【エル・ディアブロ】
ざっざっざと背後から複数の足音がする。ツヅリの耳にはそれが正確に三人の足音だと判別できている。
「逃がすな!」
背後から怒声が聞こえた。
だがツヅリに振り向いている余裕もない。足元を見れば、低くなった太陽が、背後から長い影をこちらに伸ばしている。
その影の距離が、彼我の近さを如実に表していて、ツヅリは背筋が冷える。
「護衛はどうなってもいい! はやく目標を確保しろ!」
そう叫んだ男の声に、尚更ツヅリは緊張した。
ティストルが狙われている、ということは裏を返せばティストルの命しか保証されていないことになるのだ。なぜ、その発想に至らなかったのだろう。
だが、その声を聞いても、ツヅリが手を繋いている少女はピクリとも動揺しない。
当たり前だ。ツヅリの【モッキンバード】の効果で、彼女にそのような反応が起きる筈はないのだから。
ティストルとの会話の後。準備を済ませたツヅリが路地を出て、太陽を目印にして真っ直ぐに進むと、すぐに二人は誘拐犯に捕捉された。
その数は三人。どうやら相手は二手に分かれた様子だった。
だが、真っ正面から現れた相手に、ツヅリは慌てて来た道を引き返した。すぐに誘拐犯たちも追いすがり、現状はジリジリと距離を詰められる鬼ごっこになっている。
「くそ!」
背後からは更に、吐き捨てるような声が聞こえる。
道は狭く、三人でも多少手狭になる。それに加えて障害と成りうるゴミなども多々落ちているために、走りやすいとは言えない。
イライラが蓄積しているのは、分かり過ぎるほどに分かった。
「…………」
しかし、ツヅリに手を惹かれる金髪の少女は、決して文句などは漏らさない。
ツヅリの思うままに足を前に出し、一歩ずつ進んでいく。
しかし、それも当然だ。
彼女はツヅリの命令に忠実に従う人形であるのだから。
そしてそれが、先程放った【モッキンバード】の効果である。
「ちっ! 構うな! それを投げろ!」
後ろから焦れたような声が聞こえた。どうやら一人が、棒状の得物を持っている一人に投擲を命じたようだ。
ツヅリは焦る。それを食らっては計画に支障が出る。すでに足には疲労が蓄積しはじめているし、避けるために無駄な動作を取っては、追いつかれる危険が増える。
(せめて、もう少しだけでも……)
ツヅリは心の中で、神か師匠にでも願った。
「慌てるな! 確実に追いついてからでいい!」
「ちっ! 手間かけさせやがって!」
ツヅリの祈りがどちらに通じたのか分からないが、誘拐犯はその考えを取り下げた。
しかし、それは言い換えれば、このままでは捕まるのも時間の問題ということだ。
ツヅリは息を吐きながら、それでもはっきりと前を見る。
もうどれくらい全力疾走しているだろう? 分の単位は越えている気がする。
じりじりと、後ろから影が迫っている。
息が上がる。肺が燃える。汗が視界を遮る。
もう、追いつかれる。
そこが、ツヅリの終着だった。
「ごめんね」
小さな十字路に差し掛かり、その中心を抜けて少し進んだところ。
ツヅリは、一緒に走っていた少女を突き飛ばした。
「なっ!?」
男達の驚愕の声を背に、ツヅリは距離を取る。
彼らは一様に驚きつつも、慌てて足を止めた。
突き飛ばされた金髪の少女は派手に転び、道の中央で声も上げずにうずくまっていた。
誘拐犯たちは、瞬く間に少女の体を地面へと押さえつけて確保する。
ツヅリはその光景を、少し遠い目で眺めていた。
「……なるほど、賢い選択だな、嬢ちゃん」
少女を確保し、溜飲を下げたらしい誘拐犯の一人がツヅリに下卑た笑みを浮かべた。
「こいつを渡すから、見逃してくれってことか」
「…………」
「ああ、答えなくていい。分かるからな」
にやにやとした笑みを浮かべて一人が言えば、残りの二人も同調して頷いた。
三人の内、一人は押さえ付けるのを担当し、残りの二人はゆったりと自分の得物をツヅリへと向けた。
「だがな、俺たちも慈善事業じゃねぇんだ。悪いが、口は封じさせて貰わないとな」
言って、男はツヅリの反応を見る。
きっと彼は、ツヅリが驚愕し、その瞳に恐怖をありありと浮かべる様を想像していた。
だが、ツヅリの目は、そのような色には染まらなかった。
「……なんだ? 反抗的だな?」
それを不思議に思った男が、少したじろぐ。
ツヅリは、ふっと笑みを浮かべた。
まさかこうまで、自分の思い通りに事が運ぶとは思っていなかった。
「あのさ。もう一度、そこのティスタを良く見てみたら?」
前に出ていた男は、背後を振り向いた。
その直後、男達の目の前で信じられないようなことが起こっていた。
さっきまで地面に押さえつけていた筈のティストルが、急速にその色を失い、ただの土塊と化してパラパラと崩れ落ちていくのだ。
「私はここです!」
少女の声がした。
彼らは地面へ向けていた視線を、慌てて声の方へと向けた。
その先にいた少女は、土塊と化した人形と全く同じ顔をしていた。太陽を背に負って、輝く金髪をたなびかせながら、堂々とその場に立っていた。
計画は驚くほどに上手くいっていた。
ツヅリは男達が背後を振り向いた時点で、ほぼ準備を終えていた。
テイラ属性のカクテル【モッキンバード】──その効果は、対象となった物体の『偽物』を作り出すことだ。
ツヅリはその魔法を使って、ティストルの偽物を作った。
最近気づいたことであるが、ツヅリが自身の魔力から作った弾丸を用いると、偽物はほとんどツヅリの思う通りに動かすことができるのだ。
そして一つの作戦を実行した。
ツヅリは一度、ティストルと分かれ、偽物と一緒に誘拐犯に発見される。発見されたら、全速力でもってティストルが待っている地点まで戻る。
そのままティストルが潜んでいる路地を抜け、十分な距離を取ってから、偽物をその場に留まらせる。
誘拐犯はツヅリではなくティストルを目標にしているのだから、必ず彼らの動きは止まる。そして、そのタイミングで本物のティストルが後ろに出る。
ティストルに誘拐犯全員の目が行けば、それで第一段階は成功したも同然だった。
もちろん、計画が失敗する可能性は大いにある。分かれている間にティストルが見つかればそれだけでアウトだし、少しでもミスをすればこの場は切り抜けられない。
その計画は、今一番の佳境に入ったところだ。
何故ならば、ティストルは『詠唱の時間さえあれば、五秒足を止めさせる』ことは可能だと言ったのだから。
《風の魔素よ。変化を司る精霊よ》
少女は、男達の視線を一身に浴びたまま、力強く呪文を唱えはじめる。
「っ! なんとか阻止しろ!」
事情を呑み込めずにいながら、男達は即座に行動を起こす。少女へと向かって走り出し、その詠唱をなんとか阻止しようと試みたのだ。
少女に『魔法』を使わせてはならない。
なぜならその少女は、普通ではないからだ。
《放蕩の道を行く、遍在せし意志よ。願わくばここに留まり、我が声を聞き給え》
少女の詠唱が進む。バーテンダーである男達には彼女がいったいどんな魔法を使うつもりなのかは分からない。
だが、その年齢に見合わない、強大な魔力の波動はピリピリと肌に感じていた。
棒を持った誘拐犯が、どうにか少女へ到達しようとしたその時。
「《プリズン・エア》」
少女の杖が緑に煌めき、その効果が発動した。
誘拐犯たちは、驚愕した。
魔法の発動と同時に、その体がまるで空気に捕らわれたかのようにピクリとも動かなくなったのだ。
「ナイス! ティスタ!」
そして、誘拐犯たちは更に自身の失策を悟った。
首も動かせないので分からないが、背後にいる少女から、脅威を確かに感じていた。
「基本属性『テイラ45ml』、付加属性『クレームドカシス15ml』『レモン10ml』『アイス』、系統『ビルド』、マテリアル『ジンジャーエール』アップ、トッピングド『チェリー』」
今日は『テイラ』尽くしの日だ。
ツヅリは脳内でこぼしつつ、銃の中の弾丸へと魔力を送り込む。
相変わらず、テイラの魔力は荒れ狂う魔物のようにツヅリの手に余る。少しでも気を抜けば、ツヅリの意志を越えて暴発してしまう気さえする。
だが、慣れた。
手綱の握り方を経験し、何百、何千、何万と魔力量を体で覚えた。
ここで失敗したら、という弱気がツヅリの手を狂わそうと襲ってくるが、
そのくらいでビビっていたら、尊敬する師の背中も見えない。
ツヅリは、ただ銃へと意識を集中し、銃もまたその一途な思いに応える。
穏やかに、しかし重厚に『テイラ』の魔力は魔法へと変換され、その発射を待った。
「【エル・ディアブロ】」
静かに、ツヅリは引き金を引いた。
放たれた魔の力は、さりとて誘拐犯へと向かうことなく、夕焼けの紅い空気に溶ける。
そして宙空に、赤黒い三本のナイフを生み出した。
ツヅリは流れる動作でその三本を綺麗に指に挟む。
「くっ! まずはあの小娘からだ!」
そのタイミングで、ティストルから距離の遠かった二人の男が振り向き、銃を抜いた。どうやらティストルからの距離が遠いほど、足止めの効果は短いらしい。
もともと足止めの時間は僅か五秒。一つのカクテルの発動くらいが関の山。
やり直しは許されない。あとはツヅリの技量に全てがかかっている。
しかして、ツヅリの手には三本のナイフ。
目の前には標的が三つ。
一つとして、仕損じることはできない。
ふいに、師に言われている小言が脳裏をよぎった。
(格闘は才能ないって言われるけど──)
曰く、ツヅリには格闘の才能がない。接近戦では一定以上の能力を持つ相手にはどうあがいても勝てない。
はっきりと断言され、ツヅリは少しむくれることもあった。
だがその代わり、とソウは言った。
格闘の才能がないなら、近づかないで倒せばいい。
「──投擲だけは、褒められたことがあるんだから!」
気合いと共に、ツヅリは赤黒いナイフを前へと飛ばす。
狙いは、三人の影。
黒く、長く伸びたその影の、丁度心臓の位置である。
トス。
それらは寸分違わぬ正確さで、綺麗に目標地点へと突き刺さった。
「は?」
ツヅリを狙っていた男二人はまず戸惑う。なぜ、目の前の少女は、影に向かってナイフを投げたのか、と。
それから数瞬、男達の声が響いた。
「……なん、は? う、うぁあああああああああああああああああ!」
男達の影に突き刺さった赤黒いナイフは、すぐにその姿を黒い魔手へと変えた。
【エル・ディアブロ】──悪魔の名を持つカクテル。
それは、自身が刺さった影を攻撃目標と定め、その本体に襲い掛かる魔法だ。その正体は土。だが、渾身の魔力を込めた魔法は土と侮ることはできない。
影には、その人が最も恐れるものが宿ると言われている。
ツヅリから見れば、ただ地面から伸びる黒い手であるが、襲われたものには、とてつもない化け物が襲い掛かっているように見える。
恐怖に苛まれながら、男達は首を締められてあっさりと意識を落とした。
「……終わり」
ツヅリはふぅ、と息を吐いてひとまずの勝利を喜ぶ。
殺してはいないので、すぐに拘束しなければいけない。
「……先程のは、どういった魔法で?」
「……食らってみる? もしかしたら、漏らすかもよ?」
「…………」
それは、ソウと会ってすぐの頃の、消し去りたい忌まわしい記憶であった。
ティストルはそれ以上何も言わずに、ただ、何かを察して俯いた。
「でも、これなら、もう一組にも勝てるかも?」
わざと明るい声でもって、ツヅリはその場を取り繕うとした。
格上の相手三人を相手取り、気が抜けていた瞬間だった。
唐突に、地面に黒い影が射した。
「っ!?」
ツヅリとティストルは慌てて頭上を見る。
建物の屋根の上に、分かれたはずのもう三人の姿がはっきりと浮かんでいた。
誘拐犯はその銃をツヅリ達へと向け、既に宣言を終えていたらしい魔法を放つ。
「【スクリュードライバー】」
放たれた青い光弾に、ツヅリの対応は間に合わない。
油断していた上に実戦経験の少ないティストルも同じだ。
打つ手もなく、その水の魔力がツヅリにぶつかると思ったとき。
「【スクリュードライバー】!」
どこかから、女性の声がした。
彼方から飛来したその水の魔力が、ツヅリの目の前でもう一つの光弾とぶつかり合う。それは互いが互いを喰い合い、綺麗に消滅した。
「ツヅリ! 耐えろ!」
遠くから、今度は男の声がした。近づいてくる足音がある。
ツヅリは惚けていた頭を即座に巻き戻し、臨戦態勢へと移行した。
そしてふと思った。
あれほど遠くから、フィアールカはカクテルを届かせてくれたのかと。
ツヅリは、自分の握った銃が、ほんのりと重くなった気がした。
※0107 誤字訂正しました。