もう二度と
「お前なんか大ッ嫌いだ!!」
大きな声で吐き捨てるようにぶつけ、次いで後悔の念に苛まれる。
八の字に歪められた眉と泣きそうな笑顔。いつもすぐ泣くくせに、この時ばかりは何故か微笑み、そしてゆっくりと口を開いた。
「……ごめんね」
本当に……泣いてしまうんじゃないかというほど、何かを堪えたように震えた彼女の声。悲しげに俯く彼女は今にも消えてしまいそうで、伸ばしかけた手を引きもどしてしまう。
だけど、あんなことを言ってしまったことに対する謝罪は躊躇いもなく、僕の喉に詰まったまま。
代わりにでたのは素直じゃない、感情任せの言葉。
「なに笑ってんだよっ。腹立つんだよ、そういうのが」
理不尽すぎる僕に対しても、彼女は泣きそうで泣かない顔のまま、ただ同じことを繰り返す。
「……ごめんね」
「もういい、お前なんか嫌いだ。帰る」
子供よりも子供っぽく、抑えきれない怒りを辺りに撒き散らし、彼女の横を通りすぎる。淡い果実のようないつもなら愛しいはずの香りにすら腹が立つ。
通り過ぎる間にも彼女は謝り続けるのだが、僕は無視して背中を向ける。
一刻も早くそこから立ち去って、彼女の言葉の届かない場所へ。そう思いながら。
*
それから彼女とは仲直りすることはおろか、会うことさえなかった。
今になって思えば、どうして彼女の痛みを、悲しみを、思いを掬い取ってあげられなかったのか。昔の自分を殴りたいくらいに後悔した。
――家庭内暴力。
彼女は父親から暴力を受けていた。にもかかわらず、彼女は誰に助けを求めるわけでもなく、淡々とそれを受け入れていた。
細くて華奢で色白な体に浮かぶ傷。痛がるそぶりも見せず、ただ笑う彼女。
だけど、そんな彼女でも僕の前では泣いていた。辛いのだと、苦しいのだと、痛いのだと、嫌なのだと。
それなのに、彼女は結局あの家に帰る。
そんなことが許せなくて、助けられない自分が歯痒くて、とうとうお門違いもいいところの彼女に当たってしまった。
どうしようもなく途方もない憤りは、本来僕が持つべきものではなく、彼女の、彼女だけのものだった。
それなのに、僕は何を勘違いして彼女に怒鳴ってしまったのか。
愚かで、浅はかで、そして何よりも白々しい。
だって、僕は彼女がこんなになるまで気付かなかったのだから。
ソファに体を預けたまま微動だにしない彼女。長いまつげに縁どられている瞼は開くことさえしてくれない。彼女の左手首から流れる赤く、紅い液体がカーペットを濡らす。うなだれる右手には剃刀が握られており、彼女のその姿の原因を物語っている。
青白く、血の気の無くなった顔には、どこか安堵しているようにも見てとれる薄い微笑みが張り付いたまま。よく見ると、彼女の頬にはうっすらと、涙の跡が残っていた。
「――んで」
今更としか言いようのない疑問。
問いかけたところで、彼女が答えてくれるはずもなく、空気に溶けていく。
僕はその場に膝をつき、目を見開きながら網膜に、彼女の成り果てた姿を焼き付ける。
綺麗で、神々しくも見えるその姿は、今までのしがらみに解放され、安らかなまま。
「僕、は……」
今頃になってようやく頬を伝う涙。
手を伸ばし、あの日触れられなかった彼女に触れるが、冷たくなってしまったそれからはもう今までの温もりは分けてくれない。
「なんでっ……なんで死ぬんだよっ」
嗚咽交じりに叫んでも返事はなく、温かみのなくなった部屋に空しく反響するだけだ。
「これじゃあ、…………もう僕はお前に……っ」
彼女とは、もう二度と謝ることも、会うこともできなくなってしまった。