君の手を
十四時五十五分少し過ぎ。
ゆっくりと流れ出したスローテンポの曲に、会場内のざわめきが途絶える。結婚式の余興で、いきなり前に出た人達が輪を作ったから驚いたのもあるのだろうか。前奏の部分が終るところで男性が女性の後ろから寄り添うように手を取ってよ、と伝えてあり、僕もそうしようとしたところで最初のパートナーがこっそり囁いた。
「でもさ、凛子は絶対、のり君だと思ってたのに」
先ほどのテーブル席でも他の仲間から口にされた話題で、僕は思わず苦笑する。
「そんなことないよ、だって別に付き合ってたわけじゃないし」
「あんなに仲良くて、付き合ってないとかおかしいもん、」
「あ、ほら始まる――」
やわらかな歌声はキーが高めの男性ボーカルのもので、それは凛子が一番好きだとよく言っていた曲だった。僕らは大学のフォークダンス同好会、というふざけた名前のサークルに所属していた同期で、入学から卒業までずっと在籍していた男四人女五人はそれぞれが社会人になった今でも仲良く交流している。サークル内でも二組のカップルが既に婚姻関係にあって、彼らの結婚式の時にも余興で僕らがフォークダンスを踊った。しかしそれはオクラホマミキサーやマイムマイムなどの有名なものではなく、好きな曲にフォークダンスっぽく自分達で振り付けをした、オリジナルのものだったけれど。
右足、右足、左足、右足、男性が手を添えて右回りで女性をターンさせ、右足、右足、左足を軸に円の内側へ女性が大きく傾いて手を伸ばし、倒れ込まないよう男性がその手をしっかりと支え。
「でも凛子は絶対のり君のこと、」
パートナー交代の時に、早奈江はふてくされたように僕へだけ聞こえるようにそう言った。田宮にも同じことを言われたよ、と、僕は彼女の旦那になった同期の名前を告げる。そしてそのまま次のパートナーに、僕は後方へ、彼女は前方へ進んで入れ替わった。
右足、右足、左足、右足、女性のターンで――。
僕もそう思ってた。
口にできずに僕は軽く俯く。今日のダンスは僕の振り付けだ、凛子のために在学中、僕が作ったダンスだった。僕も思ってた。凛子とはいつか付き合い出すんじゃないかと。僕らは相性も仲も良くて、いつでも一緒にいた。誰もが僕らを付き合っていると勘違いした。僕らだって、タイミングが合えばいつでも付き合い出せるつもりでいた。
そう、タイミングが。
それだけが合わずに、いつもどちらかが言い出せず、どちらかが受け取れず、すれ違ってしまっただけで。
「のり君、足、逆」
「えっ、あ、」
次のパートナーの朱里が笑う。酔っ払ってる? と聞かれて、曖昧に笑う。無理矢理参加させた新郎が、前方でしどろもどろに踊っているのが目に入り、あれよりはマシだけどね、と朱里がつまらないフォローをした。
「凛子、取られちゃったね」
「取られたって、別に俺らは付き合ってたわけじゃ、」
「でも好きだったんでしょ?」
どうして色恋沙汰になると女というものはこうも敏感なのか。それとも僕の好意が駄々漏れで分かりやすかっただけなのだろうか。
手を取って内側へ傾く女性を支えて――。
五組で作る小さな円で、僕らは曲に合わせてくるりと踊る。パートナーを次々と変え、ふわりふわり、と。同じ会社の、ふたつ先輩なのだという新郎は、少なくとも外見上は僕に似ていなかった。交際から半年での結婚。僕は凛子を手に入れるタイミングを、今日ここで永遠に失う。凛子。言わなかったけど僕は君が好きで、君も僕を好きでいてくれたよね。
今でもまだ好きな彼女に送る、仲間としての余興は、けれど秘密がひとつあった。
三回目のサビが流れる、この次にくるパートナーで踊りは終る。
ダララララララ、とピアノの鍵盤をかけ上がる指を想像させる曲の流れで。
後方に進んだ僕の手に、白いレースの手袋が触れる。肩を大きく露出させ、透ける白いベールを羽織り。ピンクと赤の薔薇で飾られた髪は、静かにカールして。
「……おめでと、」
うふふ、と凛子が笑う。本当に、嬉しそうな色をにじませて。
「凛子、綺麗だな」
「やだ、照れるじゃないの」
いや本当に、と、僕は口の中でその言葉を転がして結局外に出さないままゆっくり笑った。レース越しに伝わる低めの体温。同じことを思ったのか、彼女がそっと言う。相変わらずだね、と。相変わらず体温の高い僕、は、学生時代すぐに手が冷たくなる凛子の指先をよく握り締めて暖めた。缶コーヒーじゃ熱過ぎるしホッカイロ買うほどでもないし、私にはのり君がいるからそれでいいわ、と。彼女がよく笑っていたのを、昨日のことのように思う。
もう君は、僕以外の体温を求めるようになってしまったのかな。
右足、右足、左足、右足、男性が手を添えて右回りで女性をターンさせ、右足、右足、左足を軸に円の内側へ女性が大きく傾いて手を伸ばし、倒れ込まないよう男性がその手をしっかりと支え――。
曲が終ったら司会者が頼んでいた通りにわざと驚いた声を上げることになっている。『ご覧下さい! 新婦は運命の人としっかりと手を取り合っております、やはり今日のふたりははじめから結ばれる運命だったのですね!』。
今回の余興は僕の振り付けを使うということで、仕切りは僕に任されていた。最後の悪あがき、いや、意地なのかもしれない。最後に新郎新婦がペアになるようにした、と告げてあるけれど、僕のふたつ前にいる彼に凛子との順番が回ってくるはずもなく。
曲の最後がハミングになる、僕は凛子と顔を見合わせてにっこりした。パチパチ、と酔っ払いもそうでない人も手を叩き始め、応用の利かない司会者が首を傾げつつマイクに向かって叫ぶ。
「ご覧下さい、新婦は運命の人としっかり手を取り合っております――」
あらやだ違う、と凛子が少しだけ慌てた様子で驚いた目を丸くしたけれど、僕は彼女の手を握ったまま離さなかった。最後の悪あがきくらい、と。
「凛子、僕は本当は――」
「凛子の運命の人はオレだー!」
彼女の手を取ったまま、僕は最後の告白を試みようとする。けれど、その言葉は前方から発せられた声に遮られ、思わずそちらに目を向けると、大きく腕を開いた新郎がまっすぐ凛子に突進しようとするのが目に入った。
ああ、僕は最後まで。
タイミングを失ったままで。
苦笑しか漏れない、凛子が楽しそうな声を上げるのが聞こえて、僕は泣きそうになる。最後まで僕は、凛子、君に。
凛子が大きく新郎に向かって手を伸ばすのとほぼ同時に、けれども僕の目はサークルの仲間がさっとそれぞれに足を出すのを捉えた。新郎に向かって。田宮も、朱里も、早奈江も、由香子も鈴本も、今フォークダンスを終えたばかりのみんなが。さっ、と。
凛子しか見ていなかった新郎は、そのうちの誰かの足につまずいて大きく体勢を崩した。
「逃げちゃえ、って訳にはいかないけどさ、」
はしゃぎすぎた新郎がひとりで興奮していると勘違いしたらしい会場内から笑い声が起こる。
「もうタイミング逃したらこれが最後の最後なんだからね!」
言ってくれたのは誰だったんだろう。
僕は凛子の手を握ったまま、彼女の目を覗き込んだ。そう、今更の悪あがきだけれど。
「凛子――、」
オルゴールの結婚行進曲が流れる、式場内の壁にかけられた大きなからくり時計が、たくさんの花を咲かせて小さな新郎新婦の人形をくるくると踊らせはじめた。僕も凛子も、思わずそちらに目を向ける。合わせたように、タイミングぴったりで。
十五時、ジャストだった。