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俺には結局、何も出来ない


 その後のことは、あまり覚えていなかった。


 俺自身、初めてのことに混乱していたんだと思う。不幸なんざどこにでもあるし、誰だって多かれ少なかれ苦い思いをしているモノだ。そう分かっていても、こんな理不尽をすぐに受け止めきれるほど俺は出来た人間じゃなかった。


 気付けば俺は、秋月を背負ってその場を離れていた。本当なら病院に連れていく所を何を考えたのか自分の家に運んでしまった。まともな思考が出来ていなかったんだと思う。


 俺のベッドに秋月を寝かせて、俺は秋月の額に手を当てた。熱い……どれくらいの体温があるかは分からないが平熱じゃないのは分かる。


 今からでも病院に運ぶべきか?


 だが、どうすればいい?


 運んで、事情を説明するか?


 いや、俺自身全てのことを知っている訳ではない。説明した所で中途半端になるのは目に見えている。だったら後は大人に任せるか?


 ……その大人は、本当に秋月を助けられるのか?


 お役所仕事で、適当にことを済まされるだけじゃないのか?


 くそ、全然考えが纏まらない!


 とにかく、とりあえずでも病院に運ぶべきだ。俺は携帯電話を取り出すと119に掛けようとして、その手は止まる。


 もぞりと、ベッドの上で秋月が動いたからだ。


「秋月!」


 聞こえないと分かっていても、咄嗟に叫んでいた。


 そんな俺とは対照的に、秋月の動きは酷く緩慢だった。熱と、そして混乱からだろう。秋月は最初、ゆっくりと目を開くと、焦点の合っていない瞳を左右に動かして、それからのろのろと上体を起こし、だけどその途中で、巻き戻るようにベッドに倒れた。


 なおも起きようとする秋月を、俺は平静を装ってベッドに寝かせる。


『大丈夫か? 俺のこと、分かるか?』


 答えようとメモ帳とペンを探す秋月に先んじて、俺は携帯電話の画面を見せた。


『書かなくていい。『うん』なら頷け。『いいえ』なら首を横に振れ』


 どうやら文字が読める程度には大丈夫なようだ。


 秋月はゆっくりと頷いた。


 今のところ、意識自体はあるらしい。


 言語の理解も支障がない所を見ると、俺は安心こそできないが小さく安堵の息を吐いた。


 ……良かった。


 心の底から、そう思う。


 だが、まだ安心は出来ない。こんな素人目の判断なんざ欠片もアテにならないんだ。すぐにでも病院に運ぼう。


『今、救急車を呼ぶから待ってろ』


 そう書いて、携帯電話を操作する俺の手を、秋月が掴んだ。


 その顔を苦しそうに歪め、弱々しく首を横に振る。


 どうしたんだ?


『どうした? 病院に行きたくないのか?』


 秋月は頷いた。


 確かに子供にとっては病院に良いイメージはないだろう。俺もそうだったから何となく分かるが、今はそんな場合ではない。


 俺は諭す様に、不器用ながらも微笑みを浮かべてみせた。


『病院が嫌なのは分かるけど、我慢しような? 大丈夫、風邪くらいなら注射とかそういうのはないから』


 そんな俺の説得に、しかし秋月は頷いてくれない。


 ここまで来れば、俺も怪訝に思わずにいられない。秋月は子供だが馬鹿じゃない。聞き訳はそれこそ良い方だし、間違った時はすぐに謝る素直さも持っている。勿論それは俺の知る秋月でしかないから本当に病院が嫌だからいやいやをしているだけかもしれないが、何かこう、違う気がした。


 そう、それは嫌というよりも――恐れているようで。


 秋月が、俺の携帯電話に手を伸ばす。俺が渡せば、こいつは慣れない手つきでボタンを押して、


『びょういん、いきたくない』


 どうしてだ?


 視線で問えば、秋月はまたボタンを叩いて、


『お母さんに、迷惑をかけちゃう』


 ……母親に迷惑を掛けないため、か。


 この時俺は、一瞬だけだが秋月の母親を見直していた。秋月にこの程度に思ってもらえるくらいには、秋月を大事にしているんだと。


 だけど、そんなことはなかった。


『迷惑かけるのは、悪い子だから

 悪い子は、叩かれる』

「……!」

『叩かれるのは、いや。

 だから、お願い』


 携帯電話は、震えていた。


 持っている秋月が、震えているから。


 秋月は泣きながら、携帯電話を操作する。


『いたいのは いや。

 あついのも いや』


 それ以上、秋月の文字が打たれることはなかった。


 俺が、止めたからだ。


 震える秋月を安心させるように、彼女の小さな身体を抱きしめる。震える身体は、頼りないながらもゆっくりと落ち着いていく。


 そうして、秋月の震えが完全になくなった所で俺は秋月から離れた。未だ不安が残るこいつの顔に、無理矢理作った笑みを向け、いつもよりも少しだけ弱く、秋月の髪を撫でた。


『分かった。病院には連れていかない』


 本当? と目で訴える秋月に俺は頷いた。


 秋月から見えない位置。ベッドの影に隠して、その拳を怒りの限り握りしめながら。


 それでも秋月を安心させたくて、微笑みを浮かべる。


『でも、体調が少しでも悪くなくなったらすぐに言うんだぞ? これは約束だ』


 秋月は、今度は素直に頷いた。


 それから、俺は秋月をベッドに寝かせると部屋を後にした。秋月が残って欲しそうに瞳を潤ませて見て来たが、そこは我慢してもらうかしかない。


 部屋を出た俺は背中で扉を閉め――叫んだ。


 もう、我慢出来なかったから。


「――っざけてんじゃねぇぞ!!」


 なんだよ! なんなんだよこれは!


 何であいつが、こんな目にあわねぇといけねぇんだよ!?


 無性に何かに当たりたくなる衝動を、必死に抑え込む。


 それでも、俺の中の怒りを抑え込めず、握り締めた拳の内側が爪で裂けた。血が滲む。


 だけど、そんなことをどうでもいいと思うほどに俺は荒れていた。


 あぁ、知ってるさ。不幸なんざどこにでもある! 俺だけが不幸じゃない。秋月だけが理不尽を受けている訳じゃない。


 んなこと知ってるし、世界なんざそんなもんだ。


 だけど、だけどこれは――これはダメだろう!?


 勝手な意見だろうが、何だろうが――ガキがこんな不幸な目にあっていいはず、ねぇだろうが!


 どうして辛い時、そんな時でさえ、親を恐れなくちゃダメなんだ!?


 頼るべき親を、頼れないなんて、あろうことか恐がるなんて――そんなこと、あっていいのかよ!?


 まだ、たった12歳のガキが!


 くそ! ちくしょう!!


「クソがぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 どれほど、そうしていただろう。


 怒りは消えてはくれないけれど、叫んだ分だけ少し、冷静になる俺がいる。


 落ちつけ、と自分に言い聞かせる。


 俺がキレた所で、何かが変わる訳じゃない。


 俺の怒りなんざクソほどの価値もないんだ。


 そんなモノを振りまいているくらいなら、別のことをやれ。


 そう言い聞かせて、無理矢理冷静と平静を取繕って、俺は歩きだした。まだ、腹の奥に苛立ちが残るが、それは後だ。


 今はそう。俺の怒りよりも秋月の体調のほうが大切なんだから。


 まずは、風邪薬だな。


 リビングに戻って、救急箱を開ける。絆創膏や頭痛薬の中に混じって風邪薬の箱が入っていた。見れば都合のいいことに子供用だ。使用期限も来ていない。


 後は栄養ドリンクとエネルギーゼリー……は止めた方がいいか? 西オサムの時風邪ひいたらすぐに風邪薬とエネルギーゼリーを飲んで寝てたけど、アレは荒療治の部類に入りそうだ。おかゆにしよう。


 となると残るは着替えか。風邪のせいかあいつは結構汗をかいていた。あの服のままじゃ余計に悪くなりかねない。


 俺のを貸してもいいんだが、サイズが合わないんだよな。ぼかぼかでも問題ないかもしれないがやっぱり合っている服のほうがいいだろう。


 俺はおかゆを作る準備をしながら、携帯電話を操作する。


 数コール後、相手はすぐに出た。


『峰岸君、どうしたの?』

「あぁ、五月女。ちょっと頼みがあるんだけど、今いいか?」

『うん、大丈夫』


 屈託ない返事に、俺は内心で謝りながら嘘をつく。


「今日秋月の見舞いに行ったらな、あいつの親、今日は帰って来れないらしくて秋月一人だったんだよ。で、あいつが寂しいっていうから今日は俺の家に泊めたんだ」


 風邪の相手を外に出すな、とか色々と無理がある言い分だが、あまり不審に思われなかったようだ。


 電話の向こうで秋月を心配する五月女に、俺は続けた。


「でだ、その時着替え用意するの忘れちまってな。秋月が着る服がないんだ」

『じゃあ、私の持っていくよ!』

「助かる。じゃあ俺のマンションの住所、メールで送るから――」


 要件を伝え、メールを送り終える。


 その頃には片手間でお粥が出来上がっていた。米をお湯で煮て塩こしょうするだけの簡単なモノだがないよりマシだろう。適当に鮭のフレークを混ぜておけば多少は味もするはずだ。


 作り終え、火を止めた所で携帯が震える。


 五月女が着いたようだ。俺は一階にある自販機でポカリを買うついでに下まで降りて五月女を出迎えた。


「悪いな、足運んでもらって」

「ううん。姫乃ちゃんが大変な時だもん。気にしないで」


 そう言ってもらえるとありがたい。


「風邪なら身体拭くよね? 私、手伝うよ」


 あぁ、確かに。秋月があの様子なら満足に動けないだろうし、だったら俺がやるよりも五月女の方がいいか。


 いくら秋月が俺を信頼してくれているとはいえ、異性に肌を見られるのは――そう思った時、何かが引っかかった。


 何かを見落としているような、そんな感覚。


 そして思い出すのは、秋月の記した文字。


『たたかれるのは いや』


 俺にとって、ぶたれるのは日常のそれだった。


 だから、さっき聞いた時もその点には怒りこそ抱いたが疑問は抱かなかった。


 だけど、


『あついのも いやだ』


 ――あついって、何だ?


 いや、分かってる。


 分かってるけど、だけど……うそ、だろ……?


 そういう可能性を、考えなかった訳じゃない。


 考えて――だけど心のどこかで否定していた。


 そんなことは、あってほしくないと。


 肯定の材料は、もう既に揃っているというのに。


「――五月女」


 マンションの中に入ろうとする五月女を、呼びとめる。


 名前を呼んだ自分の声が、やけに冷たく感じた。


「……服を持ってきてもらったのは、礼を言う。だけど今日は、これで帰ってくれないか……?」


 俺は今、いつものように話せているのだろうか?


 それさえ分からなくなるほど、思考は冷たくなっていく。


 そんな俺を見て、五月女は驚いたように目を見開いた。


「え、でも……ううん、分かった」


 五月女は、少し考えたようだがすぐに頷いてくれた。何も聞こうとしないのは、こいつの気遣いなんだと思う。つまりそれくらい、今の俺は酷い面を下げているってことか。


 俺は、自分でも笑えているか自信のない笑みを浮かべる。


「悪いな、呼んでおいて……」

「ううん。峰岸君のことだもん。それは、姫乃ちゃんのためなんだよね?」

「……」


 俺は、答えなかった。


 頷けばいいのか、首を振ればいいのか、それさえ分からなかったから。


 帰って行く五月女を見送り、歩きだす。


 自販機でポカリを買って、階段で上まで上がった。


 エレベーターを使う気にはなれなかった。少しでも遅く、秋月の待つ部屋に行こうとしていた。


 ……恐かったから。


 認めてしまうのが。


 もしかしたら、なんて程甘くない、これから先の現実を見ることが。


 それでも俺の足は、確実に秋月の方へ向かって。


 鍵を開ける。靴を脱ぐ。


 タオルを用意する。扉を開ける。


 秋月がこちらを向く。俺は笑みを浮かべる。


 そして、


『秋月、汗気持ち悪くないか?』


 俺のメモに、秋月は頷いた。


『タオルを持ってきてる。自分で拭けるか?』


 秋月は頷いて身体を起こすが、その動きは緩慢で力ない。


『背中だけでも拭いてやる』


 秋月は、目を丸くしてから、首を横に振った。


 流石に恥ずかしいんだろう。俺だって秋月の立場だったら絶対に頷かない。


 だけどそれでも、確かめる必要があった。


 だから、ずるいと分かっていて、最低だと自分で思っていても、


『大丈夫。俺を信じろ』


 秋月が俺に助けられて、多少なりとも依存していることを逆手に取ったその言葉を、書いた。


 秋月は、今まで俺が見た中で2番目に長く悩んだ後、こくりと頷いた。


 そしてゆっくりと、その服を――母親に言われ、この暑い中でも着続けた長袖の服を脱いでいく。


 そしてそこに――酷い身体があった。


 タオルで前だけ隠した、秋月の身体。俺に見えるのはこいつの小さな背中と、晒された両腕。


 だけど、なぁ、どうして――お前の身体には『青色』があるんだ?


 秋月の背中には、青痣があった。殴りつけられたのか踏みつけられたのか、素人の俺には判断が出来ないけど、少なくとも受けた秋月が絶対に苦しんだと分かる、そんな痣。


 それも一個だけじゃない。無数にそれはあった。


 あって、しまった。


 だけど、それだけじゃなかった。


 秋月の背中や腕には、クレーターのような跡があった。


 素人目には分からない。俺だって、知らなかったらそれがどれだけ酷いものか理解できなかっただろう。


 秋月の身体にあるその痕は、時々テレビで見る隕石が落ちた場所――クレーターによく似ていた。


 俺はそれを、知っている。


 西オサムが中学生だった時の先輩が、面白半分で見せてくれたことがあったから。


 肌にクレーターのように残るそれは、それは……


――火のついた煙草を押しつけた、痕だった。

 

あぁ、そうか。


 これが、これが『あつい』の正体、か……。


 ……は、はは、そりゃ熱いわな……火のついた煙草を押しつけられて、熱くないわけがない。


 思い出すのは、あの日、秋月がいじめっ子に立ち向かった日に綴った言葉。


『ううん。これくらいへっちゃらだよ!』


 俺は、それが秋月の強さなんだと思った。


 だけど、そのままの意味だとしたら?


 本当に、男子に殴られることが『これくらい』と思えてしまうほど、秋月が日々、虐待を受けていたとしたら――


「は、ははっ……」


 思わず、笑いが込み上げてきた。


 もう、笑うしかなかった。


 怒りを通り越して、悲しみも沈んで、俺には――笑うことしか、出来なかった。


 五月女を止めたのは、正解だった。


 こんなもの、ガキが見ていい訳がない。


 何よりこんな秋月の身体を、見せていい訳がない。


 五月女のためにも――それ以上に秋月のためにも。


 どれくらい俺は、そうしていたんだろうな。


 秋月が不思議そうにこちらを振り返る。知らない内に手が止まっていたようだ。俺は努めて笑顔を浮かべると秋月の背中を拭いた。


 五月女から預かった着替えを着せて、秋月をベッドに寝かせる。


『おなか、すいてないか?』


 秋月は頷いた。俺はおかゆを取ってくる。


 一人で食べられそうになかったので、俺が食べさせてやった。一口口に含んで、秋月は目を丸くした。そして笑顔で『おいしい』と伝えてくれた。そんな当たり前の笑顔さえに、心のどこかが痛んだ。だけど俺はそれに笑い返した。


 おかゆを食べ終え、風邪薬を飲ませた。粉末状のそれをポカリで飲ませる。秋月は薬の苦さに顔を歪めつつも飲みきった。俺が『えらい』と頭を撫でてやると力なくも笑顔を浮かべた。


 子供用の風邪薬にも入眠剤という睡眠作用が入っているらしく、薬を飲み終えた秋月はすぐにうとうとと目を瞬かせた。


 そんな秋月の髪をそっと撫でて、寝かしつける。


 秋月は何か伝えようとしているのか、俺を見て、そして遠慮気味にその小さな手を俺に伸ばしてきた。


 あぁ、安心しろ、秋月。


 そっと、その手を握ってやる。


 俺が、傍にいてやるから。


 何も出来ない俺だけど、お前を助けてやれない、ゴミみたいな俺だけど。


 お前の傍にいて、この手を握ってやることくらいは、出来るから。


 今はゆっくり眠ろうな、秋月。


 秋月は、安心したように微笑んで、ゆっくりと、その目を閉じた。


 少しして、規則ただしく寝息を立てる秋月。そんな彼女を見て、俺は、俺は……どうしようもないほど無力なてめぇを、殺したくなった。


 ……なぁ、どうしてだ、神様?


 どうして、こいつなんだ?


 俺みたいなクソ野郎に二度目の生を与えておいて、どうして秋月には、こんな小さな女の子には、不幸しか与えてやらねぇんだよ?


 耳が聞こえないだけでも辛いのに、いじめられて、絶望して、その上親にまでこんな仕打ちを受ける――そんな苦しみを、どうして秋月が、このガキが受けないとダメなんだよ!?


 そんなもんは、俺みたいなクソ野郎に与えりゃいいだろうが!?


 何で、どうして――どうしてこいつ、なんだよ……?


 なぁ、いるなら答えてくれよ、神様……誰か俺に、教えてくれよ……。


 俺は、俺は――どうすれば、いいんだ?


 秋月の手を握って、考える。


 だけど、分かるのは――俺では何も出来ないという、当たり前の現実だけで。


 ただただ、無力で無様で役立たずな自分を、再認識することしか、出来なかった。


 だけど、そんな俺をおいて、時間だけは変わることなく経ってしまう。


 一晩経って、秋月は呆気ないほど簡単に元気になった。熱を測っても平熱のそれで、俺はもう一日休むよう言ったが秋月はこれに頷かない。


『大丈夫。

 もう全然苦しくないから』


 笑顔で言われれば、異を唱えることが出来なくて。


 俺たちは簡単に朝食を済ませると、いつもより早く家を出た。昨日咄嗟のことで秋月をここに運んだためランドセルや勉強道具がなかったからだ。


 秋月の家に向かいながら、俺は目の前のガキの小さな背中を見て、考える。


 今からでも、誰かに言った方がいいんじゃないか?


 これは、俺の手に余る問題だ。


 ガキのいじめじゃない。大人が関わった問題だ。だったら大人の、社会の対応に任せておいた方がいい。


 でも、法律はどうなる?


 仮に俺が市役所なり警察に言ったとして、それからは?


 秋月は、本当に助かるのか?


 証拠は? 親権は? 秋月の自由は保障されるのか? 秋月は本当に助かるのか?


 ――ダメだ、考えが纏まらない。知識があまりにも足りな過ぎる。


 誰か、相談できるやつがいれば――そう思い、俺には誰も思い浮かばなかった。当然か、誰かに関わることを面倒だと思っていた俺に、頼っても無意味だと考えている俺にそんな相手がいるはずない。


 どうすればいい? どう、すれば……。


 考える俺はけれど、不意に視界が歪んだような感覚に頭を振る。


 だけど、そんなことをしても目の焦点が合うことはなくて。


 なん、だ……?


 自分が立っているのか、違うのか、それさえ分からなくなって。


 気付いたら、顔に衝撃が走っていた。地面がやけに近い。あぁそうか、倒れたのか。妙に冷静に俺はそう思って――パソコンのコンセントを引きぬいたように、目の前が真っ暗になった。





 ……看病して風邪がうつるとか俺はバカか?


 それが学校のチャイムによって目を覚ました俺が最初に抱いた感想だった。


 俺は少々だるい身体を起こし、自分の額に手を当てる。熱があるのかそれで分かるほど俺は器用ではないがそんなに高くないような気がした。いや、手の体温も額のそれも大差がないからそう感じるだけかもしれない。


 それからゆっくりと、ため息を吐く。


 ……何やってんだよ、俺は。


 秋月を出来る限り一人にしない――そう思った矢先に倒れるとか冗談にさえなっていなかった。


 とはいえ、まぁある意味これは当然のことかもしれない。秋月はマスクをしていなかったし、そんなあいつの傍に夜通しで俺はいたんだ。それこそ風邪にうつってくださいと言わんばかりに。


 ……冷静じゃ、なかったんだろうな……。


 未だに霞がかかるような呆けた頭で、そう思う。


 思えば昨日の俺はいつも以上に頭の整理が出来ていなかった。秋月を勝手に運んだのもそうだし、虐待と思われる跡に対してもそうだ。いくら混乱していたとはいえ全部を全部、俺一人の力で何とかしようとした嫌いがある


 俺に何かできる訳なんざ、ある訳ないってのに……。


 そう分かっていても、俺の心の隅にはまだ、本当に誰かに秋月を任せていいのか? という疑念が残っていて、思わずため息を吐いた。


 ……らしくない。


 全部諦めちまったクセに、まだ自分に何か出来るかも知れないと――そんな希望に縋りついているてめぇ自身が。


 俺は頭を振ると、寝ていたベッドから降りた。


 保険医に聞けば、俺を運んだのは驚くことに秋月だったらしい。あんな小さな身体のどこにそんな力があったのかと俺は思わず目を丸くしてしまった。


 時計を見れば先ほどのチャイムは昼休みを終わりを告げるモノだったらしく、既に5限の授業が始まっている。確か体育だったか。六月に入りもうプール開きは終わっている。今頃プールで授業か。


 俺は保険医に授業で出ると告げると保健室を出た。保険医はまだ残っていないさいと言ったが、今は少しの間でも秋月を一人にしたくない。


 授業中ということで珍しく人気のない廊下を、だるい身体でのろのろと歩きながら俺はふと、久しぶりだなと思った。


 思えばあの日、秋月の補聴器を探した日から俺は、学校の中ではずっとあいつの隣りにいた。


 それは逆に、いつもあいつが俺の隣りにいてくれたということで――なぜ、そんなことを今、思い出す?


 だるくて歩くことさえ億劫な足が、何故か急にその速度を上げた。


 学校であいつを一人にしていた時間なんて、それこそ本当に少しだ。それくらい俺にとってあいつが隣りにいるのが当たり前になっていて――じゃあ俺はどうして、いつもあいつの傍にいた?


 気付けば、俺の足は歩くから走るに変わっていた。


 何故か? それはあいつがいじめられたからだ。


 だから俺はあいつの傍にいた。一人だったらまたいじめられるから。


 じゃあ――いじめは解決したのか?


 プールに辿りついた頃、俺はまともに呼吸することが出来ないほど息を切らせていた。まだ風邪をひいた状態なんだ。無理をした代償はあまりにも明確に出ていた。


 だが、そんなことはどうでもいい。


 俺は無理矢理息を止めるように整えると、見慣れたクラスメイトがいるプールを見渡した。どうやら今日は好きに泳いでいい日のようで、泳いでいるやつがいればプールサイドで話す者もいる。ビート板でじゃれ合うバカもいて、一見すればどこにでもある小学六年生のプール風景がそこにはあった。


 だけど――なぁ、何でだ?


 何で、ここにはあいつがいない?


 今は――プールの時間だぞ?


 じゃあ、どうして――秋月がいないんだ?


 親にプールを休めと言われたあいつが、この場で目立つ私服姿のあいつがどうしていないんだ!?


 周りを見る。プールサイドにいるやつもいるがそいつらは全員水着姿だ。その中に秋月を見つけることが出来ない。


 じゃあどこだ!? どこにあいつはいる!?


 俺が視線を左右に振る。そして――見つけた。プールの隅で固まる、クラスメイトの一団を。寺崎という、秋月をいじめたグループを。


 あいつらはニヤニヤ笑いながら何かをしていた。プールの中なのでここから見えないが、見る必要もなかった。


 何故ならあの顔は、秋月をいじめていた時のそれだったから。


 ま、さか――!?


 走り出したのは、知らずの内だった。


 クラスメイトや担任教師の驚く目も気にせず、プールに飛び込む。姿勢も何もあったもんじゃないから腹から落ちた。服のままだから上手く泳げないがそれでも無様に、水の中に潜って行く。


 そしてそこで、俺は見た。


 プールの底で、ピクリとも動かない秋月の姿を。


「――!」


 意味もないのに名前を呼んでしまう。


 俺は周りの寺崎を無理矢理どかすと秋月を抱えてプールから出た。


 気を失い、その上水分を含んだ服を着たままの秋月はいつもの何倍も重く、半ば引きづるような形だ。


 それからプールサイドに出て、俺自身飲んでしまった水を吐きながら秋月を見下ろす。


 どうする!? 何をすればいい!?


 何をしていいのか分からず意味もなく周りへ首を回す。だがそれは結果的に正解だった。


 目に付いたのは、驚いた顔の担任教師。そうだ、小学校の教師なんだ。こんな時の対処法くらい知っているはずだ!


 そう思い俺が目で訴えるのに――おい、どうしてお前は、動かない?


 人工呼吸なりなんなり、何か出来るはずだろ?


 なのに、何でそこで呆けてんだよ!?


「おい! さっさと来い!」


 俺が我を忘れて叫べば、担任教師はようやく反応した。


 ――最悪の方向で。


「え、あ? え……?」

「――っ! 呆けてんじゃねぇよ!? 見りゃわかんだろうが! 秋月が溺れてんだ! さっさと何とかしろよ!?」


 そこまで言っても、担任教師は俺の方に来ることなく、ぶつぶつと何かを呟くと、クラスメイト達が見る中、走り出した。


 ――プールの、出口に向かって。


 ……は?


 一瞬、頭の中が真っ白になる。


 逃、げた……?


 ……おい。おいおいおいおいおいおいおいおい!!


「――っざけてんじゃねぇぞてめぇぇぇ!?」


 思わず、叫んだ。


 だが、そんなことをしても担任教師が戻ってくることはなくて。


 時間が止まったように、その場に沈黙が落ちた。


 誰も、動こうとしない。どう動いていいのか、分かっていない。


 俺も、寺崎達も、他のクラスメイト達も。


 だけど、本当に時間が止まった訳じゃない。


 今この瞬間も――秋月は死に向かっている。


 そう、理解した瞬間――俺は左手でプールサイドを殴りつけていた。


 一度、二度と、力の限り殴り付ける。子供の力だ、硬いコンクリートが砕けるわけもなく、逆に俺の拳が壊れた、皮が剥げ、血が滲む。それでも俺は狂ったように殴り続け――そしてようやく、正気に戻った。


 落ちつけ――痛みで無理矢理落ち着かせた精神に言い付ける。


 混乱はしている。冷静ではない。


 それでも、何も出来ない状態ではなかった。


 吐き気を催し喉に酸をぶちまけたような不快感を息と共に飲みこんで、俺は震える身体を秋月へ向けた。


「きゅ、救急車だ!」


 クラスメイトの一人を指差し、叫ぶ。


「今すぐ救急車を呼べ! 携帯でも何でもいいから!!」

「……え、私? でも……」

「いいからさっさとしろ!」

「は、はい!」


 それから別の奴に向かって、


「お前は保険医だ! 保健室の先生を呼んで来い!!」

「わ、分かった!」


 走り出した二人を見て、俺は異常なほど速く動く心臓を必死に抑え込み、秋月を見下ろす。


 平静を、取繕え。


 痛む拳を握りしめ、自分に言い聞かせる。


 思い出せ。車の免許を取った時、人工呼吸のやり方を習ったはずだ。


 落ちつけ、落ちつけ……!


 まずは、意識の確認をしろ。


 秋月の頬を叩く、反応がない。


 口元に、手をやる――呼吸していない。


 そ、それから気道を、どうするんだ……!? た、確か真っ直ぐに、いや斜めに? 顎に手を当てていたような――本当にそれで正しいのか?


 俺は首を振る。


 ――正しくなかろうと、このままじゃ秋月が死ぬだろうが!


 だったら、てめぇのやれることをやりやがれ!


 拳をもう一度打ち付けると共に、俺は痛みに顔をしかめながら秋月の顎を持ち上げるようにし、額を押す。これで、気道が確保されたはず、だ……それから、鼻をつまんで、人工呼吸をする。


 そっと、秋月の胸を見る。上下していればいいはずだが、分からない。


 それでも、やらないとこいつが死んでしまう。


 それは、ダメだ――絶対にあってはならない!


 ガキが不幸なまま死ぬなんざ、俺は絶対に許せない!


 だから、秋月――


 秋月の胸に両手を当てて、押す。心臓マッサージ。


 押す、押す、押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す押す!


 戻れ、戻れ戻れ戻れ!!


 息を吹き込む、胸を押す。


 秋月は目を覚まさない。


 息を吹き込み胸を押す。


 秋月、秋月秋月!


 死ぬな! 戻れ! 戻ってこい!! 戻ってきてくれ!!


 お願いだ! 頼む……頼むから――!


 戻れ戻れ戻れ!!


 秋月、秋月秋月――


「戻ってこい!! 秋月!!」

「――けほっ」


 どれくらい、同じ作業を繰り返していたのだろう。


 息を切らせる俺の前で、秋月が音を出した。


 呼吸の音。しん、と静まり返るその場で、秋月は思い出したかのように飲んでいた水を苦しそうに吐きだすと、虚ろな目で俺を見てくる。


『ハジメくん……?』


 目で訴える秋月に、俺は――答えられなかった。


 何も言葉が、出なかったから。


 ただ、秋月を抱きしめることしか、出来なかったから。


 秋月が不思議そうに俺を見ているのが見なくても分かった。


 当然だ。いきなり抱きしめられてすぐに合点がいくやつなんていやしない。それでも、秋月が戸惑うと分かっていても俺は、自分を止めることが出来なかった。


 今、秋月を離してしまえば、こいつがどこか遠くに行ってしまいそうだったから。


 遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。


 頭に響くその音が、やけに耳に残った。




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