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俺は、生きていてよかったんだ


 その場にいた全ての人間が、常軌を逸した光景に目を見開いていた。


 元々、病院内に車が突っ込んできた所から冷静に思考出来ている人間がいなかったというのもあるが、それが全く関係ないほどに、視線の先にいる少年の行動は異常だった。 


その場にいる意識を保っている者は皆、何も出来ない。動くことも、言葉を発することも。


 ただ、その少年の気違い染みた行動に、言葉を失っている。


 そしてそれは、組み伏せられた男――中田大紀も同じだった。


 覚せい剤の件がばれたことで半ばやけになっていた彼は常から使用している覚せい剤を容量も考えずに使ってしまい、まともな状態ではなかった。


 だからこそ、車で病院に突っ込むなどと言う馬鹿げた行動に出たのだ。


 ハイになっていたと言える。


 俺は何をやっても許されるし、何をやっても成功する――薬漬けになっていた彼はそう信じて疑わなかった。


 だからこそ、取り押さえられた状況でもまだ何とかなると考えていたし、自分がこうなった原因――秋月姫乃を殺すことを微塵も諦めていなかった。


 そう、たとえ割れたガラスを手に、自分の邪魔をした少年が目の前に立とうと、その刃を振り上げようと、欠片も恐怖していなかった。


 こんなモノで俺が死ぬはずない。


 見てろ。


 殺してやる。


 絶対に殺してやる。


 そう、思っていた。


 少年が、刃を振り下ろすその時まで。


 あるいは、彼が中田大紀に対してガラスを振り下ろしていたなら、誰かが止めていただろう。


 だけど、誰も少年を、峰岸ハジメを止めなかった。


 彼の気持ちが分かったからではない。


 逆だ。


 分からなかったからこそ、止められなかった。


 当然だった。


 何故なら――彼が刃を振り下ろしたのは、自分自身にだったから。


「……え?」


 その声は、誰のモノだったのか。


 あるいは、全員のモノだったのかもしれない。


 峰岸ハジメが、自分の左手を割れたガラスで突き刺していた。


 もう、立っていることさえ不思議だと思えるほどの身体で。


 曲がってはいけない方向へ向いている左手に。


 右手で握ったガラスを――


 頭から血を流しながら――


 口から血を吐きながら――


 何度も何度も――


 刺していた。


 その右手も、割れたガラスを無理矢理握っているので血に染まっている。


 それでも、峰岸ハジメの異常は止まらない。


 中田大紀の目の前で、自身の左手を刻み続ける。


 淡々と。


 無表情に。


「お、お前……!」


 言ったのは、中田大紀だった。


「な、何やってんだよ……!?」


 その場にいる全員の問いのような言葉。


 峰岸ハジメの行動が、止まる。


 その目が、ゆっくりと中田大紀を見下ろした。


 伸びた前髪と流血で、見えにくい少年の瞳。


 峰岸ハジメが膝を折り、視線を合わせることで、中田大紀は見ることになる。


 その――全てを諦めきった暗い目を。


 何の感情も見えない、異常な目を。


 恐いわけでは、なかった。


 だが、どうしてか――奥歯がかみ合わない。


 がちがちと、音を鳴らしている。


 その、気持ち悪い少年の瞳に。


 少年の左手が、動いた。


 折れているというのに、無理矢理、中田大紀の顔を掴む。


 血まみれの左手。


 裂けて、内側が見える――気持ち悪い手。


 自分の頬に生ぬるい血が、薄気味悪くこびりついた。


 吐き気がした。


 目を背けてしまいたかった。


 だけど、視線を動かせない。


 その気持ち悪い視線から、目を逸らせない。


「……殺すって、言ったよな……?」


 それは、覇気のない声だった。


 低く、小さい、そして――血がこびりついたような声。


 先ほどまでの、激昂した叫びのほうがまだ、人間らしいと感じるほど、その声は無機質で吐き気がして。


「だったら、やってみろよ……」


 峰岸ハジメの右手が、ゆっくりと動いた。


 その、自身の血で血まみれにしたガラスを持つ手。それが中田大紀に向かい、近づき、そしてその口に、常軌を逸した状況に噛み合わないその口に、血まみれのガラスが咥えさせられる。


 峰岸ハジメの顔が、中田大紀に近づく。


 もはや、触れ合うほどの距離。


 それは、咥えたガラスが峰岸ハジメの頸動脈に当たる距離。


 そして、最も近く、その気持ち悪い目と向き合う距離だった。


 中田大紀が少し首を動かすだけで死ぬかもしれないというそこで、峰岸ハジメは言った。


「ころしてみろよ」





 男が、意味不明なことを叫んで気を失った。


 口から泡を吐いている所を見ると、覚せい剤の反動が来たって所だろう。


 そんな男から離れた所で、俺はゆっくりと腰を落とした。


 壁に、寄りかかる。


 頭が、やけにぼーとしていた。


 どうやら、血を流し過ぎたらしい。


 当然か。


 元々車にひかれ、大の大人の蹴りを何度も受けたんだ。その上自傷行為に及んだとあっては、身体がもつはずない。


 どうしてあんなこと、したんだろうな?


 血まみれの左手を見て、そう思う。


 理由は、思いつかなかった。


 ただ、あんなガラスじゃ人を殺せないとそう思ったから……いや、違うか。


 単純に、ビビったんだ……誰かを殺すことに。


 だから、異常者のフリして……


 苦笑混じりに、首を振る。


 フリじゃ、ねぇか……

 

 てめぇの身体がいくら傷つこうが、そんなことどうでもいいと思ってしまう俺が、普通の人間なんて上等なモノな訳ない。


 あぁ、まあでも。


 もう、どうでも、いいや……


 あの男は、俺を気持ち悪がってたし、もう秋月に、近づかないだろう……


 俺みたいな、ゴミが、近くにあるんだから……


 誰だって、さ……自分から腐ったモノに、近づく訳ない……


 そういう意味じゃ、こんな俺でも……役に、立てたのかね……?


 ……あぁ、ダメだ。


 なんか、すげぇ眠い……


 あの時、みたいだ……


 あの、男の子を助けた、あの時と……


 なら、いっか……


 こんな俺の命で、秋月が助かるんなら……


 安い、買い物だ……


 死にたいわけじゃ、ねぇけど……


 死にたいと思ったこと、あんまりねぇけど……


 死んでもいいと、思っていたから……


 誰かを助けられるなら、死んでもいいと、そう思っていたから……


 上等過ぎだよ、これは……


 生きたいと、思っていたわけじゃぇねしな……


 生きる……目的も……


 価値も……


 理由も、ない……


 死んで、ないから……生きてるだけ、だ……


 楽しいことなんて……


 ほとんどなかったし……


 辛いことばっかし……


 転がってばかりで……


 逃げて……


 目を逸らして……


 言い訳してただけだし、な……


 もう、いいや……


 死にたくないと思う理由も、ねぇし……


 もう……寝ちまうか……


 あぁ、そうさ……


 目ぇ、閉じちまえ……


 きっと俺は、また……


 笑っていけるさ……


 笑って、死ねる……


 あの時、みたいに……


 だから、な……秋月。


 泣く、なよ……


 俺に、駆け寄らなくて、いいからさ。


 笑え、よ……


 これから、幸せになれるんだから……


 笑って、くれよ……


 俺みたいなゴミのために……


 泣かなくて、いいんだよ……


 ほんと、バカだな……


 お前は……


 可愛い顔が、台無しだ……


 ……あぁ、ダメだ……


 いつも、みたいに……


 撫でてやりたい、のに……


 腕が、上がらねぇ……


 笑顔も、作れねぇ……


 ホントに、俺は……


 大バカ、だ……


 泣いちまうのは、分かってたじゃねぇか……


 秋月は、優しいから……


 俺みたいな、クソ野郎の死にだって……


 泣いちまう……


 涙を、流しちまう……


 きっとこいつは……俺が死んだら……もっと泣くんだろう、な……


 ……それは……


 それは……いやだな……


 あぁ、そうさ……


 ガキの涙ほど……見たくないモノはない……


 秋月の涙ほど……流させたくないモノは、ない……


 いつも、こいつは泣いていた……


 図書館の時も……


 学校、でも……


 病院でも……


 今も……


 だけど、それと、同じくらい……


 笑って、くれたっけ……


 一緒に、図書カードを作って……


 補聴器、探して……


 ババ抜きして……


 映画、見に行って……


 五月女と、友達になって……


 日野と、笑い合って……


 親父さんと、また会えて……


『ハジメ君!』


 いつも、そう俺に笑顔を……向けて、くれた……


 俺みたいなクソ野郎に、笑いかけて、くれた……


 でも、それももう、見れないんだろうな……


 だったら、いやだな……


 本当に、いやだ……


 こいつには……


 秋月には……


 笑っていて、欲しいから……


 泣かせたく……ないから……


 幸せになって、ほしい、から……


 俺……


 俺は……


「……死にたく、ねぇな……」





 目を覚ますと、見慣れない天井がそこにあった。


 ……どこだ、ここ?


 顔を動かして周りを見れば、何と言うことはない、白い壁に点滴の台座。記憶を辿れば思い出すあの事件。単純に俺は入院することになったんだろう。


 それにしても……身体が重い。


 ベッドに眠る俺の身体は、ほとんど言うことを聞いてはくれなかった。まだ怪我が治っていないのか? それにしては痛みらしいものはねぇけど。


 とりあえず窓の方を見ると、まだ明るい。壁に掛けられた時計を見れば、午後の3時を指していた。


 そこまで考えて、俺は――


「――!」


 呆けていた頭が、一気に覚醒する。


 そうだ! アレから、アレからどうなったんだ!?


 五月女は!? 日野は!? 親父さんは!?


 何より――秋月は!?


 あいつは、無事なのか!?


 クソ、こんな所に寝てたんじゃ何も分からねぇ!


 俺はひどく重い身体を無理矢理にでも起こそうとするが、しかし俺の意思に反して身体はまともに動いてくれない。


 痛みらしい痛みもがある訳でもないのに、クソっ!


 力を入れるだけ、痙攣するように震えるだけだ。なんだよこれ!


 と、その時だった。


 からからと、軽い音を立ててドアが開いたのは。


 俺がそちらに視線を向ければ、ドアを閉めようとしているのだろう。見慣れた後姿がそこにはあった。


 色素の薄い髪に、女の子としても細すぎる華奢な身体。心なし髪が伸びているような気がするが、見間違えるはずがない。


 そこに、秋月がいた。


 それだけで、俺は安堵の息を吐いていた。


 よかった……


 生きていて、くれたのか……


 花の入った花瓶を持っている所から察するに、秋月は花瓶の水を変えて、帰って来た所なんだろう。あいつの身体には大きすぎるそれのせいであまり前が見えていないようだ。ドアから入ってきたのに、俺に気付いていない。


 何だかいつも通り過ぎて、少し笑えた。


 それから、ゆっくりと秋月はドアを閉めて、俺の方を向く。


 そして、動きを止めた。


 ……なんだ?


 俺が怪訝に思う中で、彼女はその目を見開かせている。


 まるで、信じられないとそう言うように。


 そして――あっ。


 俺が見る前で、秋月の手から花瓶が落ちた。


 音を立てて、壊れる花瓶。


 だけどそれ以上に俺を驚かせたのは、秋月の反応だった。


 秋月は、自分が落とした花瓶に目もくれず、ゆっくりと俺に歩み寄って。


 手が、触れられる距離。


 小さくて細い手が、恐る恐ると言うように俺の頬に近づき、触れ――


 触れそうなほど近づいた秋月の表情が、驚きから、一瞬の安堵に変わり、それから、くしゃくしゃの泣き顔になった。


 どうしたんだ? 秋月。


 俺の胸にしがみつき、大声で泣き出した秋月に俺は困惑する。


 どうして、泣くんだ?


 泣くほどのことじゃ、ないだろうに。


 だけど、そうじゃなかった。


 それからすぐ、日野が俺の病室に訪れて秋月と同じように驚いた。そして面識のない医師が焦ったように駆け付け、いくつかの質問をされた。それに応えようとしたのだが、どうしてか喉も上手く動いてくれなくて、頷くや首を振るしか出来なかった。


 そして、その質問が全て終わり、聞かされたのは少々驚きの事実だった。


 俺は――半年近く眠っていたらしい。


 あの日が7月7日。そして今日が12月24日。


 流石に冗談だと思ったのだが、日野が閉め切っていた窓を開けると、冷たい風が一気に病室を冷やした。


 どうやら、本当らしい。


 けど、どうしてだ?


 確かに怪我をしたし、多少は血も流したがそこまで重体ではなかったと思うが。


「見た目はね。だけど内臓出血とか、内側の方が相当危なかったの」


 車にひかれていた段階でどうやら肋骨が折れて、更に男に蹴られたことで折れた骨が内臓に刺さっていたらしい。


「実際に見てないから聞いた話になるけど、いっちーよくそんな状態で動けたよね」


 ……確かに。


 と言ってもあの時は痛い痛くないをもう通り過ぎてからな。


 今、病室にいるのは俺と秋月、そして日野だけだ。医師の方は俺の方が大丈夫だと確認すると他にも仕事があるようでもうここにはいない。日野はというと、


「お姉さん、これでも要領が良いんで」


 とのことだった。


「それにしても、ホントによかった……」


 安堵の息と共に、日野が言う。


 日野は、本当に安心しているようだ。看護師として、人死になど絶対に許せないんだろう。


 まったく……大袈裟なんだよ、俺の命くらいで。


 心の中で、そう思う。


 言葉にすれば、日野が怒りそうだったから。


 俺は、泣き疲れて俺のベッドに上体を預ける秋月を見る。


 ……ったく、俺は何やってんだよ?


 こいつに、こんなにも心配かけて。


「……あの男は、どうなった?」


 意識が下へ下へ行くような気がしたので、話を変える。


「……聞いても気持ちいい話じゃないわよ?」

「知らない方が気持ち悪い」

「……覚せい剤の摂取が原因で、精神障害なんだって」

「……」

「担当したのは別の病院だから、知り合いから聞いた話になるけど、症状としては『ガキがぁ、ガキが来るぅぅぁっぁぁぁぁ!』って震えだすんですって」

「……そうか」

「うん……」

「……ついでに聞くけど、なんであいつは、まるで狙いすましたようにあの日、秋月が退院する日にあそこに張り込んでたんだ?」


 問いに、日野は少しだけ言い淀む。


「……ひめのんの母親、一回お見舞いにきたよね? あの時、受付の娘にひめのんの退院する日を言わせたらしいの。親だから知る権利があるでしょって」


 ……そういうことか。


 その話が本当なら、あの女は退院してすぐ、秋月を――


 いや、考えるのはやめよう。


 もう、終わったことだ。


 これ以上考えたって、下らないことしか分からない。


「み、峰岸君が起きたって本当ですか!?」


 そう、大声で病室に入って来たのは五月女だった。


 どうやら、日野が連絡でもしていたらしい。


 五月女は、俺を見ると信じられないモノを見るように目を見開いて、その瞳に涙を浮かべた。


 ……お前もか。


「よかった、よかったよぉ……」

「……大袈裟だって」


 俺が生きてたくらいで、泣くなっての。


 俺の言葉に、五月女は首を振る。


「大袈裟じゃ、ないよ。ずっとずっと、私も姫乃ちゃんも、心配してたんだよ?」

「あぁ、特に秋月はほとんど毎日ここに来てた」


 聞きなれない声に目を丸くすれば、五月女の影から出て来たのは予想外のやつだった。


 寺崎だ。何でお前がここに?


「……五月女が、お前が起きたって言うから……」

「……そうか。まぁいいや」


 二人が病室に入ってくる。日野が一つしかないパイプ椅子を五月女に譲った。寺崎はもともと座る気がないのか当たり前のように立っている。


 それにしても、と思う。


 秋月は、ずっと通っていてくれたのか。


 ベッドの上で、安心した子供のように眠る秋月を見て、思う。


 迷惑、かけちまったな……


 こんな俺のために、学校から遠いここに来なくていいのに。


 五月女の話では、あの日からずっと秋月は落ち込んでいたらしい。


 事故の翌日はずっと泣き続けて、学校も一週間休んだそうだ。


 手術が終わり、意識のない俺に面会が出来るようになると毎日ここに来ていたらしい。


 面会できるようになってからは学校も、休まなかった。そんなことをすれば起きた俺に責任を負わせてしまうと考えたからだそうだ。


 そして、意外だったのが寺崎だ。


 何でも、五月女の話では学校で秋月を、こいつが守ってくれていたらしい。


 俺が目を丸くして寺崎を見れば、こいつは恥ずかしそうにそっぽを向いた。そんな反応があまりにも子供らしくて、俺はつい笑ってしまう。


「ありがとな、寺崎」

「べ、別に大したことじゃねぇし……それに、あの時のあいつ、見てて辛くなるほど無理してたから……ほっとけなかったんだよ……」

「うん、そうだね……」


 寺崎の言葉に、五月女が頷く。


「姫乃ちゃん、学校ではいつも笑ってたよ。学校っていうより、私たちの前で、かな。でもね、それって無理してる笑顔だったの……」

「……」


 容易に想像できてしまう、そんな顔。


 五月女の優しい視線が、心地よさそうに眠る秋月へ向く。


「だからね、正直私、今ホッとしてるの」


 そう言って、嬉しそうに微笑んだ。


「姫乃ちゃんが、本当に嬉しそうだから」


 五月女の視線が、秋月から俺に移る。


「だからね、本当によかった。峰岸君が、目を覚ましてくれて……」

「……」


 俺は何故か、そんな言葉に返事を返せなかった。


 日野の時と同じだ。大袈裟だな、とかそんなに心配しなくてもと、そんな風に思ってしまう。


 いや、それも少し違う。


 どう違うかは、不明瞭で分かりにくいけど。


 ――やめてくれ。


「――!?」


 俺は今、何を思った……?


 日野の言葉に、五月女の言葉に、俺は、俺は――


 だが、答えに行きつく前にもぞりと、動く気配がした。


 俺達の視線の先で、秋月が起きる所だった。こいつは寝ぼけているのか、周りをきょろきょろと見て、焦点の合っていない目で俺を見つけて、目を見開くと、先ほどと同じように俺に抱きついてきた。


 まるで、俺が起きているのが夢じゃないと証明するように。


 その頬を、柔らかい身体を、温もりを、俺に押し付けてくる。


 ……本当に、俺はダメだな。


 こんな小さな女の子に、心配をかけさせてしまった。


 半年動いていなかったので、筋肉が衰えてまともに動けず、俺は日野に頼んでメモ紙で秋月に言葉を伝える。


『悪いな、心配かけた』


 秋月は、泣きながら首を振ってメモを綴る。


『ハジメ君は、何も悪くない

 私が 私がいたから』


 ……もしかしたら、秋月もこんな気持ちだったのかな。


 俺が、俺のせいで秋月が傷付いたんだとそう勝手に悲劇のヒーローを気取っていたあの時。


 秋月は何も悪くないってのに、勝手に自分が悪いと思いこんでいる。


 ……それは、すごく嫌な気持ちだった。


 何より、秋月がてめぇのせいで落ち込むのが、嫌だった。


 人の振り見て我がふり直せってことか。


『秋月、それ以上泣くな』

「……」

『お前が泣くと、俺は悲しくなる。お前は俺を悲しくさせたいのか?』


 ずるい言葉だと、そう思う。


 日野が綴ったメモを見て、秋月は首を横に振った。


『そうか、じゃあ笑え』


 その言葉に、秋月は涙を流しながら、それでも笑った。


 不格好で、お世辞にも可愛いと言えない表情だけど、見ているとどうしても気持ちが温かくなるそれだった。


『うん、やっぱりお前は笑顔のほうが魅力的だ』

「……おい、日野さん?」


 そんなこと、俺は一言も言っていない訳だが。


「てへっ。ちょっと茶目っ気出しちゃった」

「いい歳した女がてへとか……」

「私はまだ26!」

「……そうだな」


 まだというかもうって感じだが、面倒だったのであえて言わなかった。


 それに、気にすることでもない。


 秋月のことだ。日野の勝手な世辞にも嬉しそうに笑うだけだろう。


 そう思って秋月を見ると……なんだ、その反応は。


 日野が綴ったメモを見て、顔を真っ赤にしている。


 俺が秋月の変化に目を丸くすれば、視線に気付いたのだろう。秋月は俺から目を逸らすように俯いた。


 秋月?


 意外な反応に更に目を丸くしてしまう。


 秋月は、そんな俺の視線に何を思ったのか、いつもよりずっと早くメモを綴ると、


『それよりハジメ君

 本当に大丈夫?

 痛い所とか、ない?』


 どこか話を逸らしているような感はあったが、秋月の表情には本当に心配している色が見て取れて、俺は頷く。


『あぁ、大丈夫だ』

『安心してひめのん。いっちーを看たお医者さんは私の旦那だから! 腕は確かよ!』


 日野のメモ紙を見て、秋月は本当に安心したように息を吐いた。


 その目には、薄く涙さえ浮かんでいる。


「……」


 きっと、秋月は本当に俺を心配してくれていたんだろう。


 五月女や寺崎に苦笑される秋月を見て、そう思う。


 ……そんなに、心配しなくていいのに。


 俺の命なんざ、お前のそれに比べれば軽いモノなんだ。


 だからさ、俺にそんな笑顔、向けなくていいんだよ。


 嬉しそうに、笑わなくていいんだよ。


 じゃないと、錯覚しちまう。


 俺が、俺が――


「本当によかった。峰岸君」


 ……やめろ。


「うんうん、ホントによかったよ、いっちー」


 ……やめろ。


「あぁ、よかった」


 ……やめろ……!


『ハジメ君が起きてくれて、本当によかった』

「――やめろよ!」


 思わず、叫んでいた。


 しんと、病室が静まり返る。


 俺を見るやつらの目が、驚きに見開かれていた。


 当然だった。心配していたというのにいきなり怒鳴られてら誰だってそうなる。


 唯一、耳の聞こえない秋月だけが何も気付いていない。それでも、周りの変化に何かを感じ取ったんだろう。不思議そうに目を丸くしている。


 俺は、絞りだすように、


「……悪い。ちょっとまだ疲れてるみたいだ……今日は帰ってくれないか?」


 随分と勝手な言い分だ。そう分かっているけど、他に言葉が出なくて。


 俺の気を組んでくれたのだろう。日野たちは頷くと、それぞれ挨拶をして病室を後にする。


 秋月は、最後までここに残ろうとしたけど、俺の顔を見て、悲しそうに表情を曇らせると病室を出て行った。


 一人に、なる。


 待っていたのは、自己嫌悪だった。


 ……何で、あんなこと言っちまったんだろうな?


 ……分かってる。


 答えなんざ。


 嫌ほどに、はっきりと。


 俺は、俺は……受け入れられなかったんだ。


 あいつらの優しさが。


 俺の命を大切だというような、そんな言葉が。


 クソみたいな俺に不似合いな、そんな想いが。


 錯覚してしまう。


 勘違いしてしまう。


 俺は生きていていいのだと。


 ――そんな訳、あるわけねぇだろうが。


 俺の、心の底にある気持ちが、そう言った。


 あぁ、そうさ。


 知っている。


 俺みたいなカスが、そんな言葉を受けていいはずがない。


 親に死んでほしいと思ってしまうような俺が。


 誰も信じられない、俺が。


 俺自身を諦めちまった俺が。


 優しくされていいわけ、ない。


 錯覚、するな。


 勘違いするな。


 俺は、クズなんだ。


 死んでないから生きているだけ。


 目標も目的もない。


 石ころみたいな、クソ野郎なんだ。


 ――そうだ。


 それ以外の俺なんて、あるはずない。


 あっていいはず、ないんだ。


 あぁ、そうさ。


 そうに、決まってる。


 忘れるな。


 間違えるな。


 俺は――クズなんだよ。


 それで、いいんだ。


 それで――






 それから、俺はリハビリをすることになった。


 半年近く動いていないので、筋力が全体的に落ちていたからだ。本当なら関節も固まってしまうらしいのだが、意識を失っていた期間が短かったのと、昏睡中、マッサージをされていたのでその点は特に問題ないらしい。


 ちなみに、マッサージをしてくれていたのは秋月とのことだった。


 俺が秋月に礼を言うと、秋月はこの間と同じように顔を赤くして俯いた。だけど、その表情はひどく嬉しそうで、俺の言葉に喜んでくれているのが分かって、俺はそんな秋月を見れなかった。


 秋月は、俺のリハビリにずっと付き合ってくれた。


 最初の方はまともに歩けなかったので車いすで移動することになり、日野や寺崎が押そうとしても必ず秋月が押してくれた。


 リハビリメニューが終えればすぐにスポーツドリンクとタオルを用意してくれた。


 それこそ、四六時中俺のそばにいてくれた。


 俺が礼を言うたびに、顔を赤くして、それでも嬉しそうに笑ってくれた。


 そんな秋月に、俺は笑いかけることが出来なかった。


 時間は止まることなく過ぎていく。


 一月が終わり、二月の中旬には、俺はもう一人で動けるようになっていた。


 長い冬休みになったが、それも終わり学校に復帰する。


 何も変わらない日常。


 熱血系の担任教師にいじめが止まったらしいクラス。


 休み時間には俺と秋月と五月女と寺崎でトランプで遊んで、秋月と五月女の会話を俺と寺崎が眺めて。


 そんな、どうでもいい日常があっという間に過ぎて行って。


 俺達は、卒業式を迎えた。


 3月3日。


 雛祭りの日。


 だけど、俺は何も変わらない。


 周りの奴らが感動に涙する中、手の中にある卒業証書を何の感情もなく眺める。


 学校を卒業した所で、何が変わるでもない。


 何も、変わらない。


 そう、変わるはずない。


 ……変われるはず、ないんだ。


「……くだらねぇ」


 卒業式が終わってすぐ、俺達は日野の家に招待されていた。


 卒業記念としてパーティを開いてくれるとのことだった。俺は断ったのだが、秋月がどうしても来てほしいと俺の手を離さなかったので、しかたなく参加と言う形だ。


 正直、気分ではなかったけど、たぶんこれが、秋月の最後の頼みになるだろうから。


 秋月は4月から、親父さんの所に行く。


 海外だと流石に教育的に問題なので、親父さんが仕事ができ、かつ聾学校が通える所だ。日野の話ではここから新幹線に乗って数時間ほどかかる場所らしい。


 だからきっと、俺達の縁はここで終わりだ。


 秋月は、もう助かった。


 ひどい母親のせいで虐待を受けることもない。


 いじめられて、助けを求められない環境じゃない。


 親と言う、本当の理解者と一緒に幸せに暮らせる。


 だから、俺はもういらない。


 秋月の未来には、俺みたいな偽物、もういらないんだ。


 秋月にはもう、友達も、親も、両方いるんだから。


 俺があいつを守る理由は、もうない。


 あいつが俺と一緒にいる理由は、もうない。


 だから、ここで終わりだ。


 俺みたいな屑と一緒にいたんじゃ、秋月に迷惑しかかけねぇだろうしな。


 日野がメインとはいえ秋月も少し手伝ったらしいお手製のオードブルを食べ終え、ボード大会などをしていると、すぐに夜になった。


 まだ6時だが、3月と言うこともあり外はもう暗くなっている。


 俺達は日野の家を後にすると、俺が秋月を、寺崎が五月女をと言う形で家まで送ることになった。


 道中、俺達の間に会話はない。


 言葉はもちろん、文字でさえも。


 ただただ、二人分の足音だけが響いていた。


 もうすぐ、俺達は離れることになるというのに。


 だけど、どうしても何か言う気にはなれなかった。


 まるで、あの頃に戻ったように。


 秋月と出会う前の、全てのことを諦めきっていた俺に。


 あぁ、ならいいさ。


 それで、いいんだ。


 俺は、ずっと変わらない。


 ――変われるはず、ないんだから。


 と、そこで気付く。


 当たり前のように俺は、秋月をあのゴミアパートに送ろうとしていたが、今秋月が住んでいるのは先ほどまでパーティを開いていた日野の家だ。


 日野や五月女が当然のように送るよう言っていたから、気付かなかった。


 ホントバカだな、俺は。


 俺は秋月に振りかえり、改めて日野の家へ行こうと提案しようとして――え?


 信じられない光景に、目を見開いた。


 何故ならそこで、俺のすぐ目の前で――秋月が泣いていたから。


 その瞳に、大粒の涙を溜めて。


 必死に声を押し殺して、泣いていた。


 なんでだ? 何でお前は泣いてんだ?


 お前は、これから幸せになるんだぞ?


 そんなお前が、どうして泣くんだよ?


 だけど、その問いが文字になることはなかった。


 秋月が、先にメモを開いたから。


『ハジメ君

 隠し事 してる』

「……!」


 心臓が、掴まれた気分だった。


 それは図星を突かれたからなのか、そうでないのか。上手く判断できない。


『私 バカだから

 子供だから

 ハジメ君が何を隠してるのか

 分からない』

「……」

『分からないけど

 でも でもね

 苦しいの

 今のハジメ君を 見てると

 本当に 苦しいの』

「……」

『私 ハジメ君に会えたから

 こんな風に

 今 笑えるの

 ハジメ君に会えてなかったら

 私きっと

 今も泣いてた』


 ……やめろ。


『ハジメ君が助けてくれたから

 今 私は笑えるの』


 やめて、くれ。


『私 ハジメ君と会えて――』 


 それ以上、秋月の文字が綴られることはなかった。


 俺が、手を振り払っていたから。


 秋月の手から、メモ帳とボールペンが落ちる。


 それから、秋月を見る。


 秋月の、怯えた表情。


 あぁ、当然だ。


 こいつの瞳に映る俺は、本当にひどい面をしていたから。


 そんなてめぇが見ていられなくて、俺は秋月から目を逸らすと落ちたメモ帳とボールペンを拾い、半ば書きなぐるように文字を綴る。


 俺は、感謝されていいような人間じゃない。


 誰よりも劣った、クソ野郎なんだ。


 だから、俺にもう構うな。


 忘れてくれ。


 そう書いて、渡して、その場から離れた。


 走って。逃げるように。


 勝手にも、程がある。


 勝手に助けて、身勝手に手を差し伸べて――


 挙句忘れろだと?


 本当に、ふざけている。


 クソ野郎だ。


 そんな俺が、これから幸せになるあいつに関係していいはずがない。


 あぁ、いいさ。


 こんな身勝手な俺だ。秋月も嫌いになってくれるだろう。


 それでいい。


 それで、いいんだ……


 じゃないと、壊れちまう。


 俺の中の、何かが。


 これが壊れたらきっと、俺はまた、縋ってしまう。


 変わりたいと――そう考えてしまう。


 だから、もういいんだ。


 もう――放っておいてくれ。


 俺は、変わらなくていいんだ。


 変われるはず、ないんだ。


 なのに、そう思っているのに――何でお前は来ちまうんだよ。


 3月14日。


 俺の家に、秋月が来ていた。


 数回のインターホン。無視しようとしたけど、秋月がここに来たのには理由があるような気がして、出た。


 いや、もっと単純に、俺の中に未練があったのかもしれない。


 ドアを開けると、秋月が真っ直ぐに俺を見ていた。


『ハジメ君

 お願い

 一緒に来てほしい所があるの』


 差し出されたメモ。


 俺は、断れなかった。


 秋月の目が、本当に真剣だったから。


 こっちに来ていたらしい秋月の親父さんの車で、俺はどこかに向かう。


 親父さんは俺達の事情を知らないのか、特に変わった様子もなく俺に話しかけた。何でもここから車で数時間かかる所に行くらしい。


 車の中で、俺と秋月はずっと無言だった。


 俺のせいだ。


 秋月は、ずっと俺に話しかけようとしてくれていたのに、俺はそんな彼女からずっと目を逸らし続けていた。


 逃げていたんだ。


 秋月が助かった今、俺に逃げない理由がなかったから。


 本当に俺は、クソ野郎だ。


 本当に――クソったれだ……


 ――……


 気付けば俺は、眠っていたらしい。


 ふと目を覚ませば、車はどこかの駐車場に止まる所だった。


 田舎なのか、砂利が敷き詰められ、周りの木々もあまり整備されていないそこ。でも、どこかで見たことがあるような……


 ……なんだ?


 急な既視感に眉を寄せる。


 車が止まり、下りるよう言われた。


 外に出ると、ますます見覚えがあるような気がする。


 けど、どこでだ?


 峰岸ハジメに生まれ変わってから、俺は一度も県外に出た覚えがない。


 なら、西オサムの時か?


 考えても上手く思い出せなくて、俺は先導する親父さんの跡を追う。そんな俺の隣りに秋月が並んだ。


 そこは、山の中なのか結構な上り下りがあった。そして墓所らしい。作りのいい灰色の墓が家別にいくつも立っている。


 その並びに、行く先に、俺の中の既視感がますます強くなった。


 と、俺は歩きながら、秋月の手を引いて引き寄せた。


 秋月が目を丸くする。俺が視線を送れば、先ほど秋月が歩こうとしていた先に小さなくぼみがあった。そう、子供の足が丁度よく入るような。


 ――小学生の時、これに嵌ってこけたから。


「……!?」


 なん、だ……この記憶……?


 俺は、ここに来たことが、ある?


 そうだ。この階段を下りて、右に曲がるように行って、そして三つの墓があるそこの、丁度真ん中――そこまで行って、それを目の前にして、俺はようやく、思い出した。


 見覚えがあって、当然だ。


 既視感を抱いて、当たり前だ。


 だって俺は、ここに何度も来ているんだから。


 呆然と目を見開く俺の前には、一つの墓があった。


 特に変わったモノではない。灰色の墓石で作られたそれは、周りにあるのと形は変わらないし、これと言って目立った装飾がされている訳でもない。


 違うのはただ一つ――名前だけだ。


 だけど、その違いが俺にとって一番、重要だった。


 なん、だ?


 なんだよ、これ……?


『西家之墓』


 どうして、どうして……


 どうして俺は、ここにいる?


 何でだ?


 どうして俺は、秋月とここに来ているんだ?


 どうして親父さんは、ここに俺達を連れて来たんだ?


 理由が分からず、俺が何も出来ず呆然と突っ立っていると、


「あ、いっちー、ひめのん!」


 聞きなれた声。


 頭が上手く回らない中、声の方を向けば、何故か日野がいた。秋月を担当した『タイ兄』と呼ばれた警官もいる。そしてもう一人、線の細い20ちょっとに見える青年も。


 どうしてお前がここに?


 そう思ったけど、だけど俺は、そんなことに気が回らなかった。


 そんな日野たちの後ろに、三人に人間がいたから。


 女が二人と、男が一人。


 皆、歳は40から50と言ったところだろう。


 だけど、そんなことで俺が、そいつらを見間違えることはなかった。


 見間違えるわけ、なかった。


 子供が大人になるのとは、違うんだ。


 大人が歳をとっても、見た目はそんなに変わらない。


 それに、俺が間違えるはずない。


 俺が、一番長く接してきたそいつらを、間違えるはず、ない。


 だって、だってそいつらは……


 その、三人は……


 俺の、姉弟なんだから。


ハルカ姉さん……


ミナツ姉さん……


タクミ……


 何で、なんでお前たちがここにいるんだよ……?


 三人は、俺に気付いたようで、少しだけ訝しむように見て来た。


「あ、この子が話題のいっちーだよ」


 日野が言うと、途端になるほどと三人が頷く。


 何かしらの事情を受けているようだ。


「で、この子がひめのん」


 日野は秋月の肩を抱いて、俺の姉弟に秋月を見せる。


 秋月は驚きながらも丁寧に頭を下げた。


 それから、互いの近況を語り合い、それが終わって、一人ひとりが、お墓の前に並んだ。


 ハルカ、ミナツ、タクミの順で手を合わせていく。それぞれ『元気でやってるよ』とか

『私たちは今、幸せだから安心して』と誰かに言っていた。


 それから、『タイ兄』と呼ばれた男性警官の合掌が終わり、日野の番になる。


 彼女は、いつも元気なその笑顔を、柔らかい表情に変えて、


「お父さん、私たちは今、すごく幸せに生きてます。だから何も心配いりません。天国で、笑っていてくださいね」

「姉さん、まだその癖治ってないの?」


 姉さん? 癖?


 察するに、見覚えのない青年は日野の弟なのか。そう言えば弟もいるって言ってたか。


 日野は唇と尖らせて、


「別にいいでしょ、智也? 私にとって――『片親』の私たちにとって『伯父さん』はお父さんみたいな人だったんだから」


 ……え?


 伯父さんが、お父さん?


 思い出す、日野の言葉。


 自分の父を語る、それ。

 日野は言っていた。お父さんは見ず知らずの子供を助けるために死んだのだと。


 そして、助けられたのは人吉明良――秋月の親父さん。


 なん、だよ……?


 なんだよ、それ……


 ち、違う。勘違いだ。


 そんなこと、あるはずない。


 智也と呼ばれた青年の黙祷が終わり、秋月の親父さんが墓に向かって手を合わせる。


「……あなたには、どんな言葉を尽くしても、足りない気がします。それでも、言わせてください」


 や、やめて、くれ……


「ありがとう、ございます」


 やめろ……


「あなたのおかげで、私と私の娘は、今、幸せに生きています」


 なぁ、お願いだ……


 もう、やめてくれ。


 お礼なんて、いらない。


 感謝なんて、しなくていい。


 だから――秋月。


 墓の前に、立たないでくれ。


 手を、合わせないでくれ。


 秋月は、黙祷の後、一枚の手紙を墓の前に供えた。


 そこには、こう書かれていた。


『初めまして。


 私は人吉姫乃と言います。


 私はあなたと会ったことがありません。


 でも、お話を聞いています。


 あなたがお父さんを助けてくれたから、私は今、生きていられるんだと。


 私は、生きるのが辛かったです。


 毎日毎日いじめられて、


 お母さんからも叩かれて、


 死にたいと、そう思ったこともありました。


 でも、今は思います。


 生きていて、よかったと。


 友達が、出来ました。


 お姉さんみたいな人が、出来ました。


 お父さんと、また会えました。


 何より


 何より


 大切な人と、出会えました。


 その人は、私を助けてくれた人でした。


 私に、手を差し延ばしてくれた人でした。


 私は今、すごく幸せです。


 生きていて、よかったと思います。


 そう思えるのは、私の大切な人と、


 あなたのおかげです。


 ありがとうございます。


 ありがとうございます。


 私のお父さんを助けてくれて、本当にありがとうございます。


 西オサムさん』


 もう――やめて、くれ……


 俺は、俺は……違うんだよ。


 感謝されていい人間じゃ、ないんだ。


 誰かに好きになってもらえる人間じゃ、ないんだ。


 だから、もうやめてくれ。


 俺に、そんな優しい笑顔を、向けないでくれ。


『ハジメ君

 私、考えたよ

 すごく、考えた』


 やめろ……


『どうしてハジメ君が苦しんでるのか。

 どうしてあんなこと、書いたのか。

 いっぱいいっぱい、考えたよ』


 真っ直ぐに、見ないでくれ……


『でもね、分からなかった。

 どうしてハジメ君があんなこと書いたのか

 分からなかった』


 分からなくていい。


 分かってくれなくて、いい。


『でもね、それでも』


 やめろ……


『私は、よかったって思う』


 やめろ……!


『私、ハジメ君に会えて』


 やめて、くれ……!


『本当に、よかった』


 おねがい、だ……


『だからね

感謝しなくていいって言われても』


俺は……


『構うなって言われても』


 俺は――


『忘れろって言われても』


 俺は……!


『出来ないよ。

 私、私

 ハジメ君のこと』


「やめてくれ!」


 もう、それ以上は……!


「俺は、俺はそんな人間じゃない!」


 違う。違うんだ!


「感謝されていい人間じゃないんだ!」


 劣っているんだ。


 諦めちまってるんだ。


「俺は、家族なんていらないって思った! 親父もお袋も、ハルカもミナツもタクミも、いらないってそう思ってたんだ!」


 あぁ、そうさ。


「大我や優陽、智也に優しくしたのだって、あいつらが片親で可哀想だから、そうしたんだ! 勝手に哀れんで、見下してたんだ!」


 そんな、そんな俺が!


「あの子供を助けたのだって、誰かを守れて死ねるなんて希望に縋っただけなんだ! 俺の命に価値があるって、そう酔いたかっただけなんだ!」


 こんな俺が――


「そんな、そんな俺が――感謝されていいはず、ねぇんだよ!」


 生きているのが嬉しいなんて、思っていいはずない!


 生まれ来てよかったなんて、思っていいはずがない!


 そう、そう思わないと……俺は、俺は……


『それでも

私はハジメ君に会えて

よかった』


 ……なんで、だよ。


 何で、俺の言葉が届いてないのに、そんなこと、書くんだよ……?


『だからね、ハジメ君』


 俺は、俺は……


『生まれて来てくれて、ありがとう』


 俺は……


『生きていてくれて、ありがとう』


 俺は……!


『私と出会ってくれて、ありがとう』


 俺、は……


『ハジメ君に会えて、本当によかった』


 俺は……生きていて、よかったのか?


 分からない。


 わから、ねぇよ……


 もう、何も、分からねぇよ……


 秋月が、俺の頬に、手を伸ばした。


 そして、その小さな手で、何かを拭う。


 それは、水滴だった。


 雨でも、降っているのか。


 違う。


 違う。


 それは、


 それは――


 俺の、涙だった。


 俺は、泣いていた。


 泣いて、いたんだ。


 思っちゃ、ダメなのに。


 錯覚しちゃ、ダメなのに。


 俺は、俺は……嬉しかったん、だ……


 家族の言葉が。


 親父さんの言葉が。


 何より――秋月の言葉が。


 嬉しかったんだ……


 だけど、受け止められなかったんだ。


 嬉しいと思ってしまえば、俺の中で、何かが変わってしまうような気がして。


 変わるのが、恐かったんだ。


 だから、否定しようとしたのに。


 でも、どうしても、拒絶できなかった。


 立っていられずに、俺はその場で膝をついた。


 そんな俺を、秋月が抱きしめてくれた。


 温かかった。


 優しかった。


 なぁ、秋月。


 問い、かける。


 俺は、生きていて、いいのか?


 秋月は、頷いた。


 俺は、喜んでいいのか?


 秋月は、笑った。


 俺は、愛されて、いいのか……?


 秋月は、俺をぎゅっと抱きしめてくれた。


 俺は、俺は……


 生きていて、よかったんだ……


 ずっと、俺の命に意味なんてないと、そう思っていた。


 生きる目的も、目標もなくて。


 死んでないから、生きているだけだと、そう思っていた。


 でも、違ったんだ。


 俺は、


 西オサムは、


 峰岸ハジメは、


 誰かに死を、悲しまれる人間だったんだ。


 誰かに生を、喜ばれる人間だったんだ。


「あ、あぁ……! ぅ、んぐ……!」


 口から、漏れる声。


 秋月の胸に顔を隠して、押し殺す。


 こんなかっこ悪い俺を、見せたくなかったから。


 泣く姿を、見られたくなかったから。


 何が、死んでないから生きているだけだよ。


 何が、価値も意味もない、だよ……


 俺の命には、こんなにも、光があったのに。


 全部、勝手に諦めて。


 俺は、バカだ。


 本当に、大バカ野郎だ。


 悲しかった。


 西オサムとして、死んだのが。


 でも、同じくらい、


 嬉しかった。


 峰岸ハジメとして、生きている今が。


 俺は、俺は――


 本当に、嬉しかったんだ。


 俺は、俺は……


 生きていて、よかったんだ。


 3月14日。


 俺が、死んだ日。


 家族に見守られ、


 俺を大切だと思ってくれる少女の胸の中で俺は、


 ガキのように、泣いた。




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