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世界で最後の色を見つけた少女

掲載日:2026/09/17

世界は、ずっと灰色だった。


空も灰色。


雲も灰色。


家も、道も、木々も、石畳の隙間にひっそりと咲く小さな花さえも、すべてが異なる濃淡の灰色に染まっていた。


白に近い淡い灰色もあれば、黒と見分けがつかないほど暗い灰色もある。


けれど、それ以外の色は存在しなかった。


そして誰も、それをおかしいとは思わなかった。


かつて世界に別の色があったのではないかと、疑問を抱く者すらいなかった。


毎朝、大時計塔の鐘が一度鳴ると、町中の扉がほとんど同時に開く。


人々は家を出る。


歩く。


働く。


食べる。


家へ帰る。


眠る。


そして翌日も、まったく同じことを繰り返す。


「おはようございます」


「おはようございます」


「眠れましたか?」


「はい」


「わかりました」


そんな会話のあとに、笑い声が響くことはない。


口論もない。


喜びの声を上げる者もいなければ、涙を流す者もいない。


子供が嬉しそうに親へ駆け寄ることもなかった。


別れ際に抱きしめ合う者もいない。


通りに歌声はなく、壁を彩る絵もない。


子供たちが遊ぶのも、一日に一時間の運動が必要だと定められているからにすぎなかった。


静かな世界。


秩序ある世界。


安全な世界。


完璧なまでに、灰色の世界。


城壁の近くに建つ小さな家に、リリアという少女が暮らしていた。


十二歳だった。


腰まで伸びた真っ直ぐな髪は濃い灰色。


肌は青白く、膝まである簡素な灰色のワンピースをいつも身につけていた。


大きな瞳をしていた。


けれど、その瞳に輝きはなかった。


病気だからではない。


誰もが同じ目をしていた。


その朝も、リリアは最初の鐘の音とともに目を覚ました。


起き上がる。


ベッドを整える。


服を着る。


髪を梳かす。


そして部屋を出る。


母親はすでに、食卓に二人分の皿を並べていた。


「おはよう、リリア」


「おはよう、お母さん」


「パンがあるわ」


「ありがとう」


リリアは椅子に座った。


二人は黙って朝食を取った。


母親が水を一口飲む。


「今日は帰りが遅くなるわ」


「わかった」


「夕食は用意してあるから」


「わかった」


母親は食事を終えると立ち上がった。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


扉が閉まる。


リリアはそのままパンを食べ続けた。


別れとはそういうものだと、ずっと思っていた。


母を追いかけたいと思ったことなどない。


抱きしめたいと思ったこともなかった。


『抱擁』という言葉なら、古い本で一度だけ読んだことがある。


『他者の身体を両腕で囲む行為』


そう記されていた。


何のためにそんなことをするのか、リリアには理解できなかった。


朝食を終えると、皿を洗い、籠を手に取った。


彼女の仕事は、城壁の外で薬草を採集することだった。


門へ着くと、兵士が手を差し出した。


鎧は灰色。


胸には、この国の紋章――一本の線で横切られた王冠が刻まれている。


「身分証を」


リリアは札を渡した。


「リリア。採集補助員」


「はい」


「三度目の鐘までには戻るように」


「わかりました」


巨大な門が開いた。


リリアは外へ出た。


一時間ほど歩き、いつもの草原へたどり着く。


しゃがみ込む。


薬草を一本摘む。


籠に入れる。


また一本。


さらに一本。


風が静かに髪を揺らした。


リリアは空を見上げる。


灰色の雲。


いつもと同じだった。


再び作業へ戻ろうとした、そのとき。


ヒュウゥゥ――。


奇妙な音が空を切り裂いた。


リリアは顔を上げた。


何かが雲を突き抜けて落ちてくる。


光だった。


けれど、白ではない。


灰色でもない。


黒でもない。


それは――。


リリアはゆっくりと目を見開いた。


表現する言葉を知らなかった。


落下する何かは、見たこともない光の尾を引いていた。


一つ。


また一つ。


さらに別のもの。


それぞれがまったく違って見える。


「なに……あれ……?」


光は丘の向こうへ消えた。


直後。


ドォン――!


地面が揺れた。


リリアは立ち尽くした。


規則では、正体不明の現象を発見した場合、ただちに町へ戻り、兵士へ報告しなければならない。


城壁を見る。


戻らなければならない。


そう思った。


けれど、もう一度丘を見る。


胸の奥に、奇妙な何かが生まれていた。


あれが何なのか知りたい。


知る必要があるわけではない。


知りたいのだ。


リリアは眉を寄せた。


「なに……これ?」


胸に手を当てる。


その感覚は消えなかった。


もう一度城壁を見る。


そして丘を見る。


やがてリリアは丘へ向かって歩き始めた。


足取りは次第に速くなった。


そして自分でも理由がわからないまま、走り出していた。


丘を越えると、小さな穴が地面に開いていた。


その中心に何かがある。


リリアはゆっくりと近づいた。


手のひらほどの大きさの石だった。


水晶のようにも見える。


けれど、その内部では見たことのない光が絶えず揺らめいていた。


リリアは膝をついた。


「あなた……何なの?」


石は答えない。


リリアは手を伸ばした。


指先が触れそうになった瞬間、止まる。


触れてはいけない。


そんな感覚があった。


けれど同時に、触れてみたいという気持ちもあった。


やがて指先が石に触れた。


真っ赤な光が腕を駆け抜けた。


「きゃっ!」


リリアは慌てて手を引いた。


そのまま固まる。


石に驚いたのではない。


自分自身に驚いていた。


声を上げた。


今まで、あんな声を出したことがなかった。


「なに……?」


心臓が激しく鼓動している。


ドクン。


ドクン。


ドクン。


両手で胸を押さえた。


「私……どうしたの?」


呼吸が速くなる。


逃げたい。


あれから離れたい。


なのに、もう一度触れたい。


二つの相反する感覚を、リリアは理解できなかった。


「これって……」


知らないはずの言葉が、ふと頭に浮かんだ。


「……怖い?」


石が小さく輝いた。


リリアは深く息を吸った。


もう一度手を伸ばす。


「怖い……」


そして触れた。


今度は青い光が広がった。


先ほどとはまったく違う感覚だった。


胸が締めつけられる。


喉の奥に何かが詰まる。


瞬きをすると、頬を一滴の雫が伝った。


リリアは指で拭った。


指先についた透明な液体を見る。


「水……?」


また一滴。


さらに一滴。


「病気なの……?」


胸の痛みは強くなっていく。


理由もわからないまま、リリアは泣き始めた。


「どうして……?」


すると石の光が変わった。


黄色い光が少女の顔を照らす。


胸の痛みが薄れた。


代わりに、温かなものが身体の中に広がっていく。


リリアの唇が自然と弧を描いた。


少女は固まった。


自分の口元に触れる。


「私の顔……どうなってるの?」


その奇妙な表情は消えない。


そして突然。


「ふ……」


リリアは口を手で覆った。


辺りを見回す。


「今の……なに?」


また胸が温かくなる。


「ふ……ふふ……」


知らない音が口から漏れる。


もう一度。


さらにもう一度。


やがてリリアは笑っていた。


ぎこちなく、小さく、不安そうな笑いだった。


それでも確かに、笑っていた。


「私、どうしちゃったの……!」


また笑った。


自分が笑っていることがおかしくなって、さらに笑う。


気づけば地面に座り込み、泣きながら笑っていた。


「全然わからないよ……!」


石が輝く。


ふと、自分の手首が目に入った。


いつも巻いている小さなリボン。


それが灰色ではなくなっていた。


赤。


リリアは息を呑んだ。


手首を目の前まで持ち上げる。


「これ……なに?」


また一つ、言葉が浮かんだ。


色。


「……いろ?」


石が輝いた。


リリアはリボンを見る。


「赤……」


別の光。


「青……」


また別の光。


「黄色……」


リリアの顔に笑みが広がっていった。


「色……」


その言葉を口にするだけで、胸が不思議なほど温かくなった。


石を大切に両手で包む。


「あなたが教えてくれたの?」


返事はない。


それでもリリアは石を胸に抱いた。


十二年間、一度も光を宿したことのなかった瞳に、小さな輝きが灯っていた。


町へ戻ると、朝と同じ兵士が門で待っていた。


「身分証を」


リリアは札を渡した。


兵士が確認する。


「予定より十七分遅い」


「はい」


兵士が顔を上げた。


リリアは微笑んでいた。


男は数秒間、彼女を見つめる。


「顔が異常だ」


「顔?」


「口元が不自然に曲がっている」


「ああ」


リリアは自分の唇に触れた。


「これ、笑うっていうみたいです」


「笑う?」


「はい」


「その言葉は知らない」


その言葉を聞いた瞬間、リリアの胸に小さな痛みが生まれた。


もう、それが何なのか少しだけわかる。


悲しい。


この人にも知ってほしい。


赤を見たときの驚きを。


青に触れたときに流れた涙を。


黄色に包まれたときの温かさを。


リリアは石を取り出した。


「見てください」


兵士の目が見開かれる。


「……それは何だ?」


「色です」


石から黄色い光がこぼれた。


兵士は反射的に一歩下がった。


「しまえ」


「でも――」


「今すぐしまえ」


リリアは戸惑いながら石を隠した。


兵士は周囲を確認する。


「この件は報告する」


そう言って歩き出した。


「待ってください!」


兵士が振り返る。


「何だ?」


リリアは口を開いた。


けれど、何を言えばいいのかわからなかった。


伝えたいことはたくさんある。


なのに、そのための言葉をまだ知らない。


「……なんでもありません」


兵士は去っていった。


その日の夕方、リリアは家で母を待っていた。


普段なら夕食を用意し、静かに座っているだけだった。


けれど今日は違った。


何度も時計を見る。


何度も扉を見る。


少し歩く。


また座る。


そして再び立ち上がる。


「遅い……」


胸が落ち着かない。


嫌な想像が浮かぶ。


もし帰ってこなかったら。


もし何かあったら。


リリアは胸を押さえた。


「あ……」


また新しい感情だった。


「心配……してるんだ」


ようやく鍵の音がした。


リリアは勢いよく立ち上がった。


扉が開く。


「ただいま」


「お母さん!」


リリアは走った。


母親が驚いている間に、その身体を両腕で抱きしめる。


母親は固まった。


「……何をしているの?」


「わからない」


リリアはさらに強く抱きしめた。


「でも、こうしたかったの」


「なぜ?」


「それも、わからない」


母親は動かなかった。


リリアは急に恥ずかしくなり、離れようとした。


そのとき。


背中に腕が回った。


母親が、ぎこちなく彼女を抱き返していた。


「……変な感じ」


「うん」


「温かい」


リリアは目を閉じた。


「私も」


籠の中に隠していた石が淡く輝いた。


二人が離れたとき、リリアは気づいた。


母の瞳の奥に、ごく小さな光が宿っていた。


「お母さん!」


「何?」


「目が……!」


「目?」


リリアは嬉しくなって笑った。


母親はその顔をじっと見つめる。


「また、その顔をしているわ」


「笑ってるの」


「笑う……」


「うん」


リリアは声を上げて笑った。


母親はしばらく彼女を見ていた。


やがて。


ほんの少しだけ。


その唇が上向いた。


リリアの目が大きくなる。


「お母さん……」


母親は自分の口元に触れた。


「不思議ね」


「嫌?」


しばらく考えてから、母親は首を横に振った。


「いいえ」


その答えを聞いて、リリアはさらに大きく笑った。


それから数日の間に、信じられないことが起こり始めた。


リリアは石の光を、ほかの人々にも見せた。


近所の少年。


鳥に餌を与えていた老婆。


パン屋の主人。


一緒に働く採集者たち。


石に触れた人々は、それぞれ違う反応を見せた。


笑う者。


涙を流す者。


怖がる者。


そしてある日、一人の老婆が紫色を取り戻した小さな花を見て、突然泣き始めた。


リリアは慌てて駆け寄った。


「どこか痛いんですか?」


「いいえ……わからないの」


老婆は震える指で花びらに触れた。


「これを……見たことがある気がする」


「前に?」


「私が、とても小さかった頃……」


リリアは驚いた。


「色を覚えているんですか?」


「頭では覚えていないわ」


老婆は涙を流しながら微笑んだ。


「でも、心が覚えていたみたい」


色は、世界が忘れてしまった何かまで目覚めさせているようだった。


けれど、良いことばかりではなかった。


「僕が先に持ってた!」


「でも私も使いたい!」


二人の子供が青くなった小さなボールを取り合っていた。


「喧嘩しないで!」


リリアが止めようとする。


「こいつが取ったんだ!」


「違うもん!」


一人が相手を押した。


押された子供が転び、泣き始める。


リリアは青ざめた。


「色は喧嘩するためのものじゃないよ!」


もしかすると、自分は間違ったことをしているのではないか。


そんな考えが初めて浮かんだ。


しかし、押した少年は泣いている相手を見つめていた。


やがて顔を伏せる。


「……ごめん」


泣いていた子が顔を上げた。


「あとで貸してくれる?」


「うん」


しばらくすると、二人は一緒に遊んでいた。


リリアはその姿を見つめた。


そこで初めて理解した。


感情とは、笑顔だけではない。


怒りもある。


恐怖もある。


悲しみもある。


嫉妬もある。


けれど、それだけでもない。


人は後悔することができる。


謝ることができる。


許すことができる。


分け合うことができる。


日を追うごとに、町の中に小さな色が増えていった。


黄色い花。


緑のマフラー。


赤い扉。


青い小鳥。


灰色の世界に、小さな光が広がり始めていた。


そしてある朝。


兵士たちがやって来た。


広場にいたリリアは、鎧の足音を聞いた。


人々が道を空ける。


六人の兵士が彼女を囲んだ。


隊長が前へ出る。


「リリア」


胸が震えた。


怖い。


けれど、今のリリアはその感情の名前を知っていた。


「はい」


「灰王陛下の命令だ。城壁の外で発見した禁制品を、ただちに引き渡せ」


リリアは石を胸に抱いた。


「どうしてですか?」


「色は禁止されている」


「どうして?」


「人間を乱すからだ」


「それの何が悪いんですか?」


「感情は苦しみと混乱を生む」


リリアは周囲を見た。


子供たち。


老婆。


パン屋。


そして母親。


みんなの瞳には、以前にはなかった小さな輝きがあった。


「良いものだって生みます」


「お前が決めることではない」


隊長が手を差し出した。


「石を渡せ」


リリアはその手を見つめた。


数日前の自分なら、迷わずこう答えていただろう。


『わかりました』


誰もがそう言う。


自分もずっとそう言ってきた。


胸元の石が、淡く輝いた。


リリアは顔を上げる。


「嫌です」


広場が静まり返った。


隊長の眉が動く。


「……もう一度言え」


身体が震えていた。


怖い。


逃げたい。


それでも、今のリリアはもう一つの感情を知っていた。


勇気。


怖くないことが勇気なのではない。


怖くても、それでも前へ進むこと。


「渡しません」


「王命に逆らうつもりか?」


「だったら、逆らいます」


「最後の警告だ」


「嫌!」


隊長が片手を上げた。


「捕らえろ」


二人の兵士が前へ出た。


「リリア!」


母の叫びが聞こえた。


リリアは振り返った。


母の声に、今まで聞いたことのないほど強い恐怖が込められていた。


兵士たちがリリアの腕をつかむ。


「離して!」


「連行する。禁制品は破壊する」


「嫌!」


その瞬間。


石が輝き始めた。


「この世界は……おかしい!」


兵士たちが石を奪おうとする。


光はさらに強くなる。


「私だって知らなかった! ほかの世界を知らなかったから、おかしいことにも気づかなかった!」


赤。


「怖いって何なのか、今は知ってる!」


青。


「悲しいって何なのかも知ってる!」


黄色。


「笑うって、こんなに温かいんだって知った!」


緑。


「明日を楽しみにする気持ちだって知った!」


いくつもの色がリリアの周囲を舞い始める。


兵士たちが後ずさった。


石がリリアの手から離れ、宙へ浮かぶ。


そして、二つの声が重なって聞こえた。


『あなたは色を知った』


リリアは石を見上げる。


『けれど、私たちの光を受け継ぐということは、すべての色を受け入れるということ』


いくつもの光景が浮かんだ。


笑顔。


涙。


恐怖。


子供たちの喧嘩。


母を心配した胸の痛み。


『美しいものだけではない』


リリアは目を閉じた。


「わかってる」


『あなたを傷つける感情も?』


老婆の涙を思い出す。


そして、そのあとに浮かべた笑顔も。


リリアは目を開いた。


「うん」


石へ向かって手を伸ばす。


「全部、受け入れる!」


光が弾けた。


灰色の服が消えていく。


白い光がリリアの身体を包み、それはやがて戦うための衣装へと姿を変えた。


幾重にも重なる水晶の花びらのようなスカート。


腕と脚には、赤、橙、黄、緑、青、紫の光のリボン。


胸元には虹をかたどった結晶が輝いていた。


灰色だった髪も、本来の温かな栗色を取り戻していく。


そして目を開いた瞬間。


その瞳には、広場にいた誰も見たことのないほど強い輝きが宿っていた。


リリアはゆっくりと地面へ降り立った。


自分の両手を見る。


「私……どうなったの?」


隊長が剣を抜いた。


「禁じられた魔法だ!」


リリアが顔を上げる。


「魔法?」


「捕らえろ!」


兵士たちが一斉に襲いかかる。


「待って!」


リリアは反射的に両腕を前へ出した。


虹色の光が広がり、彼女の前に巨大な障壁を作る。


剣がぶつかり、弾き返された。


「なっ……!」


リリア自身も目を丸くした。


「私だって、こんなことできるなんて知らないよ!」


別の兵士が背後から迫る。


リリアが手を伸ばすと、胸元の結晶から光の帯が飛び出した。


兵士の身体を包み、そのまま地面に座らせるように拘束する。


「傷つけたくないんです!」


「お前は灰王陛下の敵だ!」


その言葉を聞き、リリアは町の奥にそびえる巨大な城を見上げた。


拳を握る。


「だったら、本人に聞きます」


隊長が目を見開く。


「何?」


「どうしてこんな世界にしたのか、ちゃんと聞きたい」


「王を問いただす権利がお前にあると思うのか!」


リリアは城へ向かって歩き出した。


「ないなら――」


振り返る。


その瞳はもう、決して濁ってはいなかった。


「今から自分で手に入れます」


誰も彼女を止めることはできなかった。


城へたどり着くと、巨大な扉は固く閉ざされていた。


リリアが手を触れる。


胸元の結晶が輝いた。


轟音とともに扉が開く。


長い廊下を歩く。


絵はない。


花もない。


彫刻もない。


装飾さえ存在しない。


灰色の壁だけが、どこまでも続いていた。


やがて巨大な玉座の間へたどり着く。


その最奥。


一人の男が玉座に座っていた。


灰王。


背が高く、痩せた男だった。


白に近い髪が、まだ若さの残る顔を縁取っている。


肩から重い黒の外套が垂れていた。


けれど、リリアが最も気になったのは、その瞳だった。


今まで見てきた誰よりも。


ずっと。


空っぽだった。


「お前か」


王が言った。


リリアは一歩前へ出た。


「みんなから色を奪ったのは、あなたですか?」


「奪ったのではない」


王は静かに答えた。


「人間を色から解放したのだ」


「どうして?」


「必要のないものだからだ」


「違う」


王がわずかに眉を上げる。


「違う?」


「色は綺麗です」


「新しい玩具に夢中になっている子供と同じだ」


「色だけじゃない!」


リリアは胸に手を当てた。


「ここにあるものも」


王の瞳が細くなる。


「感情か」


「はい」


「病だ」


「違います」


王は玉座から立ち上がった。


「お前は感情を知って何日だ?」


「……数日です」


「私は何年も感情とともに生きた」


ゆっくりと階段を下りてくる。


「誇りのために始まった戦争を見た。欲のために人を殺す者を見た。嫉妬で家族を壊す者を見た。野心のために友を裏切る者を見た。侮辱されたというだけで、何千もの兵士を死地へ送った王も見た」


リリアの前で足を止める。


「人間は感情の奴隷だ」


リリアは黙って聞いていた。


「憎しみは暴力を生む。嫉妬は裏切りを生む。恐怖は残酷さを生む。そして愛は……」


王の言葉が止まった。


リリアは気づいた。


「愛は?」


王の瞳が揺れた。


ほんの一瞬。


「何でもない」


「あなた、誰かを愛してたんですね」


「黙れ」


「だからこんなことを?」


「黙れと言った」


「悲しいんですね」


「違う」


「悲しいんだ」


「違う!」


王の声が玉座の間に響いた。


リリアは驚いて一歩下がった。


そして王自身も、自分の声に驚いたようだった。


その瞬間。


虹の結晶が輝いた。


「何をしている?」


「私じゃない……」


光が部屋を満たしていく。


リリアの背後に二つの人影が現れた。


灰王の顔から、初めて明らかな表情が消えた。


「……嘘だ」


光の中から、一人の美しい女性が現れる。


長く波打つ髪。


その瞳には、深い悲しみが宿っていた。


彼女の隣には、穏やかな顔をした青年が立っている。


王が一歩下がった。


「ありえない……」


女性は静かに彼を見つめた。


「久しぶりね、アラリック」


王の唇が震える。


「セレーネ……」


リリアは二人を見た。


「知ってる人なんですか?」


青年が答えた。


「僕たちは、彼の友人だった」


アラリックの拳が固く握られる。


「お前たちは死んだ」


「ええ」


セレーネが答える。


そして青年が静かに続けた。


「君に殺された」


リリアは息を呑んだ。


結晶が輝く。


次の瞬間、玉座の間に過去の光景が浮かび上がった。


三人の若者が草原を走っている。


アラリックが笑っていた。


今の彼からは想像できないほど、楽しそうに。


セレーネも笑っている。


もう一人の青年も一緒だった。


三人で魔法を学ぶ。


食事をする。


くだらないことで口論する。


そしてまた笑う。


光景が変わった。


アラリックがセレーネの前に立っている。


その手は震えていた。


「セレーネ……ずっと君が好きだった」


セレーネは目を伏せる。


「アラリック……」


「今すぐ答えなくてもいい」


「いいえ」


彼の笑顔が消えた。


セレーネは深く息を吸った。


「期待させたくないから、ちゃんと言うわ」


「……わかった」


「あなたのことは、とても大切よ」


アラリックの瞳に一瞬だけ希望が宿る。


「でも、そういう意味じゃないの」


沈黙。


「私……好きな人がいるの」


記憶が変わる。


遠くから二人を見つめるアラリック。


セレーネは、もう一人の青年を抱きしめていた。


そして二人は口づけを交わした。


その瞬間。


若きアラリックの胸を貫いたものが、リリアにも伝わってきた。


悲しみ。


嫉妬。


怒り。


屈辱。


孤独。


さらに記憶が変わる。


禁書に囲まれたアラリック。


床には巨大な魔法陣。


その中心には、囚われたセレーネと青年。


「アラリック! やめて!」


「これが終われば、誰も苦しまなくなる」


「こんなことをしても、あなたの苦しみは消えない!」


「原因そのものを消す」


「私たちは原因じゃない!」


アラリックは両手を掲げた。


「感情こそが、すべての苦しみの原因なんだ!」


セレーネの瞳から涙が流れた。


「私たち、友達だったでしょう!」


「だからこそわかったんだ。人を大切に思えば思うほど、失ったときに苦しむ!」


魔法が二人を包んだ。


「アラリック!」


光が弾けた。


そして世界から、すべての色が消えた。


記憶が途切れる。


リリアは涙を流していた。


ゆっくりと王を見る。


「二人を……犠牲にしたの?」


アラリックは答えない。


「彼女があなたを好きにならなかったから、それだけで……!」


「それだけじゃない!」


王の叫びが窓を震わせた。


「私はずっと見てきた! 戦争も! 憎しみも! 裏切りも! 彼女のことはただ……」


セレーネを見る。


「最後に確信させただけだ」


セレーネは首を横に振った。


「違うわ」


「何?」


「私に拒絶されたことを、自分が信じたかったことの理由にしただけ」


「お前は私を苦しめた!」


「ええ」


即答だった。


アラリックは言葉を失う。


セレーネが一歩進む。


「あなたを傷つけた。それはわかってる」


「なら……」


「でも、あなたを愛せなかったことは罪じゃない」


アラリックは動かなかった。


「あなたのことは大切だった。私にとって、本当に大切な友達だった」


青年も前へ出る。


「僕だって君から何かを奪おうとしたわけじゃない」


「セレーネはお前を選んだ!」


「セレーネの愛は、僕たちのどちらかが所有する物じゃない」


アラリックは歯を食いしばった。


セレーネの目から涙が落ちる。


「あなたに告白された夜、私も泣いたの」


王が顔を上げた。


「……何?」


「あなたが苦しんでいるとわかっていたから」


「だったら、なぜ……」


「あなたを思いやることと、恋人になることは同じじゃないから」


アラリックの身体が震え始めた。


「黙れ」


「あなたが好きだった」


「黙れ」


「私たちはあなたの友達だった」


「黙れ」


「それなのに、あなたは私たちを殺した」


「黙れぇぇぇ!」


巨大な灰色の力が爆発した。


リリアは反射的に障壁を張った。


衝撃で柱が砕ける。


「見ろ!」


アラリックが叫んだ。


灰色の魔力が嵐のように渦巻いている。


「これが感情だ!」


リリアは必死に障壁を支えた。


「私を見ろ! 戦争を見ろ! 人間が感情のせいでどれほど苦しんできたかを見ろ!」


リリアは歯を食いしばった。


そして言った。


「……あなたの言うこと、正しいです」


魔力の動きが止まった。


アラリックが目を見開く。


「何?」


リリアはゆっくりと障壁を下ろした。


「一つだけ、正しいです」


自分の手を見る。


「感情は、人を傷つけることがあります」


数日間の出来事を思い出す。


「兵士に捕まりそうになったとき、怖かった。子供たちが喧嘩するのも見た。怒ってる人も見た。亡くなった人を思い出して泣いている人も見た」


アラリックが手を差し出す。


「なら、わかっただろう」


「でも、その子たちは謝りました」


アラリックが止まる。


「泣いていたおばあさんも、最後には笑っていました。その人と出会えたことが嬉しかったから」


リリアは顔を上げた。


「それに私は、お母さんを抱きしめました」


胸の結晶が輝き始める。


「初めて、家に帰りたいと思ったんです。待ってくれている人がいるから」


「無意味な感情だ」


「違う!」


リリアは一歩踏み出した。


「あなたが感情を消したのは、無意味だったからじゃない!」


「やめろ」


「怖かったから!」


「黙れ」


「また傷つくのが怖かったんでしょう!」


アラリックが魔力を放つ。


リリアは障壁で受け止めた。


「お前に私の何がわかる!」


「だったら教えて!」


リリアは走り出した。


二撃目。


かわす。


「どれだけ苦しかったのか、見せて!」


「やめろ!」


「二人をどれだけ大切に思ってたのか、見せて!」


「黙れ!」


「全部見せて!」


虹の結晶が眩しく輝いた。


アラリックの瞳が大きく開く。


「やめろ……」


光が彼を包んだ。


けれど、焼かなかった。


傷つけなかった。


代わりに。


彼が消そうとしたすべてを、返した。


セレーネの笑顔。


友人の手。


三人で過ごした午後。


初めての喧嘩。


病気になった自分をセレーネが看病してくれた夜。


彼女を愛していると気づいた日。


拒絶。


嫉妬。


怒り。


儀式。


二人の悲鳴。


死。


「いやだ……」


アラリックは膝をついた。


「見たくない……」


リリアは歩き続ける。


「でも、起きたことです」


「消してくれ!」


「できません」


「消せ!」


リリアは彼の前で立ち止まった。


「それを世界全部にしたのが、あなたでしょう?」


アラリックが顔を上げた。


涙が頬を伝っていた。


本人は、その涙にさえ戸惑っているようだった。


「痛い……」


リリアの目からも涙が落ちる。


「うん」


「耐えられない……」


「私だって、耐えられないことがあります」


「だったら、なぜ感情なんて欲しがる?」


リリアはしばらく考えた。


「一つだけじゃないから」


アラリックが彼女を見る。


「悲しくなって、その人がどれだけ大切だったかわかった。怖くなって、失いたくないものがあるってわかった。怒って、守りたいものがあるってわかった」


リリアは手を差し出した。


「嬉しいって知ったときは……誰かにも同じ気持ちになってほしいって思いました」


アラリックは、その小さな手を見つめた。


セレーネがリリアの後ろに現れる。


「アラリック」


彼が顔を上げる。


「セレーネ……」


「もう終わりよ」


「私は……」


唇が震える。


「二人を殺した」


セレーネは何も言わない。


「私が……殺した……」


アラリックは両手で顔を覆った。


「私は……何をしたんだ……」


何年もの間、一度も涙を流さなかった王が泣いていた。


止めることができないほどに。


「許してくれ……」


セレーネは目を閉じた。


「あなたがしたことを、正しかったとは言えない」


アラリックは手を下ろす。


「わかっている」


「起きたことを消すこともできない」


「わかっている」


「あなたの罪悪感を軽くするためだけに、許すとも言えない」


アラリックは目を閉じる。


「……わかっている」


青年が近づいた。


「でも、ようやく自分が何をしたのか認めることはできる」


アラリックは深く息を吸った。


そして虹の結晶を見る。


「あれは……なぜ存在する?」


セレーネは悲しげに微笑んだ。


「儀式が始まったとき、もうあなたを止められないとわかった」


青年が続ける。


「だから最後に残った魔力を使った」


「私たちの魂、記憶、そして感情を一つにしたの」


セレーネは結晶を見つめた。


「あなたの魔法が消そうとしていたものを、最後まで残すために」


アラリックの目が見開かれる。


「その石は……」


「私たちがこの世界に残した、最後の色」


リリアは胸元の結晶を見る。


「じゃあ……二人が私を選んだんですか?」


セレーネは微笑んだ。


「いいえ」


「え?」


「石は誰か特別な人を待っていたわけじゃない」


リリアは瞬きをした。


「だったら、どうして私を……?」


「あなたが選んだからよ」


「私が?」


セレーネは窓の向こうを見る。


町のあちこちに、小さな色が生まれていた。


「あなたは感情を知ったあと、それを自分だけのものにすることもできた」


青年が微笑む。


「でも、ほかの人にも分けようとした」


リリアは思い出す。


母。


老婆。


パン屋。


子供たち。


「ただ……みんなにも知ってほしかっただけです」


「それこそが、石が待っていた心だったの」


そのとき。


アラリックの身体が薄くなり始めた。


リリアが目を見開く。


「どうしたんですか?」


王は自分の手を見る。


「灰色の世界を維持する魔法は、私自身と繋がっていた」


セレーネが気づく。


「術が壊れたから……」


アラリックは弱く笑った。


「私も消える」


「そんな!」


リリアは彼の前に膝をついた。


「何か方法があるはず!」


アラリックは驚いた顔で少女を見る。


「私が何をしたのか知って、それでも助けたいのか?」


リリアはすぐには答えられなかった。


「あなたを許せるかは、わかりません」


アラリックは黙っている。


「でも、死んでほしいとも思えない」


王の顔に小さな笑みが浮かんだ。


「矛盾しているな」


リリアは自分の胸に手を当てた。


「感情って、そういうものみたいです」


アラリックは小さく笑った。


リリアが顔を上げる。


王が笑ったのは、それが初めてだった。


「忘れていたよ……」


リリアは手を差し出した。


アラリックはその手を見る。


「なぜ?」


「怖いでしょう?」


しばらくして、彼は少女の手を取った。


「……とても」


リリアはその手を優しく握った。


アラリックはかつての友人たちを見る。


「セレーネ」


「ええ」


「……すまなかった」


彼女の瞳から涙が流れた。


「さようなら、アラリック」


青年を見る。


「君にも……すまなかった」


青年は静かに頷いた。


「生きているうちに、その言葉を聞きたかったよ」


アラリックは目を閉じる。


「私も……そう思う」


身体が灰色の光となって崩れ始める。


消える直前、彼はリリアを見た。


「少女よ……」


「リリアです」


王は微笑んだ。


「リリア」


「はい」


「感情のある世界が、本当に良い世界になると思うか?」


リリアはセレーネを見る。


虹の結晶を見る。


そして首を横に振った。


「わかりません」


アラリックが驚く。


「わからない?」


「前より悪くなることだって、あるかもしれません」


それでもリリアは笑った。


「でも、自分の気持ちをどうするのかは、自分たちで決めたいです」


アラリックはしばらく少女を見つめていた。


やがて目を閉じる。


「……それが、私には最後までわからなかったのかもしれないな」


そして。


灰王アラリックは消えた。


玉座の間に静寂が訪れる。


そのとき。


ピシッ。


窓に亀裂が走った。


一筋の光が差し込む。


リリアは顔を上げた。


世界から灰色が剥がれ始めた。


最初は空だった。


リリアは窓へ駆け寄る。


「見て……!」


生まれて初めて、本当の空を見た。


青。


どこまでも続く、深く大きな青。


雲は白い。


太陽は金色に輝いている。


光が町へ降り注ぐ。


屋根には茶色や赤が戻った。


木々は鮮やかな緑に包まれた。


花々は一斉に目覚め、数え切れないほどの色を咲かせた。


人々が家から飛び出してくる。


叫ぶ者。


泣き出す者。


空を見上げたまま膝をつく者。


妻を抱きしめる男。


花壇を踏んだことで喧嘩を始める兄弟。


初めて見る蝶に驚く子供。


そして次の瞬間、その蝶を追いかけながら笑い始める。


騒がしい。


めちゃくちゃだ。


完璧なんかじゃない。


それでも。


生きていた。


リリアは笑った。


家へ戻った頃には、戦士の姿は消えていた。


服は再び簡素なワンピースになっていた。


けれど、もう灰色ではない。


淡い青色だった。


リリアは扉を開ける。


「お母さん?」


慌ただしい足音。


「リリア!」


母親が飛び出してきた。


リリアは立ち止まった。


初めて、本当の母の姿を見る。


髪は濃い茶色。


肌には温かな色がある。


そして瞳は――。


緑だった。


「お母さん……」


母親は両手で口を覆った。


その目に涙が浮かぶ。


「あなたの髪……」


リリアは自分の髪に触れた。


「何色?」


母親は泣きながら笑った。


「とても綺麗な栗色よ」


胸が温かくなる。


「これが……綺麗なんだ」


母親が走る。


リリアも走った。


二人は強く抱きしめ合った。


もう、どちらもその行為の意味を尋ねる必要はなかった。


「戻ってこないかと思った……」


「私も怖かった」


「お母さんもよ」


「それに、すごく怒った」


母親が涙を流しながら笑った。


「お母さんも」


リリアも笑う。


母親はさらに強く娘を抱きしめた。


「大好きよ、リリア」


少女は固まった。


「……どういう意味?」


「え?」


「『大好き』って」


母親は口を開いた。


そして閉じる。


少し考える。


「うまく説明できないわ」


「できないの?」


「あなたに元気でいてほしい。そばにいてほしい。いなくなるのが怖い。あなたが笑うと嬉しい。帰ってこないと心配する……」


また涙が落ちた。


リリアは少し考えた。


「いろんな感情が一緒になってるんだね」


母親は微笑んだ。


「そうかもしれないわね」


リリアは再び抱きしめた。


「じゃあ、たぶんわかった」


目を閉じる。


「私も、お母さんが大好き」


外で雨が降り始めた。


リリアは家の外へ出た。


雨粒が顔に触れる。


多くの人は慌てて屋根の下へ逃げた。


けれど、何人かの子供は道に残った。


水たまりへ飛び込む。


笑う。


親たちが「びしょ濡れになるよ!」と叫ぶ。


それでも子供たちは笑っていた。


リリアも思わず笑った。


やがて雨が止む。


そのとき、子供の声が響いた。


「見て!」


全員が空を見上げた。


町の上に、大きな光の弧がかかっていた。


赤。


橙。


黄。


緑。


青。


紫。


リリアはゆっくりと目を見開く。


「これ……」


胸元に残っていた小さな石が輝き始めた。


リリアは両手で持ち上げる。


水晶の中に、二人の小さな姿が映った。


セレーネと、彼女の愛した青年。


「行っちゃうの?」


セレーネの優しい声が聞こえる。


『私たちの役目は終わったから』


リリアの目に涙が浮かんだ。


「ありがとう」


二人は首を横に振った。


『お礼はいらないわ』


リリアは眉を寄せる。


「じゃあ……私は何をすればいいの?」


セレーネは笑った。


『生きて』


石が小さな光の粒へ変わり始める。


「待って!」


青年が微笑む。


『笑いたいときは笑えばいい』


セレーネが続ける。


『泣きたいときは泣いて』


『怒ることもある』


『間違えることもある』


『許したいと思ったなら、許せばいい』


『そして、愛したい人を愛して』


リリアの頬を涙が伝った。


「でも……もし、苦しくなったら?」


セレーネは優しく彼女を見つめた。


『そのときは、あなたの心がまだちゃんと生きているってことよ』


石は完全に光へ変わった。


無数の粒が空へ昇り、虹の中へ溶けていく。


リリアはいつまでも、その光を見つめていた。


一滴の涙が頬を流れる。


今度は、それが何なのか知っていた。


なぜ流れているのかも。


だから、止めようとはしなかった。


十二年間。


リリアは、生きるとは朝起きて、働いて、食べて、眠ることだと思っていた。


けれど今ならわかる。


それはただ、存在していただけだった。


生きることは、もっと複雑だ。


感じるということは、傷つく可能性を受け入れること。


愛するということは、いつか心を傷つけられるかもしれないと知ること。


期待するということは、失望する可能性も受け入れること。


信じるということは、裏切られるかもしれないということ。


けれど同時に。


抱きしめることができる。


笑うことができる。


夢を見ることができる。


許すことができる。


誰かを思い出すことができる。


恋をすることができる。


会えない人を恋しく思うことができる。


そして、もうこの世界にいない誰かのために涙を流すこともできる。


その人がかつて、自分の世界を少しだけ美しくしてくれたから。


リリアは周囲を見回した。


そこで、もう一つのことに気づいた。


灰色も消えてはいなかった。


雲の一部は灰色だった。


石も灰色だった。


影もあった。


色に満ちた世界の中にも、灰色はちゃんと残っている。


そして、それでよかった。


灰色そのものが悪かったわけではない。


一つの色だけが、ほかのすべてを消してしまったことが間違いだったのだ。


リリアはもう一度、空にかかる虹を見上げた。


母親が隣へ来て、その手を握る。


「悲しい?」


リリアは頷いた。


「うん」


「嬉しい?」


リリアは少し考えた。


そして涙を流しながら笑った。


「それも、うん」


母親も微笑む。


「不思議ね」


「うん」


リリアは母の指に自分の指を絡めた。


「でも、嫌いじゃない」


二人は並んで空を見上げた。


世界が再び、完璧に静かになることはないだろう。


喧嘩も起きる。


失望もする。


失恋もする。


感情を理由に誰かを傷つける人間だって、きっと現れる。


それでも。


抱擁がある。


笑い声がある。


友情がある。


夢がある。


歌がある。


倒れても、もう一度立ち上がる人がいる。


悲しみと喜びという正反対の感情を、同じ心の中に抱くことだってできる。


どちらか一方を消す必要なんてない。


リリアは目を閉じた。


風を感じる。


母の手の温かさを感じる。


頬には、雨の名残と涙が残っていた。


そして胸の奥には、まだ名前を知らない感情があった。


いつか、その名前も知ることができるだろう。


でも、急ぐ必要はない。


だってリリアは――


ようやく、生き始めたばかりなのだから。


少女は目を開いた。


虹はまだ、空に輝いていた。


世界には色があった。


そして――


リリアの心にも、色があった。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!


この物語についてのご感想をお聞かせいただけると嬉しいです。特に気に入ったシーン、登場人物、場面などがありましたら、ぜひ教えてください。


コメント、感想、評価は大歓迎です。今後の執筆活動の励みになります。


この短い物語にご参加いただき、ありがとうございました!

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 ジャクロの精霊さん、こんにちは。 「世界で最後の色を見つけた少女」拝読致しました。  よく分からない部分もあったので、AIさんに要約して貰って、確認致しました。 要約 『世界で最後の色を見つ…
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