2★名前は……
「……お、お化けーっ!」
「……はい? 何言ってるの? 違うわよ!」
「じゃ、じゃあ幽霊! よよよ妖怪? どどどどど……」
どうしよう! と頭の中で続きが回る。いくら女子寮といえど、このまま裸で走って逃げるわけにはいかないじゃないっ! 幽霊だか妖怪だかもビックリだけど、寮内を裸で走り回る変態にもビックリするじゃない!
「失礼なことをしておいて、更に失礼なことを言うのね! あなた、名前は?」
私が飛び込んだしぶきで髪までずぶ濡れになったのか、それともお風呂の幽霊だからデフォルトで濡れているのか、声の主は髪から水滴を垂らしながらこちらを睨んでいる……。
「り……莉亜です! 一年四組の栗橋莉亜です! そのっ、あのっ、私まだ一年生なので学園七不思議とか知らなかったんです! 大浴場に花子さんが出るなんて話、聞いたことなかったんです! 許してください! 取って食ったりしないでーっ!」
「だから、何言ってるの? 私、人間なんだけど? ここの生徒なんですけど……」
「う、嘘だっ! だってだって、私あなた見たことないもん! 校内ならともかく、桜花寮の寮生なら顔くらい見たことあるはずだもん!」
「目の前の現実を受け入れられないのね。変わった人……。それとも、現実を受け入れるのが怖いおバカさんなのかしら?」
「ば……」
うんうん、変わってるとも言われるし、バカっぽいとも言われることもある。だけど、でも、幽霊にまで言われるとは……。
うん? ちょっと待って、待て私。幽霊はあんなに水を弾く? 幽霊ってもっと半透明で着物とか白いワンピースとか着てるイメージじゃない? でもこの方、ちゃんと裸で湯に浸かってるし、あんなに豊満なお胸を……。
「もしかして、ほんとに人間なんですか……?」
「……言ったじゃない」
「あの……いや、だって、全く気配がなかったし、見たことない顔だったからつい……。お化けなんて言ってごめんなさい、先輩!」
「ついでに言うけど先輩でもないわよ。私も一年だから」
「ふぇ?」
とっさに間抜けな声を上げるからバカっぽいとか言われるのかもしれないけど、間抜けな声が出るくらいハテナが飛び交ったんだから仕方ないよね? だって、そう言われてもピンとこない……。うちの学校は六組もあって生徒数さえ多いけど、入学して間もないならともかく、もう八か月も経っている。同学年で見かけたことがない人がいるなんて有り得る?
湯煙の向こうに浮かぶその人の顔をマジマジと見つめると、あちらは私を怪訝そうに見ていた。眉を顰めてはいるけど切れ長の目元も、高い鼻筋も、薄い唇も綺麗に整っている。綺麗な人……。郷奈ちゃんに負けないくらい綺麗な顔立ち……。
「あなた、四組って言ったかしら? 私、隣の三組なんだけど? ……まぁ知らなくても仕方ないかしらね……」
「三組なの? じゃあ郷奈ちゃんと一緒?」
「あぁ、城谷郷奈さん、知ってるわ。常に私の前にいるもの。出席番号も成績順位も……」
あわわっ、心なしか不機嫌が増したようにも見える。でもでも、ほんとに知らないんだもーん。郷奈ちゃんと同じくらい成績優秀なら、中間テストとか期末テストの順位表とかに名前が貼りだされてるだろうし、それくらい優秀なら尚のこと知らないわけがないのになぁ……。
「ねぇ、名前は? 名前聞いたら思い出すかもしれない!」
「……知ってどうするの?」
「……へ?」
「別に知らなくていいわよ。今までも知らなかったんだし、今後もね。……じゃあ、お先に」
「え、え? 待ってよぉ」
呼び止める声は届いているはずなのに、わざと聞こえないふりなの? 私が湯船にドボンしたから? しぶきがかかったから? お化けって言ったから? 先輩って間違えたから? 名前も知らなかったから?
そうだ、謝らなきゃ! 失礼だって言われたんだもん。ちゃんと謝ったら許してくれるよ、きっと! ……って、あれ? どれに怒ってるの? 全部?
普段あまり勉強しない脳みそをフル回転させてるのに、答えがまとまらない。こんなことなら日頃から脳みそ回転させとくんだったなぁ。脳みそ? 味噌汁ならいつも飲んでるのに、味噌汁は脳みその足しにはならないのかなぁ?
すでにシャワーを掛け終わって浴室を出るその後ろ姿は、どこかで会ったことあるような……。ううん、顔も覚えてないのに後姿を覚えてるなんてことはないか。きっとまた私の妄想壁だよ。ポジティブシンキングがそうさせてるんだよ。混同しちゃダメダメ。
一年三組にいるんだもん。明日、教室に行って謝ろう。うん、そうしよう!
「お風呂の花子さん? また莉亜の空想のお話? そんなことより……」
部屋に戻って早口に一連を話す私の言葉を、郷奈ちゃんの乾いた言葉がバッサリと遮る。
「違う違う! 郷奈ちゃんと同じ三組だって言ってたし、いつも郷奈ちゃんが前にいるって言ってたのー」
「それって、いつも私の背後にいる……とかいう怖い話? 悪いけど、私は空想の話も怖い話も現実味がなくて興味が沸かないわね」
「だからだからぁ、びっくりして怖かったけど、ちゃんと裸でお風呂入ってたし、胸もおっきくて柔らかそうで……じゃなくて、じゃなくて! 作り話じゃなくて本当の、生身の人間だったんだもん」
「はいはい。早く髪乾かさないと風邪ひくわよ?」
弁解なんだか説得なんだか話していて自分でも分からなくなって、口の代わりに身振り手振りで続けていると、片手にドライヤーを持った郷奈ちゃんが頭をなでる。ちゃんと聞いてほしいし信じてほしいけど、こんな風になでられると、今までのあたふたが一気に落ち着いてしまう。
保育園の頃、その日にあった出来事をママに一生懸命話したけど、このブォーンっていうドライヤーの音にかき消されて……。それでも聞いてほしくて続けてたんだった。あの時と一緒、こうして一生懸命話してても、ドライヤーをかけてくれる郷奈ちゃんには聞こえていない。
信じてくれない以前に聞いてくれない……。私がショボンと肩を落とすと、それまで頭をクシャクシャしてくれてた郷奈ちゃんの手がピタリと止まった。
「あぁ、もしかして……砂塚さん……だったかな? ちょっと目つきが悪くて近寄りがたい感じの……。うん、出席番号が私の一つ後ろだったし、順位表も私の前後にいたような……」
「えっ! 郷奈ちゃん、やっぱり知ってたんじゃーん! でも何でだろ? 私知らないんだよね……。って、あつっ! 熱いよー!」
いつになくあわてた感じで「ごめんごめん」とドライヤーのスイッチを切ってるけど、私の頭皮はまだ余熱でジンジンしてますよ郷奈さん……。
「一学期の中間テストが終わってすぐくらいだったかな? 入院したかなんかでパタリと学校来なくなっちゃったのよね。でも、寮生ではなかったから違うかな……」
「入院……? 何かあったの?」
「よく分からないのよね……。話したことないし」
「でも向こうは郷奈ちゃんのことフルネームで知ってたよ? あ、でもでも、郷奈ちゃんの話になったら急に不機嫌さが増したって感じだった」
「まぁ、莉亜の話が全部真実だとして、負けん気の強そうな砂塚さんが成績で勝てない私のことを良く思っていないってことはあるかもしれないわね」
「負けん気強いのは郷奈ちゃんだって……。イタタタタ! 髪引っ張んないでよーぉ! ほんとのことじゃんかー」
「あなたもちょっとは負けん気持ちなさい! 負けて悔しいならがんばればいいのよ。悔しいって気持ちがあるからがんばれるじゃない。でも結果的に自分より上がいたからって、その人を良く思わないっていうのは関心しないわね」
普段おしとやかな郷奈ちゃんだけど、成績のことになるとシビアなこと言うんだよなぁ。冷たいっていうか、でもちょっとほくそ笑んで見えるのは余裕の証なんだろうか? たまにそれが怖いと感じる時があるんだよね……。仕上げに、と弱風でブローしてくれるその手は冷酷さなんて感じないくらい優しいんだけどなぁ……。
砂塚さんか……。明日の休み時間に謝りに行ってみよう! そんで仲直りして仲良くなるんだ!