まだ無意味な名前
「……霧?」
フィアールカとの待ち合わせ場所まで急ぐソウ達の前に、それは突然現れた。
「変ですね、今日はそんな天気でもないのに」
ツヅリは空を見上げて言った。日は少し傾いている、靄のなかでそれは確かに輝いている。霧が出るような湿った天気ではないはずだ。
だが、実際に目の前には視界を阻害する白い気体の壁が、分厚く漂っている。
「……でもこの霧には、ウォッタの魔力を感じますよ」
「え、それって」
魔力の感覚に優れているティストルが、その霧の特異性に言及する。その一言で、ツヅリにもある魔法が思い当たった。
ウォッタ属性の広範囲支援索敵魔法【シー・ブリーズ】だ。
つい先日、街中でソウとはぐれたときに体験したあの霧と、同種だと。
その発想に至った直後にツヅリは師の顔を見る。
ソウはすでに、意識を常から戦闘へと切り替え、険しい表情を浮かべていた。
「……フィアだな。何かあったか」
ソウはその言葉をぼそりと漏らした直後には、すでに腰に挿した銃を抜いていた。
流れるような動作で、ポーチから弾丸を取り出し、展開したシリンダーへ込める。
「基本属性『(ヴォイド)』、付加属性『クレームドミントグリーン20ml』『クレームドカカオホワイト20ml』『生クリーム20ml』『アイス』、系統『シェイク』」
躊躇い無く宣言を済ませ、銃を振った。
綺麗な八の字の黒い軌跡を描き、銃に込められた魔力はどんどんと洗練され、高まっていく。それが一際低く大きい唸りを上げたとき、ソウはゆっくりと動作を止め、自分へと銃口を向けた。
「【グラスホッパー】」
銃口から放たれた薄緑色の光弾は、ソウの体へと吸い込まれていった。
身体能力強化の特殊魔法【グラスホッパー】。身体の細胞や魔力を活性化させ、常とは比較にならないほどの身体能力を引き出す、支援魔法だ。
「ツヅリ。俺はこれから急いで合流地点に向かう」
準備を終えたソウは即座にツヅリへと指示を出した。
「待ってくださいお師匠。私も──」
「馬鹿か。戦闘が起こってるかもしれないんだぞ。護衛対象を危険に突っ込ませる気か」
ソウの声はいつになく真剣だった。
ツヅリは自分の隣に控えているティストルを見てから、渋々と答えた。
「……いえ」
「なるべく人気の多いところで待機してろ。すぐに片付けてくる」
「……わかりました。お気を付けて」
「ああ」
短く答えてから、ソウは走り出す。
その姿は瞬く間に、霧に包まれて見えなくなった。
人通りの少ない路地。仮面の男と赤毛の少年は、二人並んで帰路に就いていた。
「……霧だね」
男は突然発生した気象現象に、小さく声を上げる。
「師匠。この霧はどう見る?」
「考えるまでもない。魔力からして【シー・ブリーズ】だろうね」
男の左隣を歩いていた赤毛の少年の言葉に、男はにべもない。だが、口元には僅かな笑みを浮かべた。しかし、男の表情を窺い知ることはできないのだ。
「なに笑ってんだよ」
「分かるのかい? お前からは私の口は見えないと思うが」
「何年付きあってっと思ってんだよ、アホか」
弟子の不遜な態度に、仮面の男はまた声に出さずに笑みを浮かべる。
その鼻っ柱の高いことは、弟子の長所であり、同時に短所でもある。
「では弟子よ。長い付き合いのよしみで、ひとつ教えてあげよう」
「んだよ?」
「死にたくなかったら左へ跳べ」
弟子と呼ばれた赤毛の少年は、瞬時にその言葉に従った。
師である仮面の男との付き合いは長く、二人の間には気安い応酬はある。だが、絶対的な命令権は常に仮面の男にあった。
いや、それを抜きにしても、言葉に宿ったあまりの圧力に従わざるを得なかった。
仮面の男は、赤毛の少年とは反対側の右へと跳んでいる。
その直後、二人がさっきまで立っていた地点に、間欠泉を束ねたような水柱が轟音と共に立ち上がった。
二人は、背後を振り向く。
「ご挨拶だね【氷結姫】。僕じゃなかったら死んでいたところだよ」
「……殺すつもりはありませんでした。妙な言いがかりはやめてくださる?」
そこには、銀色の髪をなびかせる美少女が、冷ややかな笑みを浮かべていた。
(なぜ、避けられたの?)
言い放った言葉とは裏腹に、フィアールカはその先制攻撃が不発に終わったことに戦慄を感じていた。
放ったのはウォッタ属性の攻撃魔法【モスコ・ミュール】。
ウォッタをベースに、ライムの果汁を絞り、ジンジャーエールでアップしただけのシンプルなカクテルだ。
その効果は、着弾した地面を中心に水の柱を立ち上らせる。
発動する現象は【スクリュードライバー】と似ているが、こちらは地面に着弾させる必要があり、汎用性では劣る。
ただし、弾速は【スクリュードライバー】よりも早く、効果範囲も僅かに広い。それに今は【シー・ブリーズ】の強化補正まで働いている。二人程度は軽く呑み込めるはずだった。
問題は、奇襲をしかけたにも関わらず、それがあっさりと回避されたことだ。
「ふむ。殺す気がなかったとしても、了承も取らずに攻撃するのはどうなのかな?」
仮面の男は淡々とした口調で、チクチクと追求してくる。
「あら、了承も取らずにナイフを突き立てた人間に言われたくありませんね」
「……なるほど。では、この件はそれでチャラとしておこう」
気にした様子もなく、仮面の男はやや楽しげな声でそう答えた。
「……おい【氷結姫】……俺は納得できねーぞ」
だが、連れ立って歩いていた赤毛の少年は、不満を顔面にありありと浮かべている。
「てめえとはいずれやり合いたいと思ってたんだ。ここで決着ってのも悪くねえな」
「……失礼。私興味のない人間はあまり覚えられないのですけれど、あなた誰?」
「んだと!」
フィアールカが定型的な挑発をすると、赤毛の少年は分りやすく激昂した。
「落ち着け単細胞な弟子。今闘えば負けるぞ」
その首の紐を引くように、仮面の男は弟子をたしなめた。赤毛の少年は、明らかに苛立った顔で仮面の男を睨んだ。
「おい、師匠。俺がこの女より弱いとでも思ってんのか?」
「まともにやりあえば分からないが、この霧の中では分が悪い」
「……【シー・ブリーズ】か。忌々しい魔法だな、クソ」
赤毛の少年は、せっかくフィアールカが昇らせた血を平常値まで戻した。それにフィアールカは内心で舌を打つ。やはり仮面の男は、侮れない。
奇襲が失敗した以上、どうにか赤毛の少年だけでもと思ったが、それも難しそうだった。
そしてそれ以上に、さきほどの少年の言葉はフィアールカの気にも障った。
「そこの赤毛の坊や。まるで、霧が無ければ私に勝てるとでも言いたげね」
「もちろんそう言った。当たり前だろ?」
赤毛の少年は、馬鹿にしたような表情のままに、その言葉を告げる。
フィアールカの中の闘争心が、はっきりと燃え上がりかけた。
「落ち着けフィア。一人で勝てる相手か」
後ろから唐突に響いたその声は、銀髪の少女の心を急速に冷やした。
「……ソウ様」
フィアールカが振り向いた先には、本日落ち合う筈だった男の姿があった。
ソウは静かに、しかし素早くフィアールカの前に出ると、手で少女を制しながら疲れた声を出した。
「次から目印は小石とかにしとけ。銅貨が落ちてたら誰かに拾われるだろ」
「生憎と手持ちですぐ用意できるものが、それしかなかったので」
ソウは待ち合わせ地点に着いたあと、すぐにフィアールカの姿を探した。しかし目に見える箇所に彼女の姿はなかった。
その代わり、霧の視界の中でもギリギリ見える間隔で、銅貨が点々と落ちていたのだ。
ソウはその目印を頼りにここまで辿り着いたのだった。
「それで、何かと思えば、お前らか」
ソウはいつでも銃に手を伸ばせるようにしつつ、目の前の男達を睨む。
仮面の男は、ソウの登場に慌てる様子もなく、朝の挨拶のような気軽さで言った。
「やぁ、ソウ・ユウギリ。元気そうだね」
「おかげさまでなマスクド・フェイス。まぁ、まずはその物騒なモノしまえよ」
ソウは仮面の男への警戒の比重を強めつつ、軽口を叩く。
フィアールカはそこでようやく気づいた。
仮面の男がいつの間にか、その手に因縁あるナイフを握っていたことに。
「ほんの挨拶代わりさ。それにしかけたのはそちらのお嬢さんからだよ」
「なんとでも言えよ。過程は知らないが『決闘』を口にも出さずそんなもんを握る奴に、正当性なんて欠片もねぇよ」
「手厳しいなぁ」
やれやれという口調で、仮面の男はそのナイフを懐へ戻す。
だがソウの警戒は欠片も解かれない。元より、その余裕は無い相手なのだ。
「さて、訊きたいことは山ほどあるが……そうだな。単刀直入に聞く。お前等は何者だ? 何故ここにいる?」
詰問口調のソウの言葉に、真っ先に反応したのは赤毛の少年だった。
「はっ! 誰が答えるかよ! バカじゃねぇのか?」
赤毛の少年は、囃し立てるように声をあげる。
ソウはその少年に一瞥だけくれて、言った。
「クソガキ……てめえには聞いてねぇ」
その声を、いや、その血に響くような怨嗟を受け、赤毛の少年だけでなく、フィアールカまでもが背筋に冷たいものを感じ、思わず後ずさった。
仮面の男だけが、身じろぎもせずに、調子よく答える。
「はは、あまり弟子を怖がらせないでおくれよ。僕らほど殺気慣れしていないんだ」
その言葉の意味を正しく見れば、仮面の男は殺気に慣れているということになる。つまり、それだけの死線をくぐってきた、ということだ。
「もう一度聞く。お前等は何者で、何故ここにいる」
「僕達が何者か……か」
仮面の男はしばし逡巡に似た間を取った。だがそれは答えるべきか否か、という感じではない。答えるのと、答えないのと……どちらが面白いのかを考えているようだった。
それから結論を決めたのか、仮面の男は静かにその名を口にした。
「うん。本当は公表する時期ではないけれど、教えてもいい。僕らはバーテンダー協会『パラケルススの円卓』だ」
「『パラケルススの円卓』……?」
ソウはちらりとフィアールカに視線を送る。だが、彼女も知らないと首を振る。
「認可は受けていないから、非公式──もしくは外道ということになるかな」
ペラペラと情報を喋る仮面の男。赤毛の少年は、その師匠の行動を咎める。
「おい師匠。どういうつもりだよ」
「ふふ。まぁ良いじゃないか。いずれ分かることだ。そして今はその名前に意味などないのだしね」
二人のやり取りが終わるのを見て、ソウはもう一つの質問に続ける。
「それで、お前達がここにいる理由はなんだ? 外道バーテンダーがなんの用で街中にまで顔を出している?」
「僕らだって、お腹も空けば、人恋しくもなる。おかしいことかい?」
「冗談は仮面だけにしとけ」
どうやら仮面の男は、質問に答えるつもりはなさそうだった。
ソウは言い捨てつつ、感覚を研ぎ澄ませる。仮面の男もまた、その体に覇気をみなぎらせ始めていた。
「それなら、力づくで教えてもらうしかねぇな」
ソウはにやりと笑み、腰の銃へと手を向けた。
「なるほど、シンプルで分りやすい答えだ」
仮面の男もそれにならって手を銃へと添える。
ソウと仮面の男が戦闘準備を行うのに釣られて、フィアールカと赤毛の少年も意識を戦闘へと切り替えはじめる。
まさに一触即発。ささいなきっかけで、すぐにぶつかり合いが始まるところまで、場の空気が緊張していった。
元より、会話で済むなどとは思っていなかった。相手の実力を見ても苦戦は必至だが、戦いとはそういうものだ。
それに利はこちらにある。とソウは考えている。
ツヅリから聞いた話では、赤毛の少年は『サラム』属性に、異常な才能を持っているらしい。その実力はフィアールカにも迫る可能性がある。
だが、今この場は『ウォッタ』を強化し『サラム』を弱化する【シー・ブリーズ】の効果範囲にある。フィアールカが有利であることは間違い無い。
加えて、ソウもまだ【グラスホッパー】の効果時間内だ。前回はほぼ互角だったが、今回は男を体術で上回ることができるはずだ。
だが、その場の緊張を崩したのは銃声でなく、仮面の男の何気ない一言だった。
「ところで、あの『テイラ』の少女はどこにいるんだい?」
男が指しているのがツヅリだというのは即座に理解できた。理解できないのは、このタイミングでツヅリの名前を出したことだ。
だが、その言葉を受けたフィアールカは、即座に顔色を青くしてソウに早口で告げた。
「ソウ様! あの二人を取り囲むように強い反応が! 数は六……いえ七!」
「なに?」
それは、ソウにとっても想定外だった。
まだ明るいこの時間帯に、この事件の誘拐犯が動くとは思えなかった。この時間では誰にも見つからず、とはいけない。
だが、今は一つだけ条件が付与されているのを思う。
【シー・ブリーズ】──霧だ。
フィアールカの生み出した深い霧は、この周辺全域を覆っている。視界が悪くなっているのだから、多少強硬な手段に出る可能性は、ある。だがそれにしても強引だ。
今日に限って、ティストルを何が何でも誘拐したいように思える。いや、まるでこのタイミングを待ち構えていたようだ。
「さて、どうする? この場で僕達と戦っている余裕はあるのかな?」
「てめえら、やっぱりこの事件に噛んでやがるな?」
「それは力づくで聞くんだろう? ん?」
安い挑発を返されるが、ソウはふっと息を吐いて熱を抜く。
「ちっ、締め上げるのはまたの機会にしてやる」
「そうしてくれるとありがたいね。今の状況はそちらに有利すぎる」
その言葉の後、いくらか緊張が弛む。だが、ソウの中の焦燥は決して褪せはしない。
「フィア。急いで向かうぞ」
「ええ」
ソウは注意深く仮面の男の出方を見ながら、フィアールカの準備を待った。銀の少女は贅沢に魔石を一つ砕いて、彼女の十八番を発動させた。
「【グレイ・ハウンド】」
宣言ののち、人間一人は軽々と運べそうな大きさの氷の狼が現出する。フィアールカはその狼にゆるりとまたがった。
「おい! 【氷結姫】!」
準備が整った直後に、赤毛の少年が大きな声でフィアールカを呼ぶ。
「なに? 時間がないの」
焦っている状況で呼び止められ、不機嫌を隠そうともしないフィアールカに赤毛の少年は、やや傲慢に告げる。
「アスク・レピアスだ」
「はい?」
「俺はアスク・レピアスだ。決着を付けるまで忘れるな」
フィアールカは、ふっと冷笑を浮かべ、頷いた。
そして、やり取りが終わったとみるや、ソウとフィアールカは全速力でツヅリ達の元に向かった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回久しぶりに戦闘?が入った気がします。
相変わらず主人公にあるまじき発想を(略)
少々、年末年始が忙しくて……少しだけお休みを頂きたく思います。
次回の更新は来年の一月四日を予定しています。
お許しいただけると幸いです。
※0101 誤字修正しました。