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俺にお前を、助けさせてくれ


 担任教師は懲戒免職。入れ替わりで入って来た熱血系の担任教師。通過儀礼の全校朝礼。顔を腫らして登校する寺崎。移り変わったいじめの対象。秋月のいないクラス。


 あの事件から数日経って、変わったのはそれだけだった。


 俺にとってこれといって興味を持てない日常。


 だけどそれは、言ってしまえばどこまでもいつも通りでしかなかった。


 全部を諦めてしまった俺にとって――周りが変わろうが知ったことではない。


 そう、たとえ俺の隣りに秋月がいなくても――そんなことは変化じゃないんだ。


 戻っただけだ。


 少し前に。目的もなく目標もなく、死んでないから生きているだけの、石ころのような俺に。


 ――あの日、プールの事件から俺は秋月と会っていなかった。


 病院に運ばれた秋月は脳の検査で入院することになったらしい。見舞いに行った五月女にそう教えてもらった。


 何でも栄養失調やその他もろもろ身体に異常があったらしい、というのは彼女の言だ。病院側も五月女が子供だから詳しい内容は伏せたんだろう。


 例えばそう、秋月の身体に残る虐待の跡とか。


『姫乃ちゃん、峰岸君に会いたがってたよ?』


 今朝、クラスの前で俺を待っていた五月女の言葉に、俺は何も返せなかった。


 ……何を言えばいいか、分からなかったから。


 今さら、何を言えってんだよ。


 秋月があんな目にあったのは、俺のせいだ。


 俺が、あいつを一人にしたから。


 俺が、無駄に思考してあいつをすぐに病院に連れていかなかったから。


 俺が、あいつに『人は変われる』なんて詭弁を言って、下手に寺崎を煽ってしまったから。


 俺が、あいつに出会ってしまったから――だから、あいつはこんな目にあった。


 全部、俺のせいだ。


「……そんな俺が、どの面下げてあいつに会えるってんだよ……」


 俺が何もしなければ、あいつは今もいじめられていたかもしれない。だけど、それでも死にかけるようなあんな事態にはならなかったはずだ。


 俺みてぇなゴミ野郎が一緒だったから、あいつは死にかけたんだ。


 誰よりも劣っていると知っているくせに。


 何もかも諦めちまったクセに。


 それでも、俺でも何か出来るんじゃないかと希望を抱いて、そんなクソみてぇな俺の考えのせいで、秋月は生死の境を彷徨っちまった。


 なら、俺はあいつの傍にいない方がいい。


 幸い、病院には運ばれたんだ。なら身体のことも十分調べられているはずだ。腐っても公共機関。秋月の状態を放置するなんざありゃしないだろう。親は容疑を否認するだろうがあの家を見りゃ家庭環境に問題があるのは明白だ。秋月が証言すれば親に逃げ口はありゃしない。


 その後の秋月はどうなるのか――一瞬考えて、俺は首を振る。


 俺には、関係ないことだ。


 俺が、関わることじゃない。


 もう、いいんだ。


 もう、俺は何もするべきじゃない……そう、思っているのに。


 どうして俺は、ここにいるんだ?


 五月女から半ば無理矢理受け取らされたメモ紙。『305号室』と書かれたそれを持って、どうして秋月が入院するこの病院に、来ちまってるんだ?


 病院のロビー。ソファが並ぶそこに座りながら、俺はてめぇのクソみてぇな行動に自嘲して首を振った。


 ……なんだよ、まだ俺に何か出来ると、そう思ってんのか?


 出来るわけ、ねぇだろうが。


 俺みたいなクソ野郎に、秋月を助けられるとか、本気で思ってんのか?


 まだそんなゴミみてぇな幻想抱いてんのかよ?


 ……馬鹿じゃねぇの?


 いい加減、諦めろよ。


 俺の唯一の特技だろ?


 認めろよ? 俺には何も出来ないって。


 諦めろよ? いつもみたいに全部をさ。


 なぁ、そうだろ……そう、だろ?


 なのに、何でまだ立とうとするんだよ?


 メモ紙を見て、どうするつもりなんだよ?


 俺に、何ができるっていうんだよ?


 ――俺が勝手なことをしたから、秋月は死にかけたんだぞ?


 立ち上がりかけた足が、竦んだように震えた。


 そうだ、俺が、俺があいつと一緒にいたから秋月はあんな目にあった。


 だったら、あいつの傍にいない方がいい。


 俺みたいなクソ野郎がいたんじゃ、秋月が不幸になる。


 ――俺に出来ることなんて、何もないんだから。


 俺は、そう自分に『いい訳』して、小さく自嘲すると、病院の出口に向かった。


 そう、このまま出てしまえばいい。今日ここに来たのは単なる気の迷いだ。夏だからな、暑さで頭がぼやけていたんだろう。


 そう、ここを出ればもうきっと、俺はここに来ることはないだろう。


 そんな気がした。


 それでいいと、そう思った。


 ――心のどこかで、本当にそれでいいのか? と何かが問いかけた。


 俺は答えを濁して、出口の自動ドアを潜りかけ――止まる足。


 え……?


 思わず、振り返る。


 なぜ? それは、今俺の隣りを通り過ぎ、病院の中に入って行ったやつに、見覚えがあったから。


 今は背中しか見えないが、派手な服にキツイ香水の匂い。そして成人した身体がそこにはあって――その全てがあいつと重ならないのに。


 一瞬見えた化粧の濃い横顔は、どこか秋月に似ていた。


 名前も知らないその女は、乱暴な足取りで受け付けに行くと、肘をついて不機嫌を隠すことなくキンキンと高い声で当たり散らすようにナースに言った。


「ここに秋月姫乃っているでしょ? 病室どこよ?」

「えっと、本日はお見舞いですか?」

「はぁ? こんな場所にそれ以外に何しに来いってんのよ? 馬鹿じゃない?」


 その後、ほとんど罵倒のような言葉をナースに送ったその女は「ふん」と鼻を鳴らすとエレベータのほうに向かった。


 たぶん、ここが最後の分岐点だ。


 俺はそう思う。


 もしここで俺があの女を追えば、きっと俺はまた、秋月に関わることになる。


 逆にこのまま病院を出れば、もうきっと、秋月に会うことはないだろう。


 そんな気がした。


 じゃあ、俺はどっちを選ぶ?


 病院の出口で立ち止まる俺。横を通り過ぎていく人たちが迷惑そうに俺を見ていた。


 俺に、何が出来るってんだよ。


 ぎゅっと、拳を握る。


 何も出来ないくせに、下手なことして、あいつを殺しかけたのは俺じゃねぇか。


 だったら、だったら、もう答えは出てんじゃなねぇかよ。


 なのに、なのにどうして――俺は、走り出してしまってる?


 俺に出来ることなんて何もないことを知っているくせに。


 俺のせいであいつが苦しんだのを、理解しているくせに。


 なのにどうして、俺はあの女を追い掛けてんだよ?


 エレベーターの扉は既に閉じられていた。他のモノもすぐに降りてくる気配がなく、俺は脇にある階段を見つけると駆け上がるように上って行く。


 まだ、答えは出ていないくせに。


 迷っているくせに。


 だけど迷っているのは――諦め切れてない証拠だった。


 気持ち悪い――あぁ、そうさ。


 本当にそう思う。


 俺はまだ、諦め切れてなかったんだ。


 何もかも諦めちまったクセに、自分のことだってどうでもいいと、心の底から思えてしまうのに。


 それでも俺は、俺にだって――許せないモノがある。


 たった一つ、こんな腐ったゴミ野郎の俺の中に残る矜持。


 俺は、子供が不幸になるのが絶対に許せないんだ。


 秋月が、あのお人好しで涙もろい、だけど優しくて強いあいつが不幸になるのが、許せないんだ。許したくないんだ。


 勝手な持論だ。一笑に付される考えだ。


 そんなこと分かってるし、クソみたいな考えだと俺が一番自覚してる。


 それでも、迷っていても、まだ答えが出てなくても、その考えだけは捨てられないと、分かっているから。


 俺は追い掛けた。休むことなく階段を上って、足が引っ掛かり脛を打つ。軽く血が出るが気にする余裕がなかった。


 息を切らせて階段を上り終え、3階に着いた。だけど305号室がどこか分からない。広い病院だ。やみくもに探しても時間だけがかかる。


 俺はすぐ近くにいた看護師に声を掛けた。


「はぁ、はぁ――っ! さ、305号室は、どこですか!?」


 焦りのせいで語気が荒くなってしまう。


 名前も知らない看護師は少しだけ目を丸くすると、


「キミ、ひめのんの友達?」

「――はい、そうです」


 一瞬誰のことか分からなかったけど、秋月のあだ名だろう。


 だったらこいつは秋月の担当の看護師か何かか。だけど今はそんなことどうでもいい。


「教えてください! 急いでいるんです!」

「お、落ち着いて! 面会時間はまだあるし、それにキミ脛から血が――」

「いいからさっさと教えろよ!」


 思わず、襟を掴んで詰め寄ってしまう。小学生の身体だ。それでも下から見上げるような形だが、俺の形相は酷いことになっているらしい。目を白黒させた看護師は混乱したように「真っ直ぐ行って右に曲がれば分かるわ」と言った。


 俺はすぐに駆けだそうとそいつから手を離し、走り出した。


 言われた通りに行けば右側に病室がある廊下に出る。左から『301』『302』と続いているのでこの先に秋月の病室があるはずだ。


 そしてそれはすぐに見えた。遠目に『305』というプレートが見える。扉は開いていた。俺はすぐにでも飛び込もうとして――


「あんたってやつはホントに迷惑しか掛けないわね!」


 その罵倒に、足が止まった。


 さっきの女の声だ。俺は心臓が異常に速く動いているのを必死に抑え込み、病室を盗み見た。


 どうやら、個室らしい。それなりに広い室内には、ベッドと、そこで上体を起こす秋月の姿があった。そんなあいつの前で、不機嫌を隠すことなく立つ、あの女も。


「まったく、どうしてくれんの? 病院だってただじゃないのよ? あんたのせいで私のお金が無駄に使われるじゃない」


 ……それが、見舞いに来たやつが言うことかよ……!


 怒りで、拳を握りしめる。


 俺は咄嗟に部屋に乗り込み掛け――


「その上あんたの汚い身体のせいで警察にも呼ばれるし、散々よ」


 ――え?


 部屋に入りかけた俺の身体が、思わず止まった。


 なんだ……?


 なんだよ、その言い方は?


 その――呼ばれた『だけ』みたいな言い方は。


 だけど、女がそんな俺の疑問に答えることは当然なくて。


 俺が見る先で、秋月は不器用な笑みを浮かべていた。俺はそれを知っている。アレは、あいつが学校に転校してきた当初浮かべていた、戸惑いの顔だ。


 きっと、耳が聞こえないのに何かを言っているあの女にどうしていいか分からないんだ。


 そして、その顔が気にいらなかったんだろう。


「何よその顔は!」


 女はヒステリーを起したように、秋月に手を上げた。


 そしてそこが、俺の我慢の限界だった。


 俺は、壁を殴り付ける。子供の身体だ。壊れることは当然なかったが、しかし無視できないほど低い衝撃音が、部屋に響いた。


 女が、焦ったように振り返る。だがそれも一瞬だ。俺が子供だと理解した瞬間、女はあからさまな侮蔑と、多少の怪訝を俺に向けて来た。


「誰よあんた? ここに何しに来た訳?」

「見舞いだよ。友達のな」


 俺の言葉に、女はつまらなそうに鼻を鳴らす。


「そ。じゃあちょっとあっち行っててくれる? 今家族の大事な話をしてるの」


 大事な話? 聞いて呆れる。


「金の話に罵詈雑言。その上ムカついて手を上げることのどこが家族の話だよ?」

「最近の子供は甘やかされてるのね。子供がいけないことをしたら叩いてでも正すのが親の務めよ」

「その考え自体には肯定してやる」


 だけどな――


 俺は隠すことなく敵意を向けた。


「火の着いた煙草を押し当てんのは、しつけって言わねぇんだよ」


 女は、ぎょっと驚いたように目を見開き、次いで秋月の方を見て、それから嘲りを浮かべる。


「ふ~ん。最近の小学生は進んでるのねぇ。こんな汚い身体だって抱きたいと思うなん――」

「黙れよ」


 ゴミみたいな言葉、聞く価値もない。


「クソみてぇな勘違いしてんじゃねぇよ、ババア。皆が皆、異性を見たら抱きてぇって考えるサルじゃねぇんだよ。ノータリンなてめぇには分からねぇかもしれないけどな」

「――なん、ですって!?」


 女の沸点は低かったようだ。


 俺の、それこそガキみたいな悪口で、その化粧の濃い顔を歪め、俺に手を振り上げる。


 今まで俺と女をどうしていいのか分からず見ているだけだった秋月が止めようと動くが、間に合うはずがない。


 俺の頬を、女が打った。


 女とは言え大人の身体だ。力もあり、口元が切れた。


 それでも俺は、視線を曲げない。


 ただ無表情に、事実だけを告げる。


「――もし今、俺が大人を呼んだらどうなると思う?」

「――! あんた!」


 察したようだ。俺は口元の血を拭うと顎で出口を差した。


「さっさとここから出て行けよ。お前みたいなババアがここにいる資格、ありゃしないんだ」


 それは、俺にも言えることだが。


 女は怒りに顔を赤くするが、それでもこれ以上何もすることなく部屋から出て行った。すぐそこで「邪魔よ!」と誰かを押しのけるような言葉を残して。


 そして残されるのは、俺と秋月だけ。


 久しぶりに見た秋月は、変わっていなかった。当然か。多少顔色が良くなっているような気がするが、一週間程度会わないだけで人が変わるはずもない。


 だから、こいつはいつものように俺に微笑みを向けてくる。


 そんな顔、俺に向ける必要ないのに。


 俺のせいで、こいつは死にかけたんだ。


 そう分かっているから、俺は何も言わず、この部屋から出ようとして、そんな俺に焦ったように秋月がベッドから降りようとする。けど、体勢が悪く足も引っ掛かったんだろう。秋月は降りるというよりベッドから落ちかけて――そんな秋月を、俺は咄嗟に支えていた。


 相変わらずの、軽い身体。


 そして間近で見る、嬉しそうな顔。


 俺はそんなこいつの顔を、真っ直ぐに見ることが出来なかった。


 秋月を改めてベッドに寝かせると、俺は今度こそ背を向けた。逃げようとしたんだ。秋月を殺しかけた自分から。


 だけど、また。


 あの時と同じ、俺の手を握る、小さな手。


 見るまでもなかった。


 理由も、何となく分かった。


 振り返り、俺の手を握る秋月を見る。長いとは言えない、だけど短くもない時間を一緒に過ごした俺には、言葉にするまでもなくこいつの言いたいことが分かった。


 その不安そうな顔が告げる想いも。


『行かないで』

『独りにしないで』


「……」


俺は、てめぇに問いかける。


俺の身勝手な後悔と、秋月のお願い。どっちが大切だ?


 んなもん、答えを出すまでもない。


 俺は不器用ながらに笑うと、部屋にあったパイプ椅子に腰かけた。それだけで、秋月の表情が目に見えて綻ぶ。


 そして、俺たちは久しぶりに話した。


 俺からの問いかけは最低限だ。身体の方は大丈夫なのか。病院でいじめられてないか。聞いてみたが秋月はそのどちらも大丈夫と笑顔で伝えた。


 それから、今度は秋月が多くのことをメモ紙で語ってくれた。


 毎日3回ご飯が食べれること。デザートも出ること。


 お風呂に入れること。毎日着替えること。


 仲良くなった看護師。お姉さんみたいだと、楽しそうに。


 ――当たり前のことを、本当に嬉しそうに、俺に教えてくれた。


 俺は、それを全部笑顔で聞いた。


 笑顔だったと、自分では思う。


 秋月の見えない位置で、拳を握り締めて。


 どれほど、そうしていたんだろう。


「楽しそうな所悪いんだけど、そろそろ面会時間が終わるわよ~」


 振り返れば、入口に一人の看護師がいた。さっき俺が詰め寄ってしまったあの人だ。俺は少しばかり驚いた反応をするが相手方は特に気にしていないようで、見ていて気持ち良くなる笑顔を向けてくる。


 看護師は部屋に入ってくるとナース服のポケットからメモ紙を出して、


『ごめんね、ひめのん。もう時間なの』

『うん、優陽さん』


 この人が件の看護師らしい。


 目の前で楽しそうに筆談する秋月に、俺はそっと安堵の息を吐く。


 こいつに優しく接してくれる人がいる。それだけでも、十分安心出来るから。


 俺は椅子を片すと、荷物をまとめた。それから、秋月に向かって、


『じゃあ、今日は帰るな』

「……」


 秋月は、答えない。


 だけど、表情で告げていた。


 泣きそうな、だけどそんな顔を必死に隠そうとする、そんな顔。


 ……これも、俺のせいなんだろうな。


 一週間も顔を出さなかったんだ。これは多分でしかない妄想だけど、秋月はきっとすぐに俺が見舞いに来てくれるんだと、そう思ってくれていたんだと思う。


 そんな、俺にだって出来ることをしなかった俺。


 ……本気でバカ野郎だ。


 俺は、秋月の頭に手を乗せた。


『明日も来る』

「……」

『本当?』


 俺は、頷いた。


『俺がお前に、嘘ついたことがあるか?』


 秋月は、首を振る。


 そんなこいつの頭を撫でて、


『じゃあ、大丈夫だよな?』

『うん!』


 秋月は、笑って頷いた。嬉しそうなその笑顔に、俺は心から笑顔を浮かべることが出来なかった。


 それから、部屋を出る。秋月は最後まで手を振っていた。


 どうやら看護師も下に向かうらしい。意図せず並ぶ形になったことで俺はさっきこのことを謝った。


「さっきはすみません。少し動揺していて」

「……意外と素直なのね?」


 まぁ、あの後だったらそう思われても仕方ないかもしれない。


 看護師は気持ちよく笑うと、


「気にしてないわ。こう見えてもちゃんと大人してるから」


 子供の癇癪くらい笑って受け流せるってか。とはいえ、だからといって後味の悪さは消えてくれない。


「そう言ってもらえると助かるんですが……」

「……随分と、対応が違うのね」


 小声でぼそりと呟かれた言葉。


 何のことだ……?


 俺は問いかけようとして、先手を持っていかれる。


「じゃあこうしましょう。私が許したって言っても素直に頷けないみたいだし、下に着くまで私の話し相手を務めるってことで」

「……看護師さんがそれでいいなら」


 意図が読めず、流されているような感じだ。


 ……いや、ただの勘違いだろう。そんなマンガのような駆け引きがある訳ない、とは言わないが俺とこの看護師の間で起こる理由がない。


 看護師は「素直でよろしい」と笑って、


「まぁ何となく分かっていると思うんだけど、私、ひめのんの担当なの。日野優陽よ」

「優陽……?」

「そう。優しい陽でユウヒ。それがどうかした?」

「いえ、別に」


 ただちょっと、俺の数少ない大切なやつの名前と一緒だったから驚いただけだ。


「俺は――」

「峰岸ハジメ君?」

「……秋月から聞いたんですか?」


 俺と看護師の接点はそれくらいだ。看護師は頷く。


「ひめのんと、あーちゃんにね」

「あーちゃん? ……あぁ、五月女」


 梓だから、あーちゃんか。


 秋月と違っていつも名字で呼んでいたから、一瞬誰か分からなかった。


「そう。あーちゃんもそうだけど、一番はやっぱりひめのんからね。話すたびいっつもキミの名前が出てくるからつい覚えちゃったの」

「そうですか」

「ちなみにハジメ君。漢字はどう書くの?」

「漢数字の一ですよ」

「じゃあ『いっちー』ね! 私のことは親しみを込めて優陽さんでいいわよ」

「分かりました。日野さん」

「あれー?」


 ……随分と明るいやつだ。


 少しばかり苦手なタイプだが、この明るさは俺に真似できない所がある。秋月にとって一緒にいて楽しい存在になってくれてるんだろう。


 エレベーターが程度よく止まっていなくて、俺たちは階段を使って降りていく。


 その間も、ずっと日野看護師は喋っていた。その内容は主に秋月のことだが、時たま旦那の話も混じって苦笑を禁じ得ない所もある。だが、聞いていて疲れないのは話し方の違いだろう。素直にそこはすごいと思った。


 日野の声のトーンが変わったのは、一階についた時だった。


「それにしても、ひめのんのあんな顔、初めて見たわ」


 ……あんな顔?


 思い当たる節がなく眉を寄せれば、日野は少し寂しそうに笑った。


「キミに向けた笑顔だよ、いっちー」

「……」

「キミは気付いていないかもしれないけど、私やあーちゃんに向けられるひめのんの笑顔とキミへのそれは全然違うんだよ?」


「もちろんひめのんが差別してるわけじゃないけど」と付け足して、


「それでも、やっぱり違うんだよね。何て言うのかな、あれって。まるで本当に心のそこから信じてる、そんな人に向ける笑顔って言うのかな」

「……」


 俺は、どう答えればいいのか分からなかった。


 だから、黙って日野の次の言葉を待つ。明るいこの人のことだ。すぐにでもまた話しだすだろう。


 そう思ったけど、俺の考えに反して日野は何か迷うように考えていた。


 真剣な顔だと、そう思った。


 それから、


「ねぇ、ハジメ君――DVって知ってる?」

「――!」


 あまりに意外過ぎる問いに、思わず顔を強張らせてしまう。


 そしてそんな俺の反応を、肯定と取ったようだ。日野は今までと打って変わって真剣な面持ちで俺に向かった。


「あーちゃんにも聞いてみたけど、随分と反応が違うね」

「……何が言いたいんですか?」

「キミ、知ってるんでしょ? あのこと」


 ぼやかした言い方だった。


 それが逆に、真実味をもたらしていた。


 俺の無言の肯定を受け取り、日野は告げる。


「単刀直入に言うわ、ハジメ君」


 それから先の言葉を、俺は受け入れられなかった。


 何だかんだで、俺は安心していたんだ。あんな事件の結果とはいえ病院に秋月を連れていけたことを。医師が見ればあの痕が虐待のそれと分かる。だから後は大人に任せられると。


 だから、なぁ、嘘だって言ってくれよ。


 冗談だと、笑い飛ばしてくれよ。


 そんな真剣な顔で、言うなよ……




「このままじゃ姫乃ちゃんは、あの親から解放されないわ」




「嘘、だろ……?」


 自分の声が、やけに他人事のように聞こえた。


「ここでする話じゃないわよね。今日は私、もう終わりなんだけど、ハジメ君の方は今から時間、大丈夫?」


 俺が頷くと日野は表で待つよう俺に告げ、ナースステーションの中に入って行った。それから少し待って、ラフな格好で出てくる。


「すぐそこに喫茶店があるの。そこで話しましょう」

「……」


 俺は、無言で頷いた。


 正直、混乱している。


 どうして日野がそんなことを知っているのか。


 そもそもどうして俺に話すのか。


 こいつが言っているのは本当なのか。


 多くの疑問が湧くが、それらのどれにも答えが出ない。


 何より――こいつを、信じていいのか?


 喫茶店に入った俺たちは、角のテーブルに腰かけた。この町にしては洒落た喫茶店だ。中の人は思いの外少ない。BGMもそれなりに響いていて、素人考えだが普通に話す分には誰かに聞かれる恐れが少なそうだった。


 日野は注文を聞きに来たウェイトレスにコーヒーを二つ頼む。


 数分もせず、品が届いた。日野は一口それを飲む。俺は飲まない。そんな俺に目を細めてから、看護師は言った。


「まず確認なんだけど、ハジメ君。キミはあの子の身体のこと、知ってるわよね?」


 問う形だが、その言葉には確信の色が見て取れた。


 ……ここでしらを切っても意味がない。


 頷けば、日野が続ける。


「私も知ってるわ。あの子の担当は私だし、看た医者は私の旦那だから」

「……だったら、何ですか、さっきの台詞は」


 秋月が親から解放されないという、アレは。


 冗談にしては笑えないそれ。まだ知りあって一時間も経っていないがこの女がそんなつまらない嘘を吐くようには思えなかった。


「病院でアレが見つかれば警察とかそういった機関に連絡するはずです。あなた達がそれを怠ったとは考えられませんけど?」

「えぇ、きちんと連絡したわ」

「じゃあ、何で。秋月の身体のアレは、どこから見ても虐待のそれだ。その上あんなクソみたいなゴミ屋敷に放られてる。虐待の証拠なんざ数えきれないほどあるはずだ」

「……それも知ってるわ。私も見たから」

「じゃあ何で――」

「ハジメ君」


 俺の言葉を遮るように、日野が言う。


「暴力事件があったとするわ。私は第三者としてそれを見ました。当然私は警察に言います。だけど特に誰かが捕まるとか、そういう話にはならなかった。さて、それはどうして?」

「……生憎と、なぞなぞに付き合っている暇は」

「いいから」


 日野の真っ直ぐな視線に、俺は訝しみながらも考えた。


 仮に本当にそんな事件があったとして、容疑者は確実に否認するはずだ。暴力を振るうやつが『私が犯人ですごめんなさい』と自首すると思うほど俺は能天気ではない。だけどどんなに容疑者がそう言った所で被害者が証言すれば――え?


 俺の脳裏に、最低の妄想が生まれた。


 何だ、なんだよ……?


 だけど、なぁ、嘘だろう?


 そんなこと、ある訳が……そう思うのに、俺の頭の中には夕方見た、あの女の態度がよぎる。


 あの、警察に呼ばれた『だけ』と言わんばかりの態度。


 だけど、ありえない。


 だって、そうだろう? あいつが、あの女を庇う理由なんて、理由なんて……


 思い出すのは、五月女の言葉。


『それでも、お父さんだから』


 気付けば、テーブルを殴りつけていた。


 何人かがこちらを見るが、気にしている余裕がない。


「……嘘、だろ……?」

「……私も、そう思いたかったわ」


 沈痛な日野の面持ちが、俺の推測を肯定していた。


 この、クソみたいな考えを。


「秋月が、違うって言ってんのか?」

「……」


 日野は、答えなかった。


 だけどそれは、どこまでも肯定でしかない。


 けど、いや、でも……


「……いくら秋月が否定したって、あの痕は誰がどう見たって……」

「青痣は階段から落ちた。煙草の跡は以前住んでいた所で虐められた痕ってことらしいわ」


 見え見えの嘘だ。だけど、それを証明出来るやつがいない。


 唯一、秋月を除いて。


「虐待としつけの違いって、基本的には証言に依存するの。親とか、子供とか、後はご近所さんのね。今回の場合親は虐待じゃなくしつけって言っているわ。近所の話も最近こっちに引っ越してきたばかりだからまともな証言がないの。だから一番重要な証言は姫乃ちゃんのモノになるんだけど……」


 その秋月が、親の虐待を否認している。


 だから、裁けないと?


 間違ったことを、間違ったままにすることしか出来ないと?


 そんなこと……


「んなこと、あっていいはずねぇだろ……!」


 怒りのままに、言葉にするけど、だけど、どうしろっていうんだ……?


 仮に、仮に日野の言うことが全て事実として、俺に何が出来る……? こんな無能の俺に、いったい何が出来るって言うんだよ……


「えぇ、私もそう思うわ」


 日野の言葉に、いつしか俯いてしまっていた顔を上げる。


「たぶん、このままだと姫乃ちゃんは退院してすぐ、あの親と引っ越すことになると思う。あの母親はどういう訳か分からないけど金だけはあるみたいでいい歳して男をとっかえひっかえして遊び回っているらしいの。あのゴミ屋敷も今相手してる男の名義らしいからやろうと思えば今日にでもトンズラ出来るってわけ」


 言葉は軽いが、その表情には明確な怒りが見て取れた。


 たぶん、こいつは本当に心の底から、秋月を想い、だからこそ許せないんだ。


 このクソみたいな理不尽が。


「だけど、私はそれが許せない。あの親がどんな生き方をしようと知ったことじゃないけど、それで姫乃ちゃんが苦しむ何て絶対に間違ってると、私は思うから」


 そう言って、日野は俺を真っ直ぐに見詰めた。


 久しぶりに見る、大人の真っ直ぐな瞳。


「だから、峰岸ハジメ君。私に力を貸してほしいの」

「……」


 俺は、すぐに答えることが出来なかった。


 明確に何をやるか分からないから、それ以前になぜそれを、見た目だけは子供の俺に言うのか、理由が見えてこなかったから。


 だけどそれ以上に、


「――どうして」

「うん?」

「どうして、秋月のために何かしようとするんだ?」


 分からなかった。


 この女と秋月は、まだ出会って一週間程度の関係でしかないはずだ。


 そんな人間が、無償で子供を助けたいと言っている。


 ――信じられなかった。信じることが、出来なかった。


 そんな俺の考えを察したのだろう。日野は少しだけ寂しげに笑った。その笑みが誰に向けたモノなのか、俺には分からなかった。


 それから、すぐに表情を引き締めて、


「姫乃ちゃんは本当はもう退院していいの。だけどさっき言った通り退院したらすぐ母親に連れていかれそうだから私と旦那がちょっと細工して入院させているわ」

「……!」

「私がペラペラ喋った母親の情報も警察官の兄から仕入れたモノよ。思いっきり個人情報保護法に違反しているわね」


 苦笑混じりに、まるでどうでもいいことを言うように告げているが、それはれっきとした犯罪だ。


 思わず目を見開く俺に、日野は言う。


「あなたがこれを警察とかに言えば私は、ううん、私も旦那も兄貴もただじゃ済まないわね」

「……」


 それほどに、こいつは本気ということだ。


 自分の全部を賭けているんだ。


 だけど、だからこそ分からない。


 何でこいつは、秋月のためにそこまでするんだ?


「苦しんでいる人を見つけて、もし自分に何か出来るなら、私はそれをしないと気が済まないの」


 俺の考え読んだように、日野は語る。


「私のお父さんは優しい人でね、月に数回しか会えなかったけど凄く私や兄貴、弟のことを大切にしてくれていたの」

「……」

「お母さんから聞いた話だけど、お父さんは親のせいで凄く大変なことになってて、凄く苦しんでるんだって。だからだと思う。お父さんは一度もそんなこと、私たちに言わなかったけど、『大人の理不尽で不幸になる子供が許せない』から、私たちを凄く可愛がってくれたわ」


「だけど」という言葉と共に告げられた事実に俺は目を見開いた。


「そんなお父さんは、見ず知らずの子供を助けるために死んじゃったの」

「……!」

「正直、凄く悲しかったわ。私も兄貴も弟も、お父さんのこと大好きだったから。だけど、子供の頃は悲しくて辛かったけど、今は心から尊敬してるの。死んじゃったのは許せないけど、それでもお父さんは誰かの命を守った凄い人だって」


「私が看護師をやってるのも、それが理由」と日野は小さく笑う。


「詭弁だし理想論だって分かってるけど、私も兄貴も弟も、お父さんみたいに誰かの役に立てる人間になりたいの。目の前で不幸になる人から目を背ける人間になりたくないの」

「……それが、あんたの理由か」

「身勝手で図々しい理由よね? 小さな親切大きなお世話って言う諺が凄く似合うと思うわ」


 そんな風に言うけど、たぶんこいつは心の底からそう思っているんだと、俺は思った。


 俺は、真っ直ぐにこちらを見る日野の瞳を見返す。


「理由は分かった。ある程度信用もする」


 それでも、すぐに頷くことは出来ない。


 もう一つ、分からないことがあったから。


 どうして、


「どうして、それを俺に話すんだ?」

「……」

「俺は、見たとおりガキだ。まともな社会的地位もないし秋月とはクラスメイトだけどそれだけでしかない。そんな俺が何を言ったって秋月を助けることは出来ないはずだ」

「……随分と自分を下に見るのね」

「ただの事実だ」

「それでもキミは、姫乃ちゃんを助けたいんでしょ?」


 思いがけない言葉に、俺は目を見開く。


「この一週間姫乃ちゃんと接して、キミのことはそれこそあの子自身のことより聞いたわ。『いじめられていた私を助けてくれた』って」

「……俺が助けた訳じゃない。秋月が自分で変わった結果だ」

「それはキミの考え。謙遜もいいけど姫乃ちゃんの感謝を無下にするのはいただけないわ」

「……気を付ける」


 これ以上問答しても平行線でしかないような気がして俺はとりあえず頷いた。


「話を聞いただけだと、子供が好きな子に良い格好したくて頑張ってるだけかなって思ったんだけど、姫乃ちゃんや梓ちゃんの口ぶりだとキミはそんな性格じゃなさそうだし、何より今日、キミに会って、こうやって話して、キミは心の底から姫乃ちゃんを大切にしてるんだとそう思ったわ」

「それこそ『好きな子に良い格好したくて頑張ってるだけ』って思われても仕方ないと思うぞ?」

「それだけの子供じゃあの親にあれだけ真っ向から向かっていけないわよ」

「……見てたのか」

「止める前にキミが何とかしちゃったけどね」


 どうやらあの女の『邪魔よ!』の相手は日野だったらしい。


「それに、今もそうだけどキミは姫乃ちゃんの現状に心の底から怒ってくれている。これでも人を見る目はあるつもり。そんなキミだから、手伝って欲しいの」

「……仮に俺に何か出来ることがあったとして、どうして俺なんだ? 俺なんかに出来ることなら、それこそ誰だって出来るだろうに」

「……私じゃ、ダメなのよ」


 俺の言葉に、初めて日野は俯いた。


 悔しそうに、唇を噛んで。


「姫乃ちゃんはたぶん、私のことをそれなりに信じてくれてると思う。だけど、心の底から信じ切れてないの。仕方ないわよね。あんな目にあってるんだもの。人を信じろっていうほうが酷な話だわ」

「……」

「でも、キミに対しては違う。キミの話をしている時の姫乃ちゃんは凄く幸せそうで、キミと話している時の姫乃ちゃんは凄く楽しそうだったわ。私や梓ちゃんが帰る時、姫乃ちゃんは寂しそうな顔をするけど、でも我慢して引き止めるようなことはしなかった。でもキミに対してはした。それくらい、姫乃ちゃんはキミを信じてるの」

「……」

「本当は、子供のキミを巻き込みたくない。これはもう大人の問題だもの。でも、それでも、そう分かってるけど、どうしようもないの。私じゃ、ダメなの。梓ちゃんでも無理なの。姫乃ちゃんを助けられるのは、キミしかいないの……! だから」


 日野は、頭を下げた。


 お願い、力を貸してと、俺に。


 子供に対してだというのに、それでも、心の底から言葉を尽くして。


 自分に出来ることを、全てして。


 そんな彼女に、俺は、


「顔を上げてくれ、日野さん」


 言われた通りにする日野に、俺は言う。


「あんたの気持は分かった。本気なのも伝わった。だけどそれでも――俺はあんたを信じられない」


 俺の言葉に、日野は目を見開く。


 本当は、嘘をつくべきだったかもしれない。あなたのことを信じます。だから手伝わせてくださいと。


 だけど、それではダメな気がした。


 本気の想いに、建前でも嘘をついてはいけないと。


「俺は、あんたが思っているほど凄いやつじゃない。人を信じることなんざ出来ないし、誰かを助けられるほど万能の人間でもない。いてもいなくても同じ、石ころみたいなクソ野郎なんだよ」

「……」

「だけどそれでも――あぁ、俺はあんたの言った通り、秋月に助かって欲しい。助かって欲しいさ。だけど――俺に何かをする権利があるのか? 俺が下手をしたから、秋月は死にかけた。言っちまえばあいつを殺しかけたのは俺なんだ。そんな俺が、これ以上秋月に何をしてやれるって言うんだよ……」

「それは、キミのせいじゃ――」

「俺のせいだよ!」


 間違ってはいけない。そこだけは違えるわけにはいかない。


 アレは、誰が何と言おうと俺のせいだ。


 そう、分かっているのに……


「それでも! そう分かっていても、俺が何をやっても無能のカスだって理解しても、それでも……諦めきれないんだ……! あいつのことだけは、秋月のことだけは……!」

「ハジメ君……」


 言葉は、互いに続かなくて。


 俺は、立ちあがった。ここまで教えてもらった礼として頭を下げると、喫茶店から出ていく。


 去り際に、一言。


「少し、考えさせてくれ……」


 聞こえたか聞こえなかったか、分からないほどの言葉。


 諦め切れていない、未練がましい俺のクソみたいな想い。


 俺は、俺に問いかける。


 俺は、どうしたらいい?


 誰も、答えを教えてはくれなかった。


 ただただ、無為に、時間だけが過ぎていく。


 日野は、小細工をして秋月の入院期間を長くしていると言った。だがそれも長くは続かないはずだ。脳の検査や他もろもろである程度時間は稼げるだろうけど、それでもあまり長くさせ過ぎれば不信を抱かれる。


 残っている時間はほとんどない。


 俺にも。


 秋月にも。


 家に着いた。ベッドに横たわり、考える。


 薄暗い室内。何もない天井だけ見ても、分かることなど一つもなかった。


 諦めちまえよ。


 俺のクソみたいな心が言う。


 いつもみたいに諦めちまえばいい。


 秋月は俺に関係のない人間だ。


 クラスメイトでしかない。


 そもそも俺が助ける理由なんてないし――何より俺が誰かを助けられるヒーローか?


 気取ってんじゃねえよ。


 夢抱いてんじゃねぇよ。


 そう思う。


 心の底から。


 だけど――なぁ、何でだ。


 いつも何でも諦めちまってるくせに。


 俺がこの世の誰よりも劣っていると知っているくせに。


 諦めていい理由なんて、それこそたくさんあるのに。


 ――どうして、秋月のこと諦めきれない?


 初めて会った、あいつの顔を思い出す。


 半泣き状態の情けないアレ。その後の、嬉しそうな笑顔。


 俯いた顔。いじめられて泣きそうな顔。俺が礼を言ったら笑った秋月。


 補聴器を探す俺に驚いた顔。見つけた時の嬉しそうな表情。ありがとうと告げるあのメモ。悲しさに震えた小さな身体。


 寺崎に立ち向かった強い背中。へっちゃらと強がった笑顔。我慢出来す泣きだした涙。


 友達が出来て嬉しそうだったあいつ。裏切られたと思って、それでも信じようとしたあいつの強さ。


 風邪で倒れたあの子の弱さ。一人で眠るのが恐いと伸ばされた小さな手。掴んだ温もり。


 ――失いかけたあいつの命。


 あまりにも、あまりにも……俺は、あいつを知り過ぎた。


 どうでもいいというには、あいつと一緒にいすぎた。


 諦めちまうには――俺はあいつを大切にし過ぎた。


 けど、だけど……俺は、あいつに言えるのか?


 日野が俺にやらせたいことは、何となく分かる。


 だけどそれは、あいつに親を見捨てろと宣告することなんだぞ?


 俺にとって親なんて邪魔でしかない存在だった。幸せを無自覚に主張してくる耐えがたい存在でしかなかった。


 だけどそれでも――親なんだよ。


 死んじまえって思ったこともある。


 殺してやりたいと憎んだこともある。


 だけど、それでも親なんだ。


 親、なんだよ……。


 俺は、秋月にそれを言えるのか?


 分からない。分からねぇよ。


 俺の苦悩を余所に、気付けば暗かった夜は明けて、朝日が昇っていた。


 一睡も出来ていなかったけど、眠る気にもなれなくて、俺は学校に向かう。


 早く来すぎたせいか、着いた教室にはまだ誰もいなかった。俺は席に鞄を置くと、一つの机に向かう。


 秋月の机。あいつはこの机に、何度か涙を零していたことがあった。


 あいつの泣き顔を、思い出す。


 子供の泣き顔ほど、見たくないモノはない。


 じゃあ、見えなければいいのか?


 あいつがこのまま退院して、この町から消えて、違う所で泣くのを、俺は見えないからといって気にすることなく生きていけるのか?


「……」


 ぎゅっと、拳を握る。


 だけど、怒りで握ったこの手は、誰に対してだ?


 俺は、誰に怒っている?


 答えは、出なかった。


 教室に誰かが入って来た。そいつは俺を見ると驚いて、それから気持ち悪いモノを見るような目を向けて来た。


 それくらい、俺の面は酷いことになっているらしい。


 それから、ただただ時間だけが過ぎていく。


 ガキどもの話し声。熱血担任教師の暑苦しい授業。その何もかもが煩わしかった。


 何より――


「あ、人殺しだ!」

「何で人殺しが学校に来てんだよ!?」

「ウザいよなー」

「死ねよお前」


 放課後の、ガキどものクソみたいな程度の低い悪口が、うるさかった。


 それは、俺に向けられたものではない。


 受けているのは――寺崎だ。


 あの日から、秋月の代わりに寺崎がいじめられるようになっていた。


 あの事件の翌日、寺崎は顔面に青痣を作って登校していた。その上で今までの傲慢ながら自信に溢れていた性格はなりを潜め、常に俯き、おどおどしたような態度を取っている。もともとあいつの性格を好きじゃなかったやつは多かったようで、すぐに寺崎はいじめの対象になった。


 人間は、楽しいことをやめられないから。


 いじめの味を知ったあいつらは、それをやめるということを欠片も考えていなかった。


 俺は、それを止めなかった。


 流石に自業自得だ。あいつがいじめられようが俺には関係ない。


 だから、これは止めようとかそんなんじゃねぇ。


 俺は、囲まれて悪口を言われる寺崎に近づいた。囲む一人を無造作に退かす。


 何人かが楽しみを邪魔されたことで睨みつけてくるが、それが俺だと分かった瞬間すぐに目を反らした。


 俺はそんなガキどもに目もくれず、


「おい寺崎、ちょっと付き合え」

「……」


 寺崎は、俺よりでかい図体を縮め、無言で立ちあがった。返事はないがついてくるようだ。俺はそのまま歩きだそうとして、ガキどもを振り返る。


 別に、寺崎がいじめられていたからではない。


 ただ単に、これは、やつ当たりだ。


 答えを出せない、ゴミみたいな俺の。


「説教するつもりはねぇし、どうでもいいけどな、お前ら。こいつを人殺しって言うならお前らもなんだよ」

『……!』

「こいつに付き合って秋月を溺れさせたやつも、見ていただけのやつも――止めなかったらいじめていたのと同じだろうが、バカどもが」


 吐き捨てるように、言う。


 ガキ相手に大人気ない。


 しんと静まり返る教室。俺は振り返ることなく歩きだした。


 学校を出て、あいつとの約束通り、病院に向かう。後ろを振り返ると、言われた通り寺崎がついて来ていた。


 こいつを呼んだものの、別に理由があった訳じゃない。あのガキどもの声が煩わしかったから手っ取り早くこいつをダシに好き勝手言った、ただそれだけだ。


 だから、俺は自分勝手と思いながらももう帰っていいと告げようとして、


「……俺、どうしたらいいんだ……?」


 その前に、ぼそりと、寺崎が言った。


 酷く落ち込んだ、覇気のない声だった。


「お、俺、あんなつもりじゃなかったんだ……あいつを殺すつもりなんて、なかったんだ……」

「……」

「俺、親がすげぇ厳しくてさ、何でも一番を取れって勉強とか格闘技やらされて、好きなこととかしたいこと、出来なくて……いつもイライラしてて……」

「……」

「そんな時、あいつが転校してきて、あのウジウジしてたやつ見てたら何か無性に苛ついて、試しにいじめてみたら、すげぇスカッとしたんだ……」


 俺は、何も言わなかった。


 今口を開けば、止められないような気がしたから。


「何やっても面白くなかったのに、あいつが泣きそうになるのが面白くて、泣いたらもっと面白くなって、それが当たり前になって……急にそれが取られてから、またむかむかしだして……」

「……」

「お前がいないからあの時、秋月を落としたんだ。プールに。あいつチビだから大プールのほうじゃ足がつかねぇんじゃねぇかって誰かが言って、じゃあ落としてみようぜって言ったら皆賛成して、落としてあいつがバタバタするのがすげぇ面白かった。けど、だけど……あんな風になるなんて、思ってなかったんだ……」


 ガキは、加減というモノを分かっていない。


 だからあんなことになったとこいつは言っている。


「お前がプールから引きだした時、全然動かなくなった秋月を見て、急に恐くなって……どうしていいか、分からなくなって……帰って親父に殴られた……何て事をしでかしたんだって……すげぇ、痛かった。その日の夜、死んだら痛くもないのかって考えて……ベッドの中で震えた。俺、人を殺そうとしたんだって……」

「……っ!」


 気付けば俺は、寺崎の胸ぐらを掴んでいた。


 言い訳じみた懺悔に、苛立ったんだと思う。


 そのまま殴りかかろうとして――死にかけた秋月を思い出した。


「……くそが……」


 吐き捨てるように呟いて、寺崎から手を離す。


 俺のこの怒りは、ただの責任転嫁でしかないから。


 少なくとも、あの時俺が倒れなければあんなことにならなかった。だから俺に、こいつを殴る資格はない。


 だけど、寺崎はそんな俺に納得できなかったようだ。


「なんで、だよ……何で、殴ってくれねぇんだよ……!」

「……俺がお前を殴って、何になる?」


 問いかけに、問い返す。


 寺崎が、ハッと気付いたように顔を上げた。


「そりゃ、お前は楽だろうさ。俺に殴られたら、怒りをぶつけられたら、どんな形であれ許されたんだと錯覚出来る。俺は怒られた、だからもういいってな」

「ち、ちが……」


 反論しようとするが、だけどたぶん図星なんだろう。寺崎は結局何も二の句を告げず、俯いた。


 そんなこいつを見て、俺はため息を吐く。


 寺崎にではない。


 俺自身に。


 偉そうなこと言って、分かったような口ぶりで、結局俺はただ、このガキに八つ当たりしているだけじゃねぇか。


 ……本当に救いないほど、クソ野郎だ。


「お、俺……」


 寺崎が、俺を見る。


 そこには、歳相応のどうしていいか分からないガキの顔があった。


「俺は、どうすればいいんだ……?」

「……」


 たぶんこいつは今、俺が謝れと言ったらすぐに謝るんだろう。


 死ねと言ったら本気で死ぬかもしれない。


 それくらい、誰かに与えられる答えを求めているんだ。


 だから俺は――突き放した。


「知るか」

「……!」

「お前の事情は分かった。気持ちも、何となく分からんでもない」


 けどな、


「だからって、お前が秋月をいじめる理由にはならない」

「そ、それは……」

「さっきも言ったけどな、寺崎。説教するつもりはねぇし、俺は誰かに答えを教えてやれるほど出来た人間じゃねぇ」


 言いながら、俺は内心で嘆息する。


 俺は、本当に中途半端だ。


 何も出来ないくせに、ゴミみてぇなクソ野郎だってのに。


 それでも、ガキが苦しむ姿を見たくないと思っている。


 こいつは、秋月を苦しめたやつのなのに。


秋月のことだって、答えを出せていないのに。


それでも――見て見ぬふりは、出来なかった。


「だから、これは俺の勝手な意見で、クソみたいな考えだ」


 寺崎が、俯いていた顔を上げた。


 そんなガキに、俺は言う。


「勝手にしろ」

「……」

「俺がじゃねぇ、お前がどうしたいか本気で悩んで、やりやがれ。このまま逃げるのも、他に何かするのも、全部全部、お前が決めろ。誰かに責任を押し付けるな。全部自分のせいにして、その上で答えを出しやがれ」


 寺崎に言った言葉が、全ててめぇに返ってくる。


 答えを出せない、悩んだままの、この俺に。


 寺崎は俺の言葉に俯いて、じっと動かなくなった。


 そんな状態が少し続いて、


「あ、謝りたい……」

「……」

「秋月に、謝りたい……それ以外、どうしていいのか、分からない……」


 ガキらしい、安易な考えだった。


 だけどたぶん、今こいつは、本気でそう思っているだと思う。


 だから俺は、こいつに背を向けた。


 歩きだす。寺崎はついてこない。俺は言う。


「今から秋月の病院に行く」

「……!」

「謝りたいなら、ついてこい」


 答えなど待つまでもなく、寺崎は俺についてきた。


 俺の後ろを歩きながら、ぼそぼそと、


「俺……許して、もらえるかな……」

「お前は自分を殺そうとしたやつが『ごめんなさい許してください』って言ったら許せるのか?」

「――そ、それは……」


 目に見えて落ち込む寺崎。俺はガキみたいなやつ当たりをする自分にため息を吐き、続ける。


「お前は、許されたいから秋月に謝るのか?」

「……たぶん、そうなんだと思う」


 嘘をつかない点だけは見直した。


「最初に言っとくけど、たぶんあいつはお前を許さないぞ? あいつは優しいけど、それでもただのガキなんだ。自分をいじめたやつを笑顔で迎えられるほど人間が出来てるはずがない」

「……」

「じゃあお前は、秋月に許されないから謝らないのか?」

「……」

「寺崎。これは俺の勝手な言い分だ。それでもな、謝らないと伝わらないんだよ」


 許されないと分かっていても。


 謝って済む問題じゃないと理解していても。


 それでも、気持ちはきちんと出さないと伝わらない。


 逃げるだけじゃ、何も変わらない。


 ――そう分かっているくせに、それでも俺は、まだ迷っている。


 好き勝手に偉そうなこと言って、


「俺が出来てねぇんじゃ、笑い話もならねぇじゃねぇか」


 ぼそりと呟いた言葉は、寺崎には聞こえなかったようだ。


 病院に着いた。受付を済ませてエレベーターに乗る。


 病室に近づくにつれ、足取りが重くなる。


 病室に着き、ノックしようとして意味がないことを悟る。俺は確認も取らず扉を開けた。


 そこで、目を丸くしてしまう。


「あ、峰岸君」


 そこに、五月女がいたからだ。


 とはいえある意味当然か。五月女は俺が行けていない間ずっと秋月の見舞いに来ていたんだ。ここにいてもなんらおかしくない。


 俺が来ないモノと思っていたんだろう。五月女は嬉しそうに笑うと俺を手招きして中に入るよう催促する。


 俺は、寺崎をドアの前で待たせるよう言って、病室に入った。いきなり会わせて秋月を驚かせたくないし、こいつにも心の準備が必要だろう。


 パイプ椅子は一つしかなく、それは五月女に使わせて、俺は立ったまま秋月に向かった。


 まだ、答えは出せていない。


 健康状態を確認すると、問題ないとのことだった。昨日の今日で、しかも管理体制の行き届いている病院だ。当たり前か。


 それからはもう、いつもの時間だった。


 たぶん、俺たちが一番幸福だった時間。


 秋月と五月女が話して、俺がそれを見守る。


 だけど俺は、あの時と同じようには笑えない。


 五月女と筆談しながら、俺に微笑みを浮かべる秋月に、心から笑い返してやれない。


 心のどこかで、どうしても目を背けてしまう。


 だけど、秋月は聡い子だ。


 そんな俺の心を、何となくだろう。すぐに悟ったようで、


『ハジメ君、大丈夫?』


 メモと一緒に向けられた、心配そうな顔。


 そんな顔をさせたくなくて、俺はこいつと一緒にいることを選んだはずなのに。


 ……俺は、どこまでも中途半端だった。


 秋月の問いから逃げるように、メモを綴る。


『秋月、今からお前に会わせたいやつがいる』

「……?」


『だれ?』と目で問うこいつと五月女に、俺は努めて平静を装いながら、


『そいつはたぶん、お前が会いたくないやつだ。顔も見たくないかもしれない。だけど、そいつはお前に会って、言いたいことがあるんだ』

「……」

『お前が会いたくないなら、今からでも帰ってもらうけど、どうする?』

『会う』


 たった二文字の文字は、だけど即答だった。


 思わず目を丸くしてしまう俺に、秋月は笑う。


『だって、どんな人でもハジメ君が連れて来た人だもん。

 だったら私、ちゃんと会わなきゃ』

「……」


 秋月は今、こう言っているんだ。


 俺を、信じると。


 俺が連れて来た人だから大丈夫と、そう、俺を信じてくれている。


「……おい、入ってきていいぞ」


 俺は、自分がどんな顔をして言葉を紡いだのか分からなかった。


 ドアが、開く。


 反応は著しかった。ドアから現れた寺崎を見て、秋月を驚き、五月女はそんな秋月を庇うように抱き寄せる。その目に隠すことない怒りを抱いて。


「な、何しに来たの!?」

「……」


 寺崎は、何も言わなかった。何を言えばいいか分からない様子だった。


 数秒、部屋を沈黙が制す。埒が明かず、俺が動こうとして、その前に、


「……姫乃ちゃん?」


 五月女が、小さく驚いたように口を開いた。


 だけど驚いたのは俺もだ。


 何故なら秋月が、庇ってくれている五月女の手を、そっと放したから。


『梓ちゃん、大丈夫だよ』

「で、でも……」


 納得できない五月女も、秋月の笑顔に続けられないようだ。寺崎に敵意を向けながらも、秋月から少し離れた。


 寺崎が、秋月の前に立てるスペースを作るために。


 それを見て、寺崎はゆっくりと秋月の目の前に立って、俺たちが見る中、こいつはどれくらい黙っていただろう。


「お、俺……俺……!」


 言葉は、続かなくて。


 寺崎は、頭を下げた。深々と。それ以外、どうしていいのか分からないと言うように。


 そんな状態が、少しの間続いて。


 秋月は、メモ紙に筆を入れると、寺崎の肩を叩いた。


 寺崎は、顔を上げる。


 その視線の先には、一枚のメモがあって、そこにはこう書かれていた。


『もう、いいよ』


 その文字に、寺崎は信じられないと言うように秋月を見る。


 だけど、そこにあるのは笑顔だけで。


寺崎は、緊張の糸が切れたように泣きだした。


 五月女は納得いかないようだったが、それでも秋月が出した答えだからだろう。特にこれといって何も言わない。


 俺も、何か言うつもりはなかった。


 その言葉が示す意味が、何となく分かったから。


 いつまでも泣きやまない寺崎がここにいても秋月に迷惑でしかないので、とりあえず帰らそうとしたが、その役目は五月女が買って出た。


「峰岸君は、出来るだけ姫乃ちゃんと一緒にいてあげて」


 泣く寺崎を連れていく五月女に言われれば、返す言葉もない。


 そして、病室には俺と秋月だけが残った。


 空いた椅子に、腰かける。


 ベッドの上の秋月は、いつものように笑っていた。二か月前では考えられないほど明るく。だけど、俺にはその顔が、少し歪に見えた。


 まるで、何かを我慢しているような、隠しているような、そんな気がする。


そしてそれを、絶対に俺に隠そうとしているような……


俺は携帯のメモ帳を開くと、


『本当は、まだ許せてないか?』

「……!」


 図星だったらしい。


 秋月は目を丸くして驚くと、小さく笑った。苦笑いだった。


 たぶんそれは、俺にだけ向ける表情なんだと思う。


『やっぱり、ハジメ君はすごいね』

「……」


 すごくなんてない。


 ただ、俺はこいつを、五月女や日野より少しだけ知っているから、分かっただけだ。


 秋月は、頷く。


『本当は、許せないよ。

 恐かった。

 本当に、恐かったから』


 あぁ、そうだろうさ。


 秋月は、確かに優しい。


 だけど、優しいだけじゃないんだ。


 こいつだって、人間なんだから、誰かを好きになるし、同じくらい誰かを嫌いになる。いじめられたら悲しいし、それ以上に憎いんだ。それこそあの日、こいつがあのメモに書いたように。


『みんな

 みんな嫌い

 大嫌い』

『みんな

 みんな死んじゃえ

 死んじゃえ』


 だから、秋月は嘘をついた。


 あの『もう、いいよ』は、許したんじゃない。本当は、もう顔を見たくないから告げた言葉だったんだ。


『悪い子だよね、私。嘘つきで、嫌な子だ』


 秋月は毛布を引き寄せると、まるで自分の顔を隠すように俯いた。


 こんな自分を、見ないでというように。


 俺は、そんな秋月を慰めようといつものようにこいつの髪に触れようとして――そんな資格が俺にあるのか?


 伸ばした手が、止まる。


 秋月がこんなに落ち込んでいるのは誰のせいだ?


 こいつに、つきたくない嘘を吐かせたのは誰だ?


 こいつに、会わせたくないやつを無理矢理会わせたのは、誰だ?


 ――全部、俺じゃねぇか。


 もう、何度目になるか分からない後悔。


 俺は、伸ばした手を力なく下ろした。他にどうしていいのか、分からなかった。


 どれくらい、そうしていただろう。沈黙の中、秋月がメモ帳に文字を綴る。


『だって、本当に恐かったから。

 プールでおぼれて、

 息が出来なくなって』


 一枚の紙に書ききれず、秋月は筆を走らせる。


『恐かった。

 本当に、本当に

 恐かった』


 当たり前だ。


 死にかけて、恐くない子供なんているはずがない。


 秋月は、あの時の事を思い出したのか、身体を震えさせていた。


 それでも、文字を綴る手を止めない。


『だけど、本当に恐かったのは

 死ぬのより恐かったのは

 ハジメ君に会えなくなることなの』


 ……え?


 俺は、言葉の意味が分からなかった。


 なんで、なんでだよ……?


『息が出来なくて

 苦しくなった時

 ハジメ君にもう会えないのかなって

 そう思った』


 俺は……


『そう思うと、今でも恐いよ。

 だって、だってだって

 ハジメ君は、私を

 私を初めて助けてくれた人だから』


 俺は、こいつにどう答えればいい……?


 気付けば、秋月は泣いていた。


 どうして泣いているのか、俺には分からない。


 一番に近くにいて、一番一緒にいるくせに、俺は何で秋月が今泣いているのか、分からなかった。


 気付くことは、出来たはずなのに。


『だから、寂しかった。

 ずっと、ずっと

 ハジメ君に会えてないから』

「……!」


 どういう、ことだ……?


 俺は、ここにいるぞ……?


 ――本当に?


『ここに来て、優陽さんと出会って

 優陽さんはすごく優しくて面白くて

 梓ちゃんも来てくれて』


 秋月は綴る。


『だけど、楽しかったけど

 だけど、そこにはハジメ君がいなくて

 寂しかった』

「……」

『わがままだよね

 嫌な子で、悪い子で

 だけど、私はそれでも』


 涙を浮かべ、秋月が俺を見た。


 真っ直ぐな視線だった。


 心のどこかで、目を逸らす俺がいた。


『ハジメ君に会いたい』


 秋月は、泣きながら綴る。


『ねぇ、ハジメ君。

 気付いてる?

 ハジメ君は、ここに来てくれたけど』


 秋月の目の前にいるけど、


『一度も、

 私の目を

見てくれて、ないんだよ?』


 逸らし続けた。


 こいつと、どう接していいのか分からなくなったから。


『私に笑いかけてくれるけど

 それ、嘘だよね?

 無理、してるんだよね?』


 隠し切れていると思っていた。


 そんな訳、あるはずないのに。


『だけど、私

 私、嫌だよ

 私 わたし

 本当のハジメ君と、会いたいよ』


 目を逸らさないで。


 心の底から笑って。


 秋月は、そう言っているんだ。


『私が何かしたなら謝るから。

 いい子に、するから

 きらいに、ならないで』


 ……俺は、大馬鹿野郎だった。


『お願い

 おね』


 泣きながら文字を綴る秋月を、抱きしめる。


 秋月は、抵抗しなかった。


 ただ、ただ俺の胸に顔をうずめて、泣きだす。


 俺しか知らない、こいつの泣き声。


 心の底から悲しい時にしか出さない、あの時と同じ、未発達の、騒音に近いそれ。


 聞きたくなかった。もう二度と。


 泣かせたくなかった。この小さな女の子を。


 だけど、こいつは泣いている。


 俺のせいで。


 俺が、泣かせてしまった。


 悲劇のヒーロー気取って。


 何が、俺のせいだよ……。


 何が、俺にそんな資格あるのか、だ。


 何が、俺がいない方がいいだよ……?


 自惚れんじゃねぇよ。


 気取ってんじゃねぇよ。


 何より、何よりだ。


 逃げてんじゃねぇよ。


 言葉並べて。


 知った風なこと言って。


 分かったような物言いで。


 偉そうに悟った振りして。


 俺は、逃げていただけじゃねぇか。


 ぎゅっと、秋月を抱きしめる。


 こいつを助けたいと言って、だけどてめぇがそんなすごい人間じゃないと言い訳して。


 自分で助からないと意味がないって御託並べて、適当にあしらって。


 俺に、責任が及ぶのを避けていた。


 真っ直ぐに向き合う振りだけして、第三者の振りして、逃げていただけだった。


 あぁ、そうさ。


 知っていた。


 気付いていた。


 知らない振りして、気付かないバカを演じて、俺は。


 一度だってこいつを、真っ直ぐに見たことがなかったんだ。


 近くにいるつもりで、誰よりも遠くにいたんだ。


 いつだって、逃げられるように。


 クソ野郎だった。


 ゴミにも劣る。


 それこそ、あの母親にさえ劣る最低な野郎じゃねぇか。


 だけど、だけど……


 俺の腕の中で泣く秋月を見て、ずっとずっと泣き続けた秋月を思い出して。


 それでも俺は、こいつを助けたいんだ。


 こいつに、泣いてほしくないんだ。


 笑って欲しいんだ。幸せになってほしいんだ。


 それだけは、それだけは、嘘だらけで、最低でしかない俺の、たった一つの本心だから。


 だから、なぁ、俺。


 もう逃げるのは、やめようぜ。


 どうでもいいと、どうせ無駄だと、諦めきっていると、そういう言い訳はいいから。


 助けよう、こいつを。


 支えるとか、一緒にいるとか、そんな曖昧な言葉で逃げ口を作るのは、もう終わりだ。


 責任も、覚悟も、全部俺が背負って、行こう。


 だから俺は、初めて真っ直ぐに、秋月に向き合った。


 肩に手を当てて、少し離れて、秋月を見る。


 泣いて、赤くなった目。


 もしかしたら、俺はまたこいつを泣かせてしまうかもしれない。


 だけど、もう時間がないんだ。


 俺は、秋月が落ち着いたのを確認すると、メモを借りた。


『いいか、秋月。落ち着いて聞け』

「……?」


 急なことに秋月は目を丸くするけど、素直に頷いた。


 そして、俺ももう、迷わなかった。


 もしかしなくても、俺は今から秋月を傷つけることになる。


 嫌われるかもしれない。


 憎まれるかもしれない。


 だけど、それでも――伝えないとこいつは一生、目を逸らし続ける。


 俺と、同じように。


『お前は、親から虐待を受けているんだ』


 俺が綴ったメモを見て、秋月はきょとんと目を丸くした。


 何を言われているか分からない、そんな様子だった。


 それから、秋月は笑う。


 歪な笑みで。


『はじめくんなにをいってるの』


 だけど、文字は、こいつの唯一の意思疎通は、明確に答えを出していた。


 秋月らしくない、酷く歪んだ文字。


『おかあさんはわたしにひどいことしないよ

 だってわたしがたたかれるのはわたしがわるいからなの

 おかあさんはわたしのわるいところをなおすためにたたいているだけなの』


 きっと秋月は、ずっとそう母親に言われ続けていたんだ。


 お前が悪いと。


 そう、教え込まれてきた。


 心にも――それ以上に身体に。


『ね しんじてくれるよね

 はじめくんはしんじてくれるよね

 ね ね』


 秋月が、俺の服を引っ張りそう告げる。


 笑顔で。


 酷く歪んだ笑顔で。


 そんなこいつに、俺は首を振った。


 否定した。間違っていると、そう教えた。


 そんな俺に、秋月は目を見開いて、それから俯く。


 ぶつぶつと、秋月は何かを呟いていた。


 言葉にさえなっていないそれ。だけど俺には、こいつが何を言っているのか何となく分かった。


 違うと、そう言っているんだ。


 否定しているんだ。


 自分がただ、傷つけられていただけという事実を。


 そして、次の瞬間――


「――!!」


 秋月が、叫んだ。


 言葉になっていない騒音に近いそれ。


 秋月が、頭を抑えて首を振る。


 異常な勢いだった。俺は慌てて秋月を抑えるが、秋月は止まらない。どこにそんな力があるのか、子供とはいえ男の俺を振り払う。


 それでも俺は秋月を落ちつけようとして、気付けば秋月ごと、体勢を崩していた。


 秋月が上になる形だった。


 後頭部に衝撃が走る。目の中に火花が散った。そして首に違和感が走る。


 秋月が、俺の首を絞めていた。


 いつものこいつからは想像できない力で。


 その顔に、初めて見る怒りを込めて。


「――! ――!」


 秋月は、言葉になっていない叫びを出しながら、俺の首にかける手に力を込めていく。


 苦しかった。ゆっくりと意識が遠くなる。


 だけど、どうしてか、この手を振り払おうとは思えなかった。


「ひ、姫乃ちゃん!」


 入り口で、日野が血相を変えているのが見えた。


 秋月の叫びが聞こえたんだろう。日野は俺達を見てすぐに秋月を止めようとするが


「――く、来るな!」


 渾身の力で、叫んだ。


 首を絞められているから、まともに聞こえなかっただろう。


 それでも日野は止まった。


 たぶんそれは、俺の言葉だけが原因じゃない。


 ぽとり、ぽとりと、俺の顔に落ちる涙のせいだ。


 秋月は、泣いていた。


 俺の首を締めながら、泣いていた。


 苦しそうに。それこそ俺以上に、苦しそうに。


「――」


 秋月が、言葉になっていない言葉を言う。


 何て言っているのか、分からなかった。


 だけど、悲しんでいるのだけは分かった。


 だから俺は、首にかけられた手を気にすることなく、秋月の頭を撫でてやった。


 おかしいよな。こんな時なのに。


 だけど今は、これが正しいと思うから。


 いつものように、こいつの、色素の薄い髪を、撫でる。


 それから、笑いかけた。


 初めて向ける、心の底からの笑顔を。


 安心しろと、伝えるために。


 首にかかった手から、力が抜ける。


 それから、秋月は自分の手を見て、信じられないと言うように首を振って、どうしていいか分からずに、泣きだした。


 声を上げて。


 手では止めきれない大粒の涙を流して。


 そんな秋月を、俺は抱きしめた。


 きっと、こいつは心のどこかで気付いていたんだ。


 自分が、母親に好かれていない事実に。


 アレが、虐待だと言うことに。


 それでも、信じたくなかったんだ。


 実の親に嫌われていると、煩わしいと思われていると、そんな事実に。


 当たり前だ。


 たった12歳の子供が、そんな事実を受け入れられるはずがない。


 だから、母親の言葉を鵜呑みにして、真実から目を逸らし続けた。


 私が悪い。


 いい子じゃない私が悪いと。


 そう、自分に言い聞かせて来たんだ。


 だから、こいつは誰にも助けを求めなかった。


 悪いのは、自分だから。


 自分がいい子になればいいのだからと、そう思って。


 お母さんは悪くないと、そう信じて。


 誰にも、話さなかった。


 他の誰かがそう告げても、違うと自分を騙し続けた。


 だけど、俺が告げたから。


 自惚れじゃないくらい、俺は秋月に信頼されていた。好意を抱かれていた。助けられたと、秋月はずっと俺に感謝していたから。


 そんな俺に真実を告げられて、目を逸らせなくなって、それでも、受け入れるしかなかった。


 自分は、母親に愛されていないと。


 私は、不幸な人間なんだと。


 それは、どれくらい辛いことなんだろう。


 俺は知っている。


 親に裏切られた俺は、痛いほどにそれを、知っている。


 だけど、なぁ、秋月。


 いつまでも、逃げ続けることは出来ないんだよ。


 逃げて、目を逸らしても、何も変わらないんだ。


 俺はそれを知っているし、お前も気付いてるんだろう?


 だからお前は今、泣いているんだろう?


 秋月は、泣きながらメモを綴った。


『ほんとは 気づいてた』


 あぁ。


『でも しんじたくなかった』


 そう、だな。


『だって みとめたら』


 気付いてしまうから。


『私が一人だって、気づいちゃうから』


 それは、恐いよな。


 一人は、恐いんだ。


 寂しいんだ。


 辛いんだ。


 死にたくなるほどに。


『いや だよ

 ひとりは いやだよ

 ひとりぼっちは さびしいよ』


 だから、愛されていなくてもいいから、母親と一緒にいた。


 愛されたいから、母親のそばにいようとした。


 だから、どんな辛いことも受け入れた。


 母親と離されないために、自分を殺し続けた。


 一人は、寂しいから。


 でもな、秋月。


 それは、間違ってるんだ。


 どんな理由があっても、それはお前が傷付く理由には、ならないんだよ。


 もしかしたら、このままの方がいいのかもしれない。


 どんな理由があろうと、母親と引き離されるのは、こいつにとって不幸以外の何物でもないのかもしれない。


 だけど、それでも。


 俺は、許せないんだ。


 お前が傷付くのが。


 このまま、不幸を誤魔化し続けて生きていくのが。


 勝手だとそう思うさ。


 身勝手な押し付けだと、分かっている。


 それでも俺は――あぁ、俺は!


 こいつを、秋月姫乃を――助けたいんだよ!!


『俺が、そばにいる』

「……!」

『お前が一人で寂しいなら、隣りにいてやる。

 誰かの温もりが欲しいなら、手を握ってやる。

 辛い時があるなら、支えてやる』


 だから、なぁ、秋月。


『俺に、お前を助けさせてくれ』

「……」


 秋月の、涙でぬれた目が、俺に問いかけた。


『助けて、くれるの?』


 あぁ、助ける。


 だから、お前も言ってくれ。


 今まで、ずっと我慢してたんだろ?


 誰にも届かなくて、諦めていたんだろう?


 だけど、俺が受け止めてやるから。


 俺は絶対に、お前を裏切らないから。


 だから、言ってくれ。


『たすけて』

「――」


 文字と、言葉で告げられた想い。


 初めて告げられた、秋月の悲鳴。


 俺は、頷いた。


 もう逃げないと、絶対にお前を助けると、秋月を抱きしめて、この小さな女の子に誓った。





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