第九十二話「最後の別れ」
デュランを発ってからどれだけ経過しただろうか。
いや、あの日、セルビアを旅立ってから一年半程は経過していた。
もっと早くに戻ってこれると思っていたのだが、俺とクリストの体は限界に達していた。
足取りは遅くなり、ふらふらなのに休もうとしなかった。
結果、それが仇になった。遅くなりすぎた旅路。
俺よりクリストの方が辛かっただろう、相当サポートしてもらっていた。
そして、今――。
俺はルカルドに居た。
以前酔って壊した酒場が立て直されている。
しかし人の出入りのない建物はくすみ、埃が舞っていた。
その酒場の前で、俺は尻から崩れ落ち、地面を見つめていた。
しばらく手入れをしていない長く伸びた前髪越しに荒れ果てた地が映る。
人は、一人もいない。
死体もなかった、血も雨で流されていると思う。
誰かに処理されたのだろう、埋められたか、燃やされたか。
人の生活臭もなかった。
あれから一年半経過した今でも、警戒されているのだろうか。
このルカルドに限らず、セルビアに続く道中にある町も同じだろう。
当然か、ラドミラの予言を信じなかった血気盛んな冒険者達が、死んでいるのだから。
災厄が討伐されたという噂が出回るはずもない、怖がって誰も近付かないのだろう。
もう災厄は、後数十年は出てこないのに。
この体勢で硬直し始めたのはついさっきの事ではなかった。
俺は何日も前にルカルドについてから、この酒場の前で止まっていた。
いつでも迷宮に赴くことはできる、でも。
この体では、迷宮の魔物にすら狩られてしまうだろう。
しかし、眠れなかった。
毎秒ごとに意識が飛びそうになる。
そうすれば精神も体も楽になるはずなのに、踏ん張っていた。
体調が戻れば、いよいよ覚悟を決めないとならない。
この足を進めなければならない。
セリアを追いかける足は止めないつもりだったのに、俺は逃避を繰り返していた。
追いかければ、失うものが多くあるから。
クリストはずっと、俺を守るように後ろで佇んでいる。
何度も眠ったほうがいいと促されたのに、返事もできなかった。
何日も、俺は酒場の前で座り込んでいた。
雨が降っても、動かなかった。
そんな中、風の吹く音しかしなかった空間に、変化が訪れる。
まずは、クリストの声。
「……お?」
誰かを見つけたかのような、そんな声。
俺も何者かの気配を感じていたが、何かがあってもクリストが守ってくれるだろう。
そう思い、下を向いたまま動かなかった。
俺に近付く足音が、三つ。
クリストは動くことはない、危険なものではないのだろうか。
俺を見下ろすように影が地面に映る。
「酷えな」
「大丈夫ですか……?」
聞き覚えのある声に、俺はようやく重々しく顔を上げた。
そこにあったのは、大事な三つの顔ぶれ。
何故、都合よくこんなタイミングでここに来れたのだろうか。
ぼやける視界のなかでも、間違うわけがない。
エルを中心に、その隣にランドルとフィオレ。
フィオレが真っ先に動いた。
屈み、俺の肩をさすりながら顔を覗き込む。
さすがに魔族だからか、外見は全然変わっていない。
「フィオレ、ごめんね……」
言葉足らずだが、言いたかったことを伝える。
直接謝りたかった、剣を教示すると約束したのに、途中で投げ出したことを。
フィオレはすぐにぶんぶんと首を振ったが。
「いつも言ってますが、私のことは気にしないでください。師匠の足枷になる弟子でいたくないですから」
「そんな事ない……クリストにちゃんと頼んでるから、剣術はやめないでほしい」
「ありがとうございます。でも、辞めるわけないじゃないですか」
そうだよな、フィオレは、俺達の剣術を大事にしてくれている。
何でこんな事を聞いてしまったのか、かなり弱気になっているのを実感する。
フィオレが微笑むと、俺も少しだけ表情を和らげた。
あぁ、久しぶりだな、この感覚は。
しばらくすると、意外にも口を閉ざしていたエルが強い口調で言った。
かなり怒っている。その矛先は俺ではなかったが。
「クリスト、何なのこれ。髪も伸びっぱなしのぼさぼさだし、髭も生えてるし……」
「ん、何で見た目の話になるんだ……? 別にこれぐらい男らしくていいだろ」
「だめだよ。男だけだと、ほんとにだめだね……清らかなる水よ 流水」
エルが躊躇なく詠唱すると、どばっと俺の頭上から水が流される。
雨に当るとかそんなレベルじゃない、大きな桶に入れた水をそのままぶっかけられる感覚。
冷たすぎる流水に皮膚が強張ると意識がよりはっきりし、エルを見る。
久しぶりに会ったというのに、妹は呆れ顔で溜息を吐いた。
「お兄ちゃん、セリアお姉ちゃんの所に行くのにそんなだらしない格好してちゃだめだよ」
「エル……」
「ちょっとじっとしてて」
俺を押さえながら、荷物の中からがさがさとある物を取り出す。
それは小ぶりのナイフ。
魔術師なのに、なぜかエルが持つととっても似合う。
切れ味が良さそうなナイフを握り締め、俺の顔に近づけた。
「え、ちょっと」
恐怖心から顔を動かそうとするも、ぎぃっと強く頭を押さえつけられ、動きを静止される。
そのままナイフが顎に当てられると、じょりっとそぎ落としていった。
髭を。
されるがままに剃られていると、エルは満足したのか次は髪を切り始めた。
長かった前髪やサイド、襟足が剃られ、以前と同じミディアムぐらいにカットされる。
全てが終わりナイフを片付けると「うんうん」と口ずさみながら嬉しそうに微笑んだ。
最後にびしょ濡れになった体を風魔術で乱暴に乾かせると、俺の前に屈んだ。
エルの綺麗な銀髪が少し瞳にかかり、透き通るように赤い瞳が覗く。
次第に顔が近付いていくと、もう視界はエルの綺麗な顔立ち以外、何も映らない。
そして、急に視界は真っ暗になる。
すぐに分かったのは頭に回された華奢な両腕。優しい抱擁。
なら、この顔を包んでいる柔らかい感触は、エルの豊かな胸なのだろう。
理解すると身をよじる気も失せ、一生このままで居たくなる。
いつまでこの体勢でいてくれるのだろうか、脱力しきっていると。
最後に聞いたのは甘える妹の言葉でも、甘えさせてくれる言葉でもなく、詠唱だった。
「眠りよ、汝に安らぎを 睡眠」
俺の意識はやっと訪れた癒しを求めるように、眠りに落ちていった。
次に目覚めた時に、三人の姿はなかった。
「は……?」
起きると同時に、違和感に気付く。
久しぶりに安眠して体調が回復したからではない。
ないはずのものが、存在していた。
酒場の壁に背を預けたまま、動かす。
ある、動く、指も五本ある。
左腕が、生えていた。もちろん闘気の腕ではない。
生身の、血の通った肉の腕だ。
すぐにはっと思い出す、エルが催眠魔術を掛けてくれたのは分かるが……。
周囲を見回すとエル達の姿はなく、クリストが隣で腕を組み、毅然と立っていた。
「起きたか」
「いや……何で腕が、というかエル達は――」
「帰った。その腕はエルの治癒魔術だ」
「……え……」
上級の治癒魔術、レイラでも使ったら死んでしまう程の魔力が必要な。
エルは、エルはどうなった。
左腕の嬉しさより、エルの身を案じ心が軋む。
「安心しろよ、魔力切れすら起こさないでピンピンしてたから」
「何で……? 魔力は増えるものじゃないのに」
「さぁな、俺も詳しく聞いてないし、全部終わったら本人に聞いたらどうだ」
それは、帰ってこいと遠まわしに言ってくれているのだろう。
『そうだね』と言うのは簡単だ。
嘘を吐くだけなのだから。
でも俺は状況が変わらない限り、考えを変えるつもりはなかった。
それに。
「災厄の空間に飛べる確認は取ったけど、帰ってこれるとは思えない」
「……そうだな」
やり終えた後に、自分の意思で精霊が作り出した空間から出れるとは、毛頭思っていない。
分からない事だらけだが、推測できる事も少なからずある。
イゴルさんが老けてなかったことから、肉体に限っては時間の概念はないのだろう。
それに、その空間から出て魔物を食さない限り、強くもならない。
奴がイゴルさんの体を強靭な肉体に育てたように、セリアの体を作り変えることはできていないだろう。
しかし、それでも元々のセリアが備えていた闘気を使えるのなら。
単純に俺が精闘気を使えた時と同じぐらいの闘気で戦える。
俺は、自分の持つ闘気のみだ。
違いがあるとすれば、相手には剣の技がないことか。
だが、災厄は弱いわけではない。
技がなくとも、自らに立ち塞がる強敵と戦ってきた経験がある。
圧倒的に俺が不利だ。
いや、そんな事あまり関係ないな。
元々、死に戦なのだから。
エルのおかげで体は動く、両手で剣も振れる。
闘気の腕は扱い辛かった。
生身の腕で剣を握れるなら、俺の強さは以前の自分を遥かに凌駕する。
「ありがとう……」
もう誰もいない殺風景も眺め、呟いた。
エルがどういう手段を使ったか分からない、でも生きてるなら、感謝しかない。
もし俺の腕を再生する代わりに死んでいたりしたら、俺はまた止まっていただろう。
俺は立ち上がった。
覚悟を決め、強く拳を握る。
クリストに目を見張ると今まで気付かなかったが、「ほら」と柵に掛かっていたコートを手渡してきた。
わけもわからず、とにかく受け取る。
「このコート……どうしたの?」
「素材は違うけど、同じ物作ってくれたってさ。着とけよ」
クリストもボロボロになりすぎて捨ててしまった、ダークグレーのコート。
ドラゴ大陸のキラキラとした素材で出来ていたものとは違うが、デザインは同じだった。
襟元の碧石が輝くコートに、俺は袖を通した。
俺はクリストに向き合う。
真剣な面持ちでその長身を見上げ、瞳を覗き込んだ。
「クリスト、今までありがとう」
俺に剣術を教えてくれて。
遥かに年上のクリストを馬鹿にするような生意気な弟子だったのに。
あまり口数の多くない俺を笑わせるように、いつも陽気に話しかけてくれて。
俺を、守ってくれて。
言葉にすると、表現しきれないだろう。
俺のクリストへの感謝は、言葉では紡ぎきれない。
クリストは俺を撫でるように、乱暴に手を乗せた。
エルに切ってもらった髪がくしゃくしゃになる。
そしてその手は俺の肩に移動し、力強くドンと叩いた。
「お前は俺より強いよ。心底そう思う」
俺が人に自慢できるのは、セリアへの強い気持ち。
セリアを想い、振り続けてきた剣術。
でもそれは、彼女を守ることに繋がらなかった。
俺の根っこは、弱い。
すぐに立ち止まり、誰かに背中を押してもらわないと進めない。
その背中を押してくれたのは、家族、仲間、その中にクリストもいる。
俺を強くしてくれたのは、クリストだ。
「クリストの域に辿り着くまで腕を磨けなかったのは、心残りかな」
「ははっ、自分で気付いてないのがお前らしいな。心の事だけ言ったんじゃないって」
「ん……?」
「剣術も、もう俺を超えてるよ。この一年半でな。お前は天才だけど、成長の仕方がおかしかった。セリアと再会してからは自分でも正直伸びてないと思ってただろ」
「あぁ、レイラの力に頼って甘えてた部分はあるかな……」
「違う、関係ないな。今思えばお前が強くなるのは、セリアを追いかけてる時だけだったな」
今の現状を生んでしまった根源にあるもの、セリアへの依存。
クリストの言う通りだ。
俺はセリアの隣に立つと、人としてだめになるわけではないが。
満足して、安心しきってしまう部分があった。
何より甘えてしまい、この現状を生んだ。
しかし、結局結末は変わらなかっただろう。
多分、災厄は最初からセリアの体に乗り移るつもりだった。
俺達に回避する術はなかった。
それでも、過程が問題なのだ。
若干項垂れる俺の様子にクリストは少し笑うと、昔ながらの陽気な表情を浮かべた。
「行ってこいよ。お前の根っこにあるのは好きな女を追いかける事だろ」
「うん、クリスト、皆を頼むね」
「おう!」
「行ってくる」
俺は背を向けた。
振り向けば、俺を安心させるようにクリストは笑みを浮かべてくれるのだろう。
絶対に振り向かない。
ここからは、甘えを捨てる。
俺は前だけを向いて、歩き始めた。
半日歩くと迷宮に着いた。
昔、皆で休息を取っていた小屋に寄ることはなく、迷宮に足を踏み入れた。
クリストに迷宮内まで同行してもらう必要もないほど、俺は強くなっていた。
トライアル、エル、ランドル達と必死に戦っていた魔物達が迫り来るも、一瞬で斬り伏せる。
怪我をするどころか、体力を削られることすらない。
俺は深層に向かって、進み続けた。
道は意外と覚えていた、薄暗い迷宮内でも、迷いなく一直線に進んだ。
そして、辿り着く。
道は細くなり、その先で白く発光する、転移陣。
以前ここに来た時に食らった闘気の威圧はない。
ここの番人はもういない。
転移陣に足を踏み入れると、視界が変わる。
整地された地面を照らすように、部屋の中央にだけ薄く明りが灯っている。
もう守護者がいないボス部屋の中央に行くと、俺は思い浮かべた。
憎い災厄ではない。
そもそも、災厄の顔はイゴルさんという認識でしかない。
俺が脳裏に浮かべたのは、長い金髪、エメラルドグリーンの瞳、凛々しくも、可愛らしい顔立ち。
最愛の恋人であり、妻の姿だった。
セリア、今……行くから。
その瞬間、俺の体は世界から消えた。
超常現象に動揺することもないほど、あっさりと。
セリアを思い浮かべ、いつのまにか閉じてしまっていた目蓋を開くと。
何もない、灰色の世界で。
俺の大好きな女の子の姿が、あった。
本来エル達の回想があったのですが、短くまとめきれず長すぎたので省きました。
また番外編で投稿する予定です。
明日は三話更新します。




