殺さないと
それから翌日、俺たちは日野が連れて来た警察官に病室で事情聴取を受けた。
担当したのは大柄な男性警官だった。女のほうが秋月が話しやすいんじゃないかと思ったが、この人が日野の言っていた警察官の兄貴らしい。『タイ兄』と呼ばれた警官はその大柄な身体からは予想も出来ないほど明るく笑いかけてくれた。たぶん秋月を出来るだけ恐がらせないためだろう。
それでも、秋月は筆談で今の自分の現状を伝える時、ずっと震えていた。
認めたくない事実と真っ直ぐに向き合っているんだ。当然だった。それでも、逃げずに秋月は語った。そんなこいつの手を、俺はそっと握った。それだけしか出来ないてめぇが、ムカつくほどにもどかしかった。
最後はもう泣きながら、秋月は筆を滑らせていた。それでも、こいつは警官の質問に一生懸命答えていた。その小さな身体を震わせて。
そして、警官が『もう大丈夫だよ』とメモで伝えると、我慢できなくなったように声を上げて泣きだした。抱きしめる俺の腕の中で、秋月は眠るまで泣き続けた。
そんな秋月を、俺は無言で撫でてやった。
よく頑張ったな。
偉いぞ。
もう、大丈夫だ。
絶対に俺が、お前を助けてやるから。
――たとえ、俺がどうなろうとも。
泣き疲れた秋月をベッドに寝かせる。
涙を流し過ぎて赤くなった目元。だけどそこにある寝顔はどこまでも安らいでいるように思えた。
夏用の少し薄い布団をかぶせる。それから一度だけ秋月の小さな頭を撫でると、俺は病室を後にした。
扉の前で俺を待っていたらしい日野と共に、休憩スペースへ行く。いくつかの自動販売機が並ぶそこ。日野が何が飲みたいか聞いてきたので微糖と答えた。
日野は俺に缶コーヒーを渡すと、自分の分を飲んだ。俺も同じように飲む。西オサム時代の癖で一気に飲み干してしまった。
それから、少しだけ俺たちは黙って、
「……ごめんね、キミに一番キツイ役割押しつけて」
心の底から申し訳なさそうに、日野は言った。
秋月に真実を突きつける――あぁ、確かにこの一件で一番辛いのはこの役割だろう。
だけど、俺は首を振る。
「いや、感謝してる。あの役目は、他の誰かに任せたくなかったから」
「……そっか。いっちーは強いね」
強い。強い、か……。
俺はまた、首を振った。小さく、苦笑いしながら。
「強くなんてないさ。俺はずっと迷って、逃げて、目を逸らし続けた弱虫だ」
「……いっちーはさ、すごく自分のこと、下に見るよね? 何か理由でもあるの?」
日野が、少しだけ訝しむように俺を見てくる。まぁ、たかだか12歳で自分を誰よりも劣っていると考えるガキなんざいないから当然の反応ではあるが。
理由、ね。
話しても無駄なので、俺は答えなかった。
「……キミ、少しだけお父さんに似てる」
急な言葉に目を向ければ、日野は空になった缶をいじりながら、
「私のお父さんも、そうだった。お父さんはいつも私たちに笑いかけてくれていたけど、なんだろう。その笑顔の奥に、何か隠してるみたいだったんだよね」
「……何かって?」
日野は首を横に振った。
「分からない。でもたぶん、お父さんの親……おじいちゃんに関係することだと思う。言ったよね、お父さんは親のせいですごい大変なことになってるって」
「……あぁ」
「たぶん、私がそれが分からないのは、お父さんが私たちを大切にしてくれたからなんだと思う。お父さんは本当に、いつだって私たちを第一に考えてくれてたから」
「でもね」と日野は続ける。
「私は少しだけ、本当にほんの少しだけだけど、お父さんの笑顔が嫌いだった。お父さんはいつだって私たちに笑いかけてくれたけど、でも心の底から笑ってるように見えなかったから」
日野は苦笑を浮かべた。
こいつらしくない、弱々しい表情。
「贅沢だよね、私。大事にされてるのに、それ以上を求めて……だからお父さんは、死んじゃったのかな……」
「……」
俺は、この日野優陽という看護師をそこまで知らない。
俺とこいつが接した時間はそれこそ一日に満たないんだ。知った風な口は聞けない。
だけど、その上で言わせてもらうなら日野は今、落ち込んでいるんだと思う。
俺という子供に、あの役目を押し付ける形になったから。
大人である自分が、子供に責任を押し付けてしまったから。
責任感の強いことだ。だけどな。
俺は落ち込む日野の頭を、無造作に撫でた。搔き回したと言ってもいい。綺麗なショートの黒髪が、色んな方向を向く。それから、日野の驚いた顔が俺に向いた。そんなこいつに、俺は言う。
「愚痴くらい聞いてやるから、あんまり落ち込むな」
こいつが落ち込めばその分秋月も元気がなくなりそうだからな。
それに、さっきも言ったように正直感謝しているんだ。
こいつが俺に事情を話してくれたから、俺は迷うことが出来た。
迷わなかったらきっと、俺は考えることを放棄して、いつもみたいに逃げていたはずなんだから。
だから、感謝している。
だから、お前が責任を感じるのはただのお門違いなんだよ。
……他人のことを、俺が言えた義理じゃないけど。
日野は一時目を丸くすると、次いで噴き出すように笑った。俺みたいなガキがいっちょ前に偉そうなことを言ってるのがおかしかったんだろう。
それから、恥ずかしそうに頭をかく。
「あぁもう、バカみたい。勝手に落ち込んでキミみたいな子供に慰められちゃうなんて」
「だけど」と日野は笑いすぎて零れた涙を拭き取って、
「ありがとう、いっちー。ちょっと気分が楽になった」
「そりゃ良かった」
「もう、達観してるなー。ちょっとは恥ずかしがるとか、子供らしい反応見せてくれたらいいのに」
「生憎と、そこまでガキじゃないんでな」
「キミが言うと様になってるから何とも言えない……」
苦笑を浮かべる日野は、最後に残ったコーヒーを一気に飲み干す。そして表情を改めた。
あの時、喫茶店で話した時と同じそれ。
「ねぇハジメ君、さっきの姫乃ちゃんの話で、気付いてる?」
意味深な言葉に、俺は頷いた。
「父親のことだろ?」
「……うん」
秋月の話で、あいつが虐待を受けているのは分かった。
だけど、分かったのはそれだけだった。
他の、例えば母親がどうして遊べるだけの金を持ってるのか。また父親は誰なのか。そう言った点を秋月は何も知らなかったんだ。
けど、それは仕方ない。
秋月は確かに賢いけど、それでもただの子供でしかないんだ。その上聾唖。自分が今、どんな状況にあるのか説明しろと言われてもどうしようもないだろう。
とはいえだ。
「まぁそれは、あの母親に聞けばいいだけだろ?」
「素直に話すと思う?」
「……」
思わない。
だけど、だからといって俺たちに何が出来る?
俺はガキで、日野も看護師でしかない。仮に日野が兄貴さんから何かしらの情報を貰ったとして出来ることなんて限られてるはずだ。
「……母親はともかく、今一緒に住んでる男はどうなんだ?」
仮にとはいえ一緒にいるんだ。何かしらの情報を持っていてもおかしくない。
だが、日野は首を振る。
「残念、というか面倒なことなんだけど……あぁ、えっと……」
「……?」
こいつらしくなく、変に歯切れが悪い言い方だ。
だけど、その反応は続いて紡がれた言葉を聞けば納得出来るモノだった。
「……ヤクっていうか、覚せい剤」
「……!」
「今一緒にいる男って、その売人なの」
聞いた瞬間、俺は咄嗟に日野に詰め寄っていた。
「あ、秋月は大丈夫なのか!?」
覚せい剤。売人。秋月。最悪の予想が俺の頭をかすめていく。
日野は俺の反応をある程度予想していたんだろう。俺の肩に手を当て、真っ直ぐに俺と視線を合わせた。
「落ち着いて、ハジメ君」
「……」
「大丈夫、姫乃ちゃんの身体からそういう反応は出てないから」
本当か?
目で問えば、日野は頷く。
その瞳に嘘の色がなくて、俺は大きく息を吐いた。
良かったと、心の底からそう思う。
俺自身覚せい剤なんざ使ったことないし、友人や知り合いもそんなモノに関わったことがないやつばかりだったからこれは学校で教わった情報でしかないが、あんなものに関わって幸せになっているやつなんているはずがない。
「悪い、取り乱した……」
どうも俺は、秋月のことになると冷静になれない所がある。
俺は大きく息を吸って、吐くと、日野の方を改めて向いて……何だそのニヤニヤとして笑いは?
「いや~、何て言うのかな。こんな時に不謹慎だけど、キミって本当にひめのんのこと、大切に思ってるんだね」
「……そうだな」
まぁこれは、親が子供を心配するような心境なんだろうけど。
強いて俺の経験に近いモノを上げるとすれば、西オサム時代の甥っ子や姪っ子に対する感情が一番近い。
大我に優陽、智也は元気にしてるだろうか?
「で、結局その男は今どうなってるんだ?」
俺が話を戻せば、日野は「うん」と頷いて、
「どこから掴んだのか、あの家に警察が入ったことを嗅ぎつけたらしくてね。今は逃亡中みたい」
「母親は……いや、いいや」
どうせあの女が自分に不利になることを話すことはないだろうから。
つまり、状況を纏めるとあまり芳しいことではないということか。
「一応、前一緒にいた男のことは分かってるんだけどね」
前、つまり秋月がここに来る前にいた町のってことか。
あるいはそいつも何かしらことを知っているかもしれないが、だからといってどうしようもない。
仮に俺がそいつの情報を得て、そいつに近づいたとして、「秋月姫乃ついて教えてください」と言ってもまず、門前払いされるだろう。どころか下手な警戒心を生みかねない。
じゃあ、警察はどうだ?
「そっちにももう話を聞きに行ったみたいだけど、知らぬ存ぜぬでまともな証言が出なかったらしいの」
警察官は強い権限を持っている半面、警戒されるからな。日野の話ではその男とは一カ月程度しか一緒にいなかったらしい。そんな短い期間の男から警察もそこまで深く切り込めなかったのかもしれない。
そしてその前の男は、母親の証言待ちと。後手に後手に回っている感じだな。こんなに短い期間で色んな所を移り変えているあの母親だ。一体どれほどの男と関わっていたのか、皆目見当もつかない。
せめて、警戒心を抱かれなければ話を聞きだせるかもしれないけど、それはどうやってだ? 口が軽くなるとしたら酒くらいだが、ガキの俺が誘った所でふざけているとしか思われないだろう。
それこそ、
「……」
「……いっちー、どうかした?」
俺の無言の視線に、日野がその整った顔で目を丸くする。
それこそ、日野のような美人にでも誘われない限り――
一瞬浮かんだ考えに、俺は首を振る。
いや、これはダメだ。相手がどんな男か知らないが、万が一でも日野を危険な目に合わせるわけにはいかない。
「何でもない」
「話して」
だけど、そんな俺の迷いを察したように、日野は俺を真っ直ぐに見た。
「何か思いついたんでしょう? だったら話して」
「……クソみたいな考えだよ。聞く価値もない」
「それを決めるのはキミじゃなくて私だよ」
「……」
俺は、小さくため息を吐いた。
そんな真剣な目で見られたら、隠し事なんざ出来るはずがない。
だけど俺は、正直な所これを日野に話したくなかった。こいつ以外の他の誰かにならまだ、軽く口が開いたかもしれない。
当然だ。誰だって自分から、危険な目にあいたいとは思わないんだから。
けど、こいつは、
「やるわ」
俺のクソみたいな考えを聞いて、すぐに頷いてしまう。
だから言いたくなかったんだ。こいつは、誰かのためになら自分を犠牲に出来てしまうやつだから。
バカじゃねぇの? と思った。
俺が言うなと、そう思った。
「そうよね、私みたいな美人がお酒に誘えば問答無用でついてくるはずだわ!」
名案だと、俺の横で日野が頷く。
でも、これでいいのか?
確かに俺や警察が行くより、話を聞ける可能性が上がるだろうけど、だけどこれは、少し間違えれば日野の身に危険が生じるかもしれないことだ。
そんなことをこいつに任せていいのか?
俺は首を振る。どんな理由があろうと、俺以外の人間を面倒な目に合わせるわけにはいかない。
だから今からでも止めようとして――日野の少し寂しそうな微笑と向かい合った。
「……いっちーはさ、本当に子供らしくないね」
「……?」
何のことだ?
急な言葉に目を丸くすれば、日野は笑みを変えないまま言う。
「この考えもそうだけど、普通さ、子供って迷わないモノなの」
「……」
「自分がすることは正しい。そう思って迷わない。失敗して、初めて自分が間違ったって理解するモノなんだよ」
……あぁ、そうだな。
俺も、ガキの頃はそうだった。
だけど俺は、もう何度も失敗してる。
間違って、誤って、迷い続けて来た。
だから、信用できないんだ。他人が――それ以上に自分自身が。
「いっちーは今、失敗した時のことを考えてるんだよね? 私に何かあったらどうしようって」
「……」
「でも、大丈夫。根拠はないけど、自信はあるわ。だから、私を信じてくれない?」
日野はそう言って、俺を真っ直ぐに見詰めた。
私を信じてほしいと。
だから、任せてほしいと。
本当は、警察に任せた方がいいんだろうと、そう思う。
時間はかかるだろうけど、血の繋がりがある父親がいるはずなんだ。それを探すことはきちんとできるはずだし、秋月の詳しい状況だって同じく時間をかければ分かるはずだ。
だけど、そう分かっている俺に反して、少しでも早く、確たる情報をほしいと思う俺もいる。
一秒でも早く、秋月に幸せになってほしいから。
今までずっと不幸だった秋月に、これ以上辛い思いをさせたくないから。
本当に俺は、バカ野郎だ。
秋月を助けると、そう決めたのにまだ、迷っている。
だけど、それが俺なんだよ。
クソみたいに迷って、バカみたいに失敗して、それを繰り返す。
それでも、秋月を助けたいんだ。
だから、信じよう。
この日野優陽という女性を。
秋月のために、自分の全てを賭けてくれたこの人を。
「……分かった」
俺は、日野に手を差し出す。日野は小さく目を丸くすると、俺の意思を察したようで嬉しそうに笑った。そして同じように手を出して。
俺たちは、握手する。
「あんたを信じるよ、日野さん」
「うん。ありがとう、いっちー」
それからまた、少しだけ寂しそうに笑った。
「キミがいつか、誰だって信じられるようになるといいのにね」
……そう、だな。
頷きながら、だけど、そんなことは一生ないと、そう思う俺がいた。
だって、そうだろう?
人は、平気で誰かを裏切る。
皆が皆そうじゃないのは知っているさ。秋月のように優しいやつがいれば、五月女のように友達のために精一杯になれるやつだっている。日野のように誰かを助けたいと思い行動できるやつだっている。
だけどそれと同じくらい――それ以上に、誰かを陥れて楽をしようとするやつだっている。
俺はそれを知っている。
だから俺は、荒れた日野を見て、概ねのことを悟った。
それは、あの日から3日経った土曜日の昼だった。携帯電話のメールで病院近くの公園に呼びだされた俺が見たのは、ベンチで力なく俯く、日野の姿。
それで、俺は概ねのことを察した。
どうして日野が、病院に俺を呼ばなかったのか。
きっと、秋月に心配をかけたくなかったんだ。
こんな風に気落ちした自分を見せたらきっと、優しいあいつはすごく心配するだろうからと、そう考えて。
「……」
俺は、無言のまま日野の隣りに座る。
日野は、顔を上げなかった。だけどたぶん、気配で察したんだと思う。俯いたままだけど日野は、ポツリポツリと、語りだした。
いや、それは呻いていたというほうが正しいかもしれない。
それほどまでに、俺の知るこいつからは想像も出来ないほど、沈んだ声だった。
「……どう、して……どうしてよ……」
「……」
「何で、姫乃ちゃんなのよ……あの子が、どうして……どうして……!」
日野の呟きを纏めると、こうだった。
秋月の親が離婚したのは、六年前らしい。原因は、母親の浮気だった。
日野は、泣きながら言葉を紡いだ。
「そいつは、酒に酔って面白いくらい軽く話してくれたわ。あの母親が、泣き落としで父親から親権を奪ったこと。それから、その父親から養育費っていうお題目で金を巻き上げていること」
「……」
「……ねぇ、どうしてよ? どうして、子供をそんな風に扱えるのよ……?」
……家族なんて、言ってしまえば血が繋がっただけの赤の他人だ。
俺はそれを知っているけど、言わなかった。
こんなの、知らない方が良いに決まっている。
そしてそれが分からないのは、日野がそんな風に育てられたからなんだろう。
「家族って、助け合うモノじゃないの……? 愛し合って、そこにいるのが当たり前で、守り合っていくモノじゃないの……?」
「……」
あぁ、そうだな。
俺も、そう思っていた。
今でも、そう思いたいと思う。
きっと、こいつもそうなんだろう。
肩を震わせて、怒りと悲しみで泣く日野を見て、俺は思う。
日野はきっと、信じていたんだ。
あの母親を。
どんなにひどいことをしても、心の底では秋月を想っているんだと。
あんな風に虐待をするのも、理由があればやっていい訳ではないけど、それでも何かしらの訳があるのだと。
そう、信じたかったんだと思う。
じゃなきゃ、救われなさすぎるから。
母親がじゃない。
秋月がだ。
あんな目にあって、自分が不幸だと気付かない振りをしないといけないほどに傷付いたあいつが、親にまで嫌われているなんて、そんなの、認められるわけがない。
せめて、せめて少しでも親の愛情を、受けていてほしかったんだ。
そう、信じたかったんだ。
そんなことないと、分かっていても。
俺たちは、信じたかった。
でも、いつだって、世界は腐っていて。
クソみたいな現実しか、俺たちの前には転がっていなかった。
「……どう、して……何でよ……!」
そう言って、日野は涙を流し続けた。
そんなこいつを、俺は慰めなかった。
適当な言葉が思いつかなかった訳じゃない。だけど、それは違うような気がした。上手く言葉に出来ないけど、そんなことをしても何の解決にもならないから。
だから、俺はただ正直に、思ったことだけを口にする。
「……ありがとな」
「……!」
日野が、顔を上げた。
泣きすぎて、目元が赤くなり、化粧も大分崩れている。
せっかくの美人が台無しだった。だけどそんな日野が、俺にはすごく綺麗に見えた。
だって、こいつの涙は、
「秋月のために、泣いてくれて」
誰かのために泣ける。それは、どれほど尊いことだろう。
それはもう、俺には出来ないことだった。
俺はもう、涙を流すことさえ、諦めちまったから。
どんなに怒りを抱いても、悲しいとそう思っても、涙が出なくなってしまったから。
日野は、我慢してるんだろう。涙を流すまいと唇を噛んで、でも、止められなくて、両手で顔を覆った。
指と指の間から、受けきれなくなった涙と嗚咽が零れる。
こいつはきっと、泣きながらでも我慢していたんだと思う。
大人だから、自分が泣いてしまえば子供を不安にさせると。
だったら落ち着いた時に呼べばいいと、そう思ったけど、きっとこいつ自身、冷静じゃなかったんだ。
知った事実が、あまりのも残酷だったから。
だけど、気にするな。
見た目はこんなんだけど、俺も俺で、それなりに生きてるから。
かっこ悪いとか、不安になったりしないからさ。
泣いてやってくれ、秋月のために。
そう思って、俺はずっと、泣き続ける日野の隣りにいた。
涙を流せる秋月や日野が、少しだけ羨ましかった。
それから、夕方になって、ようやく日野は泣きやんだ。
「……っし! ウジウジ落ち込むのはもう終わり! まだまだやることは山の如し! 切り替えていきましょう!」
一人で「おー!」と腕を上げる日野は、その顔に笑顔を取り戻して俺に向かった。
「とはいえもう、大体のことは済んでるんだけどね」
「そうだな」
日野が聞いた話が本当なら、あの母親は父親から金を貰っているということだ。だったら後は、通帳から振込先や振り込名義を調べればいい。
「姫乃ちゃんの退院まであと一週間。うんうん、退院までのお父さんを連れて来て見せるわ!」
「……」
意気揚々と決意を口にする日野だが、俺はそこまで気軽にはなれなかった。
仮に秋月の本当の父親がまだ健在しているとして、そいつはちゃんと、あいつを愛してくれるのか?
秋月を、幸せにしてくれるのか?
「いっちー」
不意に名前を呼ばれ、そちらを向けば、日野が寂しそうに笑っていた。
それから、まるで俺の考えを察したように、
「いっちーが疑心暗鬼になるのも分かるけど、大丈夫。姫乃ちゃんのお父さんは、ちゃんと姫乃ちゃんを大切にしてくれるよ」
確信を持った言い方だった。
俺が怪訝に思えば、日野は指を二本立てる。
「理由は二つ。一つは養育費。詳しい金額までは聞けなかったけど、毎月すごい額が入れられてたみたいなの。お金と愛情がイコールだとは思わないけど、それも一つの愛情表現でしょう?」
「……否定はしない」
「うん。で、二つ目は、これはまだ確証が持てるわけじゃないんだけど、姫乃ちゃんのお父さん。人吉明良っていうらしいんだけど、この人たぶん、私の知り合いなの」
「……」
……はい?
「いやぁ、これから連絡取ってみないと分からないんだけどね、確かあの人娘がいて、名前が姫乃だって言ってたの」
「……お前はそれっぽいこと今まで言ってなかったと思うが?」
「いやだって、最後に見たの、それこそ6年前だし、6年あればもう別人だし、姫乃って名前だってそんなに珍しくないし」
「……つまり?」
「全然気づきませんでした」
……いや、何となく分かるけど、思わずため息をつかずにはいられない。
俺が半眼で日野を見れば、日野は「あはは」と苦笑いを受かべて頭をかいていた。
……まぁいい。
「つまり、父親と面識があると」
「うん。ほら、話したでしょ? 私のお父さんが子供を助けたって話。それが明良さんなの。だから毎年、命日にお墓で会うわ」
そりゃ律儀なことで。
「それでね、いっちー。ちょっとお願いがあるんだけど」
お願い?
「ひめのんに、お父さんと会えるって伝えてくれない?」
「……別にいいけど」
どうして俺なんだ? 自分で伝えればいいだろうに。
そう思い、あぁと察する。
俺は、本当にバカだな。
今の秋月の心を考えたら、すぐ分かるだろうが。
あいつは、親に裏切られたばかりなんだぞ?
そんな秋月にいきなり父親と会えると言って、あいつが不安にならない訳がない。
だからと言って、いきなり会わせても最悪秋月が父親を拒絶するかもしれないし、そうなったらこれからの父親との関係に響きかねない。
だけど、だったらなおさら俺じゃない方がいいんじゃないか?
俺は、秋月をちゃんと、父親に会わせられるのか?
そう思い、俺は首を振る。
いや、『られるか?』じゃない。
会わせるんだ。絶対に。
まだお前を、心の底から愛してくれる親がいると、秋月に知ってほしいから。
何より、何よりだ。
俺は、自分で決めたはずだ。
秋月を、助けると。
だから、逃げちゃいけない。
秋月は、俺を信じてくれているんだから。
そんな俺だからこそ、これは俺が伝えないとダメなんだ。
「分かった」
俺が頷くと、日野は頼もしそうに笑みを浮かべた。
「頑張れ男の子!」
まず最初に、目を丸くした。
それから、『本当?』と俺にメモを向けて来た。
俺が頷くと、花が咲くように嬉しそうに笑った。
それが、俺が秋月に『お前の父親に会えるぞ』と告げた時の反応だった。
正直、拍子抜けするほど簡単に秋月は父親に会いたがった。それこそ、俺や日野の杞憂がアホらしく思えるほど。
だけどそれでいいんだと、そう思う。
家族に会いたい――それが当たり前のように思えるのは、それこそ当たり前のことなんだから。
もしかしたら父親に会う会わないで、また秋月が情緒不安定になるんじゃないかと思ったが、杞憂で済んで本当に良かった。
あぁ、本当に。
まだあいつに、素直にお父さんに会いたいと、そう思う心が残っていて、良かったと思う。
当たり前を、当たり前に感じる心が残っていて。
昨日の段階で、既に秋月の父親が日野の知り合いであることは、電話での問い合わせで分かっていた。日野の話ではその父親は海外で仕事をしているようで、どう急いでもここに来るまで数日はかかるらしい。
とはいえだ。それはこちらとしても都合が良かった。
いきなり会うよりも、心の準備やその他もろもろの準備が出来る方が秋月としてもいいだろう。
ちなみに、秋月の父親に関してどんな人だったか聞いてみると、
『あんまり覚えてないけど
お父さんはすごく
優しかったよ』
……優しかった、か……。
わざとじゃ、ないんだろうな。
書き方が、過去のモノになっているのは。
だけど、それは瑣末なことだ。
日野の話から察するに、秋月の親父さんはそれなり以上の人格者らしい。実際に話したわけではないので確信は持てないが、きっとこれから、秋月の事を大切にしてくれるはずだ。
そう、きっと秋月を幸せにしてくれる。
俺の目の前で、本当に嬉しそうに笑うこの女の子を。
その笑顔の影に、多くの不幸を背負ったこの子を。
そう思うと、どうしてか俺は、秋月の髪を撫でてしまっていて。
そんな俺に秋月は目を丸くするけど、嬉しそうに笑った。
あぁ、何でなんだろうな……そう思わずにはいられない。
何でこいつが、こんなにも温かく笑えるこの子が、あんな目にあわないとダメだったんだろう?
傷付いて、傷つけられて、身体に、それ以上に心に、大きな傷を負って。
そう思うと、俺はどうしようもなく、怒りが込み上げて来て……だけど大きく息を吸って、吐いて、無理矢理霧散させる。
それはもう、終わったことだ。
あの母親が秋月に会うことは、もうないはずだろう。
これからきっと、秋月は今までの不幸を取り返すように、幸せになって行くんだから。
だから、もう手前勝手な考えでキレるのはやめよう。
じゃないと……
俺は、俺の顔を心配そうに覗きこんで来る秋月に苦笑する。
その顔は『大丈夫?』と俺に問いかけて来ていた。
こんな風に、秋月を困らせてしまうから。
俺が『大丈夫』と言うように頷くと、秋月は首を少し傾げてその目で『本当?』と問いかけてくる。
もう一度頷くと、秋月はホッと、安心したように微笑んだ。
もう、少しだ。
もう少しで、こいつがずっと、こんな風に笑える日が来る。
当たり前に家族がいて、当たり前に学校に行って、当たり前に友達を作って、当たり前に笑える、そんな日が。
それから一週間、秋月はずっと父親にどう会うか俺や日野、五月女と話していた。
まず会ったら、どう挨拶するのか。
どんな話をするのか。
服はどんなモノを着るのか。
嬉しそうに、本当に、楽しみにしているように。
そんな日が続いて、一週間なんてあっという間に過ぎ去って。
日曜日になった。秋月が退院する日で、そして、父親と会う日。
何だかんだで数週間住むことになった病室も、既に片付けられ、今はベッドと元々あった棚などがあるだけになっている。
そんな場所に、俺と秋月、日野と五月女がいた。
せっかくの家族の再会だから、俺たちは遠慮しようとしたのだが、秋月に一緒にいてほしいと言われれば、断れるはずもなかった。
ちょいちょいと、秋月が俺の服を引っ張る。
俺がそちらを向けば、秋月は自分の格好をまじまじと見て、
『変じゃないかな?』
『服のことか?』
秋月の服装は、今までの病院服ではなく、真新しい薄手のワンピースだった。この夏の中長袖のワンピースは少々違和感があるけれど、それでも十分似合っている。
『可愛いぞ』
『本当?』
瞳での問いかけに頷けば、秋月は嬉しそうに微笑む。
そんな子供らしい反応に俺も微笑を浮かべた。それから、日野を見る。彼女は俺の意図に気付いたようだ。今日は休みと言うことで私服姿の彼女はポケットから携帯電話を出すと、画面を確認し、俺に頷き返す。
どうやら、到着したらしい。
俺は秋月と五月女を振り返り、
『今から秋月の親父さんを迎えに行くから、お前たちはここで待っててくれ』
「うん、分かった」
そう、五月女が素直に頷く。
秋月もすぐに頷いた。
そんな二人を見て、俺は日野と共に病室を出ていく。
だけど、気のせいだろうか?
一瞬だけ、本当に少しだけだけど、秋月の表情が強張ったように、そう見えたのは。
日野と共に一階のロビーに着く。日曜日と言うこともあり平日よりも多少人が多い。そんな中で、妙に挙動不審でロビーをうろつくその人はひどく目立っていた。
歳は30ちょっとってところか。まぁもしかしなくても。
日野を見上げる。彼女は頷いた。
あの人が、秋月の父親らしい。
親父さんは日野に気付いたようで、
「優陽くん!」
手を上げて、俺たちに近づいてくる。
「明良さん、お久しぶりです」
「あぁ、今年の命日からだから4ヶ月くらいかな。それから、えっと……」
親父さんの目が、俺に向いた。日野がすぐに言う。
「あぁ、この子が電話で話した」
「峰岸ハジメです」
「――! キミが!」
親父さんの反応は、早かった。
すぐに俺の目線に合わせるようにその膝を折ると、真っ直ぐに俺の目を見て、それから――深々と頭を下げた。
「話は、聞いているよ。キミが、姫乃を救ってくれたって」
「……」
正直に言ってしまえば、俺はこの人を信じていなかった。
何かしら理由があったとはいえ、秋月があんな目にあったのはこの人の責任でもある。だからもし、会って、少しでも秋月を傷つける可能性があると感じたら、俺はこの人を帰らせるつもりでいた。
少なくとも、日野にはそのことを伝えていたし、了解も取っていた。
何様だよと思われるかもしれないけど、そんなことしか俺には出来ないから。
だけど、この人は、
「ありがとう。本当に、ありがとう」
俺の手を握り、頭を下げて、そう言った。
子供相手に。本当に、心の底から、言葉を尽くすように。
それは、本当に心から秋月を想っているからこそ、取れる行動なんだと思う。
たぶんきっと、これが親なんだ。
そう、思った。
そう思える、人だった。
「……一つだけ、聞かせてください」
俺の問いかけに、親父さんは目を丸くしながらも真剣に俺を見ていた。
「あなたはこれから、あいつを大事にしてくれますか?」
ずっと、あいつは傷付いてきた。
当たり前のことさえ、教えてもらえず。
当たり前の愛情さえ、与えられず。
不条理ばかり受けて来たあいつを、
「あいつを、幸せにしてくれますか?」
もしかしたら、何を言っているんだと、そう思われているかもしれない。
今日初めて会った子供が、そんなことを言っているんだ。
そう思われても仕方ないと、俺自身思う。
だけどこの人は、頷いた。
真っ直ぐに、俺の目を見て。
「絶対に約束する。姫乃のことを、大切にすると」
そう言って、その、少しだけ秋月に似た顔に、笑みを浮かべた。
「それから、ありがとう。峰岸ハジメ君」
なぜお礼を言われるのか分からない俺が目を丸くすれば、親父さんは本当に嬉しそうに笑って、
「娘を、姫乃のことを、本当に大切に思ってくれて」
あぁ、と思う。
本当に、この人は秋月の父親なんだな。
上手く言えないけど、どこがとは言えないけど、どうしようもなく、この人の何かは、秋月に似ていた。
なら、大丈夫だ。
あいつは、優しいから。
そんな秋月の父親ならきっと、あいつのことを大事にしてくれるはずだから。
俺は、日野に頷く。
日野も俺の考えを察したようで、安心したように笑うと病室に行くよう提案した。
俺たちが否を唱える理由もなく、揃って秋月達が待つ病室に向かう。
病室の前に着くと、親父さんが緊張から急にそわそわしだした。肝の大きさは秋月の方が上なのかもしれない。
それから、親父さんを日野が落ち着かせて、俺がドアを開ける。
だけど――そこに秋月はいなかった。
揃って目を丸くする俺たちの視線の先にいるのは、五月女だけだ。
「五月女、秋月は?」
「あ、姫乃ちゃんならトイレだよ」
……何と言うか、間が悪い。
とはいえあいつも緊張していたんだろう。六年ぶりの再会になるんだ。ある意味当然だった。
五月女と親父さんが自己紹介するのを隣りで聞きながら、俺は秋月を待った。
5分ほどして、もうすぐかな、と思う。
10分経って、長すぎないか? と首を傾げる。
20分経ったあたりで、全員が顔を見合わせた。
30分経って、ようやく五月女が様子を見に行った。
それから、焦った様な足音が近づいて来て、
「ひ、姫乃ちゃんがいない!」
「……え?」
「トイレに誰もいなかったんです! もしかしたら下かなって思って見て来たけど、どこにもいなくて……」
途端、皆が慌てだす。
病院の中を迷っているだの、誘拐だのという言葉が飛び交うが、俺は自分でも驚くほど今の状況を冷静に受け止めていた。
何となく、秋月が姿を消した理由に心当たりがあったから。
「とりあえず、手分けして探しましょう。親父さんはとりあえず一階を。五月女は二階。日野は3階を。俺がそれから上を探します」
それから、見つかる見つからないに関わらず30分したらここにまた戻ってくることを告げて、俺たちは病室から飛び出した。
皆が走って行くのを見送りながら、俺はどうしてか、迷うことなくある場所を目指していた。
別に確信があった訳じゃない。
だけど何となく、あいつはそこにいそうな気がしたから。
階段を使い、上って行く。
この病院には少しだけ欠陥があり、エレベーターは4回までしか通じていない。だからもし、そこに行きたえれば階段を上るしかない仕様になっている。
近々どうにかするという話を日野から俺たちは聞いていた。
だから、そこにはあまり人がいないと。
そして、だからこそお前はここにいるんだよな?
病院の屋上。白いシーツが何枚も干されているそこには、ほとんど人がいなかった。だからこそ、小さなあいつはすぐ見つかる。
たった一つのベンチに体育座りで腰を下ろす、秋月が。
秋月は気配で察したんだろう。俺の方を見ると、困ったように微笑んだ。
悪いことをしているという意識はあるらしい。
俺は特に非難する気にもなれず、黙って秋月の隣りに腰を下ろした。
秋月も、何も言わず、また何も書かない。
本当の意味で、俺たちは沈黙していた。
だけど、ずっとそうしている訳にもいかない。
俺は、携帯電話を出すとメモ帳を開き、
『恐いのか?』
「……!」
秋月は、少しだけ目を見開いて、困ったように笑った。それから、小さく頷く。
肯定、か。そうだよな……。
恐いよな。
恐いんだ。
きっと、これは俺たちにしか分からない。
親に裏切られるかもしれないと、そう思うことはすごく、恐いんだ。
俺たちは、もう親に裏切られてきたから。
だからこそ、思ってしまうんだ。
また、裏切られるんじゃないかって。
『私、ダメな子だね』
秋月が、メモで語る。
『また、逃げちゃった』
そう分かっていても、ダメなんだよな。
『震えるの
もしかしたらって
そう思うと』
あぁ、分かるさ。
『お父さんも
私を嫌いになるかもって
そう 思うと』
秋月は、震えていた。
その小さな身体を、恐怖で強張らせている。
『信じられないか?』
父親のことを。
お前自身が優しいとそう言った、あの人のことを。
『信じたい』
だけど、
『信じられない』
それは、たった6文字の言葉だけど、俺の中に重く圧し掛かって来た。
信じられない、か。
重いよ。本当に、重い。
他の誰かが言うならともかく、秋月のそれは、ひどく重かった。
共感してしまう分、その気持ちが、分かってしまうから。
『だって、お母さん言ってたよ
あんたなんて
生むんじゃなかったって』
「……」
『もしかしたら
お父さんも
そう思ってるかもしれない』
「……」
『私は いらない子だって』
どうして、なんだろうな?
どうしてこいつが、こんなことを書かなきゃなんねぇんだろうな?
そして俺は――
『ねぇ ハジメ君
私 私
生まれて来なければ良かったのかな?』
秋月に、どう答えればいい?
困った様な笑顔で問いかけてくるこいつに、どう答えれないい?
慰めればいいのか?
怒ればいいのか?
いや、違う。
そうじゃないんだ。
適当な言葉で、片付けてはいけない。
こいつは、秋月は、きっと俺にだから、こうやって問いかけているんだから。
だから俺も、真っ直ぐに答えなければいけない。
『なぁ、秋月。勝負しないか?』
俺の急な提案に秋月が目を丸くする。
構わず、俺は続けた。
『お前の父親が、お前を大切にしてくれるか』
「……」
『俺は当然、大切にする方に賭ける。お前は逆だよな?』
秋月が答える前に、俺は締めくくった。
『もし俺が負けたら、お前の言うことを何でも聞いてやる』
俺のメモに、秋月は目を見開いた。
そして、俺の方を見る。その視線を、俺も真っ直ぐに見返した。
俺が、本気であることを分かってほしいから。
あぁ、そうさ。
俺は、自分で決めたはずだ。
秋月を、助けると。
だから、俺は絶対に秋月を父親に会わせる。
こいつに、知ってほしいから。
まだお前を大事にしてくれる家族はいるんだと、そう教えたいから。
お前は愛されていると、知ってほしいから。
だから俺は立ち上がり、秋月へ手を伸ばす。
ついて来てほしいと、伝えるように。
秋月は、迷っていた。
俺の手を取るか、本当に迷っていた。
だけど、その小さな手は、確かに俺に伸びて、届いて、掴んだ。
ぐっと、引っ張るように秋月を立たせる。
俺を、こんな俺を信じてくれたこの女の子を。
その小さな身体は、まだ震えているけど。
それでも、前に進もうとしているから。
『俺を、信じてくれるか?』
問いかけに、秋月は小さく、だけど確かに頷いた。
病室に戻ると、日野と五月女が戻って来ていた。
「ひめのん!」
「姫乃ちゃん!」
本気で心配していたんだろう。二人は飛びつくように秋月に駆け寄ると、身体に異常がないか、何かされなかったか、矢継ぎ早に聞いている。
耳が聞こえないから秋月には二人が何を言ってるか分からないだろうけど、その必死さから、秋月の聾唖を忘れてしまうほどの狼狽ぶりから、察したんだろう。秋月は申し訳なさそうに俯いた。
「親父さんは、まだ来てないのか?」
話を変えるようにそう言えば、五月女と日野は揃って頷く。
もうすぐ約束の30分だが……いや、杞憂だったか。
俺の耳に、こちらへ向かって響く足音が届く。
「姫乃! 姫乃は見つかりましたか!?」
開けたままのドアから、そう言って、親父さんが現れた。
そんな親父さんを驚いたように五月女や日野が見て、その視線に、秋月は今、自分の父親が後ろにいることを察した。
隣りにいた秋月の身体が、目に見えて強張る。
秋月は、震えていた。震えて、でも、だけど、それでもその身体は、ゆっくりと後ろを振り返る。
それはきっと、秋月自身も父親に会いたいと、そう思っていたからなんだろう。
秋月と親父さん、二人の視線が交差する。
どちらも、動かなかった。いや、動けなかった。
久しぶりに再会する親に、子供に、どう接していいか分からないんだろう。
何をバカな、とは思わなかった。
俺は、秋月の心の傷を知っているから。
そして親父さんも、秋月の現状を知っているから。
分かっているから、動けない。
でもな、それでも俺は、あえて言おうと思う。
「バカが」
俺の言葉に、秋月以外の皆が視線を向けた。
そんな皆に、俺は苦笑して見せる。
「親子なんだから、そんなに難しく考えることじゃないんだよ」
トンと、秋月の背中を押す。
強くない力だけど、不意だったから、秋月は支えが効かずとてとてと歩くように父親に近づき、そんな秋月を、親父さんは、ぎゅっと、だけど大切そうに抱きしめた。
そんな親父さんに、秋月は目を見開く。
きっと、秋月も気付いたんだ。
この人が、自分の味方だと。
あぁ、そうさ。
お前をそんな風に大事に抱きしめて、その身体を、お前を探すために走り回って汗まみれにしたその人が、お前の敵なわけ、ないだろう?
「姫乃……姫乃……!」
「……」
秋月に、父親の声は届いていない。
だけどその温もりは確かに届いていて。
秋月の見開いていた目が、揺れた。
それから、その瞳に涙が溜まって。
次の瞬間、秋月は泣いていた。
大声を出して、泣いていた。
俺の前でしか見せなかった、その泣き方。
だけど、あぁそうだよな。
お前は今、父親の前なんだから。
家族の腕の中なんだから。
我慢できるわけ、ないよな。
いいんだよ、それで。
泣いて、いいんだ。
父親に抱かれて、その胸に顔をうずめて。
泣いていいんだよ。
泣き喚いて、いいんだよ。
だってそれは、お前の涙は今――嬉しいから、流れているんだろう?
だったら、泣こう。
嬉し涙は、好きなだけ流していいんだから。
気付けば、五月女も泣いていた。日野も、その瞳を潤ませている。
そんなこいつらに俺は、微笑交じりの苦笑を零した。
あぁ、本当に。
良かったな、秋月。
秋月はこれから、日野の家に世話になることになっている。
親父さんは今年中、海外で仕事を続けなくてはならないし、秋月自身もこの町から離れたくないということでそう纏まっていた。
少なくとも、卒業式は俺たちの学校で送るらしい。
そこから先は、まぁ未定だ。
とはいえ、父親がいるんだから想像自体は難しくないが。
泣きやんだ秋月と共に、俺たちは病院を後にするべく歩きだした。
エレベーターで一階まで下りて、ロビーへ。
そんな道中、
『ありがとう、ハジメ君』
急なメモに俺が目を丸くすれば、秋月は笑った。
子供らしい、花の咲くような優しい笑顔だった。
『ハジメ君がいてくれたから
私は助かった』
新しいメモで、
『梓ちゃんと友達になれて
優陽さんと仲良くなれて
お父さんとまた会えた』
それから、少しだけ俯く。
『私 こんなに幸せでいいのかな
こんなにこんなに
嬉しくて、いいのかな?』
きっと、秋月は戸惑ってるんだ。
こいつは、今までずっと不幸だったから。
こんな風に、当たり前に嬉しいのに、慣れていなくて。
そんな秋月に俺は苦笑を浮かべると、その髪を撫でた。
少しだけ、乱暴に。
ぐしゃぐしゃと。
秋月が、目を丸くする。
そんなこいつに、笑いかける。
『これくらいで満足するな』
あぁ、そうさ。
『お前はこれから、もっと幸せになるんだからな』
当たり前を、当たり前に感じて。
これから、本当に嬉しいことで巡り合う。
子供のお前が知らない、もっと楽しいことに出会えるはずなんだ。
だから、この程度で満足してんじゃねぇよ。
俺の言葉に、秋月は嬉しそうに笑って、頷いた。
それから、
『お母さんとも仲直り出来るかな?』
少々意外な問いに、俺は目を丸くする。
だけど、そうだよな。
いくらひどい親でも、それでも親だから。
憎みきれないんだ。
仲直りしたいと、そう思うんだ。
俺はもう、諦めてしまったけど。
こいつには、そうなってほしくない。
だから俺は、無理矢理でこじつけだが、嘘をついた。
『よく考えろ秋月。嫌いなやつの見舞いに来るやつがいると思うか?』
「……? ……!」
聡いこの子は、俺の言わんとすることを察したようだ。
その顔に、少しだけ希望の色が灯る。
今はきっと、それだけでいい。
そうさ。自分で言って、そうだと思う。
嫌いなやつの見舞いに、あの女が来るとは思えない。
もしかしたらあいつにも、秋月を大切に思う心が、ほんの少しとはいえ残っていたのかもしれない。
これは、俺の勝手な希望でしかないけれど。
そんなやりとりをしていると、いつの間にか病院の出口に立っていて。
秋月は、律儀に病院へ頭を下げていた。
そんな秋月に、皆が苦笑する中、俺の耳に届いた、エンジン音。
目を向けると、丁度真っ直ぐ行った10メートルほど先に、一台の軽自動車が止まっていた。
なんだ?
駐車場でもないのに、どうして病院の敷地内に止まっている?
そう思った瞬間――え?
なんでだ?
どうして――お前はこちらに近づいて来ている。
なんだ、その速度は。
まるで止まる意思がないような――気付けば俺は、全力で秋月を押していた。
親父さんも、異変に気付いていたんだろう。結果秋月は親父さんに抱かれるように飛んで――そして俺は。
全身に、衝撃。
ガラスが割れる音。
一拍遅れて、響く悲鳴。
一瞬、意識が、飛んだ。
何が起きたのか、分からなかった。
だけど、全身を襲う痛みで、はっきりを理解する。
俺は、轢かれたのか。
そう分かった瞬間、痛みが何倍も強くなった気がした。
意識が飛びそうな、激痛。
だけど、痛すぎて気を失えない。
「……が、ぎ……!」
口から、変な声が漏れる。
耳に、悲鳴が飛び込んできた。
周りに見えるのは、先ほどまで俺がいた病院のロビー。そして割れたガラスの破片。突っ込んできた軽自動車。そこから出て来た、一人の男。
誰だよ、お前……?
見たこともない男に、俺は痛みの中眉間にしわを寄せる。
そいつは、俺を見ていなかった。まるで誰かを探すようにきょろきょろと周りを見て、
「見つけた……」
視線の先に、秋月がいた。
秋月は、戸惑ったように目を丸くしていたけど、その男を見て、その瞳を見開く。
その反応……
秋月は、あいつを知っている?
「てめぇのせいで……てめえのせいで……!」
男は、まるで呻くように秋月に近づいて行く。
その目は、ここからでも分かるほど――イカれていた。
「てめえのせいで俺はぁぁぁぁぁぁ!!」
秋月へ向け、男が腕を振り上げる。
走り出せていたのは、奇跡だった。
半ば転ぶように。男へ飛びかかる。
ガキの身体だ。足にしがみつくような形になったが、男は軽く体制を崩した。だけど、倒すまでにはいかない。
「んだこのがきゃぁ!」
引きはがされ、腹に蹴りを受ける。
腹が裂けたような痛み。
口から、妙な声と、血が漏れた。
ひゅー、ひゅー、と妙な呼吸を繰り返す。
痛みに、視界が霞む。
いっそ気を失いたい――そう思うけど、今、気絶するわけにはいかなかった。
こいつが秋月とどういう関係なのか分からないけど、少なくともこの男は、あいつを傷つけようとしている。
男が、蹴り飛ばした俺に近づいてくる。
俺は、動けなかった。
痛みで身体が、まともに動かなかった。
そんな俺を、男は容赦なく踏みつけるように蹴りつけてくる。
頭を、顔を、腹を、腕を、足を。
その度に、脆いこの身体は妙な音を立てていく。左腕の肘が、曲がってはいけない方向に曲がり、片目は腫れてしまったのか見えない。痛くない所がなくて、全身が痛かった。
「てめえのせいで! てめえのせいで!」
男が、訳が分からないことを叫んで蹴りつけてくる。
もう、動くことも出来ず、俺に出来るのは丸くなってその痛みに耐えることだけだった。
「てめえのせいで! 警察がガサ入れに来て! せっかく上手くヤクが売りさばけてたってのによぉ!」
「……!」
警察。ガサ入れ。ヤク……あぁ、そうか。
そういう、ことか……!
こいつが……こいつが……!
「あん?」
男の蹴りが、急に止まる。
俺が、顔だけ動かしてそちらを見れば、男は俺をまじまじと見て、
「お前誰だ? んだよ、あいつじゃねぇのかよ?」
……んの、薬中。
今の今まで、俺を秋月だと勘違いしていたらしい。
まともな状態じゃ、ねぇってことか。
クソったれ。
男は、俺にもう一度蹴りを入れると、また周りを見て、秋月に目を向けた。
「そこにいたのかよ、ガキ」
「……!」
怯える秋月。
親父さんは、頭を打ったのか気を失っている。
五月女も、日野も同じだ。
周りの奴らは混乱しているのか、誰もどうしていいのか分からず呆然と見ているだけ。
このままじゃ、秋月が――そう思うのに、俺の身体はまともに動かなくて。
「ぶっ殺してやるよ、ガキ……!」
……殺す?
その瞬間、俺の思考は異常なまでに冷たくなっていた。
殺す。あいつはそう言った。誰を? 秋月をだ。
殺す、だって?
あいつを、殺す?
今まで、ずっと不幸だったあいつを?
これから幸せになる権利がある、あの子を?
お前みたいな――俺たちみたいなクソ野郎が、殺す、だと?
……っはは。
「は、ははは……!」
気付けば俺は、笑っていた。
その声に、意識を保っていた全員が俺を見る。
異常なモノを、見る目だった。
気持ち悪いモノを、見る目だった。
それでも俺は、笑った。
おかしくて、しかたなかった。
男が、秋月に向かっていた足を止め、俺に寄ってくる。
胸ぐらをつかみ上げられた。
「なに笑ってんだ? てめぇ?」
その問いに、俺は笑った。
「ふざけてんのかてめぇ!」
「――ざけてんのはてめぇだろうが!!」
そう、叫ぶ。
声と一緒に、血が飛び出した。
それでも、俺は叫ぶのをやめない。
「殺す? 殺すだと!? てめぇみてぇクソ野郎が、秋月を殺すだと! ふざけたことぬかしてんじゃねぇぞ!?」
俺の形相に、男が怯んだように一歩引いた。
血まみれで、今にも死にそうなこんな俺が、それこそ本当に血反吐を吐いて叫んでいるんだ。あまりにもそれは異常で、気持ち悪い光景なんだろう。
「あいつは、これから幸せになっていいやつなんだ! 俺やお前みたいに、腐ってるやつとは違うんだよ!」
「だ、黙りやがれぇ!」
男が、俺を蹴り付ける。
子供の身体が大人の蹴りに耐えられるはずもなく、半ば浮くように蹴り飛ばされた。壁に当たり、ようやく止まる。
男は、イカれた目つきで俺に近づいてきた。
あぁ、それでいい。
俺は、そう思う。
もうほとんど、身体は動かなかった。
頭の中も、まともな思考が出来てる気がしない。
それでも、秋月と男を引きはがせた。
後は……
男が、俺を蹴ろうと片足を上げた。
俺は、それと同時に男に飛びかかる。
男は俺が動くと思わなかったんだろう。ほとんど反応できなかった。
そんな男の足に、俺はしがみつく。
片足の男は、体勢を保てず倒れた。
俺も、無様に倒れた。
それでも、男の足から手を離さない。
そして――
「誰か抑えろ!!」
渾身を込めて、叫んだ。
その声に、どれほどの人間が反応出来たのか。
気付けば、数人の大人の手によって、男は取り押さえられていた。
「放せ! 放しやがれ!」
口から唾を飛ばしながらに叫ぶが、誰も力を緩めなかった。
だからだろう。男は顔だけ秋月の方に向ける。
そのイカれた目を、あいつに向ける。
「殺してやる! 絶対に殺してやる!!」
……殺す?
もう、まともに言うことを聞かなくなっていた俺の身体が、ピクリと動いた。
俺は、男に目を向ける。
その表情は、どこかで見たことがあった。
霞みがかかる思考で、妙にゆっくり、あぁとそう思う。
アレは、そう……あの時、秋月に刃向われた時の、寺崎のそれだ。
じゃあ、ダメだな。
あぁ、ダメだ。
立つ。
このままじゃ、ダメだ。
歩く。
また繰り返しちまう。
割れたガラス。
あの時と同じように。
拾う。
こいつを、このままにしていたら――
近づく。
また秋月が、殺される。
振り上げる。
だから、殺さないと。
男の、異常なモノを見る目が――
俺に、向いていた。
殺さないと、秋月が殺される。
こいつを――殺さないと。
振り下ろす。
鮮血が、舞った。