第七十五話「船旅 前編」
「おぉ……!」
エルトン港が見え始めると、俺は目をぱっと大きく開き、感心するように声を上げた。
俺はこの世界に来てから間近で海を見るのも、船を見るのも初めてなのだ。
ドラゴ大陸の最後の山脈で、頂上から景色を眺めただけ。
「そういえば、アルは船に乗るの初めてよね?」
俺が少年のように心躍らせていると、セリアが思い出すように言った。
その通り、おかしな話だ。
カルバジア大陸の南方面で生まれて、もうほぼ世界一周している身だというのに。
「初体験だよ。結構わくわくするなぁ」
実は、船に乗るのは前世をいれても一度も経験したことがない。
やっぱり船酔いとかするのだろうか。
それにしても、この潮の香りはとても懐かしく感じる。
落ち着くし、俺は好きだ。
「船に乗ったことねえのに大陸渡ってんのはお前ぐらいだろうな」
「お兄ちゃんなら船酔いもしないかな」
ランドルが呆れたように口を開いた後。
エルが「私は最初ちょっとだけしたから」と付け加えるように言った。
船酔いも強さで何とかなるものなのだろうか、経験してみないと分からないな。
「師匠なら、船に乗らなくても渡れますよね?」
俺じゃなくとも、クリストもセリアも出来るだろうが。
でも、どうだろうな。
船旅で二ヶ月の航路を、走り抜けるのは辛い気がする。
闘気がもたなかったら沈んでくし「ちょっとチャレンジしてみようぜ」なんてノリでやると死ぬかもしれない。
いや、そんな無駄なこと絶対にしないけど。
「さすがに結構距離があるみたいだし、エルトン港からは辛いと思うなぁ……」
俺がぼやくと無駄な話が終わるが、エルが再び安心するように笑みを漏らした。
「船旅もそうだけど、もう何があっても危険なことはなさそう」
エルが俺達をさっと見回して言うが、実際その通りだろう。
この俺の家族を囲む集団に、何が襲い掛かってきても危機に陥ることはないだろうな。
今ここが、世界で一番安全なところだと断言できるほどに。
やっぱり家族みんなで行動してカルバジア大陸に帰るのは間違いではないだろう。
俺も不安が払拭されていくと、薄く一人微笑みを作った。
今日は一日宿に泊まり、明日の船に乗る。
やはりこの人数になると船賃はそれなりのものだが、今の財力なら何の問題もない。
俺達の資金は現在、ルルが管理している。
少しルルには不似合いな大きな鞄を持ち、その中に大金が納められている。
旅の間、大きな荷物を背負ってくれているクリストに任せていたのだが。
ルルがクリストの金に対するぞんざいな扱いを見て、さすがに任せておけないと管理することになった。
もちろん全員一致で賛成した。
俺が持ってもいいのだが、なるべく目立つ闘気の腕は形成したまま歩きたくないので、荷物は軽いほうが助かる。
ルルには申し訳ないが、一番しっかりしているルルが適任だとも思うし。
そして船だが。
意外と、部屋が埋まっていて乗れないなんてことにはならない。
この世界では、大金を払って大陸を渡る人間は少ない。
仕事の関係で渡る人が一番多いだろう。
船は一隻じゃないし、急に船に乗ろうとしてもあまり問題はない。
セリアの話によると、イーデン港はまた違うようだった。
イーデン港は気軽に大陸を行き来できて冒険者の渡来が多い。
エルトン港ほどスムーズにいかないようだ。
今までこういうことを進めていくのは俺の役目だったが、今ではルルが全てやってくれる。
神経すり減らして金の管理をする必要もない。
ルルは偉大だ。感謝だ。
ルルが帰ってくると、俺達は手頃な宿に泊まった。
いよいよ、初めての船旅だ。
海に浮かぶ船に乗り込み、デッキから広大な海を見渡すと、港町から見るよりも一際綺麗だった。
この世界の海はとても綺麗だ。
透き通った水面から、泳いでいる魚が鮮明に見えるくらいに。
「二ヶ月近い船旅だけど海の魔物は大丈夫なの?」
俺が疑問を口にすると、クリストは「大丈夫だ」と即答しながら続けた。
「海は海竜の縄張りだからな。海竜に捕食されてるし滅多に出ないぜ。
それにもしもの為にあいつらがいるんだからな」
くいっと顎を動かし、クリストはとある集団に視線を移す。
俺も一緒になり、そこにいる船の護衛専用の剣士や魔術師達を見回した。
俺達がいるから大丈夫と言わない辺り、この護衛達が全てやってくれるのであろう。
きっと海での戦闘のプロフェッショナルだ。
心配するのも野暮だろうか。
まぁそれも当然か、この護衛で問題あるのならそもそも船が出ていない。
一つだけ言いたいことがあるとすれば、その捕食してくれる海竜が今どうなっているか分からないことだが。
絶滅してたら……いや、あんまり嫌なことは考えないようにしよう。
そもそも、何かが襲ってきても俺達が戦えば問題ないのだが。
とはいえ、そう簡単な話でもなかった。クリストにとっては。
災厄に見られる心配を極力減らしたいから、魔物が出た際はできるだけ顔を出すなと。
特に俺はレイラを連れているので災厄にとっては目立つ存在だ。
顔を隠していてもバレてしまうだろう。
別にバレて海の魔物をけしかけられても大丈夫だとは思うが。
船が沈没でもすればしゃれにならない。
乗客は死ぬし、俺達も永遠に海の上を走れるわけじゃないからな。
ともかくだ。
見方を変えれば、船旅の間はゆっくりできるってことだ。
俺が顔を引っ込めながら海を眺めていると「さすがにまだ魔物がいないのは分かるだろ」とクリストから声が掛かった。
その言葉通り、魚が気持ち良さそうに泳いでいるだけだ。
さすがにここまで警戒しなくていいかと、景色を眺めるように少し背伸びする。
海を眺めながら談笑していると時間は過ぎていき、船はコンラット大陸を旅立った。
次に陸に上がる時は、久しぶりのカルバジア大陸だ。
懐かしい面々を思い出しながら、やはり長年育った大陸だけあって少しうきうきする。
特に、目的地であるセルビア王国で出会った人達を思い浮かべながら、俺は潮風に当っていた。
船には当たり前だが部屋がある。
元々、貴族御用達と呼ばれる大きな船だ。
しかしさすがに無限に広いわけでも部屋があるわけでもない。
つまり、普通の部屋はそんなに大きくない。
でも、そこら辺の宿よりも俺の目にはかなり煌びやかに映る。
そして、いくら金があるとはいえさすがに一人一部屋というわけではない。
イーデン港から出る船は違うらしいが、エルトン港の船は部屋の数で船賃を取られる。
大金を払ってわざわざ質のいい部屋を取るほど贅沢でもないし、必要もなかった。
当然のように二人部屋を取ったので、俺達は二人ずつに別れる。
船に乗る前から、自然とその二人組みはできあがっていた。
俺とセリア、母とルルは言うまでもない。
エルとフィオレと、ランドルとクリストはお互い仲が良い。
何も言わずとも、各自勝手に部屋に入っていった。
部屋に入ると小さいベッドが二つ、壁に沿って並べられていた。
ベッドがある時は基本セリアと共に寝ているが、この大きさで二人で寝るのは窮屈だ。
「うーん、せっかく二人でのんびりできると思ったんだけどね」
残念だと口にすると、セリアが「え?」と言った後に、真顔。
「くっつけばいいじゃない。なに、嫌なの?」
少しだけ怒ってるようにも見える。
片眉がピクっと動いた気がするぞ。
そしてもちろん、嫌どころか甘美な提案である。
「そ、そりゃ……嫌なわけないけど、いけるかな?」
「いけるわよ」
何の根拠もなしに即答するセリアに、俺もこくりと頷く。
まるで俺が女の子。
ベッドを窮屈にするのが俺の体だとは思えない。
それにしても、カロラスの実家にあったルルのベッドと同じぐらいの大きさだ。
昔はイゴルさんに運ばれ二人で寝ていたこともあったが。
そう考えると、本当に成長したな。
まぁ、まだ夜でもないし就寝の話はおいといて。
この数年で、何も考えずにゆっくり過ごした日なんて数えれるほどだろう。
二ヶ月も剣を抜かずに過ごすなんて、初めてかもしれない。
さすがに稽古の為に剣は振るだろうが、明確な敵がいないのだ。
少し違和感を感じながらもセリアとベッドに腰掛けると、いつも通り他愛のない話をした。
幸せを感じる瞬間だ。
きっと慌しい日々だったからこそ、深く感じれる幸せだろうな。
この二ヶ月、満喫しようじゃないか。
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、夜になった。
二人の小さな寝息だけが聞こえる暗闇の空間のなか。
ドンッという音と共に、俺は衝撃で肺から空気を吐き出す。
軽く打った頭を擦りながら声も上げずベッドに戻ろうとするも、セリアは起きてしまい、目をぱちぱちさせながら眠たげな目蓋で。
「アル、また?」
「ごめん、思ってたより俺、寝相悪かったんだね……」
狭いベッドだ。
眠りの中、寝返りを打つとベッドから転げ落ち、床とこんにちは。
再びベッドに戻ると、セリアが俺の腰に腕を回した。
華奢な腕とセリアの柔らかい体の感触にどきっとする。
「押さえといてあげるから」
「あ、ありがとう」
俺の胸に顔を埋め、俺の高鳴る心臓の鼓動を聞いて満足したのか、笑みを浮かべながらセリアは次第に規則正しい寝息をたてていった。
次第に俺も眠りが訪れ、意識はまどろみに落ちていった。
と、思っていた――。
「痛っ……ちょ、痛い痛い痛い!」
ベッドから落ちた痛みなんて比べようにならないほど、俺の腰を激痛が襲う。
誰だ、襲撃か、なんて考えたのは一瞬。
セリアの華奢な腕からは想像できない強靭な力に握り潰されそうになっていると理解すると、俺はもがいた。
「セリア、起きてっ、死ぬ……!」
焦り闘気を纏い、セリアが起きるまで悶える。
何故か腕に闘気を纏い俺を抱き殺そうとしていたセリアは「ん……」と可愛らしく呻く。
少し腕の力を抜いて俺を解放するセリアは、何も気付いていないようで。
「アル、どうしたのよ……」
「セリア……闘気を使ってまで押さえなくても俺は落ちない」
「え? 使ってないわよ」
「使ってたよ。無意識なの……」
「アルが落ちないようにしないとって思いながら寝てたけど……」
「……」
眠りに落ちる度に無意識に体を潰されていたら、まじで死んでしまう。
しかし、めげる俺ではなかった。
大丈夫、こんな事何度も続かない、それにこれもセリアの愛だ、俺は全部受け止める。
そんな信念を掲げたのは一時間ほど。
何度も潰され、潰されない時は転げ落ち、俺は限界に達した。
セリアが悲しそうにするなか。
俺も泣く泣くもう一つのベッドに横になると、疲れきった体に眠りはすぐに訪れた。
------エル------
人生で二度目の船旅。
思えば、こんな頻繁に大陸を往復する者もいないだろう。
この三ヶ月ほど、陸地にいる時間の方が少なかった。
でも、バルニエ王国に向かった時とは違う。
帰りは賑やかだった。
大好きな兄とも、セリアお姉ちゃんとも会えた。
私が何も出来なかった問題を兄はあっさりと、一晩で解決した。
私は兄に頼って、心配かけてばかりだ。
でも死んだと思っていたランドル、心配かけた皆には悪いが実はこれで良かったと思っていた。
私は、自分の精神が少し成長しているのを感じていた。
兄を心配させないように、態度も少し変えた。
兄が好きだという感情が変わったわけではない。
ただ私は昔から、兄が幸せならそれでいいのだ。
もちろん、セリアお姉ちゃんも。
それに兄が連れてきた人の中で、気に入った子がいた。
これは決して、べったりしていた兄の代わりに、というわけではない。
単純に、好きなのだ。
フィオレのことが。
「エルさん、どっちがいいですか?」
私より年下に見える可憐な少女は、寝巻きに着替えて就寝の準備をすると、二つ並んだベッドを見ながら聞く。
「そんなのどっちでもいいよ。それと、さん付けしないで」
もう、何度も言っていることだ。
フィオレとはもっと、他人行儀じゃない関係でいたい。
言いながら、私は傍のベッドに腰を下ろした。
「師匠の妹さんですから、だめです」
私はフィオレにとって、ただの兄の妹なのだろうか。
少し、寂しく感じてしまう。
さすがに本人の前で素直に言うことは私の性格上なかなかできないが、説得するように言う。
「師匠って言ってるくらいだから歳なんて気にしてないんだろうけど、私達より年上なんでしょ?」
年齢はまだ聞いたことがなかったが。
魔族なら、見た目通りの年齢というわけはないだろう。
「はい、師匠は何故か年下だと思ってるようですけどね」
「あれ、そうなの?」
「そうですよ。私もそう思ってくださる方が剣を教わりやすいですし、助かってるんですけどね」
フィオレは微笑んでいるが。
兄は本当に、強く賢いが、いつも変なところで勘違いしている事が多い。
何でだろうか。
いや――。
ランドルにも言われたが、私は兄を完璧な人間だと思い込んでいる。
兄は神様でも何でもない、一人の人間なのに。
やはりもっと、兄のことを理解しなければ。
愛情を注いでいるのに、その人の弱い部分を分かってあげれないなんて偽物の愛情だ。
もし兄が、セリアお姉ちゃんが。
どちらかが立ち止まった時に、私がそれを理解し、優しく背中を押してあげれるようにならないとダメだ。
もう、一緒にいれるだけでいいという私の自分勝手な部分はようやく、消え始めているのだから。
私は切り替えるように、フィオレに尋ねる。
「本当は何歳なの?」
「えっと、三十歳になりますね」
「お母さんと、そんなに変わらないね……」
「でも、エルフの村を出るまでは私はただの子供でしたから、中身は師匠とエルさんの方が大人かもしれませんね」
「だから、エルさんはやめてって……」
もうこれだけ言っても無駄なら直らないか。
途中まで言いながら、諦めるように言葉を切ってしまう。
でもやっぱり、嫌だな。
「ねぇ、フィオレは何でお兄ちゃんのことが好きじゃないの?」
「え? 好きですよ」
「違う。別に恋人になりたいわけじゃないでしょ」
「えぇっ、そんなの恐れ多いと言いますか、考えたこともないですよ!」
かなり動揺するような仕草を見せると、勝手に後ずさりして――
「いたっ」
お尻から、派手に転んでいた。
初めて見た時は心配したが、これはよくあることらしい。
こんなのでも、そこら辺の剣士では勝てないほど強く才能に溢れているというのが不思議だ。
まだフィオレの剣術は見たことないが、本当なのかと今でも信じられない気持ちがある。
「治癒魔術、いる?」
「いえ……大丈夫です……」
痛いというよりかは恥ずかしいといった様子で、フィオレは少し小さくなりながら立ち上がる。
そして、自分で遮った話の続きをした。
「えっと……私は魔族ですし、師匠の気持ちも知ってますし、そういう見方はしたことありませんよ」
「でも、そうなっても嫌じゃないんでしょ」
「それは、嫌ではありませんが、何か違うというか……」
「やっぱり、一緒だね」
「え?」
「ううん、何でもない」
もし兄がフィオレに迫ったとしたら、私もフィオレも、それは兄に怒ることだろう。
そうなっても嫌ではない程好きだが、私達が抱いているのはセリアお姉ちゃんのような、そういう熱のある感情ではないのだ。
何より、怒るのは。
セリアお姉ちゃんを裏切る兄なんて、許せない。
まぁそんな事有り得ないだろうけど。
フィオレを初めて見た時、またローラのような女の子が現れたと思った。
別に私も人の恋路を邪魔するほど鬼ではない。
ローラのように真剣に兄のことを想っているなら、私もその人を好きになれる。
でも、やはり悲しくも思う。
その気持ちは絶対に報われないのだ。
しかしフィオレを見ていると、違った。
私と同じだった。
兄が幸せならそれでいいと、そういう恋人が抱くものとは違った感情だ。
私の家族愛とは違うが、きっと師弟愛。
でも、だからフィオレが好きなのではない。
きっかけはそうだったかもしれないがフィオレと話しているのは楽しいし、可愛いし見ていて飽きない。
やっぱり。
「ねぇ、私のことはエルって呼んで」
「あの……えっと……」
やはり困った表情を見せるフィオレだが。
私はいつも通りの表情で、淡々と言った。
「私達、友達でしょ」
フィオレは驚く表情を見せると、照れながらも少しずつ微笑みに変わっていった。
「そうですね……えっと、エル……」
「うん、そっちの方がいい」
私が満足気に微笑むと、フィオレは今までのことを思い出すように、少し儚げな表情を見せた。
「どうしたの?」
「すいません、友達と言ってくださるのは、初めてなもので」
「そうなんだ」
私の倍近く生きているのに、こんな人懐っこいフィオレと親しくする者はいなかったのだろうか。
きっとこう見えてフィオレにも、色んなことがあったのだろう。
私と過ごす時間はフィオレにとって少ない時間かもしれないが、フィオレの長い人生の中で、少しでも大切な時間になればいいと思う。
思って、気が付いた。
私も、人のことを考えられる人間になってるのかな。
それは私にとって、皆にとって悪いことではない。
どんどん私を置いていくように成長する兄に、少しくらい追いつけただろうか。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうだね」
私と一緒に微笑みを作っているフィオレが、私の腰掛けたベッドと違う方へ向かう。
フィオレがベッドで横になると、私はフィオレの横たわる小さなベッドに潜り込んだ。
「え? あのー……」
「ちょっと狭いね」
私達の体がそんなに大きくないとはいえ、このベッドも小さい。
これじゃあ、兄とセリアお姉ちゃんは一緒のベッドでは寝れないかも。
「それは、二人で寝たら狭いですよ。この状況、なんだかおかしい気がします」
「別に、普通だよ」
私はフィオレを抱くように腕を回して目を瞑った。
フィオレは動揺しているが、今日くらいいいだろう。
今日だけだ。
結構、私にとっても嬉しい日なんだから。
フィオレが耳元で何か言っているが、寝つきのいい私は返事をすることもできないまま、眠りに落ちていった。
------ランドル------
眠りの中、夜も走り続け揺れる船の感覚のせいか、目が覚めた。
壁に背を預け座りこんで眠っていたせいで、船の動きを機敏に感じ取ってしまう。
前も二ヶ月同じ状態で過ごしたというのに、いまだに慣れなかった。
顔を上げると、気持ち良さそうにクリストが寝ている。
部屋のど真ん中に小さい二つのベッドが縦に並んでいる。
ベッドを並べる為に部屋の家具を乱暴にどかし、一部に至っては破壊されていた。
散乱したこの状態のまま船を下りたら船員は何があったのかと頭を抱えることだろう。
目の前の男はそんな事、一切気にすることはない。
クリストは俺よりも、色んなことに無頓着だ。
最近一緒にいる時間が長い俺としてはその方が気が楽なところはある。
俺達の体では、このベッドのサイズは小さすぎた。
俺が床で寝るならと、クリストは縦にベッドを並べて満足気に気持ち良さそうに寝ている。
これがアルベルなら、俺を気遣って色んな案を出すのだろうが。
クリストを見ていたら無駄に色んなことを考えてしまい、次第にうつろだった意識が覚醒していく。
俺は元々、あまり眠らない。
船内なので外の時間は分からないが、感覚的にまだ深夜だろう。
俺はそのままの軽い服装のまま立ち上がると、扉を開けて外に出た。
甲板に上がると辺りは暗く、月明かりが軽く照らしている程度だった。
潮風の匂いと共に見える景色は、幻想的だと思う。
水面から反射するように映る月が見えるだけの、余計なものが一切ない空間。
アルベルと再会してから、このように見てるだけで無心でいられるものに少し楽な気持ちを感じていた。
気の持ちようは変わったが、変わらないものもある。
――もっと、強くならなくては。
ただそう思い、クリストに稽古をつけてもらっていた。
でも今は少しゆっくりしてもいいだろうか。
しばらく風に当ろうと船先にいくと。
先客がいた。
いつもアルベルとセットでいるので、こんな時間に、一人でそこに立っているのが不思議だった。
昔より長く伸ばした金髪が風で揺れている。
今この女は、その黄昏た顔で何を考えているのだろうか。
俺が考えても仕方ないし、その必要もないか。
去ろうと思い背を向ける前に、セリアは俺の視線に気付いたのか。
それとも突然立ち止まった足音を不思議がったのか、振り向いた。
俺達は目を合わせてしまうが、俺は気にすることもなくそのまま背を向けた。
立ち去ろうとする俺に、声が掛かる。
「ランドル」
今思えば、セリアに名前を呼ばれるのは初めてではないだろうか。
カロラスにいた頃は、貴方、あんた、そいつ、くらいにしか言われてなかった。
「何だよ」
若干面倒そうな表情を浮かべてしまいながらも、俺は顔だけ少し後ろに向けた。
「貴方、私のこと避けてるの?」
最近アルベルの隣にいる時に見せている姿とは違い、別人かと感じてしまう。
強気な態度で、片手を腰にあて、威圧するように。
つまりは、昔と同じだ。
俺もその態度に返すように、体もセリアに向かい合った。
そして別に、避けているわけではない。
俺と一緒にいるのは嫌だろうと、無駄に近寄らなかっただけだ。
それに。
「俺が避けてるって言うなら、お前も避けてるだろ」
セリアも、俺にあまり関わろうとしなかった。
俺とセリアの関係は、カロラスで揉めていたことだけ。
まぁ、揉めたなんて言えないほどに一方的だったと思うが。
俺が吐き捨てるように言うと、セリアは少し困ったような表情で俯いた。
俺の言葉でこんな顔を見せるのは、初めてだな。
「貴方、私のこと嫌いなんじゃないかなって思ったから」
「まぁ、あれだけやられればな」
昔なら女にやられるなんて絶対に納得してなかった。
肯定することなんて有り得なかっただろう。
しかしセリアは俺と同じことを考えていたのだろうか。
正直あまり人間関係を気にしない俺でも、セリアとの接し方は難しいと感じるところがある。
アルベルの女と、アルベルの仲間。
だが、二人に渦巻く記憶は荒んだものしかない。
でも。
「別に嫌いじゃねえよ。昔のお前は人に誇れることをしてただけだろ」
「貴方は、昔のことを反省してるの?」
「してねえよ。ああしなけりゃ、俺に生き残る術はなかった。俺は今生きてることに感謝してるからな」
「そう……」
「でも、昔と違ってお前のやってた事は正しいことだと思ってる。だから、俺を嫌がるのはお前だろ」
もういいかと思い立ち去ろうと一歩足を踏み出すと、また声が掛かる。
「私も嫌いじゃないわよ。だってアルは貴方のこと頼りにしてるし、いつも楽しそうに話すから」
「そうかよ。別に避けてねえから俺のことはもう気にすんな」
今度こそ「じゃあな」と足を動かすが。
「待ちなさいよ」
もう何度目だろうか、また声が掛かる。
何なのだと、面倒さと苛立ちを隠せない。
「何だよ……」
「ちゃんと、こっちを向いて」
こいつは何を言いたいんだ。
俺とこの女に会話なんて必要ないし、意味がない。
ただ、今はどうなったか知らないが、すぐに手が出るこの女を怒らせるのは面倒だった。
もう理不尽な暴力に慣れた俺も、海に放り出されでもしたらさすがに激怒する。
俺は言われるままに振り向くが、セリアは一歩も動かない。
しかし真剣な面持ちで、俺の目を覗き込むように見つめた。
「貴方、変わったわね」
「お前もだろ。昔は凶暴な獣みたいな奴だと思ってたが、今は女じゃねえか。こんな所にいないでアルベルのとこに戻れよ」
「一緒のベッドで寝れないから、寝付けなくて」
セリアの口からこんな言葉が出てくるのはやはり俺には異常に感じられるが。
まぁ、俺の変化もセリアにとっては異常に感じるのだろう。
お互い様か。
「別に、ベッドをくっつけりゃいいだろ」
「そっか、貴方頭いいわね」
お前が考えなさすぎなんだろ、とも思うが。
アルベルも変なところで馬鹿な部分はあるし、似たもの同士だ。
俺も、人のことは言えねえが。
「って、違うわ。こういうことが言いたいんじゃないの」
「もういいだろ。いい加減戻りてえんだよ」
俺が毒づくように言うと、セリアは初めて、俺に対して笑みを浮かべた。
そこら辺の奴なら美人が微笑んでくれたなんて思うのかもしれないが、俺にとってはそれが怖いものに感じてしまう。
だがセリアはその微笑み通りの言葉を、俺に投げかけた。
「アルとエルを、皆を守ってくれて、ありがとね」
何で、こいつらは。
アルベルと、本人のエルはまだ分かる。
でも、何でセリアまで。
俺は、アルベルのように、お前のように、クリストのように。
誰よりも強く、誇れるような強さは、持ってない。
それなのに、何でこいつらは。
「俺は、何もできてねえよ」
本心だった。
あれほどアルベルに、エルにまで言われたが。
やはり、自分の不甲斐なさが消えるわけではない。
だからこそ、少しでも強くならなければと思い、無心で鍛えている。
諦めて停滞してしまうわけには、いかないのだ。
これからも、共に歩く仲間として。
しかしセリアは、そのまま笑みを浮かべたまま、言った。
「そう思ってるのは、貴方だけよ」
分かってる。
俺がどう思ってるのかが、問題なんだ。
セリアに俺の深層が理解できるとは思えないが。
何故か全て分かっているような顔を見せていた。
「じゃあね」
それだけ言うと、何度も立ち去ろうとした俺より先に船内に戻っていった。
俺はすぐに戻る気になれず、セリアが立っていた場所まで歩き、広大な景色を眺めた。
あの強さを持ったセリアはこの景色を見て、何を考えていたのだろうか。
俺には分からない。
まだ、その強さには程遠い。
いつか、今は何も見えないこの景色を見て、見えるものもあるのだろうか。
とにかく、前へ進まなくてはいけない。
俺は結局朝日が昇るまで、潮風に当たっていた。




