28★二人占めの場所で
「姫様は私のことよく分かんないって言うけどさぁ、私だって姫様の言ってること分かんないよぉ。ほんとに出ちゃって良かったの?」
水族館を出て現実に引き戻したのは首元をかすめる北風。ぺたんこな鼻も耳たぶも凍りつきそうでマフラーで顔半分を覆った。鼻まで引き上げると自分の呼吸で少しだけ暖まる。
「いいのよ。それよりさっきの歌……」
「ハピバスデーの?」
「恥ずかしかったけど……悪い気はしなかったわ。栗橋さんて、本当に綺麗な歌声なんですもの。私だけの為に歌ってくれたって思うと、リサイタルを貸切にした気分になったのよ。場所とキャラを忘れれば、ね」
「ほんとっ? 嬉しいなぁ! ……んむ? 最後の方、聞き捨てならないこと言わなかった?」
「本当の事でしょ? こんな風に口を尖らせているタヌキちゃんじゃなければ、最高の歌声なのに……」
だ、誰がタヌキちゃんだ! ……まぁ、とっても楽しそうな笑顔に免じて、今日の所は許してあげるか……。
「ふぃっ……ふぃっくしょん! ……うぅ、しっかしほんとに寒いねぇ。聖ちゃん、手ぇ出して?」
「なぁに?」
「ほいほいっ、いいからいいからぁ」
何なの? と言いたげな表情でしぶしぶ左手を出す。手袋の上からでも聖ちゃんの冷たさが伝わってきた。二回程ギュッギュッと握るとあちらからも軽く握り返してくれた。
「栗橋さんていつも温かいのね。子供みたい。……それとも、本当にタヌキなの?」
「ひどっ! 子供扱いは百歩譲って聞き流してあげるけど、さっきからタヌキタヌキってどういう意味ぃ?」
「似てるじゃない、タヌキ。目が大きくて垂れ目で。十年前から思ってたわ。全然変わらないのね。イルカの水槽をこだ……子だぬ……ぷっ……」
こちらをチラリと見てはプッと吹き出し、そっぽ向いて咳払いをし、またこちらを向いてプッと吹き出す。繋いだ手は冷たいままなのに、必死で笑いを堪えている聖ちゃんの頬は仄かに桃色に染まっていた。
「こだ……? もしかして、子ダヌキとか言おうとしてないよね? 酷いよねぇ? 六歳の汚れなき少女に向かって子ダヌキとか酷過ぎるよぅ!」
「あら、褒めているのよ? かわいいじゃない、タヌキ。小さくてすばしっこくて栗橋さんにピッタリだと思うけど? ふふふ」
「あんまり嬉しくなぁーい」
でもほんとはちょっとだけ嬉しいんだ。聖ちゃんが楽しそうだから、それが嬉しいよ。もう少し剥れたふりをしていたいくらいに。
「私は目つきが悪いって言われるから、機嫌も悪いのだとよく勘違いされて困るのよね。栗橋さんみたいなタヌキ目が羨ましいわ。怒っているんでしょうけど、垂れ目だと全く怖くないもの」
「……まだ言う? いい加減タヌキネタやめない? 私がタヌキなら、聖ちゃんはキツネだよ?」
「あら、どうして?」
目つき悪いことは自覚してるのに、キツネ目という自覚はないわけね? んまぁいいや。
「でさぁ、結局どこに行きたいの? 適当に歩いてるわけじゃないよね? こっちで合ってるの?」
「さすがに川沿いは風が強いわね」
「……聞いてる? 聖ちゃん。ほんとにこっちでいいの? この先は川しかないよ?」
「いいのよ、私の家こっちだから」
「ふぅん、ならいいんだけど……」
前に聞いた時、下校途中に川原で立ってる私を見かけたって言ってたから嘘ではないんだろうけど……もしかしてこのままどこへも行かずに帰っちゃうつもりなのかなぁ。送ってあげるのはいいんだけど、ちょっぴり寂しい……。
「足元、気を付けてね。砂利の中にたまに大きい石が転がってるみたい。暗いからよく見えないし」
「ふぇ? そっちは川だよ? 道路逸れちゃう」
「そうよ。いつも来ているんでしょう? 連れて行って? いつものとこへ」
首を傾げて見上げると、目を合わせるどころか宙を眺めていた。どういうこと? と問いかけようとしたところで、やっと聖ちゃんの言う「連れて行ってほしい場所」の答えに辿りついた。
「うん! もう少し行くとね、芝生になってるとこがあるの。雨が降ってない時はいつもそこに座って星を見るんだ!」
「そう……」
ごめんね、ちょっぴり難しかったから分かんなかったよ。ここだね。ここだったね。私たちが再会したの。あの時は雨が降っていたね。でも今日は違うよ。クリスマスイルミネーションより、ずっとずっと綺麗な星空が見える。
「ささ、姫様、こちらへお座り下さいませ」
「ありがとう。じいや」
「じ、じいやじゃないもん」
「じゃあ、ばあや」
私をからかってる時が楽しそうだからツッコミ返すの、諦めてあげるね。そのまま笑顔でいてほしいから。ずっと笑顔でいてほしいから。
「お尻、冷たいねぇ」
「冷たいし寒いから早く説明して?」
「説明? ……うん! あそこに牛乳こぼした跡みたいのあるでしょ? あれが天の川。その下にズズィッと降りてきて、彦星様って呼ばれてる星がアルタイルって言って……」
二人で見上げる夜空には、たくさんの星たちが光っています。
「そんなことは小学校で習ったわよ。私が知りたいのは……」
「イルカ座ね、オッケー! んで、彦星様からちょっとだけ右下に降りてきて……」
指差す先は、広い広い宇宙が闇のように見えます。闇の中には数え切れないほどの光が見えます。
「あっちだのこっちだの言われても分からないわよ。どっちが頭なのか尻尾なのか」
「えぇー! 分かんない? 右側が尻尾でさ、くるんって虹みたいになって、その先が頭で……あーもう、なんで分かんないかなぁ」
「栗橋さんの説明が悪いからよ。有名な星の名前すらも覚えてないからこそあど言葉なんですもの」
私には星座を繋ぐ線もくっきりと見えているのになぁ。伝わらないもどかしさにガックリと肩を落とす。水族館で見れなかったイルカさん、ここでなら二人占めできると思ったのに……。
「ごめんね、聖ちゃん。説明下手くそで……」
「いいの。栗橋さんがいつも見てたものを見たかっただけだから。突拍子もなく変なことを言うし、何考えてるのか分からない不思議なあなただけど、同じものを見たり感じたりすれば、少しはあなたを知れるかなと思ったの。でも、やっぱり栗橋さんは栗橋さんだわ。私なんかでは到底理解できない。まったく、変わった人だわ」
「変わってるって最高の褒め言葉だよ! だって、私は私だもん。見て見て!」
今度は指差さないんだ。少しだけ上を向けば見えるから。
「どれを?」
「どれでもいいから一つ。……あのね、私から見えてる星はさ、私が見てることなんて知らないじゃない? でも私にはちゃんと見えてる。光ってる星はいっぱいあっても、いっぱいの中で今私が見てる星は一つだけ。あの星の名前は知らないんだけどさ、何億年も何億光年も前から生きてる歴史があるの。あの星だけの歴史があって、他の星たちにもそれぞれの歴史がある。遠かったり近かったり、大きかったり小さかったり、長生きだったり若かったり……色んな個性があるから色んな色に見えるの。だから私もさ、変わってるって言われるのは、他にはない個性を持って光ってるってことでしょ?」
振り向くと聖ちゃんは黙ってこちらを見ていた。つまんなかったかな。演説長かったかな。疲れちゃったかな。頭の中がいっぱいぐるぐるして言葉を失う。少しの沈黙に聞こえるのは風の音だけ。二人の間を吹き抜けていく風の音だけ。
「帰りましょ。身体も冷えちゃったし」
先に口を開いたのは聖ちゃんのほうで。手袋をしたまま両手をこすって、それから立ち上がろうとバッグに手をかけた。
「……うん。でも、もうちょっとだけいい?」
まだ終わりじゃないんだよ? 水族館のイルカさんも空飛ぶイルカさんも見れなかったけど、もうちょっとだけ笑顔にしたいんだ。笑顔になってほしいんだ。だからね、もう少しだけ隣にいてよ……。