第四話「師の目覚め」
「ん……」
爽やかな顔立ち、その長い睫毛が揺れる。
焦点の合わない瞳がころころ天井をさまよい、次第にぱちくり目を瞬いた。
意識は戻っても意思はまだ別のところにある。イゴルさんは身をよじりながら上半身を起こした。
駆け寄って背を支える必要もないほどに自らの体を操っており、何年も寝たきりだったとは思えない。
すると突如としてぱっと意識が鮮明になったのか、途端に体を強張らせた。
彼の視線の先に俺たちは居らず、目覚めの助力をしてくれたバニラに注がれ、ベッドの上で後ずさりした。
逞しい右腕が何かを探して宙を切る、恐らくは剣。
というか、物凄い勘違いをしているのかもしれない。イゴルさんの記憶は災厄との戦闘中で止まっているのか。
「イゴルさん」
音を拾えるようになったのか、自らの名を呼ばれてイゴルさんは顎先をこちらに向ける。
安心させるようにニカッと笑ってみせると、とりあえずは警戒を解いてくれたらしく、イゴルさんの腕の力が抜けていく。
イゴルさんは僅かに震える唇を動かす。
「あの時の、子供は……というか、ここは……。あんたらは誰だ」
うっと顔をしかめてしまう。バニラに忘れられているのは仕方のないことだと思っていたが、イゴルさんに認識されなかったことはただ悲しい。
そんな俺の背中をエルが転び出ない程度に優しく押す。
わかってる、当然のことだ。
いきなり戦ってたと思ってたらベッドの上で、知らない面々に囲まれていたら、これが自然な反応。
数年の経過があるなんて考えもしないだろうし、むしろ俺を認識できるほうがおかしいわけで。
「アルベルですよ。成長したのでイゴルさんの記憶にある俺とは一致しないかもしれませんが」
出来る限り微笑みを浮かべると、イゴルさんは目を剥いた。眉を何度も跳ね上げさせる。
「アルベル……? 成長したって、二十歳近くに見えるが……。何が一体……」
まだ半信半疑。右手で頭を支えてうなだれる。
これはかなり密に説明しないと状況把握まで及ばないだろう。
「実はあれから十年近く経ってるんですよ」
「は……?」
イゴルさんは俺の言葉にひたすらに耳を傾ける。
説明する。イゴルさんが災厄という存在に蝕まれていたことから、順々に。
「あぁ、あぁ」と相槌を返していたイゴルさんだったが、次第に表情が曇り始める。
話し始めは驚くどころかむしろ納得していたような感情を持っていたのに、いきなり悲哀を帯びる。
ん? と説明が途切れてしまうと、イゴルさんが口を開いた。
「セリア、は……」
娘の名前を呼んだ。
そうだ。何より先にセリアの安否を伝えるべきだった。
というか、なんとも歯痒い気持ちだ。
イゴルさんは復帰できないと思っていたとはいえ、子供を作ってしまった。
それにイゴルさんの為だとはいえ、妊婦を放ったらかして家を空けているのは事実。
う、と軽く口を結んでしまうと、イゴルさんは目線を激しく落とした。
「死ん―ー」
「いえ! 生きてますよ! 超がつく健康体です」
焦って取り繕った俺にほっと胸を撫で下ろすも、訝しげに俺を見据えてくる。
冗談にしても趣味が悪いぞ、と言いたげだ。申し訳なく頭をボリっと掻くと、白状する。
「その、子供ができまして……自宅で待ってもらってます」
「子供……? セリアの? アルと?」
「は、はい」
昔の凛々しい師匠とはうって変わって神妙だったイゴルさんは、目覚めてからようやく微笑みを浮かべた。
そしてベッドから飛び降りるように身を乗り出し、俺と肉薄する。
立ち上がったイゴルさんを目前に、自分の成長を実感する。イゴルさんの方が少々背が高いが、目線はそう変わらない。
一瞬殴られるのかとか定番な義理父との対面を思い描いたが、想像とは真逆だった。
イゴルさんは満面の笑みを作り上げると、俺の肩を何度も強く叩いた。
「早く言えよなー! そうかそうか、ちゃんとくっついたか!」
それはもう祝福してくれているようだった。
昔っぽいイゴルさんに一安心する。災厄のせいで感情に乏しくなってしまったのかとか不安だったが、別段そういうわけではなさそうだ。
「その、いいんですか?」
「ん、何がだ?」
「事情あるとはいえ大事な一人娘を……そのー……」
「は? ついこないだ、いや、アルからしてみれば昔のことかもしれんが、セリアを任せるって言ったろ。口では直接言ってないけど」
一人前認定された日のことだろうか。
それしかないな。時が経って思い返すまでは真意を汲み取れていなかったが。
「そうでしたね」
微笑みを浮かべると、うんうんとイゴルさんは満足げに俺の斜め後ろに視線を配った。
「さっきから気になってたが……もしかしてエルか?」
「はい、お久しぶりです」
淡々としながらも、エルは笑みを浮かべて挨拶する。
この妹が丁寧に話すことも稀ながら、微笑みを注いでくれる男性は限られており、貴重だ。そしてイゴルさんもその一人。
ちなみに俺が最後の一人で、終了だ。
イゴルさんはエルの全身を舐めるように視線を泳がせる。
これが他の男なら俺の鉄拳の前にエルが焼き尽くすが、イゴルさんには無用だ。
彼からやらしさは一切感じ取れない。
「べっぴんになったなぁ! モテるだろ。というか、エルの男か?」
更に視線が移った先はもちろんランドル。
強面の男は眉を寄せて瞳を閉ざすが、当の本人である妹は歯をギリッと噛みしめたのち、氷点下の微笑を浴びせた。
「冗談でもやめてください。次からかわれたら燃やしちゃうかも」
イゴルさんは本心を口にしただけでからかったわけではないと思うが……。
しかし感動の再会で慄かされたイゴルさんはぎゅっと唇を閉ざして沈黙した。
数秒後、遅れて「あ、あぁ……」と頷くと、逃避するように俺を見据えた。
脳天からつま先まで凝視される。
深々と凝視されていると、イゴルさんはふっと笑い、俺の瞳を覗き込んだ。
「アル、立派になったな。強く、なってるんだろうな」
「ふふ、お兄ちゃんはもう世界で一番強いって有名なの」
「マジか……すげえな……」
「……は? そうなの?」
「なんでお兄ちゃんが驚いてるの」
いや、だって、さすがに世界一は誇張しすぎだ。
そりゃ強いと評判になることは成してきたとはおもうが、世界最強を謳うのとではまた違う。
というか、様々な仮説が真実だとすれば、世界一の座はイゴルさんが手にするかもしれないのだが。
まずは、本人に尋ねないとな。
「イゴルさん、腹に違和感を感じませんか?」
「ん? 体がやけに軽い気がするが」
腕を回し健康体をありありと表現すると、服の裾をまくって腹筋を露出する。
そして「は?」と眉を寄せる。
「なんだこりゃ」
「わかんないんですよ。見た目がおかしいだけならいいんですが」
「そういえば……最後腹に風穴開けられたな……。まぁ、問題なさそうだ」
もう裾は降ろし、飄々としていた。
凄い。なんてハートの強さだ。俺なら頭を抱えてしまう。
まぁ本当に違和感も何もないんだろう。
「闘気とか……どうです?」
「む」
瞳を閉ざし、己の体に語りかけるようなイゴルさん。
そして、突然解放された。
部屋の中をズドンッと重圧を感じる青炎の闘気が包み込む。
「きゃ!」
傍観していたバニラが自宅の崩壊を感じる闘気に甲高い声を上げる。
それで我に返ったイゴルさんはぴたりと闘気を抑え込んだ。
「なんだこりゃ。底がわからんな」
何度目になるかわからない己の体に訪れた変化への困惑。
俺が精闘気を使えなかったら間違いなく力負けするだろう。
やはり災厄の影響で肉体は強靭になり、闘気も底上げされているらしい。
常人なら、数年の時を奪われた代償で無尽蔵な闘気を得た、ラッキー! とか。
思うのかもしれない。しかし、イゴルさんは違った。
「……」
長年の時を経て自ら作り上げた肉体が塗り替えられたことに、納得のいかないようだった。
意外と、真摯に己の体と向き合ってきた人間からすれば当然の反応なのかもしれない。
イゴルさん凄い! と拍手喝采が巻き起こる雰囲気ではなかった。
そんな空気を入れ替えるように、バニラが進言してくれる。
「お昼、食べる?」
俺しか聞き取れない魔族語に、一先ずはこくりと頷くのだった。
以前もお世話になったテーブルに席を移すと、これからの予定を話し合う。
「まぁ、至極当然のことながら今から帰るわけですが」
「おう、成長した娘の顔も早く拝まないとな」
「それはもう綺麗になってますよ」
俺は何様だ。と思うところもあるがイゴルさんはニヤリと頷きで返した。
セリアは美人談義に花を咲かせようと思っていた矢先、イゴルさんが「あ」とランドルと目を見交わした。
「そういやこの屈強な剣士は誰だ? てっきりエルの……いや、なんでもない」
エルに薄目でじろりと威圧され、縮こまる師匠。
「ランドルといってカロラス出身ですよ。守備隊で仕事を共にしてからずっと一緒に旅してるんです。ちなみにここまでイゴルさんを背負ってくれたのも彼です」
「おぉ。それは世話を掛けたな。ランドル、ありがとな」
「気にするな」
相変わらずあっさりしているランドル。相手がだれでも態度を変えないが、最近ではもう何とも思わなくなった。
ランドルと比較すると相手がだれでも小さく見えるからな、物理的に。
「そんでここはどこだ? バニラさんの見た目から粗方想像もつきはするが」
バニラが鬼族という魔族で、イゴルさんを深い眠りから覚ましたという説明は済んでいた。
それはもう腰を低くして礼を伝えていたのだが、彼女が遥か年上だとは夢にも思っていないだろう。
「ドラゴ大陸の最北ですね。急いでもそれなりの日数は必要になると思います」
「どれぐらいだ?」
「自宅はセルビア王国にあるので、多分一年くらいですね……」
「一年……」
重々しく復唱する。
さすがに目覚めてすぐ長旅も気が重いかと察したつもりだったのだが。
「アル、その、すまないな」
「へ?」
「自分の子が生まれる瞬間に立ち会えないというのは、辛いだろう」
まぁ、そりゃ立ち会いたいが、多分イゴルさんが深く捉えてしまったほどではない。
生まれてからしばらくの間一緒にいてあげれないことが気にかかっているくらいだ。
万が一のことを考えたら取り返しのつかなくなるイゴルさんの方がよっぽど重要だ。
「この旅が終わればずっと一緒にいれますから。最後の旅を楽しむくらいの気持ちでいきましょう」
「……そうか。ありがとな」
罪悪感は二人で抑え込み、ふっと笑う。
するとキッチンで調理していたバニラが大皿を胸に抱えてやってくる。
懐かしい香り、以前一度ここで食べた時とそっくりだ。
ここではこの料理が定番なのかな、野菜と……ロックスコーピオン炒め。
全員でバニラに感謝を述べると、「ごゆっくり」と俺たちだけを残して去っていった。
気を遣ってくれたようだ。
真っ先に手をつけたイゴルさんは「うめえ」と頬張り、ランドルも「悪くねえな」と食事を進めていた。
少し遅れて手をつけるエル。小さな口で可愛らしく咀嚼する。
「うん、美味しいね。お兄ちゃんこれなに?」
サソリ肉だよ、と答えればエルは青ざめるかもしれない。
この妹、様々な魔物を調理してきたが虫系統には断固触れなかった。
幸せそうな妹を眺め、ポーカーフェイスで言った。
「エビだよ」
「へぇ、海近いんだ。港町じゃないとなかなか食べれないよね」
――知らない。
まぁ、世界の果てというくらいだからそばに海はあるかもしれない。
「そうかもしれないね」
微妙に言葉を濁し、俺も料理に舌太鼓を打つのだった。
方針が決まると人数分の部屋を拝借し、これまでの旅の様子をイゴルさんと笑いを交えて語り明かし、夜が更けるのを待った。
早朝になると村の出口にいた。
イゴルさんの体調を案じ、もう少し様子を見ようとも思ったのだが、本人が問題ないと豪語していた。
早く子供の顔が見れるほうがいいだろう、急ごうと。
俺も見たいしな、と笑っていた。
イゴルさんは以前のような剣士の風貌ですらない普段着だが、腰には平凡だが剣を掛けていた。
気をきかせてイゴルさんの愛剣を持ってきていたらよかったのだが、そこまで気が回らなかった。
この剣はバニラの好意である。「さすがに業物は渡せないけど」と申し訳なさそうだったが、ドラゴ大陸の魔族はあまり動かないし、こんな離れた場所に住んでいたら剣の調達も大変だろう。
つまりは、平凡とはいえ思いやりはたっぷり詰まってるのである。
全員で頭を下げると、鬼族の人たちは行きとは違い、雰囲気よく送り出してくれた。
「よし、目標は一年未満でセルビア王国といこうか」
イゴルさんは「おう!」と威勢よく返事を返し、ランドルとエルは頷きを見せた。
急ぎとはいったが、多小なりと寄り道してもいいだろうか。
精霊の森へ赴く前に、二つほど顔を出したいところがある。
お世話になった人たちの顔を思い浮かべ、俺たちは四人で歩き出した。