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気持ち悪い

 秋月姫乃という少女について語ろうと思う。


 秋月姫乃。色素の薄い肩までの髪。一つ二つ歳が下に見える身長。笑い方がぎこちない少女。無口。誰かが嫌がる係を自ら買って出る性格。転校生。


 そして――聾唖。


 俺のクラスに転校してきた少女は、簡単にまとめるとそんな子だった。




 俺が通う学校の、俺が籍を置くクラス。


 俺はその日も、無意味に日常を過ごしていた。朝学校につけば、昨日の宿題に手を掛け始める。


 漢字の書き取りをしながら無駄に時間を浪費していく。先生が来る一分ほど前に書き取りは終わった。同時に俺はノートを片付ける。


 先生が入って来た。スーツをピッチリと来て、大きめの眼鏡を掛けたいかにもインテリな男性教師だ。


 そいつの話をテキトーに聞いて、それから授業。昼休みに入りまた授業を受けて家に帰る。それが今の俺の日常だった。


 どこまでも普通で、だけどどこまでも退屈な。


 せっかく生まれ変わったというのに、俺は何も変わってはいなかった。いや、前世の俺が小学生だった時よりもひどいかもしれない。


 何故なら今の俺は、夢も希望も持っていなかったからだ。


 前世を思いだしたことで、俺は多くの知識を得ることになった。漢字なら大抵のモノは読めるし、四則演算など当たり前だ。だから勉強はそう苦労しなかった。


 だけどその代償に――心に諦めが根付いてしまった。


 何をやっても所詮は無駄――そんな考えが俺の心に、カビみたいにねっとりとついている。


 くそ気持ち悪い。そう思ってもだけど何とかしたいとは思わない、思えないそんな腐敗。


 生まれ変わってもダメな俺は、きっと死んでいないから生きているだけなんだろう。


 そんな風に思っていた。


 そうなると思っていた。


 だけど、


「それじゃあ最後に、今日からお前たちの友達になる子を紹介する」


 先生の言葉に、クラスがざわめく。


 俺も物珍しげにそこへ目を向け――は?


 ……何の冗談だこれは?


 いや、うん。分かってる。これはリアルなんだろうけどえっと……これなんていうエロゲ?


 そこに、あいつが立っていた。


 華奢な身体に肩までの色素の薄い髪。おどおどとしたその目は涙ぐんではいないけれど、確かにあの時と同じモノだった。


 ――秋月姫乃。左胸に掛けられた名札にはそう書かれている。


 そいつは、秋月は不安そうに教師を見上げた。教師は気付いていない。


 察しろよ。お前一応担任なんだからこいつの都合分かってるはずだろ?


 ……いや、言っても無駄か。俺の今の担任は仕事として教師になっただけのガキだ。気配りとかそう言ったことがまるでなってない。


 それこそ俺が言える立場じゃないんだけどな。


 教師に気付いてもらえず、秋月は意を決したようにランドセルから一冊のノートを取り出した。あらかじめ書いて来ていただろう。そこには綺麗な字でこう書かれている。


『初めまして、秋月姫乃です

 今日からこのクラスに転校してきました

 私は生まれつき耳が聞こえません。

 よろしくお願いします』


 誰も、何も言わなかった。


 どう反応すればいいのか分からないのだろう。少なくともこの学年は障害者と一緒のクラスになったことはないはずだから当たり前か。


 拍手も反応もないことに、秋月は俯いてしまう。


 そんなあいつに気付くことなく、教師は自己紹介が終わったことを確認し、秋月を席へ向かわせた。


 歩き出した秋月の、どこか寂しそうな俯いた顔が、何故か目に付いた。


 それから一カ月経った今、秋月について語ろうと思う。


 あいつが転校してきた最初の日、誰かがあいつに話しかけるようなことはなかった。皆が皆、耳が聞こえない少女にどう接していいのか分かっていなかったのだ。それに加え秋月も終始机に俯いていて話しかけづらい雰囲気を出してしまっていた。


 まるで誰にも視線を合わせないように。


 二日目になり、ぽつぽつと秋月に話しかけるやつが出て来た。その大半は女子だ。珍しいモノを見るような雰囲気で秋月に話しかけ、そいつらはノートで会話しだした。だがすぐに会話は止まる。


 声で話せないということは筆談に慣れていない子供には煩わしいモノだったようだ。


「何だか暗いよね、秋月さんって」

「うん、だねー」


 当人が聞こえないことをいいことに話しかけていった女子が好き勝手に言っていた。俺は何もしない。前回とは状況が違うのだ。誰かが見ている前で人助けを出来るほど、俺は聖人君子ではなかった。


 それからまた、二、三日経ち、秋月は話掛けられてはすぐ終わる。そんな会話を繰り返していた。基本的にあいつから誰かに話しかけるようなことはないので会話はいつも受動的なそれだった。


 たぶんそれが一番の原因だったのかもしれない。


 一週間後にはあいつに話しかけるやつがいなくなっていた。


 俯き、話してもつまらない上会話の方法が面倒なのだ。最初こそ物珍しくて誰かに相手にされていたが、子供は楽しいことを好み面倒事を嫌う。後者に属する秋月との付き合いが長続きするわけなんてなかった。


 そして、そんなあいつがいじめられるのはある意味当然だった。


 話せない。


 耳が聞こえない。


 一緒に居ても楽しくない。


 ずっと暗い顔をしている。


 何より、自分達より劣っている。


 ――いじめるにはあまりにも持って来いな存在だった。


 二週間が経ち、陰口が始まった。あいつが耳が聞こえないことを利用して、堂々と目の前で悪口を、それも本人に言うのだ。


 ……知ってるか? 耳の障害者――ネットで調べた限り確か聾唖者は確かに素では耳が聞こえないけど、補聴器を付ければ普通の人間ほどじゃねぇが音が聞こえるようになるんだぞ?


 秋月は最初、話しかけれらて少しだけ嬉しそうにしていたが、すぐにその顔は暗いモノに変わった。たぶん、察したんだろう。


 補聴器のおかげ? いや、たぶん相手の表情と口の動きでだ。


 すぐに俯いてしまったその反応がいじめっ子らの琴線に触れたようだ。ガキどもは仲間内で笑いだした。秋月はもっと深く俯いた。


 ……俺は、何も言わなかった。


 鬱陶しい笑い声が響く中、昼休みの終了のチャイムが鳴る。先生が来ることを理解したガキどもはすぐに席に着いた。担任教師が教室に入ってくるが、あいつは秋月が泣きそうなことに気付きもせず淡々と授業を始めた。


 ……何もしていない俺は、だからいじめっ子にも無能な担任にも、何も言うことが出来ない。


 いじめは続く。例えば秋月が名札を忘れていたのなら、それに対してあからさまにいやな口調でガキが指摘するのだ。「あー、秋月さん名札してなーい!」と皆にワザと聞こえるような声で。


 俺から見ればあまりにも幼稚な行動ではあるが、秋月にはとても苦しいことだったらしい。俯いた彼女は無言で机にランドセルを置くと教室を出ていった。瞬間、教室中に笑い声が響く。


 笑わなかったのは俺だけだった。


 だけど俺は、何もしなかった。


 その日、秋月は寝坊でもしたのだろう。だからこそ滅多にしない忘れ物をしたのだと思う。その証拠にあいつが学校に来たのは始業チャイムの一分前だった。


 教師が入ってきて、出席を取る。秋月が帰ってきたのは全員の名前が呼ばれた後だった。


「秋月、遅刻だぞ?」

「……」


 秋月は名札を見せた。恐らくは売店に買いに行っていたんだろう。教師はそれを見て、しかし何も察することなく「秋月遅刻」と出席簿に書いた。


 クラスに、小さく笑いが広がる。


 胸糞悪い感情が俺の中に溜まるけれど、俺は何も言わなかった。


 面倒事は絶対に避けたかったからだ。


 いじめは続く。


 それは、工作学習でのことだった。この時間は作るモノによっては後ろのロッカーに置いている工作セットを取りに行くことになる。そして今日は取りに行く日だった。教師の指示で皆がある程度固めって後ろのロッカーへ向かう。秋月は丁度真ん中くらいだ。


 俺がそれを見たのは、単なる偶然だった。


 ロッカーに手を入れていた秋月の背中を、男子の一人が蹴り飛ばした。丁度前のめりになっていた秋月が踏ん張れるはずがなく彼女の額が音を立ててロッカーの角にぶつかる。秋月が目を丸くして振り返るそこには何食わぬ顔をした寺崎がいた。秋月は何かを言おうとして、だけどすぐに俯いてしまう。その反応が面白いのだろう。周りの人間がニヤニヤと笑っていた。


 俺は、笑うことなく――そして力の限り自分の工作セットを床に叩きつけた。


 ばあん、と高い音が教室に響く。


 一瞬の沈黙。多くの視線が俺に向く中、


「あ、落としちまった……」


 自分でも分かるほど、感情の低い声が淡々と漏れる。


 バラバラになった工作セットを拾う俺。先ほどまで笑っていたやつらは白けたと言わんばかりにすぐに自分の席に着いた。


 俺は淡々と道具を拾い始めた。教師が急かすように何か言うが気にしない。


 勢いのほか、工作セットは広く飛散はしていなかった。近くのモノから順に拾っていく俺は、鋏が少し離れたところにあることに気付く。


 それに手を伸ばし――


「……」


 そっと、差しだされる鋏。俺のセットから飛び出たそれを拾って手渡してくれたのは、先ほどまでいじめられていた秋月だった。


 秋月は俺をおどおどした目で見ていた。まるで何もかもを怖がっているような目。俺が一カ月前に会ったやつだと気付いていないのだろうか? ともあれだ。


「ありがとう、助かる」


 言って、しかし秋月は目を丸くした。


 そっか、聞こえなかったんだな。俺自身が聴覚に異常がないから何とも言えないが補聴器はそこまで万能な機械ではないらしい。


 だから俺は、ゆっくりと口を大きく動かして、


「あ・り・が・と・う」


 告げた言葉に、秋月は小さく目を丸くして、それから微笑んだ。


 たぶん初めて見る、その笑顔。


 俺は、笑い返す。


 その日、もう秋月がいじめられることはなかった。


 だが、だからと言って次の日も大丈夫だなんて保証はどこにも在りはしない。


 一晩寝れば大抵のことはリセットされる。そうすれば、昨日止まっていたいじめも再開する。


 それは、次の日の昼休みのことだ。


 誰かが秋月の補聴器に気付いたらしい。「貸して」と女子の一人が頼んだ。だがその顔には無邪気でだからこそ醜悪な笑みがあり、秋月もそれに気付いたのだろう。あいつにしては珍しく首を横に振った。


 それが気にいらないのだろう。いや、気にいらないのは自分よりも下だと思っていた秋月に反抗されたことか。


 女子が無理矢理秋月の耳に触れる。秋月は抵抗するが他の女子が秋月の手を抑えた。


 おい、やり過ぎだ!


 ある程度なら俺は秋月に対するいじめを無視してきた。それこそ秋月が怪我でもしない限り。


 だが今回のはあまりにも度が過ぎている。


 俺が立ち上がったのと、女子が秋月の耳から補聴器を奪ったのは同時だった。


 女子が面白そうに近くにいた男子生徒に「これ見て」と補聴器を差しだした。そいつは恐らくは最初から見ていたのだろう。ほとんど確認もせずそれを手に取ると、「何だこれ!?」と笑いながら――外に向けて投げた。


 窓を通り過ぎて、小さな補聴器が消えていく。


 俺は咄嗟に手を伸ばしたが、あまりにも距離があり過ぎた。当然取れるはずもなく補聴器は中庭のどこかに落ちていく。


 あいつらは知らないのだろう。補聴器が、それも障害者の付けるそれが一ついくらほどするのか。


 俺も知っている訳ではないがそれなり以上に高いはずだ。それこそガキが払える範囲を超えるほどには。


 そしてあいつらは知らないのだろう。


 例え少しとは言え聞こえていたモノが聞こえなくなる――あるモノがなくなるその恐怖を。


 秋月は呆然としていた。何をしていいのか分からない、そんな表情。呆然とするあいつを、クラスメイトが笑う。


 秋月。お前には今、こいつらの声が聞こえているのか?


 もし聞こえていないのなら、たぶんそれは幸せだ。


 こんなくそ気持ち悪い声、子供が聞くもんじゃねぇから。


 昼休みのチャイムが鳴り、教師が入ってくる。秋月は気付かない。まだ立ったままだ。


「おい秋月、座れ」

「……」

「座れ、聞こえないのか?」


 ……聞こえるはず、ねぇだろうが。


 だが、秋月は座った。それはきっと教師に言われたからではない。たぶん力が抜けてしまったんだ。


 その日、秋月はずっと俯いていた。だけどその身体はずっと震えていて、膝に置かれた手はぎゅっと握りしめられていた。


 放課後になっても、秋月は席を立たなかった。クラスメイトが数人でそんな秋月を取り囲み、何かを言っている。俺はそれを見て――教室から出た。


 俯いていた秋月の横顔が、頭から離れなかった。


 それから3時間。俺は永延と中庭を彷徨っていた。最初は歩きながら、次いで這うように、目を凝らし、あいつの補聴器がないか探す。


 だが、見つからない。


 学校の三階から落とされたのだ。あの時どこに落ちたか確認はしていたがそれでも、上から正確にあの小さなモノがどこに落ちたかなんて見えるはずもない。大まかに見当を付けていた場所にはなく、それからずっと、補聴器を探し続けている。


 ……どうしてこんなことしてんだろうな、俺。


 探しながら、ふと浮いた疑問。


 俺があいつの補聴器を探してやる義理なんてありはしないんだ。これをやったのはあいつらで俺は見ていただけ。何の関係もない。


 ……いや、関係あるか。


 俺は、見ていただけで――助けなかったんだから。


「くそ……」


 何に対しての苛立ちなんだろうな?


 つい口に出た罵倒は誰に向けたモノなのか、俺には分からなかった。


 もう外は薄暗い。下校時間を超えてなお俺が見つかっていないのは都合のいい偶然だ。だがそれも、そう長くは続かないだろう。


 時間がない……確か明日は朝から雨だ。補聴器の強度に詳しい訳ではないので分からないが雨に濡れてダメになるという可能性は否定できない。


 俺は一度立ち上がって周りを見渡した。探していない所は正直ないと思う。


 なら後は――見つけにくいところか。


 目が行くのは唯一整備されていない雑草が伸び放題の花壇だ。あそこは探すは探したが雑草が邪魔で少々雑な探し方になっちまった。


 可能性があるとすればそこか。俺はこの季節にも関わらずかいた汗が煩わしくて腕まくりをし、そこに足を踏み入れた。


 草をかきわけこと細かく見渡していく。その度に泥が跳ねて服を汚していった……おばさんに怒られるな、と軽く暗澹な気持になるが、それでも探す手を緩めはしない。


 がさ、と背後で音がしたのは、花壇を調べ始めて少ししてからだ。教師か警備員が来たのか? と俺は慌てて振り返る。だがそこには、大人の影はなく、驚くような女の子の顔があった。


 ――秋月だ。懐中電灯を持って、あいつは俺を呆然と見ていた。


 その目が、言葉を発せない口の代わりに問いかける。


 どうしてここにいるの? と。


 ……俺は、何も言わなかった。


 言える言葉なんて、なかったから。


 だが、助かったのも事実だ。俺は止めていた手を動かし始める。すぐにあいつも察したのだろう。こちらに近づこうとして、俺が首を振った。そして、懐中電灯を指差す。


「……? ……!」


 察したらしい。秋月は俺の手元を懐中電灯で照らし始めた。途端に暗くて見えづらかった花壇の中が、俺の手元限定とはいえ見やすくなる。


 俺たちは、何も言うことなく探し続けた。


 秋月は元より、俺も何も言わない。何もしなかった俺が何かを言う権利なんてありはしないから。


 ――いじめなかったけれど、助けなかった俺。


 面倒事を嫌い、関わるのを嫌った俺に、何を言えというんだ?


 だからただ、作業を続ける。


 そして、どれほどの時間が経ったのだろう。


 きらりと、雑草の中で懐中電灯の光を反射する物があった。


 俺は手を伸ばしかけ――止める。泥だらけの手で触れば万が一とはいえ故障に繋がる原因があるからだ。


 秋月に視線で伝えれば、あいつは頷いて、それを手に取った。


 大事そうに、大切そうに。


 そんなあいつを、俺は直視できない。


 俺は、あいつらと同じだ。


 いじめをしていたやつと。


 止めなかった――面倒事に巻き込まれたくなかったから。


 止めなかった――この程度ならガキのいたずらと考えて。


 止めなかった――それはもう、いじめをしているのと同じだというのに。


 俺は、無言でその場を離れようとした。これ以上この場にいていいような気がしなかったから。


 だけどまた――あの時と同じように。


 俺の手を掴む、温かい手。


 ……秋月。


 どうしてお前は、俺の手を握っているんだ?


 泥だらけの汚い――お前をいじめた手を。


 秋月は俺が振り返ったことを確認すると、あの時と同じ手の動きをした。


 左手を胸の位置で横にして、そこに右手でチョップするように手を合わせる。


 分からねえ。たぶんあいつも分かっているのだろう。今度は動揺することなく、ポケットからメモ帳を取り出して俺に向けた。


『ありがとう』


 そこにはそう書かれている。


 止めてくれ。


 俺はそう思った。


 ありがとうなんて言われる資格、俺にはないんだ。


 これを探したのも、罪の意識からだ。


 ある程度なら大丈夫だろう、大人が関与することじゃない――そんな風に考えて、ある程度じゃなくなって、ようやくアレが明確ないじめだと、止めるべきモノだったと気付いた、そこまでしないと気付かなかった気付こうとしなかった俺の、罪滅ぼしなんだ。


 だから、お礼なんて言わなくていい。


 俺にそんな、笑顔を向けなくていい。


 俺は秋月にどんな顔をしていいのか分からなくて、その場を後にしようとする。だけど秋月は俺の手を離そうとしなかった。


 やろうと思えば振り払える。それをしなかったのは――あいつが、震えていたからだ。


 振り返るそこにいた秋月は、泣いていた。


 縋りつくように俺の手を抱いて。


 ……ガキの涙ほど見たくないモノはない。


 だけど俺は、こいつを泣かせてしまった。


 ……最低だな。


 誰よりも劣っていると知っているくせに、それでも俺は、こんな小さな子供を泣かせてしまうのか。


 笑えないほど、ダメなやつだった。


 俺は、秋月を座らせる。子供の身体では流石にあいつを抱えて移動するなんてできないから花壇の中でだ。服に泥が付くがもうそれについては諦めた。


 秋月は泣き続けた。


 泣きながら、それでもメモ帳に何かを書いていく。


 言葉を紡げないこいつの、唯一の、想いを伝える方法。


『私、前の学校でも

 ダメだった』


 その文字は、酷いモノだった。


 いつもの綺麗な字ではない、酷く不格好でミミズがのたくった様な字。


 だけどそれは、あいつの心を表している。


 この、ボロボロの字は――こいつの心だ。


『耳が聞こえないから

 話せないから

 皆、私から離れていく』


 面倒事を子供は――いや、人間は嫌う。


 そして、劣っているやつを、人間はバカにする。


『前の学校でも、前の前の学校でも、ダメだった

 ダメな私は、すぐに皆にじゃまもの扱いされた』


 ……ダメなやつなんかじゃない。


 俺は知っている。こいつは進んで黒板を消したり、花の水を変えたり、皆がやりたがらないと掃除や係を進んでやれる良いやつだ。


『何がダメなのか分からなくて

 皆のためにいいことをすれば、受け入れてもらえるって

 頑張っても、ダメだった』


 俺には、そんな秋月が優しい子供だと思った。


 だけどそれは、俺が大人だからだ。


 クラスメイト達は、そう思わなかった。


 ――いい子ちゃんぶりやがって。誰かが陰口でそう言っていた。


『どうして、私はいじめられるのかな

 どうして私だけ

 こんなにダメなのかな』


 秋月の身体が、震える。


『みんな

 みんな嫌い

 大嫌い』


 ……そうか。


『みんな

 みんな死んじゃえ

 死んじゃえ』


 そうか……


『でも

 そんな風に思う私が、

 私は一番、嫌いなの』


 違うぞ、秋月。


 それは、当たり前の感情なんだ。


 誰だって、いじめられたら苦しい。


 苦しくて辛くて、誰かを憎んでしまう。


 それは、普通のことなんだ。


 だけどこいつは、まだ十二歳の子供なんだ。


 中学生でさえない、本当に本当の子供なんだ。


 だから、汚い自分を受け入れられない。


 妥協が、境界線が、上手く張れない。


 当たり前の基準が、分からないんだ。


『私、わたし

 私が一番、嫌い

 こんな私』


 秋月は綴る。


 俺が一番恐れ、そして一番共有できるその言葉を。


『生まれて来なければ良かった』


 秋月は泣いた。俺の胸に縋りつくように。


 泥だらけの服に、汚れることも厭わず。


 ……こいつは、今までどんな日常を送って来たんだろう。


 俺みたいな、まだ出会って一カ月程度しか経っていないガキに、縋りつくほど追いつめられている。


 泣く秋月の背中をそっと撫でながら、俺は気付いていた。


 こいつは、こんなにも泣きじゃくるこの子は、図書館の時も、いじめられていた時も、そして本音を明かした今でさえ一言も――助けてと、そう言わなかった。


 何でだ?


 いや、分かってる。


 これは単なる俺の予想で妄想だけれど、確かな確信があった。


 こいつはもうずっと、助けてもらえなかったんだ。


 縋りつき伸ばした手を――誰にも握ってもらえなかったんだ。


 助けてと、叫ぶその言葉は、声を発せないことをいいことに無視され続けたんだ。


 それがどれほどの苦痛なのか、俺には分からない。


 もう歳を取り過ぎている俺には、分からない。


 助けを求める意味のなさを知ってしまっている俺には、もう思い出せない。


 誰よりも劣っていることに慣れきっている俺には、分からない。


 誰も信用できない俺には――分からない。


 俺はそれでいいと思う。


 だけど、だけどだ。


 こんなガキが、それでいいのか?


 まだ十二歳のこの子が、こんな諦めを抱いていいと、俺はそう思えるのか?


 答えは――あぁ、もう分かっている。


 俺は、子供に幸せになって欲しいんだから。


 大人の理不尽で幸せになることさえ諦めちまった俺。


 だからこそ、子供には、まだまだこれから長い人生を送る子供には、幸せになって欲しい。


 勝手な持論だけれど――子供には、幸せになる権利があるんだから。


 秋月を抱きしめて、俺は思う。


 最悪だ。


 初めて聞いたこいつの声が、泣き声だなんて。


 不格好で、普通の泣き声とは違う未発達な騒音に近いそれ。


 それがこいつの苦しみの形で、こいつの本当の声なんだ。


 気持ち悪い。


 本当に気持ち悪い。


 こんな風に泣かせた俺が――本当に気持ち悪い。

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