんってふて腐れて、それから勉強なんてしても意味ないやって勉強嫌いになったんだよねー……」
「そうそう、栗橋さんのお父さんといえば、兄の担任だった栗橋先生のお嬢さんだと母に伝えたの。思い出して懐かしんでいたわよ。どんなお嬢さんなのかしらってあなたに会うのを楽しみにしていたから、余計にテンション高かったのかもしれないわね」
「あぁ……そういえばどこかで見た顔だって言われた……。お兄さんの担任だったの忘れてたよ。じゃああれはやっぱりタヌキじゃなくてうちのパパに似てるって言いたかったのか……ふぃ……ふぃっくしょん! うぶぶっ」
くしゃみで我に返り、こたつ布団を肩まで上げた。聖ちゃんも思い出したように私の髪を見る。そして立ち上がり、「いらっしゃい」と肩に触れてきた。どこへやらと見上げると、聖ちゃんはコードがピンと張ったドライヤーを持って手招きをしている。もしかして乾かしてくれる……? 私は嬉しくなって畳の上をはいはいしながら聖ちゃんの側まで行った。そして立て膝で待ち構えていた聖ちゃんのお腹に背中を預けた。
「寄っかからないでよ。私の服まで濡れるじゃない」
「はぁーい! えへへぇ」
「……なによ、何か言った?」
「なーんも!」
ドライヤーの風音だけが部屋中に響いている。郷奈ちゃんとはまた違うぎこちない手つきに新鮮さを感じた。変なの。聖ちゃんは私のパパみたいで、私は聖ちゃんのお母さんみたいなんだ。じゃあ私と聖ちゃんの間にもし子供がいたら、どんな子なんだろう……。片目は垂れ目で片目は釣り目……畳の上に描いた透明な似顔絵を見て笑いを堪えるのに必死だった私。そんな私に、きっと聖ちゃんは気付いていない。