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4/12

お前は今、泣いていいんだ

 俺という人間がクラスメイトにどう思われているか、正直なところ俺は知らない。


 たぶん、嫌われてはいないはずだ。誰かに話しかけて無視されることもなければ、班を決める時同じになっていやな顔をされることもない。


 だけどそれは嫌われていないだけで、好かれていることにはならないんだろうな。


 その証拠に、俺は滅多に話しかけられない。俺自身があまり話さないし、基本的に誰かといるより一人でいる方が楽だと考える根暗な性格せいだからだろう。


 前世から変わらない、誰の邪魔もしないが誰の役にも立たない。


 居ても居なくても同じ、石ころのような存在。


 それが俺だった。


 だからだろう。


 あの日、俺が秋月の味方でいようと決めた翌週の月曜日。俺は滅多にありえないクラス中からの視線に辟易していた。


 ま、そうなるか。


 いきなりいじめられていた秋月と、いつも独りの俺が、休み時間を共に過ごすようになれば。


 俺はクラス中の戸惑ったような視線に小さくため息を吐く。正直この視線は面倒だった。


 いや、面倒というより苦手というのが本音だ。


 一人でいる方が楽な俺にとって、誰かと視線を合わせて話すことは苦手以外の何物でもない。


『大丈夫?』


 気付かれないように吐いたつもりが、秋月には気付かれてしまったようだ。


 そっとメモ帳に書かれた綺麗な文字は、俺を心配してくれていた。


 ……だめだな、俺は。


 確かに面倒だし苦手だが、これは俺が決めて、俺がしようとしたことなんだ。


 秋月の味方になる――だったら、これくらいは我慢出来ないと始まらない。


『あぁ、大丈夫だ』


 そう、メモに書き返せば、秋月は安心したようにホッと息を吐く。


 そして――沈黙。


 いや、これは秋月が話せないからという訳ではなく、そのままの意味でだ。


 昼休みに入ってからもう十数分立つのだが、これと言った会話が俺たちの間にはなかった。


 周りでクラスメイト達が俺達を見てヒソヒソと何かを話しているのが聞こえるほど、俺たち二人の間には言葉が通わない。


 と言うか、俺は何を話せばいいんだ?


 前世から人と話すことをそうしなかった俺にとって、小学六年生の女の子と上手く話す方法なんて知る由もない。


 いや、むしろ嬉々として話し掛ける方が犯罪臭がして嫌だが。


「……」

「……」

「あー、なんだ、秋月……」

「……?」


 あ、そっか聞こえないんだった。


 俺は秋月に話しかけようとメモ帳を借りて、そこで止まる。


 ……なんて書けばいいんだ?


 ……取り合えず、


『趣味とか、あるか?』


 俺の問いかけに、秋月は嬉しそうに頬を綻ばせた。


 そうだよな。今までイジメられてたんだ。話しかけられれば嬉しくなるか。


 嬉々としてペンを滑らせる秋月に俺は少しだけ悲しくなる。


『本を読むこと』

『そうか』

『うん』

「……」

「……」


 あれ? また会話が途切れたぞ?


 というより、会話ってどうすればいいんだ?


 ……。


 考え込む俺。戸惑う秋月。そして無言の十数分が過ぎ、昼休みを終えるチャイムが鳴った。


 ……俺はその日の帰り道、『会話の途切れない話し方』という本を買った。


 本によると、会話は『続ける』モノで、出来る限り途切れないよう心がけると良いと書かれている。それが出来たら苦労はねぇよ。


 次に、相手と共通の話題があればそれを題材に話せばいいとあった。


 俺と秋月の共通の話題……あいつは確か、本を読むことが好きだって言ってたか。俺も本を読むこと自体は嫌いじゃない。前世ではラノベ限定だが結構小説も読んでいた。だが今の峰岸ハジメになってからというもの、教科書以外に本を読んだ覚えがない。


 ……国語の教科書でも読むか。


 そして翌日の昼休み、


『秋月、『スイミー』って知ってるか?』

『それって確か、二年生の教科書に書かれてた作品の?』


 何年生かは覚えてねぇけど、


『あぁ、それだ。それについてどう思った?』


 秋月は俺の問いかけに目を丸くしながらも、考えるように視線を空に彷徨わせて、


「……」

『羨ましい、かな』


 羨ましい?


 少しだけ寂しげな微笑と共に綴られた言葉に、俺は眉を寄せる。


『スイミー』は確か、一匹だけ黒い身体の魚が、赤い魚の群れでみんなを励まし、大きな海を泳ごうという、そんな話だったはずだ。こいつが羨ましいと思う点なんて、これと言ってないような気がするんだが。


 考え込む俺の前に、秋月の綺麗な字が綴られる。


『だって

 スイミーは皆と違うのに

 みんなの役に立てるから』


 私と違って――見えないその文字が、俺には見えた気がした。


「……」


 俺は、小さく息を吐く。


 それから、秋月の髪を乱暴に撫でた。


「……!?」


 秋月が驚いたように目を丸くして俺を見るが、手を止めたりはしない。


 色素の薄いこいつの髪がぐしゃぐしゃになった所で、俺は手を止めた。


『いいか、秋月』


 メモ帳に書くそれは、俺が全く思ってもいないことだ。


『この世に、誰の役にも立てない人間なんていないんだよ』


 そんな綺麗事、現実ではありえない。


 優秀なやつがいれば俺のように不出来なやつもいる。


 誰の役にも立てない人間なんて、大人になればそこらじゅうに転がっているのが見えるようになるんだ。


 けどな、それを知るのは本当に大人になってからでいい。


 だからな、秋月。お前はまだ、そんな風に自分を蔑まなくていいんだよ。


『お前だって、誰かの役に立てるんだ』

「……」

『無理だよ』


 四文字の言葉に、俺は言葉を返す。


『無理じゃねぇよ』


 少なくとも俺は、


『お前と話すの、嫌いじゃないからな』

「……」


 秋月は俺の綴った文字を見て、けど、笑わなかった。


 その目は、不安の色を表している。信じられないような、だけど信じたいような、そんな瞳だ。


 もうずっと昔に、俺も親に向けてそんな目をしたことがあった。


 ――俺は、裏切られたけど。


『どうして?』


 うん?


『どうして

 私にこんなに

 優しくしてくれるの?』


 さて、どう答えたもんか。


 正直なところ、俺はどうして秋月を助けたいのか、上手く言葉に出来ないところがある。


 可哀想だから、という言葉が浮かぶけど、それは違うような気がした。


 いや、確かにそういう気持ちはある。


 けど、それは正確じゃない。


 何より、可哀想だから助けるなんて上から目線で、俺はこいつと接したくないと思う。


 だから、たぶん一番近いのは――俺が、許せないんだ。


 目の前で、子供が不幸になるのが。


『実はな、秋月』


 だから俺は、そのままの気持ちを伝えた。


『俺には西オサムという前世の記憶があってだな』


 俺は正直に全てを話した。


 大体時間にして十数分か。簡略化したとはいえこれで説明できる俺の前世って……。


『と、言う訳で、俺は俺の前で子供が不幸になるのが許せないんだ』


 聞き終わってから、秋月は目を丸くていた。


 さてどうなる?


 くすりと、笑われた。


『冗談?』


 ですよねー。


 真っ当な返事に俺はうんうんと頷く。


 そんな俺の前で、秋月は新しい文字を綴った。


『でも、ありがとう』


 何がだ?


『私のこと、気遣ってくれたんだよね?』


 どうやら俺のカミングアウトはそう受け止められたらしい。


 まぁ小学生に話せばこんなもんか。これが大人に話していればとても痛い子を見る目で見られたことだろう。


 そして、チャイムが鳴る。


 今日はここまでか。だが、昨日よりも前に進めたと思う。


 何せ、こいつを少しとはいえ笑わせることが出来たんだから。


 その日の下校時間、俺は秋月と別れる校門の前で、ふと思いついたことを言ってみた。


『なぁ秋月』

『なに?』

『明日はトランプで遊ぶか』

『トランプってなに?』


 ……え?


 翌日、俺が昼休みに秋月の机の上でトランプを広げて見せると、目の前の女の子は物珍しげな目を54枚のカードに向けていた。


 初めて見る、好奇心旺盛な子供らしい表情に、俺は少しだけ心を撫で下ろす。


 こいつはまだこんな顔が出来るんだな。


 高校時代の昼休み、ダチとトランプで遊んだことを思いだしてのアイデアだったんだが、上手くいったみたいだ。


『ねぇ、これでどうやって遊ぶの?』


 秋月は興味津々と言うように俺の服を引っ張る。


 はいはい。

 

 とりあえずは、ババ抜きでも教えてみるか。


 秋月は思いの外飲み込みが速く、ルールをすぐに覚えた。まぁそんな難しいもんじゃねぇからな。

 

 なんだが、


「……」


 俺の手札が一枚で、秋月の手札が二枚。つまり秋月がババを持っている状況な訳だが……俺は、俺から見て右側のカードに指を掛けた。秋月の顔が嬉しそうになる。


「……」


 反対のカードの指を掛けた。秋月の顔が泣きそうになる。


 ……分かりやす!


 ま、まぁそれはそれで、こいつを勝たせやすいからいいんだが。


 俺は右側のカードを引く。勿論ババだった。


 そして秋月の手番。俺はさりげなくババではないほうをそっと秋月へ向ける。普通こういうのはブラフ扱いで逆に引かれないんだがまだ一回目ということもあって秋月は普通に引いた。


 そして嬉しそうにダイヤとハートのAを俺に見せる。


『私の勝ちだね!』


 そうだな。


 秋月の嬉しそうな顔に俺の苦笑を返す。


 そんな俺に、秋月は何か言いたいような目を向けて来た。


 まるで待てをされた子犬のようなそわそわと落ち着かない目。


 ……ったく、ガキが遠慮してんじゃねぇよ。


『秋月、言いたいことがあるんならはっきり言え』


 秋月はすぐさま筆を滑らせて、


『ね、もう一回!

 もう一回しよ!』


 はいはい。


 二人でやるババ抜きなんてそんなに面白いもんじゃねぇけど、まぁ……こいつが嬉しそうだし、良しとするか。


 嬉々としてトランプをシャッフルする秋月を見て、俺はそう思う。


 そんな中、そっと周りに目を向けた。


 クラスの隅で、固まって俺たちを見るやつらがいる。

 

 秋月をいじめていたやつらだ。ガキどもは嬉しそうに笑う秋月を見て、面白くなさそうに表情を曇らせていた。

 

 そろそろ、来るかもな。


 人間は、楽しいことを続ける。


 それはゲームであり、読書であり、スポーツであり、そして、いじめだ。


 人を貶めることの楽しさを知ったガキは、簡単にそれを止めることが出来ない。


 この数日間は俺という変なやつが秋月と行動を共にするようになったから何事もなかっ

たが、味を占めたあいつらがこのまま秋月をいじめることを止めると思うほど、俺は子供を信用していなかった。


 ガキは、ガキが思っているほど大人じゃない。


 けど、大人が思っている以上にガキじゃねぇから。


 始まりは、その日のホームルームからだった。


「では、今日何か嫌なことがあったかー?」


 担任のやる気のない、正に聞いているだけのそれに、珍しく手を上げるやつがいた。


 秋月の補聴器を投げたガキだ。担任に名前を呼ばれたあいつは、俺と秋月を見てニヤニヤと笑うと、


「今日峰岸君と秋月さんがトランプで遊んでいました。学校に関係ないモノを持ってくるのはいけないことだと思いまーす」


 ガキの言葉に、周りのガキどもも「私もそう思いまーす」や「はい、俺も見ましたー」と煽って来る。


 担任は面倒くさそうに秋月を見て、


「そうなのか、秋月」

「……?」


 秋月には上手く聞こえてないようだ。ただ目を丸くして、それからクラスメイトの表情を見て、察したらしい。俯いてしまう。


 だから、


「俺が持って来たんです」


 勝手に立ち上がり、言った。


「秋月さんは耳が聞こえないので、それが障害にならず一緒に楽しめるモノでトランプを選んだのですが、先生」


 真っ直ぐに担任を見て、睨みつけて、俺は言った。


「それは間違ったことでしょうか?」

「あ、いや……うーん……」


 質問されると思っていなかったのだろう。担任は考え込むように腕を組む。


 ……言い方を変えるか。


「もし先生が止めろと言うなら、止めますが?」


 あえて『先生が』という所を強調する。


 責任を押しつける形だ。面倒くさがるやつにはこっちの言い方のほうがいい。


 勿論、秋月が聾唖だからと言ってトランプを持ってくるのは問題だ。だが一方で、そんな秋月への気遣いを否定するのも気が引けるはずだからな。


 担任は考えた末……いや、単純に面倒臭くなったのだろう。


「いや、もういい。私が許可する」


 投げやりにそう言って、ホームルームを終わらせた。


 ガキどもが、俺を睨みつけてくる。あいつらはきっと俺たちが怒られると思ってたんだろうな。それを見て楽しもうとしてたんだろう。


 そんなあいつらに、俺は妙な気分になる。


 それはきっと、俺が甘いだけなんだろうけど。


 ……どうして、あいつらは人をいじめないと楽しめねぇんだろうな。


 いや、何となくはわかるんだ。俺は西オサム時代いじめられていたこともあれば、いじめに加担していたこともあった。


 だから、何となくは分かる。


 だけど、その分後悔することも分かるんだよ。


 皆が皆ではないだろうけど、少なくとも俺は、いじめをしたことを大人になってから後悔した。どうしてあんな酷いことをしたんだと、謝りたいとそう思った。思っただけで、もういじめたやつがどこにいるのか分からなかったから謝りようもなかったけど。


 そんな後悔を抱いて欲しくないんだが……たぶん、言っても分からないよな。


 子供にいじめをするなって言ってなくなるんなら、苦労はねぇ。


 だからな、秋月。


 いつものように校門前で別れた俺は、同い年とは思えない小さなあいつの背中を見送る。


 お前が、変わらないとダメなんだ。


 周りが勝手に変わるほど、この世界は甘くない。


 変えたいと思うなら、まずてめぇが変わらねぇとダメなんだよ。


「……クソが……」


 そんな風に、結局は他人任せにしか出来ない俺に苛立ちを覚える。


 本当に俺は、何の役にも立てねぇんだな。


 ……はっ、本当に情けねぇ。


 本当に、情けねぇ。


 そんな俺のくそみたいな自己嫌悪を見越したように、明日が来た。


 その日、俺たちは昨日同様二人でババ抜きをしていた。秋月は初めてやるトランプがかなり気に入ったようだ。今日も楽しそうにカードと睨めっこをしている。


 俺の手札が5枚で、秋月の手札が4枚。そんな中、秋月は俺の手札からババを引こうとして、その手は止まる。


「はは、お前ら二人でババ抜きとか楽しいのかよ?」


 嘲りを含んだ声が、俺たちに向けられた。


 俺は見上げるようにそちらを見る。秋月も俺の視線に釣られた。


 そこにいたのは、まぁ予想通りだが昨日担任に報告をした男子生徒だ。そいつはニヤニヤと笑いながら取り巻きのガキを連れて俺達を見下ろしていた。


 そんなやつらに俺は――無視して秋月の方を向いた。


「お前の番だぞ、秋月」

「~~! 無視してんじゃねぇ!」


 俺の態度が気にいらないのだろう。威嚇するように俺を睨みつけてくる男子。そんなガキに、俺はもう一度目を向けた。


 たぶん、西オサム時代で、なおかつ小学六年生の俺だったらビビってしまうような態度だ。だけど今の俺にとって、小学六年生の子供がいくら凄もうと背延びをしているようにしか映らない。


 俺の無言の視線に、男子生徒は舐められてると思ったんだろうな。ただでさえ怒りで赤くなっている顔をますます赤くすると、


「何だよその目は!」


 男子生徒が、俺を殴る。


 同い年でも男子生徒のほうが身体が大きく、また勢いもあった。それに座っていた俺は何の踏ん張りも出来ないから無様に床へ倒れる。


「はっ、だっせぇ!」


 勝ち誇ったようなガキの声と、周りが囃したてる声。


 そしてジンジンと痛む頬。


 そんな中で俺は、立ち上がった。


 瞬間、笑っていたガキどもが一気に静かになる。殴った男子生徒も含めてだ。


 たぶん、俺の表情のせいだろう。


 こいつらにとって、殴られた人間の反応は『泣く』以外の何物でもないと言うのが共通の認識なんだろうな。


 だからきっと、気持ち悪いんだ。


 殴られたというのに、まるでそんなことどうでもいいと思っている俺が。


 恐いとかじゃなくて、気持ち悪いんだ。


 俺は、殴られた頬を摩る。確かに痛い。だけど、これは知っている痛みだ。


 ガキの頃から、情緒不安定な弟に殴られてきた西オサムである俺にとって、掃除や洗い物を少しさぼっただけで父親に本気で顔を殴られた俺にとって。


 顔を殴られる痛みなんて、当の昔に慣れてしまったモノだった。


 クラス中が、静まり返る。


 いじめをしていた男子生徒も、その取り巻きも、いじめを見ていたクラスメイトも、その誰もが何をしていいか分からないんだろう。


 そして俺自身、これ以上動くつもりはなかった。


 もう、俺が動く理由がないからだ。


 何故なら、


『やめて』


 秋月が、俺の前に立っていたから。


 その小さな身体で、まるで俺を守るように男子生徒の前に立つ。


 秋月の背中は、震えていた。恐いんだ。自分をいじめていた生徒と真っ直ぐに向き合うのが。


 それでもこいつは、逃げない。


 恐いくせに、無理をしているくせに。


 その手に、たった一枚のメモを持って、男子生徒の前に立った。


 いじめられて、俯いているだけしかしなかったこいつが、勇気を出して顔を上げたんだ。


 それを嬉しく思う俺は、おかしいのかもしれないな。


 秋月の行動に、止まっていた教室の時間が動き出す。


「な、何だよそれ……」


 男子生徒は後ろを振り返って、


「『やめて』だってよ! 笑えるぜ!」


 その声に、取り巻きどもも笑いだした。


 俺は笑わない。


 秋月も笑わない。


 そして、いじめを見ていただけの生徒も、笑わなかった。


 それが、気にいらないんだろう。


「んだよ! 舐めてんじゃねぇぞ!」


 男子生徒が、手を振り上げた。殴る気だ。それが分かっていながら、それでも俺は、止めなかった。


 ここで俺が出張るのは、違うから。


 俺がここであいつを止めても、何も変わりはしないから。


 男子生徒の手が、秋月の頬を打った。


 ばちん、と甲高い音がクラスに広がる。


 女子の何人かが、目を背けるほどだった。


 だけど、それでも。


 俺の前に立つ小さな背中は、倒れない。


『やめて』


 そのメモ紙を前に出して、真っ直ぐに男子生徒を見ている。


 その目に、男子生徒が怯んだように俺には見えた。


 たぶんこいつらは、初めて対面したんだろう。


 本気の人間と。


 本気で何かをする人間を。


 だから、圧倒されるんだ。遊び気分でいじめをしていたガキは、秋月の本気の視線に。


 なら、もう充分だった。


 俺は、秋月の頭に手を置く。


 秋月が、目を丸くしてこちらを見上げた。そんなこいつに、俺は笑みを返す。


 お前の勝ちだよ、秋月。


 まだ男子生徒は俺達を睨みつけているけど、それ以上何かをしてくる気配はない。


 たぶんだけど、もう大丈夫なはずだ。


 今日のこれで、もう秋月が、こいつらの楽しむ反応をしないことが分かったはずだから。


 三度目の沈黙が落ちるクラスを、俺は秋月の手を引いて横切った。


 さて、とりあえずは――保健室だな。


 俺と違い平手だったとはいえ秋月は殴られたんだ。大げさかもしれねぇけど女の顔に傷が残るなんてことにはしたくない。


 保健室に入ると、生憎保険医は不在だった。


 しゃあねぇか。


 俺は適当なベッドに秋月を座らせると、保健室にあった清潔そうなタオルを一枚借りて水道で濡らす。良く絞ったそれを、秋月の頬に当てた。


 一瞬、秋月はのけ反るようにするがそれでも我慢する。


 俺は秋月からメモ帳を借りると、


『痛いか?』


 そんな俺の言葉に、秋月は笑顔で首を横に振った。


『ううん。これくらいへっちゃらだよ!』


 そうか。


 お前は、強いんだな、秋月。


 俺のように痛みに慣れている訳でもないだろうに。


 だけどな、秋月。


『我慢しなくて、いいんだぞ?』

「……!」


 俺の言葉に、秋月は目を見開いた。


 あぁ、そうだろうさ。


 さっきも、今も、なぁ、秋月。


 お前の小さな身体は、そんなにも震えているんだから。


 俺は、秋月の髪を撫でた。


『良く頑張ったな、秋月』

「……」

『でも、もう大丈夫だ』


 ここなら、誰も見てない。


 だからな、秋月。


『泣いて、いいんだぞ?』

「……!」


 秋月は、大きく目を見開いてから、その顔は、次第に歪んで、くしゃくしゃの泣き顔に、なった。


 それでも、堪えようとして、溢れる涙を、必死に手で拭いて。


 そんな秋月を、俺は抱きしめた。


 親が子供を抱くように。


 俺じゃあ、役者不足も甚だしいけど。


 それでも、安心させるように抱きしめて、秋月はそんな俺の胸で、耐えきれなくなったように声を出して泣いた。


 俺と秋月、二人しかいない保健室に、秋月の泣き声が響く。


 当然だろ。


 いくら本気の覚悟を抱いても、こいつは小学六年生の、まだまだ子供の女の子なんだ。


 痛みに慣れている訳がない。


 いじめっ子に立ち向かって恐くないはずがない。


 それでも、こいつは泣かなかった。


 これは自惚れかもしれないけれど、たぶんこいつのことだから。


 俺に、心配を掛けたくなかったんだろう。


 けどな、いいんだよ、秋月。


 俺の服を涙で濡らす秋月。そんなこいつの背中を、俺は摩ってやる。


 今なら誰も見てないから。


 頑張ったお前は、もう我慢しなくていいんだよ。


 お前は今、泣いていいんだ。


 あぁ、本当に。


 よく、頑張ったな、秋月。

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