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6/12

俺は、知っていたはずなのに

 それからすぐ、秋月は体調を悪くした。


 恐らく以上に五月女のことが原因だろう。ふらつき、立っていることさえ出来なくなったあいつを保健室に送る。


 その間、ずっと秋月は俯いていた。


 そんな彼女に、俺は何も言えなかった。


 何を言えばいいか、分からなかった。


 何が、悪かったんだろうな?


 上手くいっていたと、俺は思っていた。


 実際、秋月は五月女という同性の友達が出来て、今まで以上に笑顔でいるようになった。五月女だってそうだ。同じクラスだった時には見せなかった笑顔をあいつは浮かべていた。


 なのに今、五月女は逃げ出し、秋月は苦痛の中にいる。


 ……俺は、どうすればよかったんだ?


 保健室のベッドで、気を失うように眠った秋月を見て、思う。


 新しい友達を、作らなければ良かったのか?


 下手な大人の考えを、無作為に押しつけなければ良かったのか?


 そうすれば、こいつがこんなに傷つくことはなかったのか?


 ……わからねぇ。わからねえよ……!


 なんだよ、これ。



 結局俺は、何も変わってねぇじゃねえか。


 秋月を支えたい、そう思ったはずなのに……結局、俺は――そう考えた瞬間、俺は自分の顔面を殴りつけていた。


 利き手が、鼻にぶつかる。寸での所で加減してしまったので骨が折れたりはしないが、ツンと鼻の奥に衝撃が来て、自然と涙が溢れた。


 だけど、その痛みで俺は正気に帰る。


 あぁ、知っているさ。


 俺は、誰よりも劣っている。


 自分のことなんてどうでもいいし、生まれ変わっても諦めきってるようなクソ野郎だ。


 そんなこと、もう二十年も前から自覚したことだろうが。


「……ったく、少し救われたくらいで俺が変われると、そう思ってんのかよ?」


 だったら、笑える。


 勘違いも甚だしい。


 俺みたいなやつが変われる訳、ないだろうが。


 それでも、あぁそうさ。


 決めたんだ――俺は眠る秋月の手を握って、思う。


 こいつの味方になるって。


 助けてやれるほど俺はすごい人間じゃない。


 だけどそれでも、こいつの隣りにいてやれる。その程度は出来るはずだから。


 だから、俺は今、やれることをやろう。


 保険医に秋月を任せ、俺は教室に戻った。


 秋月を送ったため、もうホームルームが始まっている。その途中で入って来た俺に担任が迷惑そうな顔をするがどうでもよかった。


 見るべきは、こいつじゃない。


 俺が視線を向けるのは、秋月をいじめる男子生徒のリーダーだ。確か名前は寺島だったか。そいつを見て俺は、違和感を覚えた。


 何故ならあいつの態度は、俺の予想を外していたから。 


 寺崎は俺と目が合うと、睨みつけるようにこちらを見て来た。敵意を隠さないそれはけど、だからこそいつも通りだった。


 ……あいつじゃ、ねぇのか?


 てっきり、俺は寺島が秋月と仲良くしている五月女を知って隣りのクラスの奴にいじめさせてるんだと思っていた。


 だが、だったらだ。どうしてあいつは目論見通りの結果になったのに笑わない? 俺もあいつのことをそう知っている訳じゃないが、今までの経験からもしあいつの差し金だったなら寺島は俺にニヤニヤといやらしい笑みを向けてくるはずだ。


 それがないってことは……


『私ね、こんな性格だから、友達が出来なくて、本当は寂しかったの』


 ……そういうことなのか?


 だとしたら、だとしたらだ。


 ――いや、まだ確証は持てない。


 だが、もしだ。もし俺の予想が当たっていたんなら、一つだけ確かなことがある。


 あぁ、それは――俺が大馬鹿野郎だってことだ。





 昼休み、俺は秋月がいる保健室に向かった。


「秋月さん? いえ、昼休みが始まってすぐ、出て行っちゃったけど?」


 保険医の言葉に、俺は目を丸くして、それから小さくため息を吐く。何となくだが、あいつがどこにいるのか見当がついた。


 一階にある保健室から階段を上って3階の図書室に入れば、図書室の一番隅の机のその隅――五月女がいつも座っている場所に、見慣れた小さな身体を見つける。


 肩を落とし、暗い表情で顔を俯かせる秋月を。


『やっぱりここだったか』


 メモ紙をあいつの前に出せば、秋月は顔を上げて、けどすぐに俯いた。


 俺は何も言わず、あいつの前に腰を下ろす。


 図書室は、静かだった。ある程度人がいるが、小学校ということもあり人はかなり少ない。だけどそんな中で、俺たちだけは妙に重たい沈黙を纏っている。


 俺は、何も言わなかった。


 秋月は、何も言えなかった。


 言葉を話せないこいつは、だから文字で俺に伝える。


『ねえ、ハジメ君

 私、嫌われちゃったのかな?』


 そのメモ紙は、少しだけ濡れていた。秋月の綺麗な文字を、滲ませている。こいつ自身の涙で。


『私、やっぱりダメなのかな?

 話せないから、煩わしかったのかな?

 面倒くさい子って、思われちゃったのかな?』


 差しだされるメモに、俺は表情を曇らせる。


 こいつはたぶん、答えを聞きたいんだ。


 俺の言葉で。


 俺がイエスと言えば、あいつはそう思い諦めるんだろう。


 俺がノーと言えば、秋月は諦めることなく進もうとするんだろう。


 だから、俺は――秋月を突き放した。


『俺に聞くな』


 メモ紙に書かれた俺の言葉に、秋月は目を見開く。


 驚いたような、そんな表情。


 そんな秋月に、俺は何も言わない。


 もし、ここで俺が何かしらの答えを言って、それに秋月が従ってしまえば、何も変わらなくなってしまう。秋月が、自分で何かを決めることが出来なくなってしまう。そんな気がしたからだ。


 何より――本当に情けないことだけど、俺自身が誰かに答えを教えてやれるほど、出来た人間じゃないから。


 そんなてめぇが、本当に情けなくてぶん殴りたいけど、


『秋月、お前はどうしたい?』

「……」

『俺がどうしたとか、どうしろとかじゃない。お前自身が考えて、思って、感じて――五月女と、どうしたいんだ?』

「……」


 秋月は、答えなかった。


 いや、答えられないというほうが正しいのかもしれない。


 何も言わない秋月は、考えるのを止めていないから。


 俯いて、何かに耐えるようにぎゅっとその小さな手を握りしめている。


 そんなこいつに、俺は何もしてやれない。


 自分が情けなくて、笑えてくるくらいだ。


 けどさ、それでもきっとこいつなら――そう信じて、俺は席を立った。気配から察したのか、秋月は俺を見上げて来る。


 そんなこいつに俺は一枚のメモを渡した。


『答えが出たら、教えてくれ。それまで俺は、俺が出来ることをする』


 今までは、こいつの傍にいることしか出来なかった。


 だけど今、俺は秋月のことを昔より少しだけ、知っているから。


 信じられる。


 俺が一緒じゃなくても、きっとこいつなら大丈夫だと。


 秋月は、俺と、そして渡されたメモを見て、少し迷ったように視線を彷徨わせるが、それでも頷いた。


 そんな秋月に俺も頷き返して、俺は図書館を出ていく。


 廊下を歩きながら、俺は思う。


 ……俺も、多少は変わったのかね。


 相手が秋月だからと言って――人を信じるなんざ。


 上辺ばかりの笑顔を浮かべて、他人どころか身内さえ信じていない俺が。


 ……らしくねぇな。


 そうは思うが、それでも俺の中の考えが変わることはなくて。


 俺は、いや、俺たちは少しだけど確かに変わりながら、進んで行く。


 最初の日、秋月は結局答えを出せないまま家に帰って行った。


 何を迷うことがある、なんて俺には言えない。あいつの気持ちが分かるのはあいつだけだが、それでも何となく、秋月が何に迷っているのか察しがつくからだ。


 きっと、恐いんだ。あいつは一度、五月女のことを信じている。だけどその五月女から、拒絶の言葉を受けた。だから、恐いんだ。もう一度友達を信じて――もう一度、拒絶されるかもしれないのが。


 それでも迷っているのは、きっと、あいつは……。


 そうして、月日は流れる。


 毎日毎日、辛そうに、秋月は考え込んでいた。だけどそれは、本当に考えているということだ。上辺だけじゃない。形だけじゃない。苦痛で顔が歪むほど、こいつは五月女のことを考えているんだ。


 一生懸命に。


 そんなこいつに、俺はもう言葉を送ることしか出来ない。


 頑張れと、無責任な応援をしてやることしか出来ない。


 それが秋月のためだと、あぁ、分かってるさ。


 これは、こいつが自分で答えを出さなきゃいけねぇことだって、そう言ったのは俺だ。


 その考えは、今だって変わらない。


 ただ、それでも……どうしようもなく、歯痒い。


 何も出来ない俺が。


 何かをしてやれない、自分自身が。


 そうして、一週間が過ぎて。


 秋月が、答えを出した。


 いつもの図書室で、いつもの昼休み。


 たった一つ違うのは、そこに五月女がいないこと。


 秋月が、俺へ言葉を綴る。


 その顔に、隠せないほどの不安の色を浮かべて。


『ハジメ君。

 私、私

 やっぱり、恐いよ』


 何が、なんて聞くまでもなかった。


 あぁ、知っているさ。


 お前が、そして昔の俺が何を恐がっていたのかなんて。


 そうだよな。


 信じたい人に裏切られるかもしれないのは――本当に恐いんだ。


『私、考えたの。

 ずっと、ずっと、考えたの。

 梓ちゃんのこと、信じたい。

 だって、梓ちゃんは、梓ちゃんは

 初めての、友達だから』


 メモは、続く。


『でも、でも

 だから恐いの。

 梓ちゃんは信じて。

 また裏切られたら。

 そう思ったら、恐くて、信じられなくて』


 秋月は、震えていた。


 その小さな身体を、悲しさと寂しさと、恐さで震わせている。


 だけど、


『でも

 でも』


 震えながら、それでも、上げた顔は


『信じたい』


 涙で濡れて、ボロボロだけど。


 まともに見れないくらい、酷い有様になっているけど。


 それでも、その瞳には、涙の滲むそれには、決意の色が見て取れた。


『信じ たいよ。

 裏切られるかも しれないけど

 それは、とっても恐いけど。

 でも、それでも

 私 私。

 梓ちゃんのこと、信じたい』


『だって』と秋月は続ける。


『梓ちゃんは

 私の大切な

 友達だから』


 ……そう、か。


 俺は、たった一言、それだけしか言えなかった。


 情けないとは思うけど、それ以外に言葉が思いつかなかったんだ。


 こいつは、秋月は、ただ五月女を信じたわけじゃない。


 裏切られるかもしれない。そう考えて、それでも、信じようとしている。


 それはきっと、強さなんだと俺は思う。


 だから、あぁ。


『伝わるさ』


 俺は、文字を綴った。


 俺らしくない、根拠も確信もない言葉を。


 けどさ、確信はなくても、予感はあった。


 きっと、秋月のこの想いは届くと。


 俺みたいに上っ面の気持ちじゃない、秋月の、悩んで、迷って、考えて――そして見つけた答えは、きっと。


 あの、恐がりで、だからこそ優しい五月女に、ちゃんと届くはずだ。


 俺は秋月の綴ったメモを纏めると、秋月の小さな手を握って歩きだした。


 視線で秋月が『どこに行くの!?』と聞いて来る。そんな彼女に俺も視線で答えた。


 ――五月女の所だよ。





 前世の俺である西オサムは、小学生の頃いじめられていた。とはいえ、今思えばそんな大きなことではなかった。キモイとかウザいとか、悪口を言われ、皆が昼休みサッカーをしている時、仲間外れにされた程度だ。


 だが、その時の俺は正真正銘の子供で、そんな些細な嫌がらせさえ本当に辛かった。だけど、そんな中でも小さいとはいえプライドがあったんだと思う。泣かれている所を誰にも見られたくなかった俺は人気のない場所で独り、泣いていた。


 だから、あぁ、そうだよな、五月女。


 お前も今、そんな気持ちなんだろう?


 手入れの行き届いていない中庭の花壇に、普段人がいることはない。


 だからこそ、一人になるにはうってつけの場所だ。


 そんな場所に一人、五月女が一人でいた。五月女はどんな想いで今、花壇の伸びきった雑草を眺めているのだろうな。


 校舎を影にしながら、俺と秋月は五月女を盗み見る。


『五月女はあそこにいるけど、どうする?』


 メモ紙で問えば、秋月は迷うように俺と、そして五月女を見て、それから俯いてしまう。


 まぁ、そうだよな。いくら決意したっていきなりは会えないんだろう。


 それでも、秋月は前に進もうとしている。


 迷うその目を、俯かせて、それでも五月女に向けようとしている。


 ――そんなこいつの背中を押すくらいは、俺にもしてやれるんだろうか?


「……?」


 急に携帯電話を取りだした俺に秋月が不思議そうな視線を向けてくる。


 俺は答える代りにメールを打ちながら、視線を五月女に移した。秋月が釣られてそちらに目を向けた時、五月女がいきなりビクリと震える。


 五月女はあたふたと慌てたように意味のない動きを繰り返すと、不意にポケットから携帯電話を取りだした。


「……峰岸君?」


 一人呟いて、それから五月女は迷うように携帯の液晶を見つめる。どれくらいそうしていただろう。五月女は意を決したように指を動かし始めた。


 それを見て、俺は俺が五月女に送ったメールの内容に秋月に見せる。


『今、どこだ?』


 サイレント・マナーモードの携帯が音もなく返信を受け取った。


『学校』


 また大雑把な。


 とはいえ、返信したってことは最低限話す気はあるってことか。


 ……いや、もしかしたら寂しかっただけなのかもな。


『そうか、秋月が心配してるぞ?』


 少しの間の後、


『峰岸君は、知ってるの?』


 先ほどと同じように、大雑把な書き方。秋月が目を丸くする。


 だけど今度のこれは、たぶん理由があるんだろうな。


 ……そりゃそうか。


 誰だって、自分から言いたくないことくらいある。


 でもな、五月女。お前には悪いと思ってるけど、俺はもう、知ってんだよ。


 秋月が悩んでいる間、俺も遊んでいた訳じゃなかった。


 俺なりに、色々探りを入れたんだ。特に、五月女のいる六年一組から。


 あぁ、あいつらはすごく楽しそうに話してくれたよ。俺が『五月女ってやつ、ウザいよな? 俺もいじめたいんだけど、何であいついじめられてんの?』って笑いながら近づいただけで。


『知ってるよ』

『じゃあ、分かるでしょ?』


 五月女のいる場所から、嗚咽の音が聞こえた。


『私がいじめられてる理由』


 メールの文字に、秋月は俯いた。


 きっとこいつは、俺と同じ勘違いをしてるんだろう。


 秋月と――自分と一緒にいたから、五月女はいじめられたんだ、と。


 だから五月女は、自分に『もう話しかけないで』と拒絶したんだと。


 だけどそれでも、秋月は今、ここにいる。


 五月女を疑って――それ以上に信じているから。


 だから俺は、秋月をここに連れて来た。


 こいつならきっと、五月女。お前の優しさを受け止めてやれると、そう思ったから。


「私、私が……」


 嗚咽交じりの声が響く中、俺の携帯にメールが送られる。


『私が、人殺しの娘だから』





 一か月ほど前のことだ。


 俺は知らなかったのだが、この町で交通事故が起こったらしい。


 夜のことだった。被害者はジョギングで外に出ていたらしい。そんな見通しの悪くない道ではあったが、この町は分類としては田舎に入るから、街灯がないところだってまだある。それこそ、夜になれば光源が星だけになる所も。


 歩道と車道の境目を走っていた被害者は後ろから軽自動車に跳ねられた。反射板等は付けていなかったようだ。ただでさえ暗い道ということもあり、恐らくは加害者の方も気付けなかったのだろう。


 問題になったのは、加害者のそれからの行動だ。


 加害者の男は、自分が誰かを引いてしまったことに気付いて咄嗟に逃げだしてしまった。轢き逃げだ。もう手遅れなのでどうこう言うつもりはないが、あるいはその場で救急車を呼んでいれば助かったのかもしれない。


 だが、男は呼ばなかった。


 だから、被害者は死んだ。


 言うなれば、加害者が殺したも同然だ。


 家に帰った加害者の男は恐くなり、自首する。


 だが、例え自ら出頭したとしても罪が消えることはなかった。


 被害者の名前は羽野理恵――俺が通う学校の、六年一組の女子の母親。


 そして加害者の名前は五月女貞治――秋月の友達、五月女梓の父親だった。




 それが、俺が隣りのクラスの奴に聞いた五月女の現状だった。


 俺が伝えた真実に、秋月は目を見開いた。


 頭の中で整理が追い付かない、そんな表情だ。


 あぁ、俺だってそうだったさ。


 初めてこれを聞いた時、正直どうすればいいか分からなかった。


 俺には、確かに大人としての知識がある。だけどそれでも、俺はただの、いや、それ以下の人間でしかない。誰かを助けることなんて出来ないし、誰の助けにもなってやれない。


 それこそ、こんな人死にが絡んだ話なんざどうしようもないんだ。


 だけど、もし――そんな考えなら浮かんできた。


 もし俺が五月女と同じ立場だったら、俺はどうする?


 それは、益体のない考えだが、過程でしかない妄想だけど――


 秋月が、気付いたように顔を上げた。その顔はまず驚き、それから、ゆっくりと涙ぐんでいく。


 メールが、届いた。


『私、死にたかった。

 もともと一人だった。

 一人は、寂しくなかった。

 でも、いじめられたら辛かった。

 人殺し。そう言われるだけで、死にたくなった』


 嗚咽が、止まらない。


『でも、そんな私に、峰岸君が声を掛けてくれた。

 姫乃ちゃんと、出会わせてくれた。

 友達が出来て、本当に、嬉しかった』


 今思えば、俺は大馬鹿野郎だ。


 思い出すのは、あの映画の帰り道の台詞。


『姫乃ちゃんと友達になる切っ掛けを作ってくれて、ありがとう』


 五月女が、どんな気持ちでこの言葉を紡いだのか、欠片も理解してやれていなかった。


 五月女が、どんな想いで秋月を拒絶したのか、何も分かってなかった。


「だから、っぐ、うぇ、だがら……!」

『だから、私、もう姫乃ちゃんの友達でいられない』

「だって……だっで……」

『私といると、姫乃ちゃんまで、いじめられちゃう』

「……!」

『私、いやだよ』

「私のせいで、姫乃ちゃんが、いじめられるなんて……」

『姫乃ちゃんは、私の大事な』

「大事な、初めての――」

『友達だから』


 俺の横を、秋月が走って通り抜けて行った。


 見れば、勢いを出し過ぎて抱きついたため花壇の中に飛び込んだ形の秋月と五月女がいる。


 五月女は、涙で赤くなった目を丸くしてぽかんとしていた。そんな五月女に抱きついて、秋月は泣いていた。


 校舎の陰から出て、頭をかきながら俺は五月女に手を上げる。


「よう」

「……え?」


 まだ頭が追い付いていないんだろう。五月女は目を丸くしたまま、けれどその瞳はゆっくりと現状を理解していく。


 たぶん、分かったんだろう。


 俺と秋月がここにいる理由が。


 そして、秋月がどうして泣いているのか。


 五月女の胸の中で、秋月は泣きながら、それでもメモ帳に文字を綴っていく。


『ごめんね

 ごめんね

 梓ちゃんは すごく悲しい目にあってたのに

 私 何も知らないまま

 梓ちゃんのこと 疑ってた』


 涙で掠れたその文字を見て、五月女は首を振る。拍子に、瞳に溜まった涙が零れた。


 俺は苦笑しながらポケットからあるモノを取りだす。


 それは、数枚の紙切れだ。


 図書室で秋月が綴った、五月女への想いは書かれたメモ紙。


 綺麗な字が綴られたそれを、五月女に渡す。


 それを見て、五月女はぎゅっと、秋月を抱きしめ返した。


 伝わったんだろう。秋月の想いが。


 五月女の優しさが、秋月に届いたように。


 それから、五月女は静かに涙を流した。


 どうしてだろうな。その涙が、泣き顔が、俺にはとても、安らいで見えた。


 そして、今度は五月女が、想いを紡いだ。


『姫乃ちゃんは、悪くないよ。

 だって、私だって、信じられなかった。

 姫乃ちゃんがいじめられるから、離れた。

 私はそう言ったけど、それは本心だけど。

 でも、それと同じくらい――姫乃ちゃんに嫌われるかもしれないのが、恐かった』


 携帯電話に記された文字を、秋月は泣きながら見ていた。


『私、人殺しって言われて、それがすごく辛かった。

 でも、そんな私に姫乃ちゃんは笑顔を向けてくれた。

 それが嬉しかったから――恐かったの。

 もし、私の秘密を知って――姫乃ちゃんまで、私を人殺しって呼んだら。

 そう思ったら、恐くて恐くて』


 結局、こいつらは似た者同士だったんだ。


 互いが大事だからこそ、信じることが恐かった。


 互いが大事だからこそ、離れようとした。


 ――そんなこと、する必要なんざありゃしないってのに。


 ただ、言葉を、文字を交わせばよかったんだ。


 それが難しいことを、俺は知っているけど。


 けどな、だからこそ今――お前たちは、通じ合ってるんだろ?


 秋月は、五月女の文字に首を振って、メモ紙を出して見せた。同時に、五月女も携帯電話で文字を綴って、


『『ごめんね』』


 同じ言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。


 秋月も五月女も、目を丸くして、それから小さく微笑む。


 きっと、お互いどうして謝ったのか、分かり合ったんだ。


 俺の視線の先で、秋月が文字を綴った。


『梓ちゃん。

 私は、梓ちゃんのことを信じられなかった嫌な子だけど

 それでも私は、梓ちゃんの友達でいたい。

 だから もう一度、私と友達になってください』


 それは、秋月が決めた答えだった。


 俺を頼らない、秋月姫乃が自分で考え、悩み、導き出した答え。


 だからこそ、あぁ。


『うん』


 そう、泣き笑いの顔で答える五月女は、お前の本当の友達だよ、秋月。





 昼休みが終わる10分ほど前、俺と五月女は保健室に向かって歩を進めていた。


 理由? 俺の背中ですやすやと赤ん坊のように眠っているガキンチョのせいだよ。


 五月女と和解してからすぐ、秋月は緊張の糸が切れてしまったように眠ってしまった。最近顔色も悪かったし、あんまり眠れてなかったみたいだから仕方ないと言えば仕方ないが。


「……たく、なんつーか世話が焼けるな……」


 まぁ、子供だから仕方ないか。


 俺の独り言にくすりと笑う声が聞こえた。半目でそちらを向けば、五月女が笑っている。


「……なんだよ?」

「ううん、峰岸君って、すごく姫乃ちゃんを大事にしてるなって」


 楽しそうな五月女に、俺は小さくため息を吐く。


「ま、否定は出来ないな……」


 昔の俺だったなら、照れてあることないこと言っていたかもしれない。そういう意味ではこうやって冷静に答えられる冷めた性格も悪くはないのかもしれないな。


 ……良くもないけど。


 よっと、秋月を背負い直す。


 その拍子に、秋月の顔が肩越しに間近で見えた。


 何ともまぁ、安心して眠っていやがる。


 アレだな、俺はこの顔を知ってるぞ。確か西オサムの時、姪っ子を連れた姉さんの買い物に付き合った帰り道でその姪っ子が姉さんにおんぶされて眠ってる時と同じ顔だ。


「……ますますお父さんになった気分だ」

「そうだね。何だか峰岸君って、姫乃ちゃんのお父さんみたい」

「……そうか?」

「うん」


「何ていうのかな」と五月女は続ける。


「峰岸君が姫乃ちゃんを見る時の目って、すごく優しいもん」

「……」


 俺が、優しいね……


「違うぞ、五月女」

「え?」


 目を丸くする五月女に、俺は言った。


「本当に優しいっていうのはな、秋月みたいなやつのことを言うんだよ」


 俺のは違う。


 ただの、同情だ。


 しかも俺が勝手に秋月を可哀想と、決めつけての。


 ……ったく、何様だよ、俺。


 俺の思考が相変わらずマイナスに行く中、五月女は小さく頷いた。


「……そうだね。姫乃ちゃんはすごく優しい……でもね、それは峰岸君がいるからじゃないの?」

「……」

「姫乃ちゃんだけじゃ何も出来ないなんて言うつもりはないよ? だって私は、姫乃ちゃんが友達だから、今、笑えるんだもん。でもね、姫乃ちゃんがこうやって笑えるのは、私が姫乃ちゃんに優しくしてもらえたように、姫乃ちゃんも峰岸君から優しくしてもらえたからじゃないかな?」


 ……。


 俺は、違うと答えようとして、止めた。


 五月女のことだ。俺がどれだけ否定しても自分の意見を変えることはないだろう。それはきっと、あいつの美点だ。


 それにもし、この問答にこれ以上俺が答えようとしたら――声を、荒げていたかもしれない。


 何を言うのか、俺の中で決まっている訳じゃないけど、何となく、そんな気がした。


「……お前は、どうなるんだ?」


 話を変えた俺に、さほど不信感を抱かなかったようだ。


 五月女は「うん」と一度小さく頷いた。


「私、お母さんがいないからお父さんと二人暮らしで……そのお父さんも、あの事故以来、何だかおかしくなっちゃって、今、入院してるの。私は上手く分からないけど、伯父さんの話じゃ精神的に追い詰められてるって」

「……そうか」

「それでね、伯父さんが、お父さんが治るまで一緒に住まないかって言ってくれてるの」


 ま、そうなるわな。


 俺はその、五月女の伯父というのを知らないが、最低限良識のある大人らしい。


「じゃあ」

「ううん、行かない」


 首を振る五月女に、俺は正直驚いた。


 てっきり、世話になるとそう思ったからだ。話しを聞く限り、今五月女は一人で家にいるはずだ。俺も独り暮らしだが分かるが、家事炊事を自分一人でしないといけないということはそれなりに大変だ。それこそ、五月女のような本当の子供には。


「どうしてだ?」

「だって、伯父さんの家に行ったらここから離れることになるし、そうしたらお父さんが一人になっちゃうかなって」


 いや、転院すればいいだけ……ってそれを知らないのかもな。


「……つまり、父親のために残るってことか?」


 不意に、口が動いた。


 俺自身が聞いたことのないような、低い声。


 俺は驚くが、言葉は勝手に溢れてくる。


「事故を起こして、他人どころかてめえの娘にさえ迷惑を掛けた挙句、自分は病院のベッドですやすや眠る、そんな男のために!」


 なに、口走ってやがる!


 それは、俺の親だろう!?


 五月女の親父がどんなやつかも知らねぇのに、好き勝手言ってんじゃねぇよ!


 理性がそう言うが、俺の言葉はどうしても止まらなかった。


 急に激昂した俺に驚きながらも、五月女が浮かべたのは困った笑顔だけだった。


「……それでも、お父さんだから」


 その言葉に、急激に頭に上った血が一気に下がった。


 俺は、何にキレていやがる。


 いや、分かってる。この不快感が、俺自身でも止められない罵倒の理由が。


 重ねたんだ、五月女の親と俺の親を。


 勝手に重ねて、勝手にキレたんだ。


 ……ハタ迷惑にも程があんだろ……。


「……悪い、お前の父親を悪く言って……」

「ううん、気にしないで……」


 ……何か、一気に空気が悪くなったな。


 自業自得な分、どうしようもない。


 さて、どうしたものか――と俺が考えた所で、誰かが俺の髪を引っ張った。


 いや、誰かって言うか一人しかいないけど。


 ……秋月さん、貴女はどうして俺の髪をいじくってんのかな?


 寝相が悪いにも程が――っておい、引っ張るな! 噛むな頬張るな涎が付くだろーがこのガキぃ!


 俺は必死に秋月を振り払おうとするがいかんせんその秋月を背負っているので手が空いていない。首を振ってみるが焼け石に水だ。


 くそ、床屋に行くのが面倒で伸ばしっぱなしだったのが仇になった! ええい止めんか肩に涎がぁ!


 悪戦苦闘する俺の耳に、噴き出すような笑い声が響く。


「ふふ、あははは!」

「……笑う暇があったらこいつをどうにかしやがってくれませんかねぇ……」


 言ってはみるが五月女は笑うのを止めなかった。そんなこいつに俺は小さくため息を吐きつつも、内心で秋月に感謝する。


 寝ぼけてとはいえ、そのおかげで重い空気はなくなったんだから。


 一頻り笑い終わり、五月女は思わず出た涙を苦しそうに拭き取って、


「でもね、ここに残りたいのはお父さんのことだけじゃないよ?」


「だって」と五月女は続ける。


「ここには、私の大事な友達がいるから」


 抱きしめるように、優しく、紡ぐ言葉。


「私一人だったら、たぶん伯父さんの所に行ってたと思う。誰も信じられなくなって、ずっと自分一人だけの世界に閉じこもってたんじゃないかって。だけど今は、そう思わない。私は一人じゃないから、そう教えてくれた友達がいるから、だから大丈夫」


 そう言って笑う五月女が、俺には酷く眩しく見えた。


「……きっと、またいじめられるぞ?」

「……うん」

「謝ったって、許してもらえない。親の失敗を子供に押しつけるバカがいなくなるなんて甘いこと、ありえないんだぞ?」

「そう、だね……」

「それでも――」

「それでも私は、ここにいる」


 断言する言葉に、俺は目を丸くして、それから小さく息を吐いた。


 こいつは、まだいじめられることをちゃんと理解して、それでもなおここにいようとしているんだな。


 なら、これ以上俺が言うことなんざありゃしない。


 あぁ、だってそうだろ?


「ここには、私を友達って呼んでくれる人がいるから」


 そんな子供らしい笑顔で言われたら、否定できるわけがないんだから。


 甘いのは、分かってんだけどな……。

 俺はもしかしたら、この選択を後悔するかもしれない。


 人間の恐さを、俺は俺なりに知っているから。


 信じていれば裏切られる。


 信じなければ、疎まれる。


 ただ、それでも――思ってしまうんだ。


 俺みたいなクソ野郎がどうなってもいいから、せめて、弱くて甘くて世間知らずな、だからこそ優しい秋月や五月女が、子供らしく当たり前に幸せになれる、そんないつかが来ることを。


 らしくないにも、程があるよな。


 ただ、それでも信じたかった。


 こいつらなら、きっと幸せになれると。


 世界は、その程度には優しくあって欲しいと――信じたかった。





















 そんなこと、ある訳ないことを、俺はどこまでも知っていたのに。












 五月女と和解した翌日、秋月が学校を休んだ。


 担任の話では、風邪ということらしい。夏風邪か、性質が悪いもんに罹ったモノだ。


 昼休み、そのことを五月女に話せば、お見舞いに行こうという話になった。大袈裟だろうと思うのだが、五月女は譲らない。


「風邪の時って一人だとすごく寂しいんだよ?」


 まぁ、分からないでもないな。


 いや、だが秋月にも親がいるから大丈夫……そう考えた所で、俺は何故か嫌な予感を覚えた。


 それは、上手く言葉に出来ない感情。

 だけど、覚えのあるそれでもあった。


 そうそれは、あの日。秋月の補聴器を探して、それからあいつを背負ってあいつの家に行こうとしたあの時、抱いた小さな疑念。


 あの時、秋月が起きたからそちらに気を取られて忘れていたけれど、どうしてそれを、今思い出す?


 あの時思った――秋月の言葉が、親にさえ届かなかったという仮定。


 いや、考え過ぎだ。


 俺は必死に自分の頭に浮かんだ考えを打ち消す。


 だけど、どうしてか考えは消えてくれない。


 ねばりつくカビのように、俺の思考の片隅を侵食していく。


「み、峰岸君……?」


 呼ばれ、そちらを見れば、五月女が心配そうに俺を見ていた。


「大丈夫? すごい顔色悪いけど……」

「……あぁ、大丈夫だ」


 そう答えて、俺は立ち上がる。


 見下ろす五月女に、一言。


「今日は俺一人であいつの見舞いに行く」

「え、でも……」

「いいから!」


 思わず、声を荒げてしまった。


 五月女が身体を竦める。意味もなく恐がらせてしまった。


 俺は「悪い」と小さく謝ると、図書室を跡にした。


 これ以上ここに居ても、無駄に五月女を恐がらせてしまうような気がしたからだ。


 それから、いつにも増して身の入らない授業を全て受け終わった俺は覚えていた秋月の家の住所へ向かった。


 その間も嫌な予感が消えてくれることはなかったが、それでも俺は思う。


 きっとこれは、ただの勘違いだと。


 秋月の親は仕事が忙しくて、あまり自分の子供の面倒を看れていないだけだ。それに対して思うことはあるものの秋月を嫌ってはいないだろう。


 そう、ちょっと忙しいだけで本当はとても秋月を大事にしている、そんな立派な親のはずだ。


 きっと俺は、秋月の親に驚かれながらも迎えられて、これといって面白くもない会話を秋月と繰り広げて、それから帰るだけだろう。


 嫌な予感も気のせいだった、俺って恥ずかしいな、とか帰り道思うんだろうな。


 それでいい。


 それがいい。


 そう、思うのに――何で、どうして、吐き気が止まらない?


 腹の奥に、何かが溜まって行くような不快感が、消えてくれない?


 どうして、どうして、俺の前に、お前が倒れているんだ……?


 ――秋月。





 秋月の家の住所について俺が見たのは、最悪の、予感の的中だった。


 そこは、古いアパートだった。今時珍しい木造。安さだけが売りと言わんばかりのそこに俺は脚を踏み入れ、秋月の保険証に乗っていた部屋の番号の前に立つ。


 ……何だ、これは?


 玄関から部屋に入る。鍵は、掛かっていない。


 短い廊下。左手に扉が一枚。奥には開け放たれたリビングが見える。


 ……おい、おいおい……!


 リビングに入る。テレビがあった。テーブルがあった。流し台があった。冷蔵庫があった。空き缶があった。一枚の毛布があった。


 もう一つの扉から、部屋に入る。


 布団があり、ゴミ箱があり、使い終わったティッシュと脱ぎ散らかされた服があった。


 ……冗談、だろ?


 なんだよ――何なんだよこれ!?


 玄関の前には、吐き気のする匂いを放つゴミ袋が詰まれていた。


 廊下にもゴミ袋が重ねられ、リビングにはゴミが散乱している。ビールやチューハイの缶が投げ捨てられたようにそこらじゅうに転がり、カーペット濡らしているモノもあった。


 テーブルの上も、もはや何が置いてあるのか分からないほどごった返しになり、流し台からはゴミが腐ったような匂いがしている。


 冷蔵庫の中身は酒の缶ばかりだった。まともな食べ物が置かれていない。


 もう一つの部屋は――もう何も言う気になれなかった。


 これ……これは、


「これは何だよ!」


 俺は、叫んでいた。


 あまりにも理不尽な現状に。


 あぁ、思ってたさ! もしかしたら、そうかもしれないと!


 だけど、だけど外れてほしかった! 信じたかったし、信じたくなかった!


 だって、だってそうだろう!?


 親さえこいつを見捨てていたなんて――信じたくないだろうがよ!


 これが、これがガキを持った親が住む場所か!?


 こんな場所が、ガキが住んでいい場所なのか!?


 何より――こいつの居場所は、ここに――


「ここに、あるのかよ!?」


 ゴミだらけのリビング。夫婦の営みが繰り返されているもう一つの部屋。


 そこに子供が住める場所なんて、一つもなかった。


 叫ぶ俺は、ふと気付く。


 リビングの片隅にある、一枚の毛布。


 もはや布切れに近いそれを見て――俺は、最悪の想像をした。


 ……ここか?


 ここが、ここが……お前の居場所なのか?


 たった一枚の毛布。それがお前の寝る場所なのか?


 そんな場所しか、お前には与えられなかったのか……?


 ――毛布にくるまり、辛そうに顔を赤くして眠る秋月が、そこにいた。

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