【ブルー・ムーン】
この世界で『バーテンダー』と言えば、それは即ち『銃』を用いて『カクテル』という魔法を扱う者のことを指す。
だが、そもそもの『バーテンダー』とは、それとはまったく異なる職業だった。
その名の通り、『バー』という空間において『テンド』、もっとも感じやすい人間。その空間で起こる全てを感じ取り、把握して、コントロールする者。
それこそが『バーテンダー』の生まれた時の姿であった。そこから『カクテル』が魔法に転用され、今の形になっていったのだ。
だが、『バー』という空間にて、『カクテル』を供することもまた、『バーテンダー』としての技能であることに変化はない。
つまり『バーテンダー』が『バー』で働くことに、なんら不思議はないのである。
「メニューはご覧になりますか?」
ソウはにこやかな表情を浮かべたまま、丁寧に言う。
ツヅリの前には既に『コースター』『おしぼり』『チャーム(おつまみ)』という客をもてなすものが用意されている。基本に忠実な接客の態度に見えた。
だが、ソウの目は明確に語っていた。
『さっさと飲んで、さっさと帰れ』と。
だが、それを感じたところで、素直に応じる気分のツヅリでもなく。
まして、唯我独尊を地でいくようなフィアールカに通じることもなさそうだった。
「えー、ちょっと分からないので、オススメお願いしまーす」
ツヅリはじとっとした目で言う。
ソウは少しだけ表情を乱しかけるが、落ち着いて、かつ投げやりに答える。
「でしたら【ジン・トニック】など、オススメですね」
ソウの提案した【ジン・トニック】は、シンプルで奥が深いカクテルだ。
材料は『ジーニポーション』『ライム』『トニックウォーター』という三つからなり、それを特別なことは行わずに『ビルド』する。
だが、複雑な材料が入らないからこそ、技術というものでいかようにも味が変わる。
バーという空間で、その者の技術を見る上では、特に変わった注文ではない。
問題があるとすれば、それはツヅリにとって、ソウから良く飲まされているいつものカクテルである、というところだろう。
「真剣に言ってます?」
「もちろんです」
ソウの慇懃無礼な接客態度にもの申したいツヅリではあるが、決してないがしろにされているわけではないので言い返せない。
だが、それとはまったく別の手法でソウを怯ませる声があがった。
「ツヅリさんが【ジン・トニック】なら、私には【ソル・クバーノ】を勧めてくれるの? バーテンダーさん?」
横合いから、微笑みをたたえたまま静かにフィアールカは言った。
その言葉の意味をツヅリは良く理解できないのだが、ソウにははっきりと伝わったようだった。
「……よくお分かりですね、お客様」
「ええ。他にもあなたのこと、色々調べましたけど、一杯目はそれも良いと思いまして」
「……では、かしこまりました」
二人の間に漂う言い知れぬ雰囲気を不思議に思いつつ、ツヅリはソウの動きを目で追った。
(まったく、なんて奴を連れてきてくれてんだよツヅリのアホは)
ソウは笑顔を張り付けたまま、心の中ではっきりと暴言を吐いた。
もちろん、意識と切り離された手は、よどみなく動き続けている。まずは二つのグラスを棚から取り出し、飲み口を清潔な布で軽く拭いてから作業台に乗せる。
(……いや、ツヅリは確かに撒いたはずだ。となると、逆か。あのイカレ美少女がツヅリを連れてきたのか)
ソウは当然のように、ツヅリの尾行に気付いていた。
何かを疑っているふしがあったのでいつもより気を張ってみたのだが、それが馬鹿らしくなるほどバレバレの尾行だった。
迷子になったら可哀想だとは思ったのだが、極めて個人的な理由でこの場所を知られたくなかったので、心を鬼にして置いてきたのだ。
しかし、今この店にツヅリはいる。となると、先導してきたのは必然的にもう片方の少女ということになる。
(とすると、あの嬢ちゃんが『色々調べた』ってのは、マジらしいな)
チラリと少女の様子を窺ってみるが、ツヅリもフィアールカも一瞬も目を離さずにソウのほうを凝視しているのだった。
ソウは余計な考えを後にして作業に集中する。
『冷蔵庫』と『冷凍庫』という二つの『機械』から、それぞれ必要な材料を取り出す。
用意した二つのグラスの片方に、カットされたライムの果汁を絞り入れ、その実を落とす。
二つのグラスに、トングを用いて氷を入れる。
氷をグラスの八分目ほどまで満たしたら、一緒に取り出しておいた材料をメジャーカップで計り入れる。
ライムが入っている方に『ジーニ』を45ml。
一度メジャーカップを水に浸したら、もう片方のグラスに『サラム』『グレープフルーツジュース』をそれぞれ45mlずつ。
後者を一度バースプーンで軽くステアし、トニックウォーターを両方のグラスに注いだ。炭酸のシュワシュワという音が、景気良くグラスを満たす。
今度は両方のグラスを、炭酸を逃がさないように氷を持ち上げる形でステアし、ほぼ同時に二つのカクテルを作り上げた。
「お待たせしました。【ジン・トニック】と【ソル・クバーノ】になります」
ソウが、ツヅリの前に【ジン・トニック】、フィアールカの前に【ソル・クバーノ】をおいてやると、二人は少しだけ嬉しそうに目を細める。
なんだかんだ言っても、やはり目の前に『カクテル』が出現する瞬間は、世界で最も幸福な瞬間の一つなのである。
「えっと、それじゃ、ご馳走になります」
ツヅリはうっとりと目の前の液体を眺めたあとに、ちらりと遠慮がちに隣の美少女の顔を伺った。
(……おいおい、ツヅリ。なにご馳走になってんだよ……こんな、何を要求してくるか分からない女相手に……)
と、ソウは心中で突っ込むのだが、声には出さない。仕事中である。
「ええ、遠慮せずに」
対するフィアールカは、相変わらずの静かな笑みを浮かべて杯を軽く持ち上げ、乾杯の意を示す。
そして、口に【ソル・クバーノ】を含み、うっとりと顔を綻ばせた。
その嬉しそうな様子には、さすがのソウも少しだけ心を和ませる。仮にもバーテンダーだ。
どんな得体の知れない女であろうとも、素直な感想が嬉しくないことはなかった。
だが、その直後にその美少女は、はっと何かに気付いた様子でソウの目を覗き込む。
「そうです。初対面でしたら、自己紹介をしないといけませんね」
わざとらしく強調しつつ、フィアールカは名乗る。
「私はフィアールカ・サフィーナと言います。いかがです? バーテンダーさん?」
ソウはその物言いに、恐らく何をやっても無駄なことを悟りながら答える。
「申し遅れました。ソウ・ユウギリと言います。よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ宜しくお願い致します、ナナシ様。あら、間違えましたわ、ソウ様」
太陽のようと表するにはあまりにも薄暗い笑みを浮かべて、フィアールカは笑った。
それはまるで、探し求めていた財宝を見つけた冒険家のようであり、同時にその冒険で数多くの犠牲を迷いなく出してきた、非情なリーダーのようでもあった。
「それでは、お会いしたのも何かの縁。ソウ様も何かお好きなのをどうぞ」
フィアールカは、悪魔と形容するには優しく、小悪魔と形容するには妖艶にすぎる年不相応の笑みを浮かべたまま、ソウに言った。
自分のおごりで、ソウに好きな『カクテル』を作って、飲んで欲しいと。
「……ありがたいのですが、私は日を跨ぐまでは飲まない主義なので」
もちろんソウはそんな主義などは持っていないのだが、遠回しに断った。理由は当然、あまりこの少女に借りのようなものを作りたくなかったからだ。
だが少女はソウの答えを受け、名案を思いついたように淀みなく言った。
「それなら、一杯目は作ってくれるだけでかまいませんよ。そう、そうね、私の希望では『パルフェタムール』なんて使ってみて欲しいですね」
「…………」
ソウはそこで、少しだけ息を呑んだ。相変わらず、目的を果たすことには一直線で、かつ手段を選ばない美少女だと思ったのだ。
普通、飲まないと言っている人間に、飲まなくても良いから作れとは言わない。
それも『パルフェタムール』を指定するとは。
「えっと……『パルフェタムール』?」
少女の隣でツヅリは、何も分からないポカンとした顔をしている。
だが、それも無理からぬ。ソウはまだツヅリに『パルフェタムール』を使ったカクテルを教えてはいない。当然その意味も知らない。
『パルフェタムール』は、異国語で『完全なる愛』という意味を持つポーションである。
それを指定するというのは、それもバーテンダーを名指ししてというのは、
「どうか致しました? うふふ」
迂遠であるにも関わらず、ド直球な愛の告白に似ていた。
「……でしたら【ブルー・ムーン】でも作らせて頂きます」
ソウはそれに、少しだけ意図を混ぜて返した。
言われたフィアールカは、氷のように透明な微笑みを浮かべたままである。
「……つれないのね」
「……深い意味はありませんよ」
相変わらず、ツヅリはやり取りの意味が分からずに、疑問符を浮かべたままだ。
それを決してソウは説明しないのだが、【ブルー・ムーン】という『カクテル』にもまた、意味があった。『パルフェタムール』を材料に使うその『カクテル』の意味。
それは『出来ない相談』である。その頼みは聞き入れられない、という『意思』だ。
要するに、この全く言葉を交わさないやり取りは、
『好きです』
『ごめんなさい』
というのを、少し格好つけた形のようであった。
ソウが【ブルー・ムーン】のシェイクを終え、カクテルグラス──持ち手になる直線と三角を繋げたようなグラス──に薄い青紫色の液体を注ぐ。
それを静かに眺めていたフィアールカは、周囲に気を配ったのか、すっと耳に入り込むような静かな声で言った。
「それで、お話したいことがあるのですが、宜しいですね?」
ソウはそれにすぐは答えず、先ほどの言葉を無視するかのように【ブルー・ムーン】のグラスをかかげる。
「……頂きます」
一度に三分の一ほどを口に含んだ。
ソウの舌の上を、妖艶とでも表現するべき、パルフェタムールの甘さが踊る。
後に続くのはレモンの酸味、そして『ジーニ』の辛み。
だが、後味はやはりパルフェタムールだ。スミレの花から作られる粘り気ある甘い香りが、鼻を内側からくすぐって抜けていった。
「あら、良いの? 飲まないのではないの?」
「話があるんですよね? 流石に素面では付き合えなさそうなので」
ソウはにこやかに告げてから、一度グラスを置く。
そして、音楽を再生する機能がある『プレイヤー』という機械を操作して、流れる音楽の音量を少し上げた。密度の上がったピアノの旋律が、店内を満たす。
それは、今からする話を、ほかの客に聞こえ辛くするためだ。
ソウは急ぎ足でフィアールカの元へと戻り、笑みを浮かべる。
「それでは、お話いたしましょうか」
その師の表情を見て、ツヅリは急速に気を引き締めた。何故ならば、それまでの見慣れない笑顔ではなく、まるで『戦闘前』のような顔をソウがしていたからだ。
「なんの用で来たんだ? この前の続きがしたいってのか?」
ソウの声。音楽にかき消される程の小声でありながら、その圧力は決して無視出来るものではない。
隣に居るツヅリが、今まで向けられたことのないソウの『敵意』に、背筋を凍らせる。自分が、何か決定的に間違った行動をしたのではないかと不安にかられた。
しかし、それを本来向けられたはずのフィアールカは、向けられてなお、いや、むしろ向けられたからこそ、体中にゾクゾクとした感触を覚えていた。
これこそが求めていた感覚だと。
このむき出しの圧力こそが、長年感じることのなかった『実感』なのだと。
「そんなつもりはありません。その証拠に、今日は銃を持ってきてはいませんので」
フィアールカはぱっと腕を広げて、己の無防備を晒す。
だが、ソウはそれに決して安心などは抱かない。この少女の危険なところはカクテルの技術などではないことを、知っているからだ。
その後に、少女は夢心地のように目を細めて、そして言った。
大胆に、不敵に、一切の躊躇もなく、自らの想いを述べた。
「ソウ様。私はあなたが欲しいのです。私のモノになってくださいますね?」
その一言は、狙ったかのように曲が途切れたタイミングで発せられた。
店の客は何が起こったのかと一斉にそちらを見る。
「…………」
ソウは少しだけ予想していた言葉に、涼しい顔を向ける。
そして、
「はぁああああああああ!? えっ!? えっどういうこと!?」
二人のやり取りも関係もまったく知らないツヅリは、頓狂な声を上げながら立ち上がっていたのだった。
※1013 誤字修正しました。